四章・十一節 盲目の涼
「突☆撃! 隣の晩御飯! 今日訪問するのは今年四月に転校してきた宵波さんのお宅だ。めっぽう料理が上手いと噂だが、この間の昼飯はなんと生の大根齧ってたぜ。健康志向の無農薬野菜かな? 中継先の神崎アナ。レポートお願いしゃす」
「ネタが古い! 人選も怪しい! 私たちの世代でヨネスケはそんな知名度無いから。あと誰がアナウンサーだ!」
生徒会のGW明けはそんな会話から始まった。
まだ猟奇殺人事件の五件目が発生する少し前。
事の経緯は百瀬が担任から涼宛のプリントを預かった事に始まる。百瀬は段ボールを雑に切り抜いたしゃもじを片手にその仕事を雀へ横流し。雀がツッコんでいる間に元請けは姿を消していた。死ねばいい。
わざわざアナログな手段を用いるなど馬鹿らしく、雀は最初メールかFAXで済ませようと思ったのだが、残念ながら涼の連絡先は携帯番号しか知らない。
そもそもGW前に用があれば直接訪ねろと事前連絡があった。試しにと電話を掛けてみれば案の定繋がらない。
諦めて地図アプリを頼りに出向く途中で倉橋と出くわし、彼の案内で辿り着いたのは分譲マンション・五輪ハイム。駅まで徒歩三十分というアクセスの悪さから、未だに入居者募集の横断幕が取れていない。
プリントは適当にポストに入れて帰ってもよかったが、直接渡してしまえば百瀬も文句はあるまい。
オートロック式のエントランスで雀は目的の部屋番号を呼び出す。少し時間をおいてから応答があり、ガラスドアを潜りエレベーターで八階に降りたところで、ちょうど涼が部屋から出て来た。
しかし何処か様子がおかしい。一目ではそれが何であるか分からなかったが、歩み寄れば直ぐにそれは分かった。
「宵波君……目、どうしたの?」
「……まあ色々と事情があってな。今は殆ど何も見ない」
雀が話しかけて、涼は初めて雀の方へゆっくりと振り向いた。
その言葉通り涼の両目は焦点を結んでおらず、虚ろな瞳は雀を捉えていない。
愕然とする。最後に学校であった時は間違いなく見えていた筈だ。目立った傷も見当たらないのに、どうして。
「例の呪いか?」
「ええ。周期的なものです。時間が経てば治ります」
「いまは何が残ってる?」
「……聴覚のみです」
倉橋は涼の状況に理解があるらしく冷静に涼と言葉を交わしていた。
しかし雀は自分で認識している以上にショックを受けているらしく、立ち竦んでしまった。
それどころか無性に喉か渇き、例えようもない悪寒に手足が震える。そのくせ馬鹿みたいに心拍数が上がっていき、べっとりとした脂汗で制服が肌に張り付く。
雀は眼の前にいる青年が理解出来なかった。
生物としての機能を最低限まで閉じられ、尊厳と感情まで一緒くたに削ぎ落とされたマネキンの様な人間を、果たして人と呼べるのか。
「神崎?」
雀は知っている。
中身を無理矢理不釣り合いな身体に収めている歪な人を、神崎雀はもう一人識っている。
「おい、神崎。急に黙って、どうした?」
十年前のあの日、幼くも愚かであった雀によって鏡海から引き摺り出されてしまった、雀のIFだ。
彼女も確か随分と触覚が薄かった筈。それはいまの涼と同じ様に中身の氾濫を抑えるために、人としての機能を閉ざしていた。
「倉橋さん、神崎はいった──んっ!?」
気付けば雀は涼の胸倉に掴みかかっていた。
殺気立つ倉橋のことも今は視界に入らず、状況が把握出来ず茫洋とする涼を睨み上げる。青ざめ、大量の脂汗を流しながらも鬼気迫る尋常ならざる雀の様相に、さしもの倉橋も僅かにたじろいだほどだ。
涼は気配を頼りに倉橋に手で制止を掛けつつ、自身も冷静に努める。
