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ある夏の唄  作者: 神山亮輔
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第三章

神山が秋月と出会い会話を交わすようになったのは偶然の出来事ではなかった。S商事は複数の借り上げ社宅を保有していて会社側が勝手に入居先を振り分けていくシステムをとっていた。彼女は神山に、その中には西荻窪駅が最寄の物件もあるんだ、と話していた。だから西荻窪になったらいいな、と。結局、彼女が割り当てられたのは京王線千歳烏山駅から徒歩五分程のところだった。


彼女は実香とは一年遅れてS商事に入社した。金属事業部門鋼管事業部油井管事業部第二課に配属された。主に国内の大手鉄鋼メーカーと石油掘削プラントを使用するオイルメジャーとをつなぐ役割を担っている。元々鉄鋼会社の卸売事業から発足したS商事の本丸ともいうべき部署だ。彼女は会社から相当期待されていたのだろう。油井管は海底から石油・天然ガスをくみ上げるために使用する石油掘削リグに使用される。国内の大手鉄鋼メーカーとオイルメジャーという巨大組織を橋渡しする役割を油井管事業部は担っている。歴史ある事業で既に関係は強固なものではある一方で、ミスをすれば損失も大きく丁寧な仕事が求められる。そういった意味では商社の本丸とも言える部署だ。その仕事は生半可なものではない。幸か不幸か新人は基礎の基礎から叩きこまれて十年かけてやっと一人前といった世界だった。従い、じっくりと若手を育てようという意識があり、けして過酷な労働が強いられることはなかった。彼女の快活で気配りもでき根性もあるその性格のお陰で、職場でもすぐに信頼を得た。


一方、神山はその生真面目だが面倒で物事を要領よく捌くことを知らない性格のせいで、やはり想像していた通り早速職場での人間関係を中心に悩ましい日々を送っていた。そんな彼に対して彼女はこうしたらいいんじゃないという様なアドバイスをすることは無かった。だからお互い良好な関係を続けられた。神山が彼女に負い目を感じることが無かったのは彼女の気配りと優しさによるものだった。そして彼女の前では神山も卑屈さは全くなく、二人はお互いを認め合い尊重し合う理想的な関係だった。

「悟君の良い所を見ている人は絶対いるって。だから自分らしさを失わないで、その時が来るのをじっくり待ったらいいんじゃないかなあ。私からしたらそんな風にちゃんと悩める悟君が羨ましい。私は臆病だから万事、無難にことが運ぶ道を無意識に選択してしまうの。そうするとね、それなりに上手くいくけど、ちっとも面白くないの」

「ちょっと感じの悪い言い方になっちゃうけど良いかな。悟君は不器用だけど、懸命にもがいて。自分の駄目な所も知っていてそれを隠さずに話せて。それは実は本当の真っ直ぐさだと思うんだ。だから応援したくなる」

「辛いときは辛いって言えばいいし。誰もそれを咎めないよ。だから時には逃げて、機が熟するのを待てばいいの。悟君はいつか絶対大きな花を咲かす。私本当にそう思うの」

そんな風にいつも優しく彼女は寄り添ってくれたのだった。だから僕は踏ん張れた。生きる希望を持てた。なのに社会人になって半年も経たない夏、彼女は生きることを自ら辞めてしまった。僕は彼女に何もしてあげられなかった。もし彼女が何か悩みを抱えていてそれに僕気づいたとして僕には一体何が出来たというのだろうか。自信は無かった。


彼女が亡くなってから暫くは淡々と日常をこなすのに精一杯だった。会社の人にはこのことは誰にも話さなかった。彼女はいるかと聞かれればいないとだけ答えた。一年目から忙しく仕事を与えられたことで、家で悶々と彼女の死の理由を考える暇が無かったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。だけどそれは彼女がいつか言ってた『生きるってことの意味をなくし、ただただ生を浪費している』そんな感じでもあった。


だが社会人三年目の五月の連休明けからとうとう休職となって時間がありあまるようになると彼女のことがどうしても頭から離れず、理由を追い求めてしまうのだった。もうすぐであれから二年も経つというのに。なんて自分勝手なんだろう。結局自分の都合で、悲劇の主人公たる自分に自己陶酔しているだけだ。だけど自己陶酔でもなんでもやっぱり彼女の死から目を伏せてはいけない、という思し召しなんだ、と思うことにした。

そしてある事を思いついた。きっと彼女と同じ会社の人間なら何かしら彼女の最後の本当の姿を知っているんじゃないか。そう思った。そこで西荻窪にあるS商事の借り上げ社宅の前のコインランドリーで洗濯をする振りをしながら向かいの借り上げ社宅から出てくる人間の様子を見ることにした。借り上げ社宅といっても全員がS商事の人間ではないようだ。中年男性や老人夫婦の姿もあったからだ。平日は会社に行くだけだろうから土日を中心に不自然に思われない範囲で通った。すると毎週土曜日の午前十時近くになると、S商事の社員らしき同年代の女性が出てくることを知った。彼女の後を尾けた。彼女はすぐ近くにある、だけど一歩奥まった場所にあるから知る人ぞ知る喫茶店に入っていった。翌週の土曜日も同じ時刻に彼女は同じ喫茶店に向かった。

神山は彼女より少し早めに来店し、何週間か経って互いに常連であると認識するくらい頻繁に通うまでは声をかけるのは待とうと思った。

だが思いがけないことに彼女のほうから神山に声をかけてきた。それは六月中旬の土曜日だった。天気予報では曇りところにより雨といっていた。そして急に雨が降ってきた。恐らく通り雨だろう。

「今日、雨が降るなんて言って無かったですよね。天気予報では」

「ええ」

梅雨の時期でところにより雨と言っていたから神山は念のため傘を持ってきていた。だがあえて訂正することもないか、と思った。

「私、傘持ってなくて。どうしようかな」

「あのもし良かったら傘、僕持ってきているんで使います?」

「ありがとうございます。でもたぶん通り雨じゃないかな。雨があがるのをここで待とうかなと思います」

「あの、毎週土曜日この時間にいらっしゃっていますよね。僕も土曜日はブランチ代わりにここにいつも来ているんです。週末何か決まりごとの予定をつくれば夕方まで寝込んで寝溜めをせずにすむような気がして」

「そうなんですか。私も同じような感じです。土曜日の朝って、だいたい働いている若い人はまだ寝てたりなんかするじゃないですか。だから珍しいなあって思って。もしかしたら私と同じような感じなのかなってこっそり思ってました」

「同じような感じ?」

「習慣ごとを作って安心する性格というか。そんな感じです」

「そうですね。そのつもりでここに通うようになりました。でもこのお店の雰囲気も気に入ってて。で土曜日の朝が気持ちよく始まれば週末良いことがあるような気がして。それにとても落ち着くから、ここは。だから結果論として習慣になっているんです」

総合商社に勤める総合職といえばとても快活で強きな姿を想像していたが、彼女はとても落ち着きがあって、学生の派閥みたいなものに例えれば大人しいグループにいそうな文学少女といった印象だった。それから彼女と少しずつだが会話を交わすようになった。彼女は神山と同じ年だった。だが彼女は現役で大学に入学し四年間で卒業して就職したので社会人暦で言うと彼女は一個先輩にあたる。彼女は現在は総合商社の電力事業関連の部署にいるそうで、プラントエンジニアリング業界でエネルギー部門を担当する神山とは仕事に関する話題でも気が合った。

