四章・二十節 博打
「うっ……痛っ、つぅ…………!!」
最初に自覚したのは全身の洒落にならない痛み。次には重力が何倍にもなったかのような身体の重みと、肉が焼けてしまいそうな高熱。全身という全身が悲鳴を上げ、酷く息苦しい。
身体の境界が酷く曖昧で、ドロドロに溶け落ちているのかもしれない。
ハッハッハッという馬鹿みたいに早く荒々しい呼吸音が自分のモノだと気づくのに随分と遅れた。口の中は血の味で塗り潰され、金臭さの奥に色々な薬のような苦味が居座っている。
苦しい。
熱い。
痛い。
このまま死ぬのだろうか。
ふとそんな弱音が浮かび、よくドラマである様に今度は段々と寒くなっていくのだろうか。
あるいは既に死んでいて地獄の窯で魂まで煮込み溶かされている最中なのか。だとしたら息苦しさにも頷けるというもの。
映画のように恰好良く親指を立てる暇はなさそうだ。
「宵波殿、御嬢様の容態がっ!」
「……っ、雨取の容態も急変していま手が離せない! 出来るだけ簡潔に神崎の状態を教えてください!」
「心拍数が急上昇して、過呼吸に近い状況かと。異常な量の発汗と高熱もみられますし──イケない、傷口があちこちで開いている!」
「内臓や太い血管はどうですか!?」
「多分、問題ないです!」
「恐らく治療術式の副作用です。開いた傷口は大きなところを優先して止血してください。あとは解熱剤と酸素吸入器で対処をお願いします。鎮痛剤は駄目です。これ以上は神経を傷つけてしまう!」
「分かりました!」
──照……。
沸騰した湯に叩き込まれた様な意識の中、誰かが大声で交わす言葉の中に同居人の名前だけが不思議と耳に残った。
ぼんやりとだが自分がどうしてこうなったのかを思い出し、敗北の二文字が胸の奥で形容しがたい熱となって焼き付いた。
屈辱、激憤、恥辱。
食い縛った歯が何処かで欠け、握り締めた掌の皮が破けた。
「御嬢様っ!?」
しかし身体はたったそれだけでなけなしの体力を吐きつくしたようで、意識が抗い難い引力で闇へ引かれていく。
呼び掛ける声も急速に遠のき、ふっと何もかもが暗転した。
「──」
雀が次に覚醒した時、比較的意識はハッキリとしていた。
頭は風邪を治したての後のようなボンヤリとした重さはあるが、自分が置かれた状況ぐらいは把握出来た。
最初に視界に飛び込んで来たのは見知らぬ天井。ただし全く馴染みがない訳ではなく、首を巡らせれば神崎邸であることは直ぐに分かった。自室ではなく、空き室にベッドを運び込んで寝かされているらしい。
窓の外は夜の帳が落ちており、煌々と輝く満月の光が部屋に差し込んでいる。
左腕には点滴のチューブが伸びており、吊るされたパックは半分を丁度下回ったあたりだ。
病院服に着替えさせられた身体はあちこちに包帯が巻かれ窮屈で仕方がない。
「……っ」
起き上がろうとして、すぐにベッドに沈んだ。
全く力が入らない。自分の身体とは到底思えないほど重く、そのくせ中身が全て抜け落ちた様な虚脱感に襲われた。
窓にうっすらと移る自分を見れば、随分と痩せこけていた。なるほど、自分で起き上ることさえ出来ない程に消耗しているらしい。
「でも生きてるのね、私……」
最後の記憶は存外に鮮明だ。
響によく似た少女に背後から刺され、飢えた野犬の群れに全身を食い千切られた。
凶悪で獰猛な、血と肉で湯気を上げる口、口、口。
百瀬が助けに来てくれた所までは覚えているが、正直雀は自分は死んだものだとばかり思っていた。自らの血溜まりの熱に全身が沈んでいくあの感覚は、死以外の何物でも無かった。
しかしどういうわけか神崎雀は生きている。重傷ではあるが五体満足で記憶も正常だ。ついでに言えば時間が経つにつれ、『敗北』の二文字にフツフツと抑えがたい怒りが湧いてきた。
