第二章
秋月実香は総合商社S商事エネルギー事業本部第三課東南アジアチームの紅一点だ。総合職として入社し四年目を迎えた。学生の頃はこれといって他の学生を圧倒するような事を成し得た訳ではないが、なぜだかS商事だけはとんとん拍子で選考が進み、自分でもあっけないくらいに内定を貰った。
就職活動もこれといってこだわりもなく皆にならって大手総合商社、メガバンク、大手損保、大手海運辺りを中心に面接を受けた。特に強い個性は持ち合わせていなかったが、どんなタイプの面接官でもそれなりに臨機応変に対応できたせいか、どの会社も選考は淡々と進んだ。だが最終面接はどの会社も役員級が相手となり、その役員なりの嗜好がかなり反映されるせいか苦戦した。そんな中でS商事は既に第一志望郡の最終面接を一通り終えた後に行われた。
もう無駄に抵抗して相手に合わせに行くのはやめようと決めて臨んだ。
「率直に言えば新卒といえど出来るだけ即戦力になる人材が欲しい。あなたの評価はどのタイプの面接官からも概ね好印象です。ですからきっと人柄や能力、当社への適性は疑う余地は無いのでしょう。だから私が聞きたいのは一つ。あなたは弊社で即戦力になる自信はありますか」
とても柔和で祖父のような印象を受ける方だったが、彼の言葉は重みがあった。
「その点で言えばYESです。私の本当のところはとても理屈っぽくて面倒くさい人間です。ですが、一旦それを脇に置いて設定したゴールへ最短距離で到達するためには守るべきことは守りながら、先を行く人を見て盗み、追い抜く。そういった心意気があります。いや、実際に実践して生きてきました」
それは半分本音半分はったりだ。私は自己の利益のためなら自分の信念を時に曲げることができる柔軟性がある。それは裏を返せば八方美人で生きてきた節がある。そしていつも不安で溜まらないから、それなりに他人より先を走っていたい。だけど突出し過ぎてもいけない。結局は臆病者だ。それでも同世代の女の子のなかではそんな実香の姿も傍目には充分野心家に映った事もあろう。
「そうですか。率直に応えてくれたね。どうもありがとう。さあこれから社会の波に出て行く訳だけど。どうだろう、折角の機会だから残りの学生期間の間にその『私の本当のところ』を是非考え尽くしてきて欲しい。また会えるのを心待ちにしているよ」
そうその役員は締めくくった。決まった、と思った。だけど何か見透かされてるようで少し怖くもあった。等身大の自分なんて綺麗事は今更言えないけれど、私は取り返しのつかないくらい自分を大きく見せてしまったのではないだろうか。
実香はそれなりに充実したキャンパスライフを送ったと思う。中学校までは今日学校で過ごし高校は大学付属の女子高に進学した。そしてエスカレーター式で慶應義塾大学経済学部に現役で進学した。大学生の間に特に何かを成し遂げた訳では無いけれど、かといってそれ程、思い悩むことは無かった。というより物事を深く考えなかった、といった方が正しいかもしれない。右へ倣えで皆が過ごすような大学生を模倣しているだけの大学生活だった、と自分では思う。だから心の奥底に本当に形に残るような物は何一つなく、ありふれた学生生活でしかなかった。
大学では無難にテニスサークルに入った。実香が選んだサークルは慶応義塾大学の中でも割に落ち着いていたがけして地味ではない雰囲気だった。そこで気の合う仲間を数人見つけた。テニス自体は元々さして興味は無く、何かしらのコミュニティに所属しておけば自然発生的に友達もできるだろうとの思いだった。
二年生の前半まではそれなりに練習や合宿にも参加していたが、二年生の後半にもなると今度はゼミが学生生活の中心になるせいか、次第にサークルの練習や試合には顔を出さないようになった。それでもサークルで出来た気のあった友達とは同じ授業を受け試験対策を交換し合ったりといった関係性は続いた。
