四章・七節 最初の犠牲者
「店の片付けに手間取ったから大分遅くなっちゃった……」
スポーツ大会が滞りまくったその日の夜。生徒会の面々は喫茶店・紅鹿亭で反省会兼打ち上げでもうひと盛り上がりし、解散の流れとなった。
紅鹿亭でアルバイトをする那月はそのままもう労働に励み、帰路に着く頃には時刻は午後十時を少し回っていた。
有澤家は母子家庭であり那月の母は女で一つで那月と息子二人を育てている。そんな母親の負担を少しでも減らそうと、那月は高校進学と同時に働き始めた。
学業に水泳部、生徒会業務に加えアルバイトと多忙を極めながらも、日頃からバイタリティー溢れる快活少女であるのは自己管理の賜物。弟たちも姉を見習い学業成績も家事の腕もメキメキと伸び、有澤家はそこそこ安泰であった。
それでも流石の那月も今日はうんと疲れた。
スポーツ大会では結局キレて自分も乱入した雀を必死に宥め、バイトでは生徒会以外にも打ち上げに訪れた運動部でてんてこ舞いである。
店の規模に対して明らかなオーバータスク。人の好い店長は来るもの拒まずスタンスを貫き、閉店後は厨房の隅で白くなっていた。
今日ばかりは早く帰ってベッドに潜りたくて仕方がない。
少し近道をして那月は帰路を急ぐことにした。
「あ……そう言えば今日は宵波先輩来なかったな」
脇道へ入りながらふと思い起こすのは、四月に転校してきた一学年上の先輩である。
三月末頃から紅鹿亭に顔を出すようになり、以来週に二日決まった曜日に顔を出している。
なんでも地元の先輩から『馴染みのない土地ではまず行きつけの店を作りなさい』というアドバイスを受けたらしい。家以外で腰を落ち着かせられて、誰かと接する場所を作る事が引っ越し先に早く馴染むコツとのこと。
そのコツに紅鹿亭を選んだ理由を聞いてみれば
「適当に入った」
という身も蓋もない解答が返って来た。
経緯はどうあれ紅鹿亭は晴れて常連客を獲得したのだが、過去に倣えば本日は涼が来店する日のはずだが、今日は姿を見せなかった。
忙しさのあまり気付かなかったのかと一瞬思ったが、あの赤いリボンを見逃すことは早々有り得ない。
SNSを交換しているので連絡は可能だが──
「ちょっと……馴れなれしい、かな」
妙な気恥ずかしさに襲われ、取り出したスマホを早々に鞄へ仕舞った。
まだ転校して半月。生活環境を整えるのに何かとバタついていることもあるだろう。手伝えることがあれば今度それとなく聞いてみようと決め、那月は気持ち脚を早める。
いま進むこの裏道は通学路と違い人通りも少なく、街灯も少ない。近頃は物騒な事件も多く、普段であってもこの時間帯を女子高生が一人で出歩くのは褒められた事ではない。
空家が目立つこの通りは昼間でも喧騒とは無縁であり、夜となれば静けさが更に際立つ。
生活の光は極端に少なく、麻酔が掛かったよう。
季節外れの冷たい風が肌を舐め、理由のない不安が植え付けられる。
自分の靴音がやたらと大きく響いて、歩調が早まる。
言いようのない恐怖は、しかし自宅近くの公園が見えてあっさりと霧散した。
「あはは……馬鹿みたい」
いつのまにか乱れた呼吸が整えば、そんな自嘲の笑みが零れた。
ミステリードラマの見過ぎたと小さく自分を叱りつけ、那月は公園に入る。
遊ぶには遊具の少ないこの公園だが、迂回するには少々広すぎるのだ。街灯も配備してあるので横断してしまえば安全面でも距離的にも一石二鳥である。
「ん? いい匂い」
ふと、鼻孔を擽る甘い匂いに足が止まる。
花の香りだろうか。香水のような主張の強いものではなく、中枢神経を手繰られるようなどこか魔性を感じるような匂い。
町内会の人が隅の花壇にでも植えたのだろうか。この公園は外周を木々に囲まれただけの簡素なもので、面白みがないと町内会長は常々ぼやいていた。
何の気なしに辺りを見渡すと街灯の下にポツンと設置されたベンチが眼に入り、そこに項垂れる女性がいた。
どこか様子がおかしい。
顔は長い髪で隠れて分からないが、服は乱れ汚れている。ぐったりとベンチに寄りかかり、手足は無造作に投げ出されている。何かの事件に巻き込まれたのだろうか。
放っておく、などという選択肢は那月には最初から存在せず。小走りに女性に近づき、声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
返事はない。
呼吸はしっかりとしており、顔色は髪で隠れて伺えないが、見える範囲では出血や外傷も見られない。
だが何度呼び掛けようとも反応を示さず、先程から微動だにしていないのは気掛かりであった。
「大丈夫ですか? 救急車を呼びましょうか?」
またもや反応はなし。肩をゆすってみても同じ結果だ。
様子からして何かトラブルがあったことは間違いない。女性の同意は得られていないが、やはりここは救急車を呼ぶべきだろう。
人生で初めての119番通報にやや緊張しながら電話を掛けた。呼び出し音が直ぐに鳴り、公園の名前や女性の状態をざっと頭の中で整理していると──
「あれ? 繋がらない」
一向に電話が繋がらない。やがて呼び出し音は途切れ、電波状況を確信しろと通告が流れる。
見れば確かにアンテナが立っていない。
このような開けた空間で何故。
不可解な現象に首を傾げつつも、那月は公園内をあちこち移動して電波受信の改善を試みるも、受信状態は回復しない。
何かがおかしい。
真綿で首を絞めるような不安が押し寄せ、背中に冷や汗が伝う。
そうこうしている内に残り少なかったスマホのバッテリーも切れてしまい、電話を掛ける事は不可能になった。近くには公衆電話もない。
「こうなったら直接交番にでも行くしか──あれっ!?」
いない。
那月がほんのひと時ベンチから眼を離している間に、女性が忽然と姿を消していた。
一体何処に? 動けるようになって帰ったのだろうか。それなら喜ばしいが、いなくなった事に全く気付かないなんて事が有り得るのか。
──まさか誘拐か?
