四章・十四節 京都クライシス
時は僅かに遡り、場所は京都。
ちょうど雀が二度目の家庭訪問に屋敷を出る頃に、涼は京都駅に降り立っていた。
名だたる世界遺産、国宝の宝庫。霊験あらたかな御山に囲まれ、地下には世界的にも有数の大霊脈が流れている。
仏門の理から術理を引き出す霊能力者からしてみれば、京都は日本において神仏に最も近寄れる都であり、名だたる英傑が数々の厄災を払い続けて来た栄光の地でもある。
涼がここで任務を引き継ぐ弓削桃李監視官も古くは平安時代の陰陽師の家系の出だ。
弓削監視官は涼の義兄と同期であり、つい最近一等諜報官から監視官に昇格したばかりだ。数々の功績を残し、実力も申し分ないことから随分と前から監視官への推薦の話が出ていた。
ただ一年前の査定で涼が弓削を蹴落とす形となり、根に持っていたのか忘年会では滅茶苦茶絡まれた。嫌味や逆恨みの類は一切なかったが、空き瓶でボーリングが出来る程度にはお酌をさせられたものだ。
「はあ……」
重い溜息が零れてしまう。
恨まれる筋合いはないとはいえ、正直合わせる顔が無い。
顔には殆ど出さなかったが、倉橋の説教はかなり堪えていた。経験不足と言うのは簡単だが、現実というのは個人の事情など考慮しない。
十分な休息を取って尚、涼はいまだ全快には程遠い。視界は幾分戻ったが、まだ白杖代わりの傘を手放せない。駅構内の点字ブロックを頼りに歩いている始末。
ただ五輪では間に合わなかったが、ようやく回復が見込めそうである。
駅員に補助を頼み、構内の宅配ボックスから支援物資を回収した。
弓削との待ち合わせ場所の喫煙所に着くなり、涼は早速支援物資である煙草に火を点けた。
普段は不味いとした感じない紫煙もこの時ばかり格別な味であった。
メンソールとフルーティーな着香は細煙草だろうか。普段涼が愛用するものよりも軽い吸い心地だが、この煙草のメインは別のもの。
即ち煙草に充填されたアストレア当主のフランチェスカの霊力だ。
フランの魔力から涼の波長に合わせ変換された霊力は肺を通してゆっくりと身体へ浸透していき、霊力が欠乏していた身体にゆっくりと循環していく。閉じていた感覚に血が通い、駅前の雑踏が光や音、熱となって涼に寄せて来た。
懐かしい感覚だ。身体の内側から感じる温もりで、世界に手を引かれていくような甘い心地良さ。宵波家に引き取られて数年の間、幼かった涼はこうして誰かに霊力を分けて貰わなければ真面に世界を見ることさえ叶わなかった。
それというのも、涼がその身に宿す《赤服の呪い》が全ての元凶。
幼少期に数奇な運命の巡り合わせで押し付けられたこの呪いを、涼は今でこそ戦闘に転用しているが、その制御は至難を極める。
普段涼は幾重もの封印術と式神・連鶴をもって強力に赤服を押さえ込んでいるが、この呪いの厄介な点は月の満ち欠けのように一定周期で強弱の波がある点だ。
まだ身体が出来上がる以前、霊力の総量が少なかった頃はこのピークで幾度となく死線を彷徨い、一ヶ月以上何も感じられない状態に陥ったこともあった。
そう言った苦しい経験をした涼は普段から赤服のピークに備えて、毎日余剰分の霊力を呪詛として煙草に貯蔵・蓄積している。戦闘に流用することもしばしばある呪詛煙草だが、本来は赤服の封印目的なのだ。
直近のピークがちょうどGWだったのだが、封印に殆どの霊力を割いてしまった結果、行動不能に陥ってしまった。
何故か?