だが実香にとって唯一学生時代で心に大きな跡形を残した女の子がいた。彼女の名前は有澤麗。麗という名前に負けず、麗しく凛とした雰囲気の女の子だった。彼女は大学のどのコミュニティにも所属せず淡々と授業を受け、また経済学部にも関わらず法学部や文学部、ひいては理系の建築各部など他学部の授業も聴講する勉強熱心な子だった。実香も経済学部で語られる資本主義社会の仕組みとは違う世界を覗いてみたい気持ちがあった。
麗と知り合ったのは「建築工学概論」の授業だった。建築工学概論は建築構造の入門編として位置づけられていた。講義内容は建築構造物が様々な荷重の作用によって変形し祖内部にはそれに見合った力が発生するという基礎事項から始まり、建物を構成する主要材料の鉄鋼やコンクリート、木材の基礎知識を学んだ後、RC造といったコンクリートと鉄鋼の合成構造について基礎となる構造原理、実構築物の構造詳細を解説するものだった。
もぐりで聴講していたから教室の奥の隅に座っていた。だがある日運悪く教授は私を指差し問いを投げかけた。
「基本に少し立ち返って見ましょう。わたしから見て右端一番奥に座っている女性の方、答えて頂けますか」
私はそこまで熱心に予習をしていた訳ではなかったから、いまいち内容についていけておらず、正直お手上げ状態だった。その時、そっと隣の女の子が「構造物に加える荷重を増加させていくと、ある荷重で急に変形し大きなたわみを生ずること」とつぶやいた。
私はハッとしたが、何とか早まる鼓動を抑えて彼女の言葉を復唱した。
「その通りですね。どうもありがとう」
とだけ教授は答え、すぐに次の論点に話を移した。
講義後、彼女は何事も無かったかのように席を立ち帰ろうとしていた。実香はさっきのお礼をしなければという思いでさっきの彼女に駆け寄った
「あの、さっきは本当にありがとうございました」
「いえ、とんでもないです。役に立てて良かった」
彼女は屈託のない笑顔でそう言った。私は胸がざわついた。知的で凛とした美しさに一瞬で心奪われた。とにかく何か言葉を発しなければと思った。
「あの私、本当は建築学部じゃなくて。だから興味本位で覗いてみようっていうそんな軽い気持ちで聴講してて。ごめんなさい。失礼ですよね。でも本当に助かりました」
「そうなんだ。私も同じだよ。そっか私以外にもそんな物好きがいるんだね。なんだか嬉しいな」
麗は自分の気持ちを真っ直ぐに表現することに長けていた。それが私達のいっときの特別な関係の始まりだった。自然な流れで連絡することになり、講義の帰りに一緒にカフェに寄って談笑することが増えた。麗はいつも化粧っ気もなく常にパンツスタイルだったがそれでも学生の中では目立った。しばし通りかかった男子学生が麗を見て振り返った。
実香にとっては麗は気を遣うことなくどんなことでも話せる友達だった。麗といるとありのままの自分でいられるような気がした。そして麗のことをもっと知りたいと思った。子供のころはどんな子供だったのか。彼氏はいるのか。麗のことなら何でも知りたい。だけど何故だか自分のことは話せるけど、麗のことはどこまで踏み込んで良いのかためらってしまう。なんとなくだけど彼女は誰にも触れられたくないことが心の奥底にあるような、そんな気がしたからだ。
「私ね普通の人がなんとなくこなせることが普通に出来ないことに気づいちゃったんだ。例えば待ち合わせの時間を守るとか。レポートの提出期限から逆算して進めていくとか。そういう基本的なことができないと、社会に出たらきっと苦労すると思うんだ。だからまともな社会人になれるのかなって不安でたまらないの。きっと就職活動すればどこかしら拾ってはくれると思うんだけど、そこでちゃんと私やっていけるかなって」
「どうだろ。気にしすぎじゃない。実香は自分で思っているよりもちゃんとしていると思うよ。それにさ、どこか欠けていてちょっとおかしいのが人間ってものだと思うよ。だからそんな欠損っていうのかな?を追い求めたってどうしようもないの。だからね人類皆グレーなんだって勝手に思っちゃえばいいんだよ。白黒はっきりつけなきゃ不安がるくせに、その実態はグレー。なんだか笑っちゃうよね。私たちってちっぽけな存在のくせにさ。かけがえのない存在だっていつも思いたがっているんだもん」
