四章・二十一節 双子たちの一幕
五輪駅前のアーケード通りには昭和の趣を強く残す店が今も多くある。
靴屋は店内と店前に雑然と商品が並び、八百屋では適当に切り取った段ボールに値段が書き込まれ、赤提灯が並ぶ居酒屋の引き戸には酒造メーカーの広告がベタベタ張られていた。
そんな中で一際年月を感じさせる古本屋があった。
狭い敷地に無理矢理建てたような店であり、蔵書量に対して通路が狭すぎる。
今どきの漫画や小説はあまり見えず、大抵は古い文庫本や雑誌が殆ど。所狭しと並ぶ棚に仕舞われた本の背表紙はどれも日焼けし、タイトルが読み取れないものもあるほどだ。たまに訪れる客が手に取ろうとしても、表紙のインクがくっ付いて嫌な音が鳴ることもしばしば。
それどころか碌に払われていない埃の厚みを見れば、繁盛の具合は容易に察せるというもの。
お察しの通り管理はされておらず、店主である男性は御年八十後半である。
引き継ぎ手もおらず、店主は長期入院中であるために長らくシャッターが降りていたのだが、ここ最近はひっそりと営業が再開されていた。
元々客足の無い店故に、道行く人々は意外に思いつつも関心は薄いものだ。
もし少しでも店内を覗き込めば、店の奥で小さなカウンターに付く見目麗しい少年に気付いた事だろう。
「兄さん」
「んん~? やあ、翡翠じゃないか。いらっしゃいませ」
呼び掛けられ響が読みふけっていた時代小説から顔を上げれば、眼の前にいたのは双子の片割れである翡翠だった。
常に何かを企んでいる様な笑みを張り付かせる響とは対照的に、翡翠は何処か自我が欠落したような印象を受ける少女だ。
前髪だけ適当に鋏を入れた伸ばしっぱなしの髪と垂れ目がその印象をより強くする。
実際彼女は子供の時から兄妹の誰かについて回る子であった。五輪市では別行動を取っていたが、こうして響が一人になれば御覧の通り何処からともなく姿を現す。
彼女もまた父の《七榊の呪詛》を浴びた結果、《傾倒》の霊力に目覚め、常軌を逸した隠形能力としてその力を発現している。
コントロール精度に難は残るが、響と異なり自壊を招く性質ではない。その気になれば隣に一日中張り付かれても気付かれることは無いだろう。
能力性格共に自己主張の薄い子だ。祖父からの許可も下りない内に響がイギリスから帰国に動いた時でさえ、翡翠は黙って従ってきた。
「兄さん、もう帰りましょう。これ以上ここに留まっていれば、きっと良くない事が起こる」
しかしどういった心境の変化か、彼女にしてはハッキリとした口調でそう主張してきた。
意外に思いつつも響は本に視線を落したまま、器用に片手だけでページを繰る。
「帰るって何処に? 実家なら嫌だよ。僕があそこ嫌いなの知ってるだろ」
「イギリスでも京都でも何処でもいいです。兎に角一刻も早くこの地から離れないと」
「なら翡翠だけで行くといい。行きたい所に何処へでも。今だって別にここに留まる事を僕は強要していないしね」
「兄さんっ!」
いつもなら二言目には「はい」か「分かりました」が出て来る翡翠だが、今日という日は引き下がらない。
自己主張が乏しいという事は裏を返せば他者への依存癖とも解釈できる。翡翠のそれはとりわけ響に対して色濃く表れている。響が一人で行けと突き放しても頷くはずもない。
けれどもそれを差し引いてもいつもの翡翠らしくない必死なものが伺えた。
ようやく本から顔を上げ、響はあまり似ていない双子の妹に向き合う。
「今日は随分積極的だね。良くない事って言うけど、雀と照の報復を警戒してのことかい?」
「あの二人が徒党を組んだところで兄さんへの脅威にはならないでしょう」
「うん。敵じゃないね。多分あっちはやる気満々で来るだろうけど、余裕で返り討ちに出来ちゃうと思う」
自惚れではない。エーテルを操る響はいわばこの星の分霊と言っても差し支えない。火力は一級品の雀、魔術師として規格外のスペックを誇る照であっても片手間にあしらえる程度には埋めがたい性能差がある。
これを覆すために雀たちは響と土地の接続を断ってくるだろうが、実際は不可能に近しい。響は全ての霊地に対するマスターキーを有している様なものであり、鍵がかけられようが即解除が可能だ。
返り討ちどころかその気になればそれこそ一瞬で片が付く。雀たちどころか最高傑作と謳われた父親を相手にしようと問題は無いだろう。
