四章・九節 蠢く
渇く。
不出来な身体に魂が悲鳴を上げているように、中身が絶えず零れ、耐え難い苦痛の如き渇きに魘される。
脳が熱い。ぐつぐつに煮えたチーズの様に今にも蕩けてしまいそうだ。そのくせ身体は何処までも冷え切り、手足は随分と前から感覚を失っている。脳が動けと命じれば稼働はしても、触覚を失った四肢というのは酷く現実感を損なっている。
身体の崩壊が止まらない。
一度壊れたものというのは何であれ二度と元には戻らない。どれだけ精巧に修理し、欠損部位を補おうともだ。
昨日とは着実に違う自分。歯車や螺子が一つずつ脱落し、あるいは錆び付き徐々に、しかし着実に波及していく崩壊の音。
いつかは分からないが、破滅だけは約束された人生。
永遠に覚めない悪夢を見ている様だ。
ああ、渇く。獣のような短く乱れた呼気が自分のものであるのが信じられない。堪らず身体を掻き抱くと、抑圧された苦痛が余計に強くなった。
良くない兆候だ。夜が深まってくると一層渇いて仕方がない。
抑えられない。
頭がこの渇きを潤すことだけで思考が塗り潰される。他の事を考えられない。
イケない。何も考えてはいけない。もう何人に手を出したと思っているのか。到底許されるべきことではない。
耐えなくては。押さえないと、いずれ必ずあの監視官は勘づく。そうなってしまえば最早死以外この身は許されない。
死にたくない。
ようやく五輪で希望が見え始めたというのに。
「うっ……ぐぅ……!」
だがこの渇きの前には知性も理性も何もかも無力だ。人間としての尊厳が容易く押し流されていく。
ドッと一際大きい苦痛が押し寄せると、身体の内から噎せ返るような花香が湧き立つ。さっきまで噴き出していた汗まで吸い尽くされ、不気味なほど美しい白い花が顔を出した。
「 」
渇く。呻き声を上げる粘ついた口は人語を介することすらなくなった。
一度逃げ道を知ってしまった今、この渇きを潤すこと以外は何も考えられない。
失ったものを補うことは出来なくても、和らげることは出来てしまう。渇けばその都度、苦痛に襲われる前に潤せばいい。そこに快楽が伴ってしまえば、あとは緩やかに落ちていくだけだ。
散乱するコンビニ弁当やペットボトルの空き容器を蹴飛ばしながら、勝手にねぐらにしている空きテナントから外に出る。夜の帳が下りきり、ここ数日降り続く雨が闇を一層深くする。
手頃な獲物を探すにはうってつけだろう。
大通りから外れて小さな脇道へと逸れる。
節操もなく駅前に乱立する建物の隙間に生れてしまった路地裏。街灯なぞ望むべくもなく、時折窓から小さな光が漏れるだけ。
周囲を高い壁に囲まれ、入り組んだ先は空隙とも言うべき異界だ。
全身が焼ける様に熱い。
渇きは薄れ、代わりに馬鹿みたいな高揚感がふつふつと湧き上がってくる。
いつのまにか足元に転がっていた肉塊への罪悪感など欠片もなく。
その恍惚に己が獣に成り下がった事すら忘却し、血で潤ったはずの喉が更に渇きを訴えた。
おかしい。以前は一つで足りたはずなのに何故。
……いいや。構うことは無い。
まだ乾くというなら、潤うまで続ければいいだけだ。