麗は哲学的なことをいつもさらっと言う。
それは大学三年生の夏が始まる頃の出来事だった。
「ねえ、この後時間ある?良かったらさ、たまにはうちでお茶しない?」
麗は愛媛から上京して一人暮らしをしている。住まいは東急電鉄池上線の雪が谷大塚駅から徒歩8分程のアパートだ。大学三年生になるとサークルも年下の子達が増え始め、なんとなく足が遠のいた。結果、暇な時間が出来るようになった。
「うん、私実家暮らしだから、麗が一人でどんな暮らしをしてるのかすごく興味ある」
私はそう言って彼女の後についていった。
部屋に着くなり彼女はそそくさと、何か準備をはじめた。
「最近ね、近所にチャイ専門店が出来たの。実香は甘いの大丈夫?」
チャイとはインドの庶民的な飲み物で、鍋で少量の水で紅茶を煮出し、大量のミルクを足して更に煮出し大量の砂糖で予め味付けするものだ。チャイは非常に甘く作られるので、インド人はお菓子を食べるような感覚でチャイを飲むそうだ。
麗は慣れた手つきでチャイを仕立て、麗の凛とした佇まいからはちょっと意外な可愛らしい木目の丸テーブルにチャイを運んできた。とても甘かったけど、香辛料が効いてるのか、大人な味わいに仕上がっていた。
こうやって誰かが誰かを想って何かを作る。なんて素敵なことなんだろう。
だけど私は何も生み出していない。そしてこれからもきっと誰かをそんな気持ちにさせることもできない、と思う。結局、私は少しだけお勉強ができた平凡な人間なんだ。
「ねえ、実香。私ね実香のこと好きなの」
唐突に麗はそう言った。特に深い意味は無いだろうと思って、実香も応じた。
「私も麗のこと大好きだよ。正直言って親友と本当に自信を持って言える友達が私には今までいなかったから。だから今すごく幸せなんだ」
それは本心だった。実香はそれなりに社交的な自分を常に演じて生きてきた。だけど心の根っこにあるどろどろとした感情だったり、不安や焦燥感を共有できるような友達は一人としていなかった。麗なら言える。私が抱えている不安も。寂しさも。実香は麗と時間を共にする中で、麗には自分の思いを率直に伝えることができるようになっていた。
「実香、私実香のこと大事な人だと思っているから嘘つけない。私ね、実香のこと好きなの」
麗は少し俯き加減にそう呟いた。
「うん、私もだよ。急にどうしたの。なんかいつもの麗と今日はなんか」
とまで、いいかけたところでふいに唇に温かい感覚が伝わってきた。とても長い時間に感じられた。
「私の好きはこういう好きでもあるの。ごめんね。でもこれ以上は求めない。それは私も望んでないから。だけど時々こうして二人になって確かめてもいいかな?時々寂しくてどうしようもなくなる時があるんだ」
実香は自分でも意外なほど冷静だった。実香はそうした性的嗜好は無かったけど、偏見は無かった。というよりも、もしかしたらと思ったこともあった。憧れとはちょっと違った感情で、もっと近づきたい。そう思う対象がいることも実際にあった。
麗はわきまえている。だからこの機会に二人の関係性が大きく変わってしまうことは無いと思った。
実香が平然でいればそれ以上でもそれ以下でもない、今までと変わらない関係が続くと思ったし、あくまでプラトニックな愛だけで、事実その後も二人の関係が変わることは無かった。
「そっか。大丈夫だよ。私の好きも変わらない。麓のこと大好きだよ」
実香には大学二年生の夏から付き合っている同学年の男の子がいた。でもすごく特別な存在かと問われると答えに窮するようなそんな付き合いだったと思う。勿論、麗はその事実を知っていた。たからあくまでプラトニックな愛だけが実香と麗の間には存在していた。