「好きこそ物の上手なれって大事だなあって思うんです。職場でたまに雑談で先輩が『昨日さ風呂でエネルギー業界報を読んでて。工業団地でのコジェネレーション型発電所による地産地消型のエネルギー供給に関する動向記事を見つけたの。そこで契約フォーメーションが詳しく解説されていてさー』って具合に仕事以外の時間でも仕事に関する知識を自ら仕入れている姿をみたんです。よく考えたら仕事の義務じゃなくて自分の興味でそれができるのってすごいなって」

「今までワークライフバランスって言葉を自分の心の中で盾にして仕事は仕事、プライベートはプライベート。会社を出て仕事のことを考えるのは社蓄のすることって考えてたけど、それじゃダメだなあって思うようになったんです。でもやっぱり自分の時間はもう日々の仕事でクタクタで結局先輩みたいにはなかなか行かないんですけど」

「それでも自分の仕事にもっと興味を持とう。好きになろう。まずはそこからじゃないかな、って最近思うんです。実は私、社会人二年目の秋に鬱病になって休職して。でその休みの間に色々自分がなぜ上手く職場で立ち回れなかったのか。その原因を具体的に色々考えてみたんです。で色々調べたら大人の発達障害っていう存在を知って。で、その大人の発達障害のなかでも私は特にADHDの特性に合致することが多かったんです。」

「それで休職期間中に検査を受けて、三箇所位の病院回ってどの病院でもADHDだっていう診断が下りました。そして今は薬を毎日飲んで、その特性によって困る事態を少しでも回避できるようにしています」

「ADHDの診断を受けた最初のうちは私は障害を持っているんだってショックで辛かったです。でも人って簡単に自分の都合の良いように慣れて行くものなんですね。ADHDの診断を受けてから出来ないことばかりに目をむけて、ああこれはADHDだから仕方ないんだ、ってそう思うことが増えました」

「だけど段々とそれってバカらしいなあって思うようになりました。言い訳ばかり探す人生って生きているっていえるのかなって。だから今までADHDだから出来ないんだって出来ないことばかりに目を向けていたけど、もっと大局的な目線を持ってできることにもちゃんと目を向けてあげて段々と出来ることを増やしていきたいなあって」

「今は目の前の困難で頭がいっぱいになってしまうけど、出来ない、終わらない、うまくいかない、つらいってだけじゃなくて、今自分がやっていることが自分の将来にどう繋がるのか、巡り巡って社会にどんな利益をもたらすか、考えてみたくなったんです」

実香は一気にまくしたてた。

彼女は自分と同じように生き辛さを抱えながら必死にもがいている人だった。

「僕も同じです。実香さんのそれとはちょっと違うかもしれませんが。人との意思疎通がうまく嚙み合わなかったり、自分の感情を伝えるのが苦手だったりします。それでどんどん自分を否定してしまうことが増えていきました。だけどちゃんと見渡せば出来ることだってあるんですよね。僕も目を向けてみようと思います」

そう言うと実香さんはそっと微笑んだ。

「私達なんか自己陶酔しているみたいですね」

梅雨空が明けて空は青く透き通っていた。



彼女は神山いつか話したどおり、日々思う何かを記録していた。無論入社直後は日々の生活をこなすので精一杯だったから、その日記は八月から始まっていた。

彼女の母親から彼女のPCに綴られていた文章を印刷した紙を渡された。


「何であの娘は逝っちゃったのか。未だに本当の理由はわからない。だけど私が思っていた以上にあの娘にとってこの世界は残酷だったみたい」

そう話す彼女の母親はとても小さく見えた。


『悟君、最近仕事も少し慣れてきました。という訳で社会人になる前に悟君が話していた日記を書いてみようかなとふと思い立ちました。折角時間があるのだから直接連絡すればいいと思うんだけど、こういうちょっと回りくどい想いとかはもう少しお互いに余裕が出てきてからのほうがいいかなと思います。ということで日記という形で自分の今の思いを残しておこうと考え付きました。思いつきなのでいつまで続くか分からないけどね。

いきなり暗い話題だけど今日も憂鬱な一週間が始まりました。まだ仕事も楽しさがイマイチ良く分かりません。まあ一年目なんてきっとそんなもんだよね。悟君はどんな気持ちでこの一週間をスタートさせたのでしょうか。私の仕事はまだまだそこまで大変じゃないです。何かと時間だけができて色々つまらないことばかり考えてしまいます。夕方まだ日の明るいうちに帰路について。空を見上げて。思うの。考えてもどうにもならないこと。例えばいつかお別れの日が人には来ること。もしかしたら明日には大切な人が私を愛せなくなってるかもしれないこと。そんなつまらない考えなんて全て空に流されてしまえばいいのに。私はただ悟君が側にいてくれればそれでいい、と思いました。

二〇一六年八月一日月曜日』


『悟君、今日は人と人がお互いに人生を浪費している。そんな人生の一ページを覗いてしまった気分でした。私のコーチャーの渡辺さんは最初のうちはとても穏やかで優しい印象でした。だけどここ最近はどこか素っ気無く、仕事のことで相談を持ちかけても、自分で考えてみろ、とあしらわれることが増えました。渡辺さんの態度が変わったのは突然のことでした。何か思い当たる節は無いのか色々と考えてみましたが、何も思いつかないのです。

もしかしたら、就職活動のときで言えば、圧迫面接。あのような感じでしょうか。

これから社内や社外で、そういった厳しい方を相手にしなければいけない場面を想定して予め訓練しておこうという意図なのかもしれません。というか、そうだと思いたいのです。人の気持ちは何かとても小さな出来事をきっかけで心変わりしてしまうものだから。もし渡辺さんが何かをきっかけに私を遠ざけるようになった可能性も捨て切れません。でもそうではないと信じたいのです。渡辺さんはとても仕事熱心でいつも真っ直ぐ仕事に向き合っているような人です。だから私の指導に私情を持ち込むようなことはないと信じたいのです。

二〇一六年八月二日火曜日』


『悟君、私はもし明日死んでしまったら困るなあ、なんて柄にもないことを考えていました。まだまだやりたいことが沢山あるの。今は会社員だけど、なんていうのうかな。もっと色んなものを吸収して。で私が生きたって証を残したいな。それは本、映画、音楽、絵だったり何か私もまだわからないんだけど。何かを創造したそんな人生を歩みたいなと思うのです。

二〇一六年八月三日水曜日』


『悟君、二十三歳って女性にとっては繊細な年齢なんだね。今日同期と話していてふとそんな話題になりました。人は皆それぞれの人生を物語を紡いでいるけど、高校大学を出て会社に入って、なんか似たり寄ったりで。その中でも視野を広く持ったり。細かく見ていけば全然似たり寄ったりじゃないのだろうけど。でもそうは思えなくて。

なんとなく一緒な自分に飽きているような気もします。今日帰りの電車に映る自分の姿をみたら気づいてしまったんです。だからって人と違う何かを必死で追い求めている訳でもない平々凡々な自分の姿がまざまざと映っていました。

二〇一六年八月四日木曜日』


『悟君、今朝は久々に夢を見ました。夢に出てきた悟君は海の向こうを見つめていて、私はその背中を見つめていました。なぜ、海が急に出てきたのかは思い当たることはありません。ただ、夏だからかな。悟君とは未だ一度も一緒に海をみたことがないね。私は夏が好きです。夏は残酷だけど綺麗で優しい思い出を私たちに残してくれます。いつか二人で波の音を聞きながら、缶コーヒーでも飲みたいね。

二〇一六年八月五日金曜日』


『悟君、私は知っているよ。

先の見えないもやもやだったり、誰かの悲しみや苦しみがいつもあなたを取り巻いていること。どうしようもなくて。いつだって急に現れていつ終わると知れぬそんな感情に対峙し続けることは、本当に大変で胸が苦しくなることだよね。私はあなたと寄り添って同じ景色を見て、ああ人生って案外悪くないなあって思いながら一緒に生きていきたいと思います。。