無敵ではないが限りなくそれに近い次元に響は至っているのだ。
「その兄さんでもあの男は──宵波涼は殺せなかったのでしょう?」
翡翠の懸念はそこであった。
あの夜。京都で邂逅した響と涼は一戦を交えたものの、お互い決定打に欠け早々に泥試合の体を示していた。結局どちらともなくその場から身を引き、事実上の痛み分け。
裏を返せば涼にはエーテルに対抗しうる能力を有していたという事を意味している。無敵に近い響をして仕留められなかった事が揺るぎない証拠。
響たちのアキレス腱となった宵波涼は雀たちに合流し、完全に敵対する構図となってしまった。
危機感を募らせる翡翠と相反して響は飄々とした態度を崩さない。焦る彼女は更に前のめりに訴えた。
「あの男は危険です。関わるべきではありません。御父様だって奴さえいなければ……あんなことには成らなかった筈ですし、兄さんが手足を捨てることもなかった。あれは崇りそのものです」
「随分な言い分だ。言葉も交わしてないのに、そう卑下するものじゃないよ。過去はどうあれ、あの人は紛れもなく僕たちのきょう──」
「兄さんッ!!」
悲鳴にも似た翡翠の怒鳴り声に響の言葉が遮られる。
鼓膜に余韻がしぶとく残るほど妹が声を張り上げたことに、響は眼を丸くした。彼の記憶にある限り初めてのことだったはずだ。
十六年連れ添った妹の今まで見たことのない拒絶反応であった。
「私は……あれが恐ろしい。恐ろしくてたまりません。言葉を交わしてはいけない、関わってはいけない、理解しようとしてはいけない。あれはそういう崇りそのものです」
子供のころに誰もが実態のあやふやな幽霊を怖がったように、翡翠はかの男を恐れた。
疼くのは物心がついて間もない古い記憶だ。
長兄の命令でロウソクの灯りもない生家の座敷牢に向かわされた幼き翡翠は、それを目撃したのだ。
泣き叫ぶ事もなく、悲観に暮れる事もなく。ただ鎖に繋がれ、全身を赤い痣に犯されながら全ての感覚を閉じた生きた屍のような男を。
「赤服……GHCはあの男の呪いをそう呼称していました。最も権能に遠くも、神に一番縁をもった力だと」
「ああ、そんなこと言ってる奴もいたね。誰が言ってたっけな」
確か珍しい眼を持った驚くほど美しい祓魔師だったはずだ。権能を授けられた一族の姫さえ危惧するのであれば、崇りと危惧するのもあながち間違いではないだろう。
京都での一戦では拝むことは出来なかったが、エーテルを操る響でさえ赤服の呪いに対抗できるか怪しいものだ。翡翠が涼を危険視するのは至極真っ当な評価であった。
「ん~。まあ、僕も手の内を全て明かしたわけじゃないけど、それはあっちも同じだろうね。下手を打てば確かに御父様の二の舞いだ」
「では!」
パッと翡翠の表情が晴れる。
早とちりする妹の唇に響は人差し指を立てて塞いだ。
「でもね翡翠。僕たちの相手は雀と照であって、宵波監視官は倉橋の獲物だ。逃げるにしたって、彼が倒されてからでも遅くはないさ」
どのみち響たちはお尋ね者だ。アストレアの追跡自体は翡翠の能力があれば難しくはないが、腰を落ち着かせるには何処かの組織に身を置かなければならない。
例えば聖王協会などが妥当だろう。七榊家と完全に縁を切るためにも、協会への手土産は可能な限り上物を揃えたい。
聖王協会からすれば敵対するアストレアの主力たる監視官の能力が提供されれば、無下にはしてこないはずだ。
「……ですが、倉橋というあの男が本当に変質の霊力を御し切れるとは思えません。兄様ですら不可能だったのに。実際、今あの男はのたうち回っていますよ」
響が持ち出した倉橋との共闘に翡翠は疑問を抱く。
淑艶という極上の器、そして響の変質の霊力を得たことで倉橋は全く新しい《七榊響》へと羽化を遂げようとしている。
その計略には脱帽する他ないが、様子を見て来た翡翠からすればお世辞にも力を従えているとは言い難い。今も隠れ家でもがき苦しんでいる事だろう。
涼に対する並々ならぬ情念は認めるところだが、正直今日にでも自滅してしまうのではと翡翠は疑っている。
しかし響はそう思ってはいないらしい。
「出来るさ。あの人が奪った淑艶って式神の能力を知ってる?」
「……いえ。残念ながら」
「可愛い女の子の見た目をしてるけど、その真髄は実は憑依能力にあるんだ。ただし身体を乗っ取るためじゃなくて、支配した対象者を昏睡状態に貶めるものだけどね」
「……っ」
