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四章・十二節 帰投命令

 残り二ヶ月の任務期間を待たずしての東京への帰投命令。


 見えない目を伏せ、涼は静かに頷いた。


「分かりました」


 不服も不満も不平もない。


 当然だ。呪いの影響とはいえ、涼は一週間以上監視官としての責務を全く果たせない状態でいたのだ。彼の任務遂行能力に疑問視されるのは必然と言える。


 そして実際涼が身動き取れない間に監視対象である照は行方を眩まし、市内で殺人を犯す正体不明の術師は未だその尻尾すら掴めない状況。例え五輪市が神崎家の管理下であっても、到底許されるべき失態ではない。


 ゆえにこの決定は当然の帰結であった。何一つ涼には反論材料も無ければ、その気もない。


「込み入った話のようだし、私はお暇させて貰うわね」

「いや、君にも関係のある事だ。無様を曝すようですまないが同席してくれ」


 監視体制に影響が出る以上、雀もこの件に無関係ではない。引き留められた雀は「それもそうか」と浮かした腰を再び下ろす。


 その様子に倉橋はつまらな気に鼻を鳴らした。


 決定事項とはいえ涼の順応はいささか淡泊に過ぎた。雀を気遣う姿勢は人として至極正しいのであろうが、裏を返せばこの任務への熱が全く感じられない。


 それが倉橋には酷く気に食わなかった。


「覚悟はしてたってか。餓鬼にしちゃ殊勝なことだが、その体たらくはアストレアの名に泥を塗っていることと同じだぞ。テメーそれは理解出来てるのか?」

「処罰は甘んじて受け入れます」

「失態を罰で償うのは組織の大事な儀式だ。だがな宵波、監視官って地位はそれで許されるほど軽くは無い。意味が分かるか?」

「地位に伴う責任と権限の大きさは理解しています」

「そう言う意味じゃ無えッ!」


 倉橋の激昂が爆ぜた。


 濃密な霊力が迸り、毛並みが青白く輝き逆立つ。温和で知られるセント・バーナードが一瞬にして獰猛な狼に変貌したかのようだ。


 机がガタガタと震え始めたかと思えば、途端に静かになる。その理由はひとりでに動き始めた雀たちの髪や衣服と同じ。


 空間を満たすほどの霊力に触発され励起した大気中の霊子によって、限定的であるが部屋の重力が打ち消されているのだ。


 これでもまだ倉橋は人間であった全盛期には程遠い。監視官の地位を剥奪されて尚涼が彼を監視官と呼び続ける理由がこれだ。


 雀は戦慄を禁じ得ない。正直に告白すれば、完全に見誤っていた。


「監視官の枠には限りがある! それはさっきテメエが言ったように譲渡される権限が個人が所有するには巨大に過ぎるからだ。だから任命には厳正に厳正を重ねた審査の末に、アストレアの化身は選定される。その一人に選ばれたテメーは誰よりも正義を体現しなくてはならない。だがその体たらくは何だッ!」


 机が倉橋の咆哮に耐えられずに拉げ、バラバラに砕けた。


 破片の一つが涼の頬を深く切り裂き、ドロリとした血液が宙を泳ぐ涼のリボンに吸い込まれる。


「こうなっちゃ最速の監視官という触れ込みも皮肉だな宵波よ。実力はあっても余りに未熟に過ぎたということだ。いや、そもそもテメーは本来だったらそこにいる人間ですらない。本当だったら俺の弟子が監視官を拝命するはずだった。だというのに……!」


 倉橋の瞳の色がいつしか攻撃的な色を帯び始め、言葉の端々に明確な憎悪が滲み出す。放たれる圧は今や明確な殺気にすり替わっており、爪が床を割り、犬歯が大きく延長し始めた。


 理性の鎖に繋がれたはずの獣が猛り狂う。


「宵波、何故お前がそこにいるッ。何故俺の弟子がそこにいない。応えろッ」


 涼は動かず。ただ黙して、罪人が首を差し出す様に僅かに俯くだけ。


 そこで倉橋の中で何かが切れたのか。


 倉橋の姿がブレた次の瞬間には、涼は倉橋に押し倒されていた。受け身も取れず涼は頭部を強打し、茫洋とした瞳が苦痛に歪む。その拍子に髪を結っていたリボンが解け、血を吸ったそれは力なくフローリングに投げ出された。