今までもずっとそうでした。そしてこれからも。私は悟君がどうしたらもっと肩の力を抜いて、人生という航海を後悔なく泳いでいけるのだろうと考えてみたんだけど、私のちっぽけな器じゃ、それは大きな問題過ぎて答えはどうも出そうにないんだ。でもね、道標を示すことができなくても、私の手に負えないことだからと突き放さず、私にできることをしたい。

私にできることって何かな。

月並みだけど、あなたの側に居続ける事、かな。

私はあなたに寄り添って。孤独な夜も一緒に乗り越えて、やがて差し込む朝の光を待ちたい。あなたの心が張り詰めて、どうしようもなくなって壊れてしまいそうになるとき、少しでもあなたの心がそっと軽くなるようにといつも願っていたい。あなたはとっても大切な存在なの。あなたは何処まで行っても一人だと言うけれど。また月並みな言葉になってしまうけど、あなたの存在が欠かせないと思っている人は私を含めてきっと多くいるよ。

だから自分の存在をけして否まず、生き続けてください。

あなたは愛されています。そして私が側にずっといるから。ね。

二〇十六年八月六日土曜日』


『悟君、自分の世界を無意識に拡げてしまった結果、生き辛くなる人がいる、ということに最近気がつきました。先日、難病を患い数億円のお金を集めて米国で手術をする必要に迫られた赤ちゃんの話がFACEBOOKのタイムラインに流れてきて、私の知り合いの知り合いが募金を呼びかけていました。ここで可哀想だなとは思うものの私には関係ないしと流せる人と、可哀想だなあ、少しでもいいから役に立ちたいなと思って募金をする人、色々な人がいるかと思います。私はそのとき集まったその数億円を一人の赤ちゃんに費やすのと、アフリカの難民の多くの子供たちに費やすのと、どちらが良いことなんだろうと考えてしましました。私だけでは結局大それたことは出来なくて、自分が非力なことを常に感じて、偽善者みたいなものもすごく嫌で、だけど私には関係ないと上手に見てみぬ振りも出来なくて。なんだかとても胸が苦しくなりました。そのとき私は悟君のことを思いました。悟君もきっと色々考えてしまう側の人だろうなって。世間はそれを意識が高い、だとか目線が高い、だとか言うのだろうけど、それは生き辛さと紙一重。だからそうやって色々考えて心を病んで絶望を感じてしまう前に、どうにかこうにか無神経に我侭に自分を世界の中心だと思って生きていけらほうがましだ、。世渡り上手なふりでもいいから、そんなときは逃げてちゃんと生きて抜いて欲しい。私も生きねば。そう思いました

二〇一六年八月七日日曜日』


『悟君、今週末は金曜日の夜ふと海をみにいきたいなと思って急遽カーシェアリングで車を予約しました。華の金曜日に羽目を外す人達を尻目に私は真っ直ぐ家路につく他ありませんでした。なんだか少し虚しい気持ちになったの。やっぱり楽しそうに週末を迎えられる人達を私は正直羨ましいと思っているのだと思います。だからその楽しさを取り返してやろうと思いました。それで翌日の土曜日の朝に敢えて早起きして高速を使って七里ガ浜まで行ってきました。駐車場に車を止めてそこからただただボーっと波の向こう側を眺めていました。

何処までも続く波の向こう側には何があるんだろう、と私は考えていました。

隣に悟君がいてもきっと同じことを同じように二人とも思うんじゃないかな、と勝手ながら思っています。

そういえば今日も憂鬱な一週間が始まりました。いつになったら月曜日を心待ちにできるような人生を迎えられるのでしょうか。

二〇一六年八月八日月曜日』


『悟君、今日は会社を休んでしまいました。だけど身体は至って元気です。つまりサボりです。考えてみると人生で初めてサボりというものをした気がします。そこでいつだったか悟君が名作かどうかは意見が分かれるけど大好きだと悟君が言っていた映画を借りて観ました.。『ビフォアサンライズ』、『ビフォアサンセット』、『ビフォアミッドナイト』どれも面白かった。今度は二人でみたいね。印象に残ったのはビフォアサンセットのあるセリフ。セリーヌが出会った九年前に連絡先を交換しなかったことを悔やんでいたと彼に告げるの。〈若いときは沢山の人とつながりがあると信じているのね。後になって、それはほんの僅かしか起こらないと気がつくんだわ〉ってセリフ。私達、物理的に距離があったわけじゃないけど、初めての出会いから十年も掛かったものね。十年かかってやっと自分の人生にとって、とても大きな意味を持つ出会いだった、と気づいたのね。あなたがこの映画を気に入っている理由がなんとなく分かったような気がするわ。

二〇一六年八月九日火曜日』


『悟君、あなたは感情を表に出すのが苦手だけど、実は喜怒哀楽が胸の裡にちゃんとあって。だけどそれがすぐ表には出せなくて。一瞬考えてしまうんだよね。わかるよ。私も本当はそちら側だから、中学生のとき悟君は『僕と君は生きている世界が違う』と言っていたけど、私はなにか似ているものを感じていた。だから興味深かったの。感情をすぐに吐き出さないのは、その感情がもしかしたら誰かを傷つけるかもしれない、と考えてしまうからなんだよね。悟君は寡黙だけど色んなことに過敏で、皆がとっくに忘れてしまっているような小さな出来事でも覚えていたりするもんね。昔の記憶が映像で頭の中に記録されているんだ、って聞いたときは驚いた。でも色んなことが頭に入ってくると、それらが重なり合って。色んな色を混ぜると真っ暗になってしまうような、そんな感じなのかな。それってすごく苦しいことだよね。。それでも悟君のように誰かの痛みや悲しみに気づいてあげられる人が私は好きだよ。よくね、言われたの。彼のこと尊敬できるか。って私はとりあえず、うんと答えてたんだけど。よく考えたら尊敬って何様って感じだよね。誰だっていいところはあって、それは長所でもあり短所でもある。相手や場合によって、良いものだったり、悪いものだったり様々だもんね。今日はちょっと何が言いたいのか自分でもわからないけど。もっと世界が社会が寛容で優しくあったらいいのに、なんてたいそうなことを考えてしまった一日でした。

二〇一六年八月十日水曜日』


『悟君、私たちはそういえば喧嘩をしたことがないですね。喧嘩なんてしないほうが良いに決まっているのかもしれないけど。愛に飢えて寂しくて、それを真っ直ぐには伝えられず屈折した感じで伝えてしまう。よくある光景なのかもしれないけど、そんなことが出来るくらいの単純さがあったほうが人生は楽なのかもしれないですね。でも、どうしたって私にはそうした振る舞いはこの先も出来ないと思います。なんだか悲しい話です。でも私は満ち足りているから、ないものねだり、なんだと思います。悟君はどう思いますか。相手が自分のことを本当に愛してくれているか不安に思ったりしますか。

二〇一六年八月十一日木曜日』


『悟君、そういえば私たちは将来のこととか話すことはありませんでしたね。だけど敢えて避けていた訳ではないと思います。少なくとも私はそうでした。今この瞬間にとりとめのない話をするだけで私の胸の裡は幸福で満たされていたから。そういえばいつか悟君が今日を生きる人の話をしていましたね。私も今日を生きる人なのかな。時が経てばまた新たなすれ違いや生き辛さに直面することもあるかもしれないけど、でもこないだみた映画のように、その瞬間を二人で共有できればそれで充分なんだろうな。