就職活動の時期が近づいてきても麗が就職活動をしている気配は無かった。勉強熱心な彼女のことだからきっと大学院に進む予定なんだろうなと勝手に思っていた。だから学部を卒業した後はどうするの、と実香のほうから敢えて聞くことはなかった。なんとなく自分とは違う人生を歩むであろう麗に一抹の寂しさを感じながらも、余計な干渉はしたくないと思ったからだった。
実香のほうは社会で上手くやっていけるか自信は無かったけど、それでも私はどこまでいっても普通だから取り敢えずは会社員になるしか道はない。就職活動をしなければと思った。企業へのエントリー開始が迫る十一月末、私は不安で不安で仕方なかった。それなりに私は学歴はあるけど、そうは言っても皆が思うように上手くいくわけではいない。
私達の年はリーマンショックの時期に比べれば景気も回復してき、学生側の売り手市場へのシフトが始まりかけた頃だった。だがそうは言ってもそれは一部の限られた超優秀層だけの話だ。きっと苦戦するに違いない。だから出来るだけ門戸は広めにせねばと多くの企業へのエントリー準備に余念がなかった。
そんな折、麗のチャイがふと飲みたくなって麗の部屋に行った。
「私、就職活動はしないんだ」
麗は今日は風が気持ちいいね、なんて言う位の気軽さで言った。
「うん、なんとなくそうじゃないかなぁって思ってた。勉強熱心な麗の事だから大学院に行くんだろうなあって思ってたよ」
「実香、あのね私、学部卒業したら地元の愛媛に戻ろうと思ってるんだ」
驚いた。麗ほどの知性と容姿があれば、将来は世界的な研究者だったり、世界をまたにかけるキャリアウーマンになるのかなあ、なんて勝手に想像していたから。
「やっぱり。狐につままれたような顔してる。可愛いね、実香って。やっぱり、本当に大好きだなあ」
麗はもう一度大好きだなあ、と言った。少しよそよそしく。
「でもどうして?麗ならどんな道でも第一線で闘えると思うのにもったいないよ」
実香は至極ありふれた言葉を返した。
「あのね、私小さな世界で小さな幸せを見つけて、で世界って今まで自分が思ったより美しいのかもしれないなあって思いたいの」
「だから私、これ以上世界を広げることを辞めようと思うんだ。それはある意味逃げているだけなのかもしれないけど」
「で、つつましいけど温かい家庭を築いて、ごくごく普通の生活を送って。で、少し空いた時間を使って自分でもうひとつの世界を描いてみたいの」
麗の言葉とは思えなかった。実香を愛してくれるような彼女が普通の家庭を望む、とは意外だった。
「実香、顔に書いてあるよ。普通の家庭なんてどの口が言ってるのって」
「ごめん。でも正直余りに意外で驚いた」
「私ね実香のこと、愛してる。でもきっとそれは刹那的なものなの。私たぶん普通に男の人も愛せる。別に演じて仮面夫婦になって仮面の家庭を築こうとしてる訳じゃないから安心して。私が愛せる人をちゃんと見つけられるから」
実香は彼女の言葉は本心だろう、と思った。麗は結果的に相手を裏切るような下手な嘘はつかない人間だ。
S商事は大手町に本社を構える。実香は西荻窪駅から東西線直通で大手町駅まで三十二分かけて通勤する。
今日も九時半ギリギリの出社だ。
実香が最初に配属されたのは生活関連事業部門食料事業本部青果事業課だった。女性課長が率いる女性中心の課だった。特に配属面談でも確たる希望部署は特に無いと答えた結果だ。女性社会で上手に渡り歩くことはそこまで不得手ではないと実香は思っていた。高校は女子高だったから。だが学生のそれと社会人のそれは全く異なるものだった。
社会人になるまではそれなりに勉強も出来て、人間関係はちょっと窮屈に感じるけど人並みにいや人並み以上には私は出来ると感じていた。だが社会に出て突きつけられた。私は企業勤めに向いてない。だけどそれでも続けていかざるをえない。
学生時代から感じていたことだけど学生なら多少は許容された不器用さだった。だがそんな自分の特性は、社会に出ると「他人が当たり前のようにできること」だった。