同時に一度意識が浮上した時に誰かに治療を施されている様な事をぼんやりとだが思い出し、カッと意識が完全に覚醒した。
照はどうなった。自分が助かったのだから、彼女も生きているのだろうか。
ここには雀一人しかいない。別室に運ばれているのか、それとも何処かの病院に搬送されたのか。
「くっ、うぐぐっ……!」
両手両足を駆使して、もう一度身体を起こす。
毎朝やっているはずの何てことのない動作が途方もない重労働となって圧し掛かり、苦痛が全身を貫く。歯を食い縛り、気合一つで何とか身を起こした雀は点滴の針を引き抜いてベッドから降りた。
素足のまま、壁伝いに廊下に出ればやはり見慣れた屋敷だ。
たった数歩分の距離もない空き室となっている筈の隣室へ辿り着く頃には、病院服は汗で随分と重くなっていた。
それでも構わずに雀は全体重を掛けてドアを開く。
「照……!」
二つ年下の同居人はそこに寝かされていた。
殆ど倒れ込むようにベッドの端に駆け寄り、青白い同居人の顔に雀の心臓が凍り付いた。
しかし直ぐに小さくも規則正しい寝息が立っていることに気付き、胸を撫で下ろす。そう言えば照は元々人間味を感じない程肌が白いのだった。
やはり照も治療が施されており、雀以上に包帯やガーゼに覆われ、血と薬と消毒液の匂いが染み付いていた。少し苦し気に汗を浮かべているが、容態は安定しているのか点滴の他に医療器具は見当たらない。
唯一雀と違う点と言えば──
「……ない、よね。そりゃあ」
手に取った照の左腕の袖が力なく掌から零れ落ちている。
襟元から覗く左肩にかけて何重にも巻かれた包帯に滲む赤黒い染みが、現実により重みを増す様だ。
月下美人ごと倉橋に左腕を持っていかれたのだ。この結果は当然だろう。
隻腕。若干十五歳の少女にとっては余りにも酷な身体的ハンデだ。
「眼が覚めたのか神崎」
「……宵波君?」
声に振り返れば、京都に発ったはずの監視官の青年がそこに立っていた。手には水を張った桶と真新しい手拭が抱えられており、反対の手には包帯や薬が詰め込まれた籐籠が下げられている。
眼元には暗がりでも分かるほどに隈が浮いており、いつもの泰然とした雰囲気は四割減といった所か。彼が治療をしてくれたことは問うまでもない。
「照は大丈夫なの?」
「峠は越えた。まあ暫くは絶対安勢だが、キチンと療養すれば必ず日常復帰は叶う。時間を掛ければ左腕の再生も一応可能だしな」
「うそっ、ホント!?」
「本当だ」
「適当言ってるんじゃないでしょうね」
「今君たちの肉をあちこちで補っているのと同じ原理だ」
言われてみれば、虫食い状態になっていたであろう身体は細かい傷を除いて殆ど綺麗に塞がっている。野犬に力づくで食い千切られたのだから、縫合ではこうはいかないだろう。
雀が狐につままれた様な顔で身体を見下ろしていると、涼は慣れた手つきで硬く絞った手拭で照の汗を拭き取る傍ら、雀たちへ施術の説明をし始めた。
「肉体代替といって、臓器や血肉、神経組織を式神技術で模倣した組織で補っている。言ってしまえば君たちは部分的に式神という事になる」
「……それをアンタが?」
「まあな。アストレアでは生死に関わる重傷者の延命にも使われる技術だ。仮初の肉体は細胞分裂に上書きされる様に受肉して、元通りに再生する。同じ理屈で腕も再生可能という事だ。ま、流石に脳は無理だがな」
汗拭きは顔や首周りに留め、涼は腕や足の包帯を手早く取り換えていく。そのついでに脈拍と体温を計測し、最後に空になった点敵を交換した。
「……慣れてるのね」