二〇一六年八月十二日金曜日』


『悟君、先週は一人で海を見に行きました。土曜日の朝まだ皆が昨日の余韻にひたって寝静まっているうちに出かけるのは何か秘め事をしているかのような気分で子供の頃のちょっとした秘め事を思い出した。悟君が一人になりたいときに良く寝そべっていた空き教室。屋上。あの場所では私たちだけの世界だったよね。

二〇一六年八月十三日土曜日』


『悟君、、お盆休みということで実家に来ています。父は最近はポストがつまって関連会社に出向になったそうです。毎日定時で帰宅するような生活で張り合いがないそうです。だけど昔みたいに母に罵詈雑言を浴びせることはなくなりました。きっとこれからは家庭が彼の居場所としての割合が大きくなっていくことに気づいたんだと思います。私は小さい頃、母を自由にして上げられるように高収入の職にありつけるようにと考えていました。だけど両親は今それなりに楽しく仲良くやっています。母が本心はどう思っているか分かりませんが、〈もう腐れ縁だからねえ、それなりに楽しくやれるわよ〉、と言うので私はその母の言葉を信じようと思います。

二〇一六年八月十四日日曜日』


『悟君、今日もまだ夏休みです。そう言えば今日は終戦記念日ですね。私は何故か思い立って黙祷をしました。今までそんな習慣は無かったのに。家族を想いながらも命を投げ出さざるを得なかった人を想うと無念でなりません。そう考えると私たちは寿命を全うすることを許されている。それだけでも幸せなのですね。

二〇一六年八月十五日月曜日』


『悟君、今日からまた会社です。お盆休み中にどこかへ出かけたり田舎へ帰省した人達がお土産を携えてきました。お土産の文化って何なのでしょう。休みをもらった面目を保つため、のように思えてなりません。本当は贈り物とはそんなものではなくて、あの人にこれを贈ったらきっと喜ぶな、その喜ぶ顔を想像して渡すものだ思うんです。

二〇一六年八月十六日火曜日』


『悟君、、今日は無力感に苛まれた1日でした。職場で同じ部署の先輩同士が指導員と指導される側でいるんだけど。指導員の方が何度同じ事を言わせればわかるの?と何度も怒鳴るように注意していました。実際のところ指導される側の方が余りに意欲がないか、といえばそうではないと思います。彼は彼なりに一生懸命やっているんだけど、不器用なだけだと思います。それでも萎縮させるような叱り方をすればますます悪循環に陥るだけなのに。どうして人は互いに首を絞めあおうとするのでしょうか

二〇一六年十七日水曜日』


『悟君、土曜日の花火大会をとっても楽しみにしています。大切な人と一緒にみる花火大会は私にとっては初めてだから。あっでも正確には初めてじゃないかもしれない。昔一度だけ両親と両手をつなぎあって見たことがあったんだ。でも結局その一回だけでした。今までそんな話をしなかったけど。私たちの間にもう一人手をつなぐ相手がこの世に産まれて。手をつないで導いて、幸せの味をかみ締められたらいいな、と思いました。

二〇一六年八月十八日木曜日』


『〈唄は優しいんです〉って玉置浩二が言っていたって話覚えてる?どんな時も唄は優しく寄り添ってくれる。まるで悟君みたい。何もかもを忘れてただ幸せだけをかみ締めていられる。

二〇一六年八月十九日金曜日』


『悟君、今日の花火大会の帰り道。悟君が昔話していた家族旅行の帰り道の話を思い出しました。幸せに満ち溢れた時間が終わりを迎えようとしている事に気づいて涙を流したって話。それは小さかったからじゃないんだね。大人になったって同じ。幸せの味を一度知ってしまうともう怖くてたまらなくなるんだね。

二〇一六年八月二十日土曜日』


『悟君、この世界は綺麗で優しくて。だから悲しくて。とても残酷です。

二〇一六年八月二十一日日曜日』

二〇一七年七月八日土曜日


昨日の金曜日、皆は浮かれて街に繰り出していくけど、実香はもう今にも倒れ込みそうなくらい疲れきっていた。だから真っ直ぐ帰路につき、メイクも落とさないままベッドに転がり込むようにしてそのまま眠りに落ちた。

昔だったら正午を少しくらい回った時間までそのまま寝続けていたけど、何故だか最近は疲れているのにちゃんと朝目が覚める。もしかしたら私は毎週土曜日彼と過ごす一時間を凄く大事に思ってるのかもしれない。だけどそれは胸を締めつけるような甘酸っぱいものではなくて。なんか言葉にできないけど、そう刹那的なそれだ。


紫陽花はほとんどもう萎れてしまって太陽は完全に夏を告げた。

もし彼女が生きていたらこんな夏の始まりに、僕らは『どこか悲しい季節の始まりだね』って言い合ってたんじゃないかな。『こんなに街は浮かれ始めているのに。僕ら一体なんてことを口にしてるんだろうね』って。そう笑い合ったんだろうな。


「夏の色って言うじゃない。でもさ夏の色ってどんな色だろ」

夏が近づいてきたからか街はどこか浮かれているような気がした。妙に現実感が希薄に感じる。

「ほとんどの人は透き通ったブルー、とかになるのか。でも私にとってはそんな爽やかな色じゃなくて、もっと刹那的な脆い色に映るんだ」

相変わらず私のほうからどうでもいい話をしてしまう。だけど彼の前だとつい口が軽やかになる。

「私ね、等身大の自分を見せるってことができなくて、いつも色んな鎧を被って生きてきたんだ。だけどその鎧がどんどん重なっていって、どんどん息苦しくなっていった」

「本当の私はとても不器用で、自分が不得手だったりすることが許せなくて。で一生懸命対抗策を講じて何とかしようとするんだけど。どうにもならなくて。」

「小さい頃、席が隣だった男の子にいきなりこういわれたんだ。ちょっとませた子だったんだけど。『秋月さんは私はいつだって楽しい、いつだって自由なんだって全身から痛いくらいに発している。なんだかとても苦しそう。』彼のいう苦しさが、ずばり的を得ていて心にグサッときたんだ。楽天的で誰とでも上手く打ち解け、無難に過ごす毎日を良しとしていた私にとって、全てを見透かされたようで、どうしようもなく心がざわついた。そんな時はとにかく、本を読んだの。できるだけ私を遠くに連れてってくれるような本を」

実香は小さい頃から器用貧乏だったのだろう。

「僕も同じ。いつも二人の自分が存在するんだ。臆病で不安でたまらない自分。それなりに幸せな自分」

「僕よく初対面の人に『あっ、知り合いに似ている』とか『芸能人の誰々に似ている』とか言われがちなの。彼らの目に映る僕は既視感のある姿らしいんだ。それを僕は、ああ、どこにでもいそうな至って平凡な容貌なんだなって思って、がっかりするんだ。そして正直言うと少し怒りを覚える。きっと、自分は他の誰でもない唯一無二の存在だって思いたいからだと思う。きっとそうやって口走る彼らは何の悪気もなく口にしていて、恐らく僕みたいに自分の存在意義だとかそんなどうしようもないことを考えたりせず今を生きれる人なんだと思う。だからその怒りは実は羨望なんだ、きっと」

神山はきっと愛に満たされていて、だけど愛に飢えている人間なんだ。人間とはなんて複雑で面倒な生き物なんだろう。だけど実香はそんな神山が人間していて良いなと素直にそう思った。