恐ろしい能力だ。強力な反面、能力を発揮させるためには幾つかの厳しい条件があるのだろうが、一度憑依を許してしまえば抗う術はない。
憑依である以上、一時でも身体の主導権を奪われてしまえば抵抗も不可能に近しい。
「なるほど。あの男にとってはこれ以上ない極上の器、という事ですね。確かにそれなら変質を従わせる事が出来るかもしれない」
「そう。でも実を言えば器はそれほど重要な要素じゃない」
兄の言わんとする事を上手く理解出来ず、翡翠は眉根を寄せた。
そもそも憑依能力は才能に大きく依存する術式であり、現代に至っても解明されていない点が多い。名門七榊家と言えど例外ではない。
一方で憑依の才能という長所は、視点を変えれば極めて特異な側面を見せる。
「例えばさ、明日から別人なれって言われたとして、翡翠は出来る?」
「そんなの出来るわけがありません」
「うん。誰だって自分という唯一無二の色を持ってる。それは生きた年月だけ積み重なって複雑な風合いを出していくものだ」
人格、個性、あるいは人生とも呼ぶのが相応しいだろうか。まっさらな赤子から死ぬまで、人や環境といった数多の刺激を受けて形成される二つとない個。
それを全て投げ出し、他人に成り代わることなど有り得ない。無理にやれば人格が摩擦して精神が崩壊してしまうかもしれない。
だが──
「憑依能力者って言うのはね、ざっくりと言っちゃえばそれが出来ちゃうんだ」
「そんなこと有り得るはずが……」
反論しかけ、翡翠の言葉は直ぐに途切れた。何しろ彼女は実際に倉橋という存在をもう知っている。
犬の身体に順応し、今では式神へと成り変わった奇人。
監視官として活動した彼は人生の大半は、正に他人として過ごしたものだった。
他者の身体を乗取った潜入などは序の口。時にはそのまま他人として数か月、数年を過ごし完璧に他人へと成り変わってきた。身体を乗っ取ればその人物の記憶もそのまま読み取れるために、人間関係や会話に支障をきたすこともない。
そうして数多の犯罪組織を内側から切り崩し、壊滅させてきたのが倉橋という人物だ。
老若男女問わずに自己を染め上げる百面相。アストレア内部でも本当の彼を知るものは存外に少ない。
響から語られる倉橋の経歴に翡翠は絶句した。
演技の範疇を超えている。憑依とはつまり生まれ持った自分を捨てる事に等しいからだ。
「でもそれは裏を返せば自分が無いって事だ。他人との中身と摩擦を起こすだけの自己が希薄なノッペラボウなのさ」
誰にでも成れるが誰でもない。
自己というものが極限まで空虚であり、異物である他者をすんなりと受け入れる器。
多少時間は掛るかもしれないが、倉橋は変質の霊力であっても乗りこなすだろう。
響よりも響らしく、己を狂わせて。
「ですが妙な話ですね。それだけ自己が希薄な人がいまさら力を求めるなんて」
アストレアでそれだけの功績を上げたのならば、強力な式神を発注することも出来たはずだ。
しかし倉橋はそうはせず、長らく犬に甘んじておきながら、いまになって強力な力を欲した。たったいま聞き及んだ話と人物像がうまく噛み合わない。
「なに、簡単なことさ。ああいう手合いは自己という芯は無いけど、その代わりに他人に依存するのさ」
「他人に依存……?」
「分かりやすく言えば家族とかだね。どんなに他人に染まっても、自分を自分として受け入れてくれる誰かを拠り所にしているのさ」
家族でなくとも恋人、仲間、友人といった近しい人だ。
過去には最愛の人を亡くしてしまった憑依能力者が、まったく能力を行使できなくなってしまった話があるほどに、拠り所というのは彼等の生命線なのだ。
長らく倉橋が犬から脱却できなかった理由でもあり、今回彼が響たちに与した動機でもある。
再び、響が倉橋の過去を語り出す。
「あの人は名門の出だけど、僕たちと同じく実家とソリが合わなかったらしいんだ。だから彼の拠り所はアストレア……とりわけ弟子を溺愛していたらしいんだ」
愛娘のように育て、鍛え上げた自慢の弟子。
監視官への抜擢は間違いないと、将来を有望視されていた若き少女。
名前を宮藤カイ。
しかして彼女は三年前に命を落とし、帰らぬ人となってしまった倉橋の弟子であり──宵波涼の代わりに監視官になるはずであった少女だ。
「ではあの人の目的は──」
「そう、死んじゃった宮藤女史の弔い合戦と銘打った、宵波涼への復讐さ」