「まあな。監視官を拝命する前は医療部門にいた時期もあったから、負傷者の扱いにはそれなりに慣れている。肉体代替も基礎はそこで覚えた」
「便利なものね。医者いらずじゃない」
「欠点もそれなりにある。例えばこれは霊術に分類される技術だ。生活する分には問題ないが、君達魔術師とは根本的に相性が悪い。その状態で魔術を行使したら仮初の肉が壊れて、破れた風船みたくなるぞ」
注意喚起は同時に首輪の役割も持っていた。
復讐心に駆られて倉橋に突撃しても一撃見舞うことも出来ずに自滅に終わるからだ。
人生最低に体調が優れないこの状態ではそれすら難しいのが現実だが。
「ねえ、戦えるまでどれくらい掛る?」
「……普通に考えれば全治半年程度だ。ただ君の場合、左の腎臓と周辺の経絡系を諦めざる得なかった。魔術行使を考慮するなら更に数か月は見積もった方がいい」
「それって実質的な降伏勧告なわけ? 冗談じゃないっ」
「これが現実だ」
「勝手を言わないで、ぐっ……!」
大声を上げただけで雀は激痛で身体を折った。
肉体代替といっても、所詮は涼の個人芸だ。彼から捻出出来る霊力に限りがある以上、治療が及ぶ範囲にも限りはある。出血と化膿、感染症を防ぐ最低限の処置に留まっている。
しかしだからと言って手を拱いていられる現状でもない。
敵が明らかとなった以上、これを討ち滅ぼすのが土地の管理者である雀の責務だ。
「手当てしてくれたことには感謝するけど、別にアンタの指示に従う義理なんて無いもの。私は私で、やられた借りはキッチリ返す」
多少寿命を縮める事にはなるが、治療の当てもない訳ではない。
倉橋の目的が五輪の霊地や雀たちの命ではなく月下美人なら、逃げられる前に仕留めなくては。照が封じ込めた花達も軟な封印には成っていないはずだが、取り出すのも時間の問題だろう。
やはり急がなくては。
「君では例え万全の状態でも倉橋さんには勝てないぞ。あの人は元々アストレアでも指折りの実力者。幾度となく死線を潜り抜けて来たあの人が、魔術師である君と真面にやり合うわけがない」
部屋を出ようとした雀の背中に涼が無慈悲にそう告げた。
「だから何。そもそも私の手札はまだバレてないし、こっちには地の利だってある」
「手札を伏せているのはあっちも同じだ。そもそも君はあの人が何処に潜伏しているか目星は付いているのか? 憑依の対策を怠れば簡単に逃げられるぞ。第一あの人には君とやり合うメリットは何一つない。甘く見積もっても適当にあしらわれて、君は自滅するのがせいぜいだ」
「五月蠅いッ! 部外者は黙って──」
かっと頭に血が上り、雀は振り向きざまに拳を振り抜いた。
碌に速度も乗っていない怪我人のパンチなど、簡単に避けられる。伸びきった腕を取られ、足払いを掛けられたかと思えば、気付けば雀は床とキスをしていた。
何か所か傷口が開き、赤黒い血が滲む。
「そらこの様だ。どんな隠し玉があるかは知らないが、これでは殺されに行くようなものだ」
「……っ、はな、せッ」
「少し黙れ」
牙を剥く雀の顔の横に、勢いよくナイフが振り下ろされた。
研ぎ澄まされた刃は雀の頬を掠め、ぷつぷと切り傷から血の雫が浮かび、一筋の赤となって連なる。
「言い忘れていたが俺は正式に君たちの監視官になった。つまり俺が君達を危険と判断した場合、処断する権限は法の名の下に保証されている。このまま勝算もない戦いに赴くというなら、君は霊地の管理者としての器量は無いと判断し、場合によっては神崎家からこの土地を剥奪しなくてはならん」
「なっ……!?」
「嘘だと思うか? まあ俺も夜鷹殿との約束の手前こんな事はしたくないが、君の無謀を見過ごすよりかはマシだ。死なない程度に痛めつけ直して、君には大人しくしてもらう」