『あなたにはもう届かないけれど、あなたが残した日記をみて僕もあなたの心の声にこたえてみよう、そう思いました。本当の自分とはいったいなんなのでしょう。君は結局それを見つけられたのかな。いつか君が言っていた人生で本当に大切なものってなんだったんでしょうか。色んなことをまだまだ聞いてみたいのだけれど、あなたとはもう話すことができません。今日、実香さんは鎧を何重にも重ねて生きているうちに息苦しくなった、と話していました。僕は分かるような分からないような、そんな気がしました。必要とあらば自分を大きく見せることもある。そうして仕事だったり恋愛だったりってのは進むものだと思うから。だけどそのことで苦しむのはきっと誰もが同じで、だから普通はその事実を指摘したりしないものだと思うんだ。だけど無垢な子供だったのかな。その子は。実香さんにそうやって生きるために仮面を被って生きる息苦しさ見抜いてて指摘した子がいたんだって。きっとそこには悪意はなくて。ただ思っただけのことを口にしただけなのかもしれない。でもきっとグサッと彼女の胸には刺さったはずです。僕らは何重にも鎧を纏っているはずなのに、僕たちの心はある時いとも簡単に崩れ落ちていくんだね。僕は未だにわからないのです。君がこの世界に絶望してしまったのか。それとも生きるために装いを何度も纏い繰り返す毎日に疲れてしまったのか。どちらであっても、それなら僕だって同じだったよ。だから僕らはそんな絶望も息苦しさも共有できるんだと思ってた。昔あなたが言ってたように、君の心の鍵を開けてみせてあげられたのに。ついそう思ってしまいます。僕はもうどんな鎧を身に着ければいいのか分からなくなってしまいました。明日こそは少しでも前に進めるといいんだけど。夏の憂鬱が僕を深い海の底に突き落とす、そんな気分です。だけど僕は絶対君のようにはならない。けして君に会えるわけじゃない。ただ焼かれて灰になるだけだから。こんなにも暑苦しい夏の日に。

二〇一七年七月二十八日土曜日』


二〇一七年七月十五日土曜日


真夏という言葉がふさわしいくらいに今年はギラギラと太陽が早く芽を出した。

社会人になって四年目二十五歳、この夏が終わった九月一日私はもう少しで二十六歳を迎えようとしている。小さい頃はもうお嫁さんになって素敵な旦那さんのために手料理を振舞っている自分を想像していた年齢だ。だけど現実はそんな気配は一向に無い。私は働くために生きているの?いや生きる一つの意味として労働があるだけだよね。そして私の人生は仕事だけじゃなくて、もっと色んな彩りある形であるべきだ。なんて月並みなことを思ってしまうのだった。


そう言えば去年の秋ごろから話題になった過労死した大手広告代理店の新人の女の子は私と同学年だった。私もなんとなく気持ちは分かる。だけど、どうしたって分からない。なぜ彼女は死という手段を選択したんだろう。


今日の神山は少しうつろな表情をしていた。

「私なんでこんなに今の居場所にしがみついてるんだろう。苦しくてたまらないのに。でもまだ大丈夫。自分はこんな所で屈してたまるか、なんてつまらない意地を張って毎日を浪費している。そんな気がする」

実香は、その思いはないものねだりなんだ、と自分を納得させながら日々を過ごしている。だけど、こうして彼に会う日はどうしてもやっぱり現在の自分に疑問符をつけようとしてしまう。だけどきっとどこまでいっても、答えは見つからないのだろう。自分がどこにいるべきかなんてそんなことを考えること自体がおこがましい行為なのかもしれない。

「私ね、それなりに努力してきて大企業に入って、どこか他人とは違う特別な存在なんだって思いたがってた。た、というか今もそう。で、あっけなく社会に出たら挫折して二年目の秋に休職して。で、それまでの人生を振り返ったの。勉強だけはできだけど物忘れはしょっちゅう。提出物の期限とか守れない。それから勉強も同時進行で複数の教科で満遍なく学習していくのも苦手だった。勉強が得意って言っても、たまたま両親がちょうど良いタイミングで駐在になって、英語だけは勉強する必要がほとんどなかった。受験は英語ができればかなりのアドバンテージになるから実際のところは勉強だって出来たって誇れる程じゃない。会社でも忙しくなってくるとパニック状態になって過呼吸を起こしてお手洗いに駆け込むこともしばしば。家に帰っても手を洗ってうがいをして、お風呂に入って、食事をとって、そんな一連の動作が億劫でそのまま倒れ込むように寝てしまう。まるで手のかかる幼稚園児みたいだよね。でもそれでも自尊心はあって、同期とつい能力を比較して妬んだり見下したりしちゃうんだ。なんかね、私とっても面倒くさい人なの」

何故だろう。今日は彼の横に座ったとたん胸の奥にしまってた思いがとめどなく溢れ出てきた。彼は下手な相槌を挟むことなく、少しだけ顔を私のほうに傾けて、そっと私の話を聞いていた。

「で、私の場合は周囲が愛想を尽かして社会人2年目の秋に休職になった。そして私の出来ないことの言い訳を考えているうちに大人の発達障害っていうワードに出会ったの。そこからは必死で調べた。自分のことを言われているみたいな気もするし、そんなの誰だってあるような話でもある気がした。きっと私が気にすれば言い訳が欲しければ発達障害なんだって診断が下るんだろうなあって思いながら診断を受けて、案の定ADHDですねって言われた。ADHDってのは多動性・衝動性・注意力不足からなるんだけどお店の場合は注意力不足の割合が大きくて私もまさにそう。でも言い訳ができて何かできなくても仕方ないか。私は脳が少し劣っている部分があるんだし、って言い訳できるようになった。だから診断を受けたことにもちゃんと意味があったような気がする」

少しの間があって、今度は彼が口を開いた。

「僕、今休職中なんだ。五月の連休明け、身体が全く動かなくて。そこからもうだめだった。二、三日サボれば退屈さと気まずさから会社にいかなきゃって思うだろうって、そう思ってたんだけど四日目もだめだった。だから観念して、駅前の心療内科にいって、とりあえず一通りはなして一ヶ月休もうってなって。で、抗うつ剤を処方されて。抗うつ剤ってのは、足りなくなったセロトニンっていう脳内物質を活性化させる薬らしいんだけど、効果が出るまでには一ヶ月近く掛かるらしくて。だから一週間ごとに通院して少しずつ増量して四週間で規定の量に達した。だけど副作用のほうが強くて足がむずむずしたり背中が痛かったり頭痛がしたり倦怠感があったり。で診断書は1ヶ月の休養を要するって書いてあったからどうなるんだろ、この状態で会社に復帰しましょうって言われるのかなってドキドキして診断書に書かれた休養期間が終わる頃の受診日を迎えて行ったら、うつ病は根気のいる治療が必要でまだまだ休息が必要ですって言われて、じゃあとりあえず3ヶ月にしときましょうかって、簡単にまた休職期間がのびて、で今休職に入ってから2ヶ月以上経ったところなんだ」

「僕の場合は自分の方法論とか信念とか主張が強すぎて、でもある程度抑えないと社会では通用しないってのはわかってはいるんだ。だけど時々我慢できなくなって、面倒くさい自分がむき出しになってしまって。で、案の定、保守的に物事を進める日系の大企業では僕みたいな奴は爪弾き者というか面倒くさい奴でしかないんだよね。でもそうやって自分のこだわりがある割に繊細なもんだから、人間関係が上手くいかなくなると途端に怖くなって。会社で過呼吸になったり、急に吐き気が襲ってきたりして。そんな事がほぼ毎日のペースに今年の春先辺りからなって。ついに連休明けに休職になってしまった。でもあなたと違うのは僕はとても面倒くさい奴で、例えばどんなに繁忙期でも自分の習慣を崩せない。だから疲れてるんだしさっさと寝てしまえばいいものをちゃんとお風呂には入らなきゃ、とか多少はちゃんとご飯もたべなきゃ、とかって義務感に迫られて、でも体力は限界だから、それらを終えて寝ると朝はギリギリまで寝てしまって。着替えてすぐ出れば遅刻しないんだけど朝ご飯はそれでもちゃんと食べなきゃ、とか髭剃りもちゃんとしてとか、そういった自分事を優先して結果会社に遅刻する。そういう我侭で利己的な人間なんだ」