たから自分は実は「劣っている」のではないか、と思うようになった。
とにかくケアレスミスが多く、資料を隅から隅までチェックしたにも関わらず誤植が残ってしまう。頭の中でちょっとした「やらねばならないこと」を保存し、タイミングが来たら対応することも苦手だ。例えば誰かに「伊藤さんが来たら伝えといて!」といった具合のタスクに対応できない。今目の前の業務を進めながら頭の隅に別のタスクを抱えて機がきたら実行する、ということ、つまりマルチタスクが苦手なのだ。また提出期限や締切を守るのが苦手だ。先を見通してゴールから逆算して今これをすべきといった行動が出来ない。とにかく融通が利かず処理できる許容量が恐ろしく少ないのだ。またメールが来るたびに気をとられて目の前の仕事、例えば英文契約書の内容チェック、だとかに集中出来ない、といった事もある。集中力に欠き意識が分散されてしまうのだ。だから普通の人が定時までに充分終えることができる作業を実香はこなせず、残業せねば捌けなかった。
そんな私には企業勤めは向いていない。
会社員は組織の一員として働く以上、会社の規則や業務手順、マニュアルを理解し従った上で、自分の担当業務のスケジュール管理は自己責任でこなさなければならない。
そして男社会の中で厳しい競争を勝ち抜いてきた女性たちに囲まれて実香は次第に居場所を失っていった。
だけども私は企業勤めを続けている。それはフリーランスや企業で稼げる程の突出した能力や経験が無いから独立して自分のペースで働くといった働き方も難しいからだ。そして下手に学歴があるもんだから安定していてそれなりの収入が約束された今の地位をそう易々と捨てられない。私は自尊心を保ちたいのだ。そして何より忙しくて、ただでさえ許容量が少ない私に転職活動を真剣に考え実行するような余裕もない、現実的にはそんなところだ。惰性で企業勤めを続けているのだけど、本当はもっと違うところに理由がある気がする。
皆がそつなくこなすことがどれも苦手で遅れをとっていたとしても。それがとても辛い毎日でも。その分試行錯誤を重ねて一歩でも進歩すればすごく嬉しいし、やりようによってはどうにかできる事はまだまだ沢山ある気がするのだ。失敗しても原因を分析して打ち手を考える頭が私にはある。例えば体格で劣る日本人選手がアメリカに渡って自分らしさを活かして活躍しアメリカでも尊敬される選手になった様に。私だって、工夫と努力次第で何とか企業戦士として戦って、いつかそれなりに自分の強みをみつけられるかもしれない。そんな希望を持っている。
それなりに努力をしてきた自負はあるけど、本当に必死に走ってきた訳じゃないそれでも景気が上向いていた時期だったり色んな要素が重なって実香は大手総合商社の総合職という地位を得た。一介の会社員に過ぎないが、それでも世間から見たら羨ましい限りだろう。実力以上の会社で日々もがき苦しみながら、本音を言えば楽しくとも何とも無い仕事をひたすらこなし、普段はつつましい暮らしを続け貯金を積み重ねている。
麗とは社会人になり互いに物理的距離が出来てからは自然に疎遠になった。当時付き合ってた彼氏は実香が自分よりも難易度が高いとされる企業に総合職で内定を貰ったことに負い目を感じたのか段々と距離ができてしまい自然消滅のような形で関係は終わった。それからは彼氏はいたりいなっかったりだった。総合職で残業も多い実香にとって恋愛の優先度は自分がどう思っても必然的に低くなった。それにいずれの相手とも結婚に踏み切るような気にはなれなかった。だがそれは総合職としてキャリアを積み重ねていくことを許してくれるパートナーではなかったから、という訳ではない。単純にそこまで熱い気持ちになれる相手ができなかった。それだけのことだ。
結局のところ突き抜けて何か才能があるでもなく、そこそこで社会の歯車として過ごす二十代独身女性の姿がそこにはあった。そんなふううに実香の周りの世界はある決められた範囲で今後もずっと続いていく。そう思うと、とたんに虚しくなった。