涼の言葉には一切嘘は含まれていない。彼が肉体代替を解除すれば、雀は再びベッドに逆戻りだ。
立場実力ともに、いくら吠えようとも今の雀に逆らうことは出来ない。
どうしようもない現実だ。
理解はしている。しかし納得には程遠く、雀は眼前のナイフに怯むことなく気丈にも涼を睨み上げた。腕を捻り上げられようと痛みでは屈せず、脂汗を流しながらも闘志はいささかも揺るがない。
視線の鍔競り合いが続くこと、数分。
先に引いたのは涼であった。
「まあ……俺も七榊響を仕留められなかった手前、あまり強くは言えないか」
深々と息を吐いて、身を引いた涼はナイフを仕舞う。
「……響?」
「月下美人を造りだしたのは奴だ。京都で遭遇してそのまま戦闘になったが、お互い決定打に欠けてな。不本意だが身を引くしかなかった」
「ふん。大口叩いた割には大したことないのね」
「──だが倉橋さんなら仕留められる。月下美人も込みでな」
断言する涼の手にはいつの間にかに一輪の月下美人が握られていた。間違いなく照が身命を賭して封じ込めていたものと同種。
一瞬警戒した雀だが、月下美人が根を下ろすことは無く、逆に涼の強力な呪詛を流し込まれてその姿を彼岸花へと変貌させられた。
これには雀も驚愕を隠し切れない。
「今のは京都で仲間を殺した月下美人の一部だが、俺の右脚に寄生した月下美人を飼い殺して欠乏した霊力を補っている。その気になれば消滅させることも可能だが、倉橋さんの目的は正に此奴だ。何処に潜伏しているか知らんが、必ず俺に食い付いてくる」
雀はまだ詳細は知り得ていないが、月下美人が術師の天敵であるというのは既に察している。圧倒的なアドバンテージを無力化出来るというのは言わずもがな強力無比。
加えて言うなら倉橋は現在涼の式神・淑艶を乗取っている。月下美人との相性は未知数だが、製作者でもある彼が相手取るのは理に適っていると言えよう。
お互いにある程度手の内を知っているなら尚更だ。
「アイツをやるのは諦めろって言うつもりっ?」
「趣旨はそうだ。だがそれは正しい筋の通し方ではないだろう。そも、今回の事件は響を発端にしている。なら君たちが最初に拳骨を落すのはあの馬鹿ではないのか?」
「まあ……そうだけど」
何だかやたらと角のある言い方に雀は若干気勢が削がれた。期せずして彼の本名を知ってしまった彼女は只ならぬ因縁を感じずにはいられない。
「宵波君が倉橋を、私たちが響を討つ……合理的ね」
「照……!?」
いつの間に意識を取り戻していたのか、照が賛同を口にした。
目覚めただけで回復した訳ではなく苦痛を自覚してしまった分、先程より顔色も悪く息も荒い。
無理をするなと心配する涼を無視して、照は雀に首を巡らせる。
「私が響を後回しにしたのは、万全の準備で挑まないと絶対に勝てないから。実力じゃなくて、そういう存在なの」
「……どういう意味?」
「奴は己の特異な霊力を切り捨てて、器としてあの花を作り上げた。月下美人こそ『七榊響』と宣っていたが、なら奴自身は何の力も持たない抜け殻か? いいや違う。あれは後天的にあらゆる生命の源泉となる雛型を手に入れていた」
その力は専門分野では星辰粒子体とも呼称され、魔術では四大元素の根幹を担う無の属性と定義されている。
天上の輝きを意味し、霊脈として星の内側に流れるそれを、術師は土地そのものに仕掛けた術式で加工し、古くから利用してきた。
だが一部の例外を除いて、純粋な形としてそれを取り出す事は不可能とされてきた。
星座の恩恵にあやかる星辰魔術の使い手である雀は、不完全ではあるが一部その力に触れているために、三人の中では馴染みがある。
だからこそ信じ難い話でもあった。