彼がこんなにまくしたてるように話をするのは初めてだったと思う。彼は自分と同じように生き辛い人だけど、その方向性は私のそれとは微妙に違って。でも彼は自分が社会に適合できていない部分をきちんと認識して整理できているし、けして社会のせいにしたりはせず、自分の問題として考えている。そういう意味ではけして悪い人間ではないのだ。

誰だって何かしら不器用さを抱えて生きていて、その不器用さが自分が選択した居場所と上手くマッチするかしないか、だけの問題なのかもしれない。

「なんか今日は喋りすぎちゃった気がするな。でもさ、やっぱり人間だから相性ってあるんだな。心療内科の先生も最初の先生も2回目の先生も上手く自分の話ができなくて。なんか大丈夫大した問題じゃないんですって感じで自分を大きく見せる癖が抜けなかった。やっと3回目の先生の前では自分の問題を冷静に語れた気がする。今日もなぜかわからないけど言葉にして伝えたいと思った。誰かに心の裡を話すのって難しくてだけど大切ことなのかもしれない」

実香は彼は実はとっても実直だから苦しいんじゃないかな、と勝手に思った。彼のことを扱いづらいとか面倒くさいとか絡みづらいとか思う人もいるかもしれないけど。心根はとても優しい人で共感性に優れている人なんだと思った。

「変な言い方かもしれないけど私、少し安心しちゃった。同じように生き辛いと感じる人が近くにいて、でもその生き辛さは人によってそれぞれで。だけど生き辛いからって他人や社会のせいだけにせずに自分のこととして理路整然と話せる人がいるんだって。それなら私だってまだまだきっとやれるじゃんってそう思った」

「社会が便利になっていくのと反比例するかのように社会が不寛容になってく、そんな風に思うことはあるよ。だけど社会だとか世界だとかそんな大それた話にすり替えて自分の苦しさを発散させるのは、それだけはなんか超えてはいけない一線だってもしかしたらそう思ってるのかもしれない。だけど勿論僕だって他人のせいにする事はしょっちゅうだから。けして全て自分事として捉えられているって訳じゃない。時には他人のせいにしながら生きていくのも一つの方法論なのかもしれないしね」


二〇一七年七月二十二日土曜日


「私ADHDだって診断を受けたときホッとしたの。自分が今まで息苦しいと感じていた何かの正体はこれですって明確な回答が与えられたような気がして。でも段々と自分がうまくいかないことをADHDだから仕方ないって考えるようになっていることにふと気づいたの。そこでハッとした。私病気をていの良い言い訳に利用しているんだって」

「あの、少し踏み込んだこと聞いてもいい?」

「ああ」

「悟君、恋人いる?」

「いないよ」

「そっか」

「悟君はどんな人が好き」

「うん。儚げな人かな」

「昔付き合ったことある人は儚げな人だった?」

「ああ。僕からみた彼女は儚かった。彼女は去年の盆休み明けに亡くなったんだ」

「えっ、嘘…」

「重たい話になっちゃって悪いな。せっかくの土曜日のブランチに。そんな前兆無かったのにいきなりだった。彼女は会社の借り上げ社宅で自殺した」


実香は耳を疑った。それはまさに実香の勤めるS商事の女性社員の話だったからだ。彼女は千歳烏山の借り上げ社宅のマンションの7階から飛び降り自殺したと聞いた。

彼女とは会話を少しだけだが交わしたことはあるが、その後はほとんど接点は無かった。

だけど容姿にも優れた総合商社の中でも際立って麗しく凛とした女性だったから、その顔は脳裏に焼きついていた。

世の中では他社だが同じように新入社員が過労による自殺をしたと報道されていた。

だがS商事の場合は事実、過剰な残業は無くむしろ総合職の中では残業量は少ないほうだった。それは彼女が所属する部署の性質によるものでもあったが、何より彼女のずば抜けた学習能力と要領の良さによるものだった。

最初は家族も世論の流れを受けて何か会社でトラブルは無かったか等調査を求め、会社もそれなりに調査を実施したようだが、結局のところそれらしき理由は見つからず労災認定はされなかった。だから彼女の件が報道されることは無かった。

「僕さ、彼女がどうして死んだのか全く見当がつかないのが恥ずかしくて悔しくて。でも平然と生きている自分に気づいたとき、怖くなった。で、休職になって時間ができて自分の都合で彼女の死を思って、その理由を探ろうと思った。」

「彼女から西荻窪にもS商事の借り上げ社宅があるって聞いてたから、誰かから話を聞こうと思った。だけど直接尋ねていっても部署が違えば詳しくは知らないだろうし。それに他人に社内でおきた話を簡単に話してくれるとも思わなかった。だから偶然を装って、少し距離を縮めてから聞こうと思ってたんだ」

神山の顔は至極冷静だった。

「でも結局聞き出す前に事の次第を打ち明けちゃうなんて、やっぱり不器用な人だね」

「あなたの推察通り私が彼女の死について知っていることはほとんど無い。彼女が一年目の新人社員歓迎会の時に少し会話を交わした程度の仲だし。」

「そっか。そうだよね。世間で言われているような過労死とかパワハラとかでは恐らくないんだと僕も思っている。」


 『ねえ僕はこの残酷で美しい世界を生き続けようとそう思っているよ。この先、誰かが僕に愛をくれたとしてもきっとあなたがくれた愛と比べてしまうと思う。でも足りないなんて思っているそぶりは見せずにその愛をそのときの僕の心の容量では足りない位、沢山おこがましいかもしれないけどちゃんと受け取って見せるよ。あなたがくれた愛には遠く及ばないと思って心が泣いたとしても。そしてあなたに対する気持ち程誰かを愛することができない自分の愛の弱さに気づいてしまって、自分への失望と戦いながらそれでも目の前にある愛を真摯に掴み取るよ。君は笑うかな。泣いているのかな。馬鹿みたいだけどさ、僕はずる賢くあがいて生きていってやろう、って思ってるんだ。僕は馬鹿だから、自分の不器用さに自己陶酔して生きづらいなんて嘯いているけど、結局ちょっとだけ頭が働くもんだから。生き汚く生きていけると思うんだ。あなたが居ない世界には絶望しかないってそう思ってたけど、あなたが居なくたって愛は生きている限り、僕から離れていくことはないんだ。だから寂しいと思いながらも、愛を渇望してもがきながら生きていこうと思っているんだ。いいかな。いいよね。

二〇十七年七月二十二日土曜日』


二〇一七年七月二十九日土曜日


昨日は先に退社した上司がある先輩に「今会社残っている人いる?飲みにいこうや」って電話があって、その先輩から秋月も行くよなって言われたんだけど、私は「疲れたので今日は帰ります」って言えた。そしたら先輩は「えっ、ここで帰る選択肢あるのって言われたけど、むしろなぜ選択肢がないと思っているのか分からないし、気を遣わずに帰れるようになった自分が今は少し誇らしい位だ。