一度自信を失うと今まで簡単にこなしていたことまで出来なくなってしまった。そしてその不安を共有できる相手もいない。
実香は新たなフリーメールアドレスを作成して新しいツイッターのアカウントを作成した。それは日常で思うことを気兼ねなくそのまま投影できるような場所が欲しかったからだ。だから通常の連絡先とは別のアドレスを新たに作成することで、今までの人間関係から離れたところで自分の心の叫びを吐き出すことにした。
〈何をやってもうまくかなくて心が折れそう。取引先にただFAXするだけなのに、違うものを送っちゃったり、トラブルの対処に何時間もかかったり。私って本当にダメな子だ。会社からすればきっとお荷物だろうなあ〉
〈どうしてだろう、できなかったことばかり目についてしまうけど、出来たこともあるんだろうなあ。だけどどうしたって自分で自分を褒めてあげることができない〉
一度、私は出来ない子なんだと思うと自己肯定感が極端に低下し自信が無くなって、また失敗を繰り返す。そんな負の連鎖が実香を襲っていた。そして最初は女性総合職同士、戦友として頑張ろうねと意気揚々と接してくれた指導員も実香に対して愛想を尽かし始めていた。。
「どうして集中できないの?なんで今言ったことをすぐに忘れるの?あんた本当に慶応大学卒業したの?なんで時間とか締切とかいつもギリギリなの?そういうのって知識とか経験とか関係なく、一年目だろうが気をつければ次第に改善されていくことじゃない?気をつけてたらできないわけでしょ?仮にもうちの会社が内定を出した人間なんだから」
たった一年だけの社会人経験しか違わない先輩にここまで言わしめてしまった。
〈何がきついって先輩の気持ちが分かるからキツイ。そりゃ後輩が時間ギリギリに出社して、集中力に欠いていて、指導したこともすぐ忘れたらムカつくしフォローしたくなくなるもんね。でもなぜかわからないけど、できないものはできないの、助けて〉
〈悲しいとき、辛いときこそ1日1日を大事に。丁寧に、幸せな気持ちで過ごそう。そんな風にポジティブに考えてたときもあった。でもね限界があるんだよ〉
〈ある程度辛くなってくると、そういうもっともらしい考えが、さらに自分を深みに追い込むことに気づいちゃう。例え会社で上手くいかなくても、何か一つだけでもいいことがあるはず、そんなことすら思えない私って何なの?って〉
実香は日曜日の夜、西荻窪駅南口にあるBAR「鈴蘭」に行くことが習慣となっていた。店主のアキさんの顔をみて少しの愚痴を言ったりして過ごせば、よし明日から頑張ろうって気負ったりせずにあくまで平日の延長線上として日曜日の夜を終わらせることができるような気がするからだ。
「いらっしゃい」
アキさんはなんか温かいお父さんみたいな人だ。だけど、微妙な女心もわかる不思議な人だった。とにかくアキさんの声を聞くだけで何故だか安心するのだ。BAR「鈴蘭」ではいつもジャズが流れていて、アキさんはどうやらとてもジャズの世界に造詣が深いらしいのだが、けしてそれを全面に押し出すこともなかった。またここは常連客が大騒ぎしているということもなく、西荻窪らしくて西荻窪らしくない場所だな、と実香は思っていた。
「ブラックブッシュ、ロックで」
「了解」
「実香ちゃん、少しお疲れ気味?少し顔が青白いわよ」
「よく気づくね。うん仕事自体はたいしたことないんだけど、そのたいしたことないことすらまともに出来ないの。で、自分の存在意義ってなんだろとかしょうもないことをこのところ考えちゃって。無い脳みそでそんな哲学的なこと考えて悩んでもしょうがないんだけどね」
「そっか、でもさ美香ちゃんまだ社会人になって一年程度なんでしょ。きっとどんぐりの背比べ状態よ。あんまり気にする程のことじゃないよ。学生までは三年間とか短い期間で区切られてたから競争意識が重要だったのかもしれないけど、これからは一人の大人、一人の女性として、どんな道をどんなペースで歩んだらいいのか、それを自分で決めることができるんだもん」