「嘘っ、エーテルっ!? 星の血潮を人間が宿すっていうの!?」
涼は沈鬱な表情を浮かべ、照は静かに瞑目しこれを肯定した。前者は一戦いを交え、後者は共同研究という裏付けがある。
つまるところ七榊響とはこの星の最小単位の端末であり、全ての霊脈に対して比類なきアクセス権を与えられているに等しい。
霊能力者でも魔術師でもない後天的な星の申し子。理論上、あらゆる術式を行使する事が可能となりエネルギー源は実質無限。響はいま誇張なく世界最強の部類に位置している正真正銘の化物だ。
これに対抗できるのは戦場となる霊地に精通した術師のみ。
「要するに選択肢はない、ってことか」
「そういう事だ。それを差し引いても、お互い最優先でケジメを付ける相手としては相応しいだろう? 俺はアストレアとして、君たちは五輪の管理者として」
共闘ではなく、ケジメである。
信頼関係などこの時点で臨むべくもない三人の現状では、妥当な落としどころであろう。
響の能力を聞いた今、倉橋まで欲張るほど雀も愚か者ではない。
「分かった……それで手を打ちましょう」
不機嫌さを隠そうともせず、雀は自らを無理矢理納得させた。
照が言った通りこれが最も合理的であり、他に選択肢はない。
「でも宵波君……相手を分けたところで今の私達は戦えない。貴方が倉橋を仕留めても、響はこっちの回復を待ってくれないわ」
無くなった左腕を一瞥し、照は汗を流しながら冷静に状況を分析する。
雀と照が響を相手取るのは必須条件だ。
しかし現実問題として二人はとてもではないが戦える容態ではない。
「ちなみに神崎はどうするつもりだったんだ?」
「……へびつかい座の力を借りて、無理矢理にでも復活するつもりだったけど」
「呆れた……そんな身体じゃ術が成功しても耐えられないわよ。第一、採算が取れないのが目に見えてる」
見通しの甘さを照に指摘され、雀は言葉に詰まる。
へびつかい座はギリシャ神話に登場する医神・アスクレピオスが星座に召し上げられた姿とされている。一度は死さえ克服したその医術は現代でも信仰され、世界保健機関のシンボルに彼の杖があしらわれているのは有名な話だろう。
確かにへびつかい座を用いた医療術式は古代から研究されており、その効果に疑う余地もない。
だが術師と患者が同じでは傷は治っても、魔力は回復しない。今の雀では下手をすれば体力が尽きて死ぬ畏れすらあり、成功してもやはり戦闘に耐えられるだけのコンディションには程遠いだろう。
「宵波君、どうにかできるかしら?」
照にも現状を打開する案は無く、こちらは素直に涼に助力を求めた。二人の命を繋いだ実績があるために、腕前にも信用が置ける。
涼は腕を組み、天井を見上げ暫し思案に深けると、神妙な面持ちで二人に向き直った。
「……二つ、方法がある」
「その顔から察するにどっちも碌な案じゃなさそうだけど」
「聞かせて」
雀はハナから不満を露わにし、照は結果のみを優先するように説明はを求める。
まず一つ目と前置きし、涼が懐から取り出したのは小瓶に入った錠剤だ。
「こいつはもう君たちにも既に投与しているもので、代謝機能を促進させるものだ。さっき神崎には軽く説明したが、いま君たちに施している肉体代替はいずれ細胞分裂によって受肉して再生する。
一つ目の案はこの薬をざっと五倍程度投与して、新陳代謝を限界まで高め傷を癒す。要は人間本来の治癒能力を薬で底上げしてゴリ押す、というものだ」
アストレアでは通称、ウルトラ・ヒーリングと呼ばれる治療法だ。
無理矢理細胞分裂を早めるために多少寿命を削り、更には代謝機能が暴走する危険性すらあるが、適切な投薬と医師の管理があれば普通の何十倍のスピードで傷を癒すことが可能になる。
