一章・九節 幻想に遠き龍の正体
最短距離で山を走破した建人は勢いのまま大橋付近まで来ていた。
ここまでノンストップ。
天文台から走り続けとうの昔に息は上がり、心臓は破裂けそうだ。小休止を要求する身体をきっぱり無視して、棒のようになった脚を動かし続ける。
正直、建人にこの先のプランはない。
静恵川の川幅は百メートル近くあり、掛かっている橋はあの大橋一つだけなのだ。
那月の自宅は橋の向う川。渡ろうにも戦闘は継続中だ。
いっその事泳いで渡る事も考えたが、以前に那月が語っていたことを思い起こし、建人は躊躇っていた。
川や海は水溜りの延長上でしかないプールとはワケが違う。しっかりとした知識と準備が無ければ、水の流れに身体を捕られ上手く泳ぐことが出来ず余計な体力を消耗する。最悪の場合、命を落とす危険さえあるのだと。
走り詰めで体力を吐き出している建人にはリスクが高すぎる。
「せめて電話が繋がれば……」
相変わらず那月との連絡が付かない。
今まさに避難中なのか、それとも偶然にも今は電話に出られない事情があるのかも知れないが、タイミングが悪すぎる。念のために鉄平にも協力を仰ごうとしたが、彼も電話に出ない。
奇妙なことに周辺地域には避難勧告は愚かパトカーのサイレンすら聞こえない。龍もそうだがSF映画も真っ青なレイザービームが照射されて、誰も騒がないなどおかし過ぎる。
何がどうなっているのか、建人にはさっぱりだった。
『オオオォ――――――――――――――』
ハっと当惑する意識が張り詰める。
脚を止めて、振り向けば大橋は紛う事なき戦場と化していた。
支柱は折れかけ千切れたワイヤーが何本もダレ下がり、虫食いのようにあちこち破損した欄干から崩れる破片がボロボロと夜の川へ吸い込まれていく。
現実を疑う惨状を前にして、建人はそれらを些末事だと切り捨てる。そうせざる負えない。
およそ地上の動物とは根本からその特徴が異なる巨影を捉え、こみ上げる嘔吐感で咄嗟に口元を押さえる。
天文台からは、大雑把な特徴しか見て取れなかった。もしかしたら、非現実的な事象を前にして勝手に綺麗な幻想を抱いていたのかも知れない。
何しろ今日という日はあまりにも現実味がない。
初めて那月と喧嘩した、天使を見た、数十年に一度の彗星を見た、空から放たれる魔弾を見た。
だが、これはあまりにも――
「あれが、龍だって……?」
あまりにも悍ましい。
シルエットは確かに西洋の龍を象っているが、その躯体は余りに歪だ。
あれには鱗がない。病的な白い肌で覆われた生理的嫌悪感を催す外見。体温を感じさせない肌にはあちこちで浮き出た血管が脈動し、確かな生物であると否応なく理解させられる。
あれには翼がない。背中から伸びる二対の翼は折れ曲がった両腕だ。膨れ上がった筋組織が無理矢理飛行能力を実現し、撃ち抜かれた片翼から指の骨が覗いている。
あれには咢がない。突き出た口吻は醜く肥大化した首だ。頭部は癒着し埋もれ、右側面に僅かに二つの眼球が残っている。不自然に裂けた口腔からは幾重にも枝分かれした脊椎が飛び出し、意味を成さない牙を形成している。
あれには爪がない。体躯を支える両脚は自重を支えきれず潰れている。すり潰れた肉が内側から盛り上がり、絶えず再生を繰り返すことで巨体を支えていた。
あれは、龍ではない。
きっと人間を無理矢理似せようと思えば、あのような姿になるのだろう。
目算で五、六メートルの巨体を大きく反らした人龍は、傷口から赤黒い体液を滴らせ咆哮する。
『オオオォ――――――――――――――』