「神崎」
「黙って。いま余裕がないの。それより私の質問に答えなさい」
「それは君にとって……いや君達にとって重要なことか?」
「そうよ。返答によっては覚悟を決めて貰わないといけない」
「……善処しよう」
雀は何度も深く息を吸い、荒れる呼吸を無理矢理整えた。
勘違いであれば結構。しかし雀の危惧が的中してしまえば、最早侵入した術師に構っている場合ではない。
何度も躊躇い、意を決して雀は涼の耳元に口を寄せた。
「──アンタの本当の名は何?」
小さく告げられたのは、雀の咎。
出会うべくして出会った、しかし本来決して交わってはいけない運命を確かめる鎖だ。
普通の人であれば意味を成さない問いだが、涼は沈鬱な表情で押し黙った。
悪い予感が当たってしまったのか。
胸倉を掴む拳に血が滲み、この時いよいよをもって雀は覚悟を決めようとしていた。
結論から言ってしまえば、雀の危惧は杞憂に終わる事になる。
しかし如何なる運命の悪戯だろうか。この地には雀たちとは違うもう一本の因果が呼び寄せられており、思わぬ形でその顔を覗かせた。
裾が引っ張られ、雀は息を呑んで涼の口元に耳を寄せ──
「は? なんて?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
予想外どころの騒ぎではない名前が飛び出し、出来の悪い冗談ではぐらかされたのだと本気で疑った。
だが涼の苦虫を噛み潰したようなその顔を改めて観察すれば、とても嘘とは思えない。何より改めてマジマジと観察すれば、ストンと胸に収まってしまう。
「一応聞いておくけど、本気で言ってる?」
「……冗談でこの名を口にすると?」
「だって名前……」
「養子だ。まあ色々と事情があって今はこの名で通っている。君の危惧する所が何かは、この際詮索はしないが、この件については今度二度と触れないでほしい」
存外に強い拒絶であった。
遅れて雀は完全な早とちりで他人の懐に土足で踏み入った事に気付き、深く反省する。頭に血が上ると短慮に奔りやすいのは雀の悪癖だ。自身への幻滅と安堵が入り混じった嘆息が自然と零れる。
「ところで、満足のいく回答であったのなら、そろそろ離れてはくれないか?」
あまり世間体も宜しくないと、横を向く涼。つられて首を回せば、住人の一人が唖然とした様子でこちらを見ていた。
間の悪いことに五輪高校の学生だ。良くも悪くも有名人である副会長が、転校生を尋常ならざる形相で締め上げている。なるほど、確かに世間体は良くない。
直ぐに雀は離れようとしたが、予想以上の力で胸倉を掴んでいたらしく、指が強張り上手く開かなかった。
結果として雀は涼を引き寄せるような形になり、盲目の涼はこれに対応しきれず、慌てて雀が支える。
「っ!!?」
「……ん?」
さてこの状況、傍目から見ればどう映るだろうか。
随分とぎこちないが抱擁に見えなくもない無いだろう。雀は涼の胸に両手を当て、涼も咄嗟に雀を庇おうと半端ながらに手を回した状態だ。
漫画やアニメならば軽いラッキースケベなこの状況。
しかし生憎と役者が悪かった。
というのも現在の涼は最低限の聴覚と触覚を残して全カット。いま自分がどういう状況に置かれているのか上手く把握出来ていなかった。
雀に関しては乙女らしい反応より先に「どうやって目撃者を消そう」という思考が先に立つ始末。
甘い展開など望むべくもなく、痺れるようにその場が張り詰める。
先に動いたのは涼であった。
何となく状況を飲み込んだ彼は余計な事は口にせず、ただ生徒に向けて唇に指を立てる。