その点、涼は治療の腕前には一日の長があり、過去にこの治療法も経験している。
「デメリットは?」
説明が進むにつれ涼は吐気を堪えるような面になっていき、その理由を雀が訊ねた。
薬を用いるのだ。副作用はあって当然だが、どうもそっち方面とは違うようだ。
「この治療の一番辛いところは、食べ続けなくてはいけない事だ」
「食べ続ける?」
「そうだ。単純な話、失った血肉を取り戻すには食事で補わなくてはならん」
これが《ウルトラ・ヒーリング》のもっとも辛いところだ。
特に重傷者である雀たちは殊更重要な事だが、人生最悪のバッドコンディションでフードファイターの真似事をしなくてはならない。新陳代謝の底上げでまず間違いなく高熱を発するために普通であれば食べ物は喉を通らない。
そして人間の栄養吸収利率は百パーセントには程遠く、失った分以上の食事をする必要もある。
「まあ流動食にして無理矢理胃袋に流し込む手もあるが、戦えるコンディションにするにはざっくり試算して──」
これくらいかな、と涼は㎏に換算して二人に提示した。
小食の照はもちろん、かなりの大食いである雀も眼をひん剥く非常識な数字。
「断固拒否!」
「もう一つの案を聞かせて」
拒絶は至極当然の帰結だろう。
本音を暴露すれば、提案した涼自身もこの方法には乗り気ではない。
先にも触れた通り涼は訓練時代に《ウルトラ・ヒーリング》を経験している。呼び起こされるのは指折りのトラウマだ。何しろ親の仇の様に食べ物を胃袋に突っ込んでは、薬で強制消化&吸収を繰り返す地獄である。
やられるのも、やる側に回るのは御免である。
必然的に選択肢は残る一つに絞られるわけだが、もう一方にも大きな問題が立ちはだかっている。
「先に断っておくが、もう一つは治療というより博打に近いぞ。傷を癒すならまだ《ウルトラ・ヒーリング》の方が現実的だ」
元々満足な時間を確保できない以上、真っ当な治療法は望めない。《ウルトラ・ヒーリング》も現実的に考えれば雀のへびつかい座を用いた回復に毛が生えた程度だろう。
コンディションを戻し、尚且つ響との戦闘を成立させるには更なる危険を犯さなくてはならない。
博打と称した涼に雀は毅然とした態度で見込みを問いただす。
「……上手くいけば回復出来るの?」
「恐らくは。だが失敗すれば──」
「いい。どうせ負ければ全部同じでしょ。博打常套じゃない」
痛む身体を押して立ち上がり、雀は胸を張る。
同じ死であるなら、妥協ではなく立ち向かう事を選択する。それが神崎雀という少女の魂である。言葉にこそ出さないが照も覚悟は同じ。
死を覚悟するには、魔術師とはいえ高校生にはあまりに不釣り合いであり、しかし二人の眼には確固たる芯が通っていた。
如何なる過去が彼女達にそうさせたのか、涼は眉を顰めるも瞑目を挟んで、真正面から彼女達の覚悟に向き合う。
「よく聞け。二つ目の治療法は──」
治療法と効能、そして死を筆頭にしたリスクを涼は簡潔に説明する。
失敗すれば取り返しは付かない反面、成功すれば得られる成果は絶大だ。
涼の説明を受ける途中雀と照も大粒の汗を浮かべたものの、最後までその双眸に宿る覚悟が揺らぐことは無かった。
「分かった」
「お願い」
一世一代の大博打の担保は己の命。
命運を握る胴元は涼もまた腹を決め、まだ机上の空論でしかない治療へと舵を切る。
「では半日、出来る限り体力回復に努めてくれ。半日後……夜明けと同時に施術に移れるよう、俺もこいつの準備を済ませておく」
右脚に手を当て、買い殺していた治療の要となるそれを涼は呼び起こす。
強力な呪詛に近しい妖気を発する一点の穢れも知らない白亜の花弁。
「──この月下美人を君たちに移植する!」