〈気が乗らない飲み会に誘われたときは『私の貴重な二時間を奪うんだから、その対価払ってくれるよね?勿論食事代はおごりだよね?だって家に帰ればご飯あるし』

実香はさすうがに少し傲慢だな、と思いながらもこれ位の毒を吐き出してしまうくらいが生きていくにはきっとちょうど良いのだと思った。


季節の匂いだとか一緒に歩いた道だとかそういう五感で感じるものじゃなくても、とめどなく涙が溢れることがあった。

誰かといつもなら行かない二次会に行って騒いで帰って、分かれた一人道で。

あるいは仕事して少し一息ついたとき。あるいは雑踏の中。

大切な人の死はそう易々と昇華されるものではないのだ。

ふとした瞬間に逝ってしまった彼女のことを想って、ああ生きるって残酷だなって想うのだ。


「入社したての頃、私は女性が多い課に配属されて、どう立ち振る舞うのが正解かを一生懸命考えていたの。だけど本当は人はそこまで他人が何をしようとしているのか関心無いものね。だから余計なことは考えずに割り切って仕事するようになったら、今までより楽にそして仕事もだいぶ出来るようになってきた。ああ、少し自分変えられたなあって最近は思うんだ」

秋月の表情はこないだより少し晴れやかだった。

「ねえ、こないだ話していた彼女の件だけど、私社内でその話を聞いたとき、胸が苦しくなってか呼吸になってお手洗いに駆け込んだの。とてもショックだった。だけどあの後、過労死問題が世間で巻き起こって、それでもうちの会社の件は表沙汰には未だになっていない。皆どんな思いで毎日過ごしているのかな。自分もいつかそうなってしまうんじゃないかって恐怖を実は抱えている人も中にはそれなりにいると思うんだよね。だから私は周囲の人のちょっとした変化とか気づいたら、少しガス抜きをしてあげたりして、踏みとどまってくれるようにしたい。もちろんこんな風に人のことを考えてしまうから自分の許容量を超えてしまうってことも分かっているんだけどね。それでもやっぱり、皆が首を絞めあうような世界から早く抜け出して、もう少し明日に希望が見えるような場所を自分で作って生きたいと思うんだ」

秋月の笑顔はとても可愛らしい。そして今日の彼女の目の輝きは神山の心に深く刺さった。

「自分が苦しんだ経験を次の世代にも味あわせてやろうって、そうじゃなきゃ納得できないって無意識に思う人が圧倒的に多いんだと思う。人間って弱くて傲慢な生き物だから。でもそれでも中には自分が辛かったからこそ、こんな思いは次の世代には絶対させないぞっていう誰かもきっと必ずいる。僕はそんな人であり続けたいと思うんだ」

「そう言えば、あなたの彼女の件だけど、もし差し支えなかったら調べてみることにするよ。きっとたいした情報は見つからないと思うけど。良ければ」

「ああ、よろしくお願いします」

彼は深々と頭を下げた。


『あなたの残した日記に生き辛い人の話がありましたね。でも生き辛さを抱えていない人なんてこの世に果たしているのでしょうか。僕は感情が上手く表現できなかったり、人との意思疎通に難しさを感じたりする中で、人と新たに関係性を構築することがとても難しいことのように感じて生きてきました。そしてある日その苦しさが僕の心の許容量を超えてしまいました。その時、僕はこの世に居ながら少し自分勝手になろうと思って休職という手段を選択しました。そして僕の周りにもそうした生きづらさを抱えている人達が身近にいることを知りました。時間の段取りやマルチタスクが苦手だったり、物忘れが多かったり、一つの作業に過集中してしまったりするADHDなる病気なのかな?を抱えている人。異性ではなく同姓を愛する人。この世界には色んな人が居ます。

僕はあなたの生き辛い人の話で、いつぞや流行ったアイスバケツチャレンジを思い出しました。難病ALSの研究を支援するため、バケツに入った氷水を頭からかぶるか、またはアメリカALS協会に寄付をする運動のことです。著名人がこぞって参加したことから一気に話題に上り一般人も行うようになりました。無論、一番の目的はALSという病気の認知度向上を図り寄付金を募ることです。僕の母方の祖父はこのALSという難病に冒されて亡くなりました。母も含めて僕らはとても複雑な思いになりました。それは世界の優しさでもあり残酷さでもある、と。実際にALSで大切な人を亡くした人は、いつかALSという難病が治る病になることを心底願っているのは事実です。でもその一方でいくら研究が進もうと故人はもう帰ってこないのです。そう考えるとなんだか善いことをしている気分で楽しそうに氷水を被るように映る彼らを憎たらしく感じてしまう自分がいました。それは穿った見方であることは重々承知しています。だけど、何か違和感を感じてしまうのでした。

人は誰かを想うことで生きられるのだと思います。だけどその誰かを想う事の尊さは簡単に図れるものでなく、とても繊細で難しいことなんだと思います。だから僕は誰かを想える誰かに想いを馳せながら、あなたを想い、そして将来はあなた以外の誰かを特別な人だと想い生きていきます。生き辛さから逃げることはできないけど、上手に渡り歩くことができるように僕は少しだけ強くなりたいと、そう思っています。だからまだまだあなたには会えません。だけどあなたを愛したことはいつまでも心の奥底に残り続けるんだと信じています。

二〇十七年七月二十九日土曜日』


二〇一七年八月五日土曜日

 神山は同期の香月を思って梶間との連絡は絶っていた。だけど梶間が「苦しい。最近どうしようもなく苦しいんだ」と胸の裡を直球で伝えてきました。彼は初めて愛した人を自殺という形で亡くしていました。僕は彼にいつか自分も同じだと話しました。だけどお互い傷を舐め合いながら、そしていつまでも交わることの無い平行線の道を歩むことがわかっていたから。関係性にラベルをつけることなく、まるでそんな出会いは無かったかのように日々を過ごしていました。

 だけど彼の心からの叫びを聞いて、僕はほおっておくことは出来ませんでした。大切な人が自ら死を選んだとき、人は過去に原因を求めようとしてしまいます。どうしてあのとき気づいてあげられなかったんだろうか。どうしてあのときもっと側にいて抱きしめてあげられなかったのか。どうしてもっとその苦しみを共有しようとしなかったのか。

でも過去に原因を求めるのは不合理です。だってどうしようも出来ないから。だからそれはとても辛いことです。どこまで行ってもたどり着けない場所だからです。

 だから僕は梶間君が人生の深淵を覗いて絶望のうちに打ちひしがれないように、この夏をめいいっぱい楽しむことにしました。花火大会を見に行ったり。そして他にもいきづらさを抱えた実香さんという女性もこの夏を共に過ごす仲間です。また僕のことを温かく見守ってくれる香月や山本、彩さんとの関係も大事に大事にしていきたいと思っています。

 梶間が僕を大事に想う気持ちは僕のそれとはちょっとズレているけど、それが互いにわかっていても、やっぱり僕らは出会ってしまったのだから、大切に大切にそして正面から向き合ってみようと思います。

そして決めました。あなたがどうして亡くなったのか、これまで深く考えないようにしてきたけど、どんなに涙を流してもいいから、知ろうと思っています。もちろん結局のところ答えなんてわからないのかもしれない。それでも。いつまでもずっと忘れずに。そう、いたいからです。


「夏真っ盛りって感じだね。でも社会人になったら皆忙しく案外週末って暇なんだ」

「ああ。僕も結局疲れて沢山寝て後は一週間分の洗濯とかYシャツのアイロンとかなんだって、しているうちにあっという間に週末は終わってしまうんだ」

「ねえ、夏っぽいことしてみない」

「例えば」

「ありきたりだけど川原でバーベキューとか」

「俺そういうの得意じゃないけど、あっでも同期にそういうの得意そうな奴がいるからそいつ誘って言って見ようか。じゃあこっちは料理が得意な同期の香月を誘ってみるよ。香月はゲイでその彼の梶間も誘ってみてもいいかな。あと会社の同期の山本っていう女の子も誘ってみるわ。今日の明日だからどうなるかわからないけど」