「アキさんの言葉はやっぱ温かいなあ。私アキさんのとこに来れば最低限自分を肯定してあげられる気がする」
「そう?それは嬉しいことだわ」
アキさんは照れくさそうに笑った。そういうアキさんが私は大好きだ。
「話は変わるんだけどこないだね、大学のゼミが一緒だった子達と会ってきたんだ。久々に飲もうって。で各々近況報告をしたんだけど、それがなんというかすごく虚しいものだった。彼らはとても優秀で社会に出る前は『起業したい』だとか『こんな事業で俺は世界を変えてやるんだ』とか大言壮語を自信満々に言ってたんです。だけど、社会人経験なんてまだ一年しか経ってないのに彼らはめっきり変わってしまっていたんです。会ってみたら一年前に話していた夢の話はしなくなって。残業ばかりで大変だけどそれなりにお金はもらえているからまあいいか、っていう互いの年収自慢大会だったりで。なんかとても現実的な話でつまらなくなったなあ、って思ってしまったんです。まあ、むしろ一年目だからこそ余裕が無くて夢なんて語る余裕も無く今を生きるのに精一杯なのかもしれないんですけどね」
実香はそれが少し自分を大きく見えようとする虚栄心だったとしても、やはり男の子には冒険心みたいなものが本能的にあるように思えて、彼らの大言壮語を羨ましいなあ、と当時は思っていたのだった。
「一方で女子高時代の友人達は、学生のときには夢なんか語り合わず、当時の流行の話ばっかりしてました。とにかく将来よりも今を楽しもうって生きてました。だから大学にはなんとなく行くっていう感じで。そしてそんな彼女達と久々に会ったら、彼女たちはやりたいと思ったことを驚くほど実現させていたんです。ヨガにはまって先生になっていたり、おしゃれが大好きだから、洋服作ったり、自分でカフェを開いてみたり、会社員生活を辞めて医大に行って医者の卵になっていたり。みんな方向性はバラバラだけど、彼女たちなりに、自分たちが見ている世界で見つけた夢を実現させていたんです。私が通っていた女子高はそれなりに学歴が高いところだったけど。彼女たちはそこに囚われてなかった。自分が今本当にしたいことを模索して行動に移していました。そんな彼女たちが私には痛いくらい眩しく見えました。彼女たちはとても生き生きしていました」
「私はその女子高の友達じゃなくて、大学のゼミで一緒だった男子学生のように現実の中に知らぬ間に埋没してしまって、少なからず抱いていた冒険心をどこかに置いてきてしまっていました。なぜこうも差が生まれてしまったんですかね」
実香はこうやって、他人を分析して自分と比較して、自分がどちら側にいるかを気づいたら確かめてしまう。そんなところがわかっていて、だけど直せず心底嫌になる。
「うーん、きっとさ、その大学のゼミの男の子たちの方が人生はこうであらねばならない、みたいな前提条件っていうのかな。そういうものに縛られているのかもしれないね。例えばさ一流大学に入学したからには一流企業に入社して出世を果たして、家庭を持ってだとか、今まで教育に投資してくれた親の期待にこたえたい、とかさ。そういうものに無意識に縛られているのかもね。でも自分の人生なんだから。誰かのために生きているんじゃないんだよ。自分のために生きているんだから。もっと肩の力抜いて。我がままに生きてもいいんじゃないかな」
私も無意識にこうであらねばならない、という幻想に縛られていたのかもしれない。自分で自分の首を絞めているだけだ。両親は私がどんな道を歩んでも必ず応援してくれる。それはわかってるし、とてもありがたいことだ。だから結局自分次第なのだ。
実香は相変わらず、要領よく仕事をこなすことが出来ずにいた。うちの会社で残業しているというのは要領が悪いね、という意味であって、良く頑張っているね、という肯定的な意味は一切無い。
「今月の業務時間がマイナスになりそうでやばいよ」
