四章・十九節 夜鷹の推挙
五月晴れであった。
春に芽吹いた新芽も随分と色を濃くし、神崎邸を囲む鬱蒼とした林に蟠っていた空気も漸く入れ替わったように穏やかな風が吹いている。
夏の匂いを感じさせる薄暑の空の下、涼はバルコニーで手際よく洗濯物を干していく。
殆どがシーツやタオルだが、そこには洗濯機では落ちきらなかった血の跡が見て取れた。それも尋常な量ではなく、医者であれば静かに瞼を閉じ、黙禱を捧げたことであろう。
隅の方には涼のコートや仕事服も吊るされており、今の彼は真新しいシャツとスラックスに袖を通していた。当然の様に黒で統一され手袋を着用しているが、彼にしては珍しい軽装だ。
「お~い宵波、電話鳴ってるぜ~」
間延びした声に振り返れば、百瀬が屋根の上で欠伸を噛み殺していた。泰然自若を地で行く彼の頭や脚にはハトが数羽止まっており、止まり木代わりにされている当人は気にする素振りさえ見せない。
「この家のか?」
「ったりめえだぁ。俺は二度寝で忙しい。任せたZzz……」
風に遊ばれる洗濯物の音で気付かなかったが、確かに屋敷の中から甲高いベルの音が鳴り響いている。
慣れない屋敷を小走りに進み、涼は辛抱強く鳴り続けるロビーの固定電話を取った。
「はいもしもし宵な……神崎ですが?」
『私です』
「……夜鷹殿」
電話相手が分かるや否や、涼の背筋が条件反射的にピンと伸びる。干上がる様な喉の渇きを自覚するより先に、涼はその場で深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。今回の事態は全て我々アストレアの不徳が致すところ。責任は此方にあります」
『そうですね。倉橋とかいう野蛮人の暴挙で神崎家は跡継ぎを失いかけたばかりか、害虫を三匹も街に解き放ってしまった。あの犬畜生に至っては貴方が与えた式神を器に七榊に成り代わろうとしている。この責は重いですよ?』
「申し開き用もありません」
倉橋と翡翠の急襲から凡そ半日が経過した。
百瀬が駆け付けたことで分が悪いと踏んだ倉橋と翡翠は撤退したが、雀と照の命は風前の灯火であった。
特に雀が翡翠から受けた傷はやはり致命傷であった。腎臓の一つを貫かれており、出血が止まらず一時期は心停止にまで陥った。
左腕を全損した照も重症だ。元々月下美人の封印で体力を極限まで削っていたことが災いし、出血が止められずに間もなく意識不明の重体に陥った。
通常の医療手段では絶望的な状態であることは明確。
百瀬が事前に手配していた医者が決死の緊急処置を施す傍らで、涼の指示を受け百瀬は二人を神崎邸に搬送していた。
響の罠が敷かれている可能性は否定できないが、土地に流れる霊脈の恩恵を最大限に受けられるのはやはり屋敷の他にないからだ。霊脈に流れる莫大な力を利用できれば、初歩的な治療術式もその効果は格段に跳ね上がる。
何とか命を繋ぎ止め、数時間遅れて駆け付けた涼の処置によって辛くも雀と照はこの世に踏み留まった。
つまり夜鷹は雀たちがあわや死にかけた時であっても使者の一人も送らず、また涼からの再三の救援要請にも応じなかったのだ。
一歩間違えれば今頃雀たちは確実にこの世にはいない。
しかしだからと言って涼は夜鷹を咎めることもできない。発端は響ではあるが、主犯はやはり倉橋だ。責任は造反者を出してしまったアストレアにある。
夜鷹から如何なる賠償請求が提示されようとも、涼たちにはこれを唯々諾々と飲み込むしかない。
場合によっては涼はここで首を差し出す覚悟であった。
『雀さんたちの容態は?』
「……一命こそ取り止めましたが依然として昏睡状態です。かなりの出血量だったので、脳へのダメージがある可能性も否定できません。回復したとしても……最悪後遺症が出る恐れもあります」
『そうなれば貴方と害虫共の首を合わせても足りませんね』
「……処罰は幾らでも。ですがどうか我々に倉橋たちを討つ機会をお恵み頂きたい。その後であれば、貴女の意向を最優先とします」
『殊勝な心掛けですが、貴方の首一つで今代までの神崎の研鑽を贖えるとお思いですか? だとすれば許し難い侮辱だ』