「うん、私も気の会う同期を三人くらい誘ってみるね」

「じゃあ、連絡先交換しなきゃだね」



二〇一七年八月六日日曜日


意外と今日の明日でも人は集まった。社会人になると中々予定をあわせるのが難しく、結局予定が無いまま週末を迎える者も多いみたいだ。神山がレンタカーを二台予約して、あきる野市にある秋川橋河川公園バーベキューランドに向かうことになった。折角だからということでくじ引きで乗車する組み合わせを決めることにした。

神山とは実香が連れてきた男女一名ずつの同期と山本が、秋月とは秋月の同期の女の子と香月、梶間が乗車した。初対面の子とドライブなんて大丈夫かなと最初は不安だったけど、同年代だったこともあって中学生の頃に流行った歌を流して皆で歌っているうちにあっという間に打ち解けていった。

ああこんな感じで彼女を含めてワイワイするのも楽しかっただろうなあ、と神山は思った。僕らはそこまで社交的じゃなかったけど、それなりに互いに自然体でいられたから、こうやって複数の友達と楽しい時間を共有するのも良かったのかもしれない。そう考えると少し僕らは狭い世界で生き過ぎていたのかな、と思った。


香月が指揮をとって料理の段取りは進んでいった。近くに釣堀があり梶間と神山はニジマスを獲りにいくことにした。

「珍しいな、お前がこんな風に大勢で遊びを企画するなんて」

「なんとなく気分だよ。たまにはそういうのも悪くないなって思って」

「俺、香月とは今は友達に戻ったんだ」

「そっか」

「驚いてないみたいだな」

「ああ」

「あいつとは会社でしょっちゅう顔合わせてるからなんとなく気づいていたからさ」

「ところでさ、実香ちゃん?どうなの?」

「どうって」

「付き合う気あるのか。毎週土曜日に会っているんだろう。聞いたぜ」

「えっ」

神山は察していたけど、あたかも予想だにしなかったように装った。

「嘘つけ。気づいているんだろう。だけどまだうまく彼女の死を昇華できなくて、だからこんな不器用なやり方をしている」

梶間は何でもお見通しだ。

「降参だ。やっぱお前には隠せないな。だけどさなんか傷を舐めあうみたいで少し躊躇してたところがあるのは事実だ」

「なるようになればいいんじゃないか。彼女の自殺のことは実香ちゃんも知っているんだろ」

「ああ。彼女に何か知っていることはないか調べてもらうよう頼んでいる」

「そっか」

「あんまり深く考えないほうがいいぞ。俺らの脳みその深さなんてたかが知れているんだからさ」

「こうやって、餌ぶら下げたらパクッてためらい無く食いついてくるこいつらと同じなんだよ根本的には、さ」

梶山はやっぱり一枚上手だ。やられたな、と思った。


「実香ちゃんさ、神山君どう思う」

「神山君は今日を生きる人なんだと思う」

「今日を生きる人?」

「彼って少し面倒じゃない。理屈っぽくて哲学的なこと言っちゃって。でも弱くて。で格好つけちゃったりして」

「すっごくわかるよ」

「でも好きになっちゃったんだね」

「うーん、そうかもしれない。なんとなくだけど同じ景色を見ていたい人だなあって。向き合うって生きていくというよりは隣にいたい人だなってそんな感じかな」

「そっか」

山本はそれ以上は何も言わなかった。


二〇一七年八月十二日土曜日

お盆休みに突入した。とはいっても悟も実香も実家は都内だから土曜日の午後から向かえばいいと思っていた。いつものように喫茶「楓」に出向いた。

「お盆休みだね」

「彼女の件だけど、社内事情に詳しい同期からあたってみた。その子が彼女がいた部署の入社七年目の先輩と同じ大学の同じサークルだったらしくて。その縁もあってか、詳しく聞けたみたい」

「彼女は文句の付け所がない位仕事は出来ていたし、そこまで残業時間も長くなかったそう。皆、彼女の訃報を聞いたときはまずいなって言うよりは、えっどうして?って純粋に疑問に思ったみたい。だけど一人だけそうじゃない人がいた」

「渡辺さんっていってね彼女の指導員をしていた入社三年目の男性なんだけど、彼は途中で気づいたんだよね。彼女の方が自分よりも出来がいいことに。それで危機感を感じて仕事をあまり振らなくなったらしい。だけどその点を除いては彼女に何か嫌がらせをしたりパワハラやセクハラのような自体があった様子は無いみたい。勿論実際あったところで他人の目があるところでやるとは限らないから、本当に何も無かったとは断定できないけど。」

「渡辺さんが子供じみていただけのことで彼女を追い詰めようとした訳ではないとしても、卑怯だなって思ってしまった。一方で自分も渡辺さんと同じ立場に立ったら同じことを無意識にしてしまうのかもしれないと思ったら急に怖くなった。渡辺さんの件は彼女の死とは関係無いとは言い切れないと思う。人が何か歩みを止めたりするのは生きる目的を失ったときだから。だけど具体的な出来事というよりも、生きるって事の意味を彼女は深く考えて。考え抜いた先に怖くなってしまったんじゃないかな。あなたと何でもない幸せをかみ締めて生きていくことがとても幸せだと知って、それがいつか終わりが来ることを知ってしまったから。」

誰かのせいに出来た方がマシなのか、誰のせいでもないほうがましなのか。わからない。だけどそう話して実香さんの頬に涙が伝っているのを見て思った。

悲しくて忘れられないほど大切な誰かがいたことがどれほど幸せなことなのか。

「そっか、ありがとう。理由なんて結局本人にしか分からない。でも僕は彼女を想って悲しくなって心が揺れる。それでもう充分なんだろうな」



二〇一七年八月十九日土曜日

段々と夏が終わりに近づいてくる。夏の終わりは彼女の終わりでもあるのだ。僕にとっては。

「あのね、彼女亡くなる前、ある夏の土曜日にカーシェアリングで車を借りて朝イチで七里ガ浜にいってたらしいんだ。急に海をみたくなったって日記には書いてあった。記録を見ると帰ってきたのは正午くらいだからほんの一、二時間ぐらいしか滞在してなかったのかな」

「でさ、彼女の命日に彼女がみたその光景を見に行きたいんだ」

「墓参りには行かない」

神山はこう切り出した。わざわざ話に持ち上げるとは、それはきっとそばにいて欲しい、そういうことだ。

「いいよ。有給とる」

「そっか、ありがとう」

素っ気無いやり取りだけど、彼がこの道をこれから歩いていく中で。

その道中に私もいたということが、それが大事なんだ。そう言い聞かせた。


『あなたが海を見て、波の向こうに広がる世界に思いを馳せたとき。僕らは寒すぎる位に冷房が聞いたオフィスでひたすらエクセルをいじっていました。そんな事よりあなたの隣に居て、一緒にいれたら、と今でも後悔はつきません。だけど後悔に縛られる人生を歩むなんて、そんなの自分に酔いしれているだけで格好悪いよな。だからさ波の向こう側に絶望を観にいくんじゃなく希望を観にいくために、君が見た景色を観に行くつもり。僕は振り返ってばかりの人生がいけないとはけして思いません。人は一進一退をずっと続けている生き物だと思います。だから振り返ることもあるし前を見て歩いていこうとするときもある。僕がこれからどんな風に足踏みをしていくのか見てやってください。それはとても不器用で格好悪い姿なんだろうなあ、と簡単に想像がついてしまうけど、それでもいい。ちゃんと面倒くさく生きようと思います。生きる意味とか生まれてきた意味とか考えちゃって、自分が生きた足跡をどう残そうかとか考えちゃって。そんな感じでこの生を全うしたいと思っています』

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