『天誅!』
『煙草より花と団子の味を覚えろッ』
雀である。
顔合わせの日、一式屋で呪詛をせっせと蓄えていた涼に雀がバケツの水をぶっかけた珍事が原因。
余りにも堂々とした蛮行と暴力的な正論に涼が呆気に取られている間に、雀に呪詛煙草を奪われてしまい、再会した時にはもう何処かに捨てたという。
確かにずぶ濡れになった薬物の一種など大事に取っておくわけもなく。思わぬ形で涼は備蓄した呪詛をほぼ失ってしまった。
元々余裕のない霊力運用であったのにも関わらず、追い打ちをかけるように此度の赤服の増長はかなり重かった。不測の事態に備えた備蓄も雀の涙程度。
結果、監視任務を下ろされ今に至る。
「はあ……情けない」
多くの人の期待を裏切ってしまった。
雀の不意打ちは彼の中では言い訳にすらなっていない。
ハンデは重々承知で涼はアストレアに籍を置いているのだ。上手く立ち回れなかった自分に全ての責任がある。
──お前が死ぬべきだった。
そう倉橋に言わせかけた不甲斐なさに怒りが込上げて来る。良い知らせを亡き友に持って帰れなかった自分が憎い。
「……過ぎたことだ。反省は大事だが、前を見なくては」
煙草の灰と共に後悔を振るい落とす。
反省は必要だがやればいいと言う問題でもない。問題点が明らかになれば手早く切り上げ、ズルズルと引き摺らないことが大切だ。
一本目の煙草をその時間とし、涼は新しい煙草を咥えた。
意識は既に弓削監視官が就いていた任務の引継ぎへと移っている。
その任務とは雨取照と七榊響の身辺調査だ。
監視に際してアストレアはその対象について事前調査を行うのだが、雨取照と七榊響の両名については不明瞭な点が多々見受けられたのだ。
照の場合、出生が殆ど分からない。つまり出身地はおろか両親すら不明。二年前に雨取家に引き取られたことまでは確認が取れているが、それ以前の足取りがまるで辿れない。
一応本籍はイギリスにあることは確認済だが、偽装の線が濃厚だ。
神崎家と何の接点も無いはずのその彼女が強引に接触を図れば、疑念は強まるばかり。
術師の世界では意図して経歴を抹消していることも珍しいことではないが、ここまで過去を遡れないのはおかしい。
加えて問題はもう一人。七榊響にあった。
七榊家は歴史の浅い霊能力者の家系でありながら、日本ではその名を知らない術師はいないと言われるほどの大家。
霊術に発展が望めない現代でありながら、数々の強力な霊能力者を輩出しその地位を確固たるものにして来た七榊家であったが、九年前に一族崩壊の憂き目に合っている。
当時の当主、響の父の死亡がその発端だ。
敵対家との衝突を恐れた七榊家はまだ幼かった響と双子の兄妹である翡翠をイギリスの遠縁に預け、響たちは十三歳までイギリスで過している。照と面識を持ったのはこの留学期間の間だろう。
ただ響と翡翠は帰国後間もなくして行方を暗ませている。
僅かな目撃情報からこの京都で一時期暮らしていたということが判明し、その後照に招かれ響は五輪市に移住。翡翠は現在も行方不明である。
弓削ともう一人の監視官が取り掛かっている調査とは、つまり京都での響の動向調査だ。
不可解なことに響が京都に滞在していたと思われる約一年半の間に、いま五輪市で起きている連続猟奇殺人と非常に酷似した事件が起きている。
当時のアストレアもこの事件を受けて、関西支社から諜報官を派遣していたが、手掛りを得られないまま事件は沈静化してしまった。
偶然ではないだろう。響に接触した照の思惑も含めて、入念な調査が必要とアストレアは判断したのだ。
場合によっては監視任務以上に意義のある任務だ。
気を引き締めて引き継がなくてはなるまい。
だというのに──
「……遅い」
約束の時間を三十分以上過ぎても弓削監視官は一向に姿を現さない。
スマホを確認しても何の連絡も入っておらず、電話は繋がらない。もう一人の監視官も同様であった。
「何かあったか」
胸騒ぎがした。それも非常に良くない悪寒に近しいものだ。
どう動くか決めあぐね、三本目の煙草が紫煙を吐きつくし出した頃。
「お~姉ちゃん、随分色っぽい服してんなぁ~」
「そんな薄着じゃ風邪引いちまうぜ。俺ら奢るからさあ身体温っめに飲みいかね?」
やたらとテンションの高い下卑た笑いが聞こえた。
ナンパの類だろうが。
見れば少し離れた所であからさまにチャラ付いた若い男二人が女性を両脇から挟んでいた。男達は随分と酔っているようで、涼の元まで酒気が届きそうなほど顔が赤い。
小さく呆れた涼は次には眼を剥いて驚いた。
「弓削さん?」
絡まれている女性は弓削監視官だった。涼の義兄に尻を撫でられれば頭突きを見舞うような男勝りの彼女が、どういうわけかチンピラもどきに絡まれて黙りこくっている。
様子がおかしい。
長い髪は乱れ、いつも隙無く着こなすパンツスーツは遠目から見てもあちこち薄汚れ、パンツに至っては右脚が股下まで破れ真っ白な脚が惜しげもなく剥き出しになっている。
女性特有の皮下脂肪に覆われた鍛え抜かれた脚──その下で鳴動する妖気に気付いた瞬間、涼は全身が泡立つような悪寒に貫かれた。
「今すぐその人から離れろッ!」
叫ぶと同時に涼は全力で駆けだすも、一瞬遅かった。
男達が涼の剣幕に呆けた顔を浮かべる、その下で厄災が花開く。
「にげ、ろ……よ、いな、み」
それが弓削の最後の抵抗であった。
弓削が事切れた瞬間、封印術の枷を失ったことで右脚が爆発するように弾けた。
撒き散らされるのは血肉ではなく、処女雪のような純白を示す月下美人の花。
何が起きているのか男達は理解が出来ず、逃げる間もなく二人は月下美人の餌食となった。
「ああああああああああ! 何だこれ、なんだああああ!」
「助けて、誰か救けて! 救けてよおおおお!!」
京都駅前に絶叫が上がる。
奇しくも涼は五輪市を震撼させる猟奇殺人に居合わせる形となった。