軽いパニックに襲われ、慌てて女性の姿を探す那月にまたしても強い香りが届く。
先程の花の匂いだ。
反射的に振り向いた那月は眼前に飛び込んで来た光景に息を詰まらせた。
花だ。視界の大部分を覆い尽くす程の大量の白い花──月下美人の花が那月の直ぐ後ろまで迫っていた。
あの強い花香はこの月下美人のものだ。しかしこんな花達は確実に先程までは無かった。
何が起きているのか、訳が分からない。
ただ一つ確実に分かる事は、ここにいてはいけないという事だけ。
恐怖に駆られるまま那月は逃げ出そうとし──
「ひっ──」
しかして、それは叶わなかった。
いつの間にか月下美人は那月の背後に回り込んでおり、逃げ場は何処にも無かった。今や公園は月下美人の群れによって白く塗り潰され、地面の色は那月の僅かな足元のみ。
生物としての本能なのか、この月下美人には指一本触れてはならないと那月の中で警報が鳴り響いている。触れた瞬間、那月は自分で無くなる、その確信があった。
そしてその花の中に、あの女性がいた。
表情はやはり髪で隠れ伺えず、しかしだらりと腕を下げたその立ち姿からは生気が全く感じられない。
一歩、女性が踏み出す。
月下美人の群花が無風にも関わらずざわりと戦慄き、花弁を散らす。
さらに一歩。花が震撼し、宙に花弁が舞う。
逃げ場はない。
「だ、誰か──」
縋る思いで周囲に視線を走らせるも、人影は一つとしてなく。
那月が視線を切ったその僅かな間に、女性は眼前まで迫っていた。
「ひっ……!」
女性から立ち昇る月下美人の強い焼けつくような匂いに根を張られたように、身体の自由が利かなくなる。
那月はパニックに陥った。金縛りに合う身体は指一本動かす事も叶わず、悲鳴すらかすれ声に成り下がる。
幽鬼のような女性の手が那月へと伸びると同時に、女性の服の内側や髪を割って月下美人が湧き出て来た。その様はまるで女性を苗床にしている様だ。
信じられない程冷たい女性の手が那月の右腕を掴み、月下美人が新たな苗床を求め、腕を伝う。
(嫌だ、救けて──誰か救けてっ)
声にならない悲鳴は虚しくも誰にも届かず。
花弁が那月へと達しようとする、正にその瞬間。
「何やってんだ、有澤?」
耳に馴染んだ気の抜けた声が聞こえ、ぽんと肩を叩かれた。
「……建、人?」
「他に誰に見えるんだ……ってどうした、すげえ汗だぞ? どっか具合が悪いのか?」
心配そうに那月の顔を覗き込んで来るのは、高校入学以来の友人である砂純建人だった。学校が終わってから今まで遊んでいたのか、制服姿で片手にはコンビニの袋を下げている。
幻覚でも見ていたのか。
金縛りはいつの間にかに解け、公園を覆い尽くすほどだった月下美人もあの女性の姿も何処にもない。
しかし右腕の冷たい感触だけは克明に残り、幻覚という幸せな夢を那月に許さない。
途端、胃が猛烈に締め上げられ、那月は吐いた。
「お、おいおい! 大丈夫かっ、有澤!?」
建人の介抱も虚しく、吐気は胃袋の中身を出し尽くしても収まることなく。
那月は建人が呼んだ救急車で搬送され、その日は病院で一夜を明かした。
翌日、学校に那月の欠席が知らされる、僅か数時間前。
公園の茂みから女性の遺体が発見された。