「そのようなことは……決して」
予想はしていたが、やはり夜鷹の逆鱗は相当なものだ。
アストレア本部からの指示はとにかくこれ以上神崎家を刺激せず、要求に唯唯諾諾の体を示せというもの。涼は尻尾切りの役回りであったが、今回の事態は軽くはない。
いよいよ覚悟の決め時かと、生唾を飲み込んだ涼は胸の中で家族に謝った。
不甲斐ない結果を残してしまい、ごめん。
しかし話は思わぬ形に転がり始めた。
『──と、普段の私なら言うのですが、雀さんたちの監視官から外れた貴方に責任の所在を問うのは筋違いでしょうね』
「……はい?」
聞き間違いだろうか。こじ付けに近い言葉が聞こえた気がした。
『そもそも私は雀さん達とアストレアの仲介役に過ぎません。問題が起きたからといって外野があれこれと口を挟むのは不躾というもの。関わる気なら私は最初から当事者になっていましたよ』
「ですが倉橋がそちらの跡継ぎを瀕死に追い遣ったのは紛れもない事実です。責められるべきは我々です」
『それは当然です。ただ私には本件についてとやかく言うつもりが無いというだけです。それとも貴方は私への贖いの隷属を所望しますか?』
「は……あ、いやそれは……魅力的ではありますが、それは神崎たちへの贖いにはならないでしょう」
妙な方向に話が行きかけ涼は困惑に視線を泳がせながら、何とか言葉を繕って丁重に辞退を申し出た。
ネクタイも占めていないのに無駄に首元を整え、そっちの気はない事を何度も自問自答。大丈夫なはず。
『ふふふ、少し残念です』
「………………お戯れは止して頂きたい」
大丈夫、なはず?
『年甲斐もなく少しはしゃいでしまいましたね。話は戻しますが、私から貴方へ罰を与えることはありません。今回の事態は七榊響に端を発するのであれば、これを招いたのは照さんであり、受け入れたのは雀さんです。半分は自業自得でしょう。倉橋は附随する結果でしかない。
宵波さん、貴方には寧ろ迅速な対応を感謝しなくてはなりません。貴方がいなければ間違いなくあの二人は死んでいたでしょうから。神崎家当主として二人を救って頂き御礼を申し上げます』
電話越しに夜鷹が頭を下げる気配があり、涼は慌てた。
「およし下さい。命は繋ぎましたが、依然として予断を許さない状況です。あとは当人たちの気力に頼るほか──」
厳しい面持ちで雀たちが眠る西館に視線を投げた涼の言葉が不意に途切れる。
脳裏を掠めた違和感の正体を慎重に手繰り寄せると、何故と疑問が口を突くより先に想起させる事柄が二つ。
一つは東京への直接帰還ではなく京都に派遣された理由。
そして二つ目が昨晩の雀と照の治療の感触。
一見すればバラバラな事柄はしかし涼の中で一つの像を結び、反射的に周りに誰もいないか確認した。無論。ここには涼以外誰もいない。
受話器を耳に当て直し、恐る恐る夜鷹に問う。
「──当主として二人を、と仰いましたか?」
神崎家当主の立場であるなら、その対象は雀一人となる。神崎家の親族ではない照はここに含まれないはずだが、夜鷹は確かに二人と口にした。
照はその出生がアストレアの情報網を持ってしても不自然なほどに掴めない。具体的な年月にして、照の出生から雨取家の養子に引き取られるまでの八年間だ。
いや考えすぎかも知れない。一緒に命を救われたのなら一緒くたにして礼を言っても不自然ではあるまい。
慌てて取り消そうとした涼を遮るように、夜鷹は言った。
『ええそうです。貴方の想像通り、照さんは間違いなく神崎家の血族ですよ』
「なっ──それはどういう!?」
肯定が返り、涼の頭の中に様々な可能性が駆け巡る。
本当に照が神崎家の親族だというのなら、何故その存在が明らかとされていないのか。
まっさきに疑ったのは隠し子であるが、アストレアが把握している限りではその可能性は低い。
『まあ私たちもこの街に照さんが現れるまで、彼女の存在は半信半疑でしたけどね。一族の中でもあの子の正体を知っているのは極僅かです』
「……それが夜鷹殿がアストレアを招いた理由ですか? 法を五輪に敷いて何に備えているのですか?」