 それでも涼は無抵抗であった。先程の雀とは違う。明らかな殺意に曝されて尚、倉橋の激昂を受け入れる。


「やはり貴様は監視官には相応しくない。誰もテメーに監視官なんぞ期待してなかった! 三年前のあの日、死ぬべきだったのはアイツじゃなくてお前──」


 血に飢えた牙が涼の喉笛を切り裂くその刹那。


 倉橋が猛烈な勢いで横に吹き飛び、イヌ科特有の甲高い悲鳴を上げて壁に叩きつけられた。


 共鳴していた霊子は霧散し、再び重力が部屋に戻り浮いていた机や教科書が落ちる。


「それ以上は口にしないほうがいいんじゃない?」


 残心を決めながら雀はゆっくりと蹴りぬいた姿勢から脚を下ろした。


 雑に魔力を込めただけの雀の一撃はしかし相当な威力があったらしく、膨大な霊力を纏っていた筈の倉橋は何とか立ち上がったものの、足元がふら付いていた。


「部外者が余計な介入をするなッ。これは俺たちアストレアの問題だッ!!」

「別に黙っていても良かったんだけどね。流石に目の前で血生臭いことされるのはこっちとしても目覚めが悪いってだけ」


 嘘ではない。監視官が基本的に雀たちに不干渉であったように、雀も余計な口出しをするつもりはなかった。これは規約にも明記された不文律だ。


 しかしそれを差し引いても倉橋の言動は目に余る。


「下らん正義感に酔ったか。邪魔立てするのなら正規の手順で始末するぞ!」

「御大層な脅し文句もここまでくると滑稽ね」

「ああ!?」


 再び濃密な殺気と霊力を迸らせる倉橋を前にしながら、雀は指摘するのも馬鹿々々しくなってきた。どうやら本気で気づいていないようだ。


 雀の蹴りに一切反応出来なかった時点で相当怒りに視野が狭まっているというのに、まだ感情をヒートアップさせている。元来あまり忍耐強い性格では無いのかもしれない。


 ならば諭すような言葉選びは逆効果だろうと、雀は腕を組んであえて感情を逆なでるようにして倉橋のいう《正義感》を切りつけた。


「気づいてる? 途中から明らかに叱責が私怨にすり替わってたけど、それは貴方の言う監視官に相応しい言動といえるもの?」

「──っ!?」


 怒りに囚われていた獣はそこで漸く自身が畜生に落ちかけていたことに気づいた。


 途端に霊力が霧散し、青白かった毛並みは地味な茶と白に戻る。肉食獣の如き眼からは嘘のように殺気が消えうせ、入れ替わるように酷い落胆に塗り潰されていく。もう殺気の欠片も見受けられない。


「すまない……宵波。忘れてくれ」

「いえ。貴方の憤りは至極正しい。謝ることは何もありむぐっ」

「混ぜ返すな」


 またしても雀が言葉を遮った。今度はしっかりと手加減された手刀が涼の唇に蓋をする。


「アンタもアンタよ。何があったのかは詮索しないけど、当たり前みたいな顔で理不尽を受け入れてんじゃないわよ。過去がどうあれ、今ここにいるのはアンタでしょうが」

「過去は現在の失態の言い訳にはならない」

「その言い分なら責められるのは今に限られるでしょうが! だいたい倉橋だって照を見失ってる分際で偉そうに人のこと説教出来る立場じゃないでしょ」

「言葉が過ぎるぞ神崎」

「いや、神崎の嬢ちゃんの言う通りだ。ありもしないIFで部外者が当事者を責め立てるなんざ卑怯者のすることだ。全く……情けねえ」


 三年前に起きたハイジャック事件で倉橋は将来を有望視された弟子を失っている。涼もまたその事件に巻き込まれ辛くも生還したが、当時は彼の生還を落胆する声が多々あった。


 それほどまでに殉職した倉橋の弟子は優秀であり、類稀なる才の喪失はアストレアにとっても大きな痛手だったのだ。


「ホントに情けねぇ……情けねえったらありゃしない。弟子が命張ってるときに俺は女に現抜かして、つまんねえミスで今じゃ犬っころだ。これでよく偉そうに吠えたもんだ」


 かつて倉橋はアストレアでも一目置かれた実力者であり、彼に師事を仰ぐ後進も多かった。今となっては過去と自身へ落差に失望し、先程の様に発作的に周りに当たる悪癖が目立つ。


 特に弟子を失った経緯もあり、涼に対してはそれが顕著に出やすい。


「宵波、大丈夫か?」

「ええ」


 身を起こしながら答える涼はそこでリボンが解けている事に気付いた。すぐ脇に落ちているが、全盲では探り当てる事にさえ苦労する。


「これでしょ。それより結構派手に顔から出血してるわよ。病院に行った方がいいんじゃない?」

「血? どこらへんだ?」

「ああ……それも分かんないのね。右の頬、ちょうど鼻と唇の間の高さね」


 机の木片はかなり深く涼の頬を抉ったらしく、首のあたりまでべったりと血で汚れていた。何針か縫うことになるだろう。


 ともあれその前に止血が先だ。


「あんまり期待できないけど、救急箱とかある?」

「この程度なら問題ない」

「かなり深い傷だっての……ああもう触らない! 余計に傷が広がるでしょう」


 慌てて涼の手を取り上げた雀はそこで「おや?」と首を傾げる。


 血で汚れて分かりにくいが、無残に抉れていた筈の頬は滑らかな肌で覆われていた。


「神崎、リボンを返してくれ」

「え、あ……でも血で汚れてるけど?」


 呆気に取られながら雀は年季の入ったリボンを見下ろす。元の生地も赤いが、早く洗い落とさないとかなり汚れは目立ってしまう。


「いい。後で血液ごと分解する」

「……じゃあ、無くさない様に手に結んでおくから」


 余程大事なものなのか涼は急かす様に手を差し出してくる。少々面喰いながら雀が言った通りにリボンを結んでやると、安堵の吐息が小さく零れた。複雑な面持ちの倉橋を見れば赤いリボンにどのようものか、何となしに察せるというもの。