対して雀は開き直ったように笑って見せたのみ。正し、剃刀のように細められた両目にはそれはそれは濃い影が落とされていた。
『喋ったら〇す』
大の男も慄く雀の迫力はそんな幻聴を与えたのかも知れない。
憐れ名も知らぬ生徒は小鹿のように怯えてしまい、泡を食ってその場から逃げ出した。こうして未曽有の危機は去ったのだ。
「おい、いつまでくっ付いてやがる。青春するのは良いがこんな通路じゃいい迷惑だ。続きは中でやれ」
「ぶち殺すわよ、犬っころっ……!」
十分に気配が遠ざかった所で、倉橋があからさまに呆れ顔を浮かべ、雀はその屈辱に拳を震わせた。未だ胸倉を捉えられた涼はいい加減息苦しくて仕方がない。
そんなひと悶着で遠回りしつつ、三人は漸く部屋へと上がった。
五輪ハイムは一世帯が入居しても十分な広さと部屋数が用意されており、涼の家は当然ながらその大半が空き部屋であった。
涼たちの後に着任する監視官達が住まう事も考慮に入れ、広めの部屋を確保したのだろう。工房を持つ術師からすれば、むしろこのぐらいが丁度良いとさえ言える。
そんな後任への配慮からか、涼はあまり私物を持ち込んではいないらしく、中は伽藍としていた。
目に付く物と言えば雀たちが通された居間に置かれたテーブルが一つ。部屋の隅に置かれた荷ほどきの終わっていない段ボール箱数個が精々。
先程チラリと見たキッチンは使われた形跡が殆どなく、冷蔵庫すらない。カウンターの端には郵便物が無造作に投げられ、教科書もそこに積まれていた。
恐ろしく生活感が無い。
装備や霊具の手入れ用に別の部屋は使用感が見受けられたが、他が壊滅的だ。
カーテンも掛っていなければ、床はカーペット一枚敷かれていない剥き出しの寒々とした空間。部屋の隅で充電器に繋がれたスマホが一層寒々とした印象を増していた。
家というのは住まう人間の個性が現れるものだ。
雀もあまり生活に利便性や豊かさを求める性格ではなく、食事は食パンかインスタント食品で済ませ、屋敷には寝に帰るだけという日もある。
それでも部屋の一角は趣味の音楽に彩られ、居間ではバラエティー番組やドラマも普通に楽しむ。
涼の場合はミニマリストかと疑いたくなるほどだ。まさかとは思いたいが部屋の隅に不自然に積まれている教科書と段ボール、あれはまさか布団代わりなのだろうか。
顔合わせの時に夜鷹の好意を断ったのは何だったのか。この日、人生で初めて雀は夜鷹へ電話をするべきか本気で悩んだ。
「せっかく来てもらったのに、大した持て成しも出来なくて申し訳ないな」
「その手の常套句に本当に一切謙遜が含まれていないとはね」
「直嗣たちが知ったら泣くぞ。本気で」
雀の皮肉は兎も角として、倉橋の言葉は覿面に効いたらしく、涼は罰が悪そうに見えていない目を伏せた。
世話好きな性格の涼であるが、裏を返せば自身は蔑ろにしがち。その性格が極端に現れてしまったのがこの惨状である。
呆れて二の次が出ない倉橋の溜息が、涼に深々と刺さる。
「……それで珍しい取り合わせだが、お二人とも今日はどういったご用件で?」
「私は学校からプリントを届けに来ただけよ。本当は直ぐにお暇するつもりだったし」
雀はプリントを渡す前に内容をざっと口頭で伝えてから、涼の膝元に置いてやる。眼が見えずとも、枚数だけ指先で確認すると涼は小さく頭を下げる。
「それで倉橋さんのご用件は?」
「ああ、その事だが宵波、ついさっきお前に帰投命令が出た」
古き陰陽師の血を引く元監視官は淡々とした口調でアストレア本部の決定を代弁した。
それは一匙の優しさと、激烈な叱咤が込められた通告であった。
「──お前にこの任務は荷が重すぎる。復調次第とっとと荷物を纏めて東京に帰れ」