『ご想像にお任せしましょう。ただ言えることは、この事は一切他言無用という事です。もし貴方の口から漏れたとわかったら、その時こそはお命を頂戴することになります』
「それは勿論……」
本来であればアストレア本部に報告すべき事案であるが、ここは大人しく頷く。DNA検査をすれば姉妹である事の裏は取れるが、やるべきではないだろう。
加えて夜鷹の口振りからは、まだ神崎家としても照の扱いを決めかねているように涼は感じた。ならば涼は必要がない限り静観に徹するべきだ。
『宵波さん。私は先程貴方を咎める立場にないという旨を口にしましたが、やはり本件の責任の幾ばくかは貴方達アストレアにもある。その償いをと言うのであれば、一つ私から貴方に要求があります』
相槌を打ち涼は夜鷹に続きを促す。
拒否するつもりは毛頭ないが、先程の秘密を知ってしまえば最早手を引く事は許されない。
受話器を握り締め、一言一句聞き逃さないよう努める。
『その身命を賭して、あの二人の行く末を見届けなさい。監視官としてではなく、私はこの役目に他ならぬ宵波涼を推挙します。如何しますか?』
「──」
願ってもいない提案だ。
立場上涼は監視官として滞在しなくてならないためにアストレア本部へ確認は取らなくてはならないが、涼は本部がこの要求を間違いなく通す確信があった。
倉橋の造反に対するケジメもそうだが、本来の監視任務を続行できることは喜ばしい。
面子を立ち直せるかは、後の涼の働き全て次第。一度は任務から外された彼には重責に過ぎるだろうが、選択肢は他にない。
瞼を閉じ深呼吸を一つ。
再びその眼が開かれれば、強い決意が其処には宿っていた。
「──そのお話、謹んでお受け致します」
『宜しい。手始めに本件を見事治めて見せなさい。お手並み拝見ですよ、赤服の監視官』
「! 夜た………………切れたか」
喰えない人だ。
黙り込んだ受話器を見つめ、涼は小さくそう零す。
一体何処まで知っているのか。
いやそれも些末事だろう。実質的に涼はこれで夜鷹に首輪を掛けられた様なものだ。アストレアとしても涼一人を差し出し、本来の職務を全う出来るならば落としどころとしては十分。
あるいは全てを見通した上で照の秘密を打ち明け、夜鷹はこの結果に誘導したのか。
そうであれば見事に術中に嵌ってしまった。秘密の共有は男女の距離を縮めると言うが、夜鷹は蜘蛛の巣に涼を身投げさせたようなものだ。
何にせよ他に選択肢なく、引く気もない。
上層部、特に義父の直嗣を説得するのは骨が折れそうだが、もう仕方がない。やるだけやってやる。
「ちったぁマシな顔になったぁ~」
受話器を置いたタイミングで百瀬が欠伸を噛み殺しながら現れた。頭の上に鎮座する鳩が合いの手を入れる様にくるっぽー。
まさか今の話を聞かれたか。
一瞬そう訝しんだ涼に百瀬は小さく首を横に振って見せた。気遣いの出来る男である。
「今回は助かった。有難う百瀬」
「ああ、貸し一つだぜ。んじゃ、部外者の俺はここらでお暇するぜ」
「帰るのか? それなら車を回してくるから、少し待て」
「バーカ、医者代わりが患者の傍から離れんじゃねえ。神崎の無断欠席は適当に誤魔化しといてやるから、眼が覚めたらアイツにツケといてくれや」
雨取のことは知らんと、百瀬は背を向けたまま手を振って屋敷を出て行った。あと小一時間もすれば正午だが、どうやら今から登校するらしい。
生徒会長という役職に付くだけあり、不良のような見た目に反して生真面目なものだ。
遠ざかっていく背中に深々と頭を下げ、涼は丁度洗濯が終わった洗濯機の知らせに脱衣所に向かう。
遅まきながらそこで男性があまり見てはいけないアレやコレに気付き、涼は慌ててロビーに取って返した。
古式ゆかしきダイヤル式電話に苦戦しつつ、夜鷹に女性の使用人を一人派遣して貰えないか交渉した。
当然の様に大爆笑を頂戴しながら派遣された使用人に雀たちの身の回りを託し、涼が事務処理を一通り終えた頃には夜になっていた。
陽が落ちれば魔の時間。
その日も一連の連続猟奇殺人の犠牲者が出てしまった。