月夜に轟く咆哮は雄叫びでも威嚇の類でもなく、ただ己の存在を糾弾しているようだった。
人龍が仕掛ける。片翼が千切れる翼で空を叩き、潰れた脚からは想像も出来ない速度で疾走する。巨体を凶器に、破滅的なエネルギーを生み出し文字通りアスファルトを巻き上げ爆走する人龍。
その先には迎え撃つ人影の姿。
フード付きのマントを被っているため顔は確認できないが、間違いなく魔弾の射手だ。
人影は迫りくる人龍に腕を突き出すと、その手に魔力の光を迸らせる。同時に足元に魔法陣が二重、三重と展開。内側から順に駆動、回転していく陣から青白い火花が立ち昇る。
ここに来るまで散々感じた波動と、やはり同一。
人影はこれまでの意趣返しとばかりに自らを弾丸と化した人龍を前にして、不動の構えを見せる。あの巨体を真っ向から撃ち抜く気概なのだろう。展開される魔法陣はその回転数を更に上昇させ、スパークの奔流が周囲に伝播。大橋全体が淡い燐光を発する。
だがあれでは人龍の突進を阻止できても、流れ弾で最悪住宅街に被害が及ぶ危険性がある。
やめろ、叫ぼうとした建人はそれを見た。
「いや、違う――」
それは第三者の視点から観測していた建人だから気付けた、魔弾の射手の隠し玉だった。
今まさしく両者が雌雄を決しようとする、大橋の更に向う側。
それまで水面に移った月と認識していた輝きが、閃光を放つ。
四つ目の魔法陣だ。
魔弾の射手が足元に展開した三つは囮。急速にエネルギー密度が高まる第四の魔法陣から、複数枚の同心円状の陣が砲身のように突出。その直線上に人龍を捕捉する。
完全な不意打ち。
気付いた人龍が咄嗟に回避行動を取るも、地を蹴る脚がアスファルトに削られ制動すら効かない。
――勝敗はここに決した。
臨界点を迎えた魔法陣の閃光が中天に急速収縮。次の瞬間、轟音と共に第四の砲台から魔弾が放たれる。
水面を引き裂いた魔弾はワイヤーの隙間を掻い潜り、狙い過たず人龍に突き刺ささり蒼炎の華を咲かせた。その威力たるや凄まじく、衝撃波で大河は大きく波打ち、あたり一帯を砂塵が駆け抜けていく。
建人が顔を上げると爆炎を裂いて人龍の巨体が弾き飛ばされようとしていた。壊れた笛の様な悲鳴を上げながら、大部分が炭化した人龍は欄干を突き破り、瓦礫と共に緩い放物線を描いて落下していく。
あの軌道では中州を飛び越え川岸まで届くだろう。あの高さとスピードで地面に叩き付けられれば巨体は消しゴム同然にすり潰れる。
離れた場所で落下軌道を眼で追っていた建人は、落下予想地点となる場所へ視線を移し――全身の血が凍りつく。
人だ。
見慣れた少女がそこにいた。
肩で切り揃えた短髪の少女が、呆然と迫りくる“死”を眺めていた。
走る。
全力で、全速力で。
どうして。どうしてそこにいる。
世界から音が亡くなる。
極限状態に陥った脳が全てをスローモーションに見せつける。
やめてくれ、悪い冗談だ。
早く、速く、疾く、走れ、走れ!
壊れてもいい。何を犠牲にしても構わない。
だから、神様。お願いだ。
よりにもよって、お前が。
間に合ってくれ!
「有澤あああああああああああああああああああああああああッッッッッ!!!!!!!」
永遠に思えた引き伸ばされた時間が戻る。
建人は飛び掛かる様にようにして、巨影に染まる少女を突き飛ばした。
宙に泳いだ少女が驚いたように眼を見開き、細い手を建人に伸ばす。
これまで一度も彼女の手を取る勇気さえ抱かなかった彼は、突き飛ばした腕を更に目一杯伸ばし、
途方もない質量の下へ消えていった。