「それで倉橋さん、俺に下った指令は帰投命令だけですか?」


 頭を一つ振り、涼は話を戻す。手酷い仕打ちを受けたものの、やはり彼は現状に何か不服を申し立てる事はしない。忠実な姿勢はしかし茫洋とした瞳と相まって、限りなく自己を排斥した危うげな印象が共存しているようでもあった。


 少なくとも雀の眼にはそう映り、あるいはそれは図らずも宵波涼の過去を暴く様な真似をしてしまったからか。


「帰投命令に変わりはないが、その前に例の件で京都に滞在している弓削監視官と交代しろ」

「神崎の監視は弓削さんが受け持つということですか?」

「そうだ。どのみち七月には奴らに引き継ぐ。予定の前倒しだ」

「それは……」


 涼は即座に頷かない。


 代わりに異を唱えたのはまたしても雀であった。今の命令聞き捨てならない。


「ちょっと待った。それって私たちの監視期間が一年間フルに適応されるって意味?」


 現時点で仮監視の三か月間の経過を待たずして、延長の判断が下されたという。


 何の知らせも受けていない雀が不満を露わにするのは無理もない。


「まだ正式に決定したわけじゃねえが、理由については大凡検討が付いてるだろ?」

「……照って言いたいの? あんたの監視から逃れてるから」

「それも理由の一端ではある。どんな理由かは知らないが、立て続けに死人が出る最中に姿を暗ます理由が見当たらん。容疑者とまではいかなくとも、事件に関与していると考えるのは極自然だろう。それとも神崎の嬢ちゃんはアイツが何処で何してんのか知ってるのか?」


 雀は返答に詰まった。未だ照は屋敷にも帰っておらず、その足取りは用として知れない。


 振り返れば照が監視から逃れるようになったのは事件の発生時期と丁度重なる。疑うのも当然だ。


 激情に身を任せた先程とは一転して、倉橋は落ち着いた声音で更に続けた。


「そもそも雨取の嬢ちゃんは経歴から色々と不鮮明な点が多い。中でも遥々魔術の本場イギリスから神崎の嬢ちゃんを訊ねに来た理由だ。とりわけ接点があったとも思えん」

「そこら辺は詮索しないって取り決めでしょ」

「だが脅威を放置するわけにはいかん。法律が刑法の上位に位置するように、そこに脅威があれば捜査の手を加えるのが俺達の仕事だ。それとも嬢ちゃんは教えてくれるのか? 何故神崎雀……いいや、神崎家が雨取照を受け入れたのか」


 ──此奴っ、何処まで気付いて……!?


 雀の倉橋に対する警戒が跳ね上がった。彼女が思っている以上に、倉橋は切れ者だ。


 雀と照に監視官を付けたのは夜鷹だ。霊地を赤の他人に切り分けるような事を二度と繰り返さない様に、アストレアを使って神崎家の五輪の霊地の所有権を確固たるものにするというお題目であった。


 だが随分と回りくどい方法でもある。


 照を真に侵略者と見做すのであれば、力づくで排除するのが一番手っ取り早い。にも拘らず夜鷹はそうせず、見方を変えればアストレアという抑止力を雀たちに付けた格好にもなる。


 傍から見れば不自然極まりない。今回の事件を差し引いてもアストレアは照を探るのは時間の問題だった。


 アストレアを招いたことが裏目に出たか。


「まあ雨取の嬢ちゃんのことについては、後でじっくりと時間をかけて調査すればいい。そのための監視期間だ。宵波、今度を見据えてしばらく式神を一体寄越せ」

「俺の式神に憑依すると?」

「そうだ。お前の式神は人間と遜色がない。弓削が来るまでの短期間ならお前の穴埋めもやってやれるはずだ」


 言い訳がましいが犬の身体ではどうしても能力に乏しい。


 万が一にも照と一戦を交える可能性があるのでは、備えは十全でなくてはならない。


 先程の愚行を鑑みれば厚顔無恥と罵られても仕方がないが、判断自体は妥当なところだ。


 しかし──


「嫌です。気持ち悪い」

「ああッ!?」


 涼の人型式神は全機女性型だ。


 如何に敬意を払う先輩であろうとも他人の男の中身を入れるなど、キモイ以外の何物でもない。


 再びパワハラよろしく詰め寄る倉橋であったが、涼は断固として拒否。雀も便乗した不毛な押し問答は小一時間続いた。


 結局涼が折れ、式神淑艶を貸し出すことになったが、形代は雀が管理するという妥協点に落ち着く事となる。


 それから三日後。


 涼が五輪市を去った晩、事態は大きく動く。


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