そんな風にして自ら要領の良さを主張し、いつまでも残って仕事を抱える者に対して嫌味を言う者もいた。実際のところ皆が同じ業務量を抱えている訳ではないから必ずしも仕事が終わるのが早いイコール要領がよい、という風に比較できるものではない。それでも残業をほとんどしない者からみれば、日中ノロノロと仕事をした挙句に夕方からやっとエンジンが掛かって残業になり結果として残業代がついて給料を多く貰っているように映って、そんな彼らが許せないのだ。その気持ちは痛いほど想像がつく。だから心の中でごめんなさい、と言ってます。でもどんなに出来なくても仕事を放り出して帰るわけには行かないんです。
〈残業しちゃった。一日会議ばっかりだったからなあって言い訳したいけど、元々予定されていた会議だし。結局のところ修正したはずのファイルをきちんと保存するところまで確認しなかった、とか、仕事の優先順位をつけないままあれもこれもと入ったり来たりしながら仕事している,とかなんだよね〉
余りに実香が仕事を順序立てて組み立てながら進めることができないことをみかねたのだろうか、実香の指導員は毎朝デスクについたらまず、その日のTODOリストを作成するよう指示した。まずどの順番でこなすべきかを考えてみるものの、ことごとく違うでしょ、と言われ訂正される。そして各業務に掛かる時間を事前に見積もるように言われるが、正直どれくらい掛かるか予測がつくならこんな悩みは無いのだと思った。一応掛かる時間を見積もっては見るものの、その通りにいくことはほとんど無い。指導員とそのTODOリストを細かく互いに確認までしても、やはりその通りには行かないのだった。そして指導員の堪忍袋の緒が切れた。
「どうして直らないの。何故同じミスを繰り返すの。私が指示したこと本当にちゃんとメモとってる?。じゃあ例えば電力供給先に送付する請求書の作成手順を示したところを私に見せて」
「わかりました」
実香は必死に探した。いつもならすぐに書かれている頁を探すことが出来る。だけど今は目の前で苛苛を隠さない指導員がいて。重圧に押しつぶされて胸が苦しい。わからない、どこだっけ、無いよ、全然見当たらない。気づいたら、袋を手渡されていた。過呼吸に陥っていたのだ。
さすがに周囲もみかねて指導員にあまり無理させるなよ、と声をかけた。その夜、上司たちが退社し、実香と指導員だけが残ったときのことだった。
「当たり前のことが当たり前にできるように指導しているだけなのに。なんでできないの。そして、いつもあなたは言い訳ばかり。挙句の果てには泣きそうになったり過呼吸になったり。まるで私が悪者みたいじゃない」
その指導員も、ついきつくなってしまう自分が好きなはずはない。本当は嫌なはずだ。そんな気持ちも痛いほど想像できるから辛かった。
「すみません」
実香はそれしか言えなかった。
〈言い訳したいわけじゃない。出来なかった理由を求められるから説明しているだけなの。同じミスを繰り返すのは話を聞いてないわけじゃない。聞いてるし、直したいのに、できないの!〉
〈でも周りから見たらただ「無能」「甘えているだけ」と思われるんだろうなあ。やだなあ、つらいなあ、怖いなあ〉
〈生きるために仕事しているのか、仕事するために生きているのか。どっちか分からなくなるのは無意識のSOSだと思う〉
寮に帰って、実香は何も出来ずにベッドに倒れこんだ。寝ようと思って寝たときと、意思なくそのままなだれ込むようにして寝たときでは後者の方が圧倒的に睡眠の質は悪い。そんなことはわかっている。だけど疲れ切っていて何も出来ないのだ。
そうやって計画性無く夜を過ごせば翌朝の起床はまたギリギリの時間になってしまう。ちゃんと明日は何時に起きようとアラームをかけて寝る、そんな当たり前の事ができないから。結局朝もギリギリの時間になる。大慌てで簡単に化粧して寮を飛び出る。私の毎日はいつも綱渡りだ。麗は今の私を見たらなんていうのかなあ。
〈家着に着替える、化粧を落とす、コンタクトを取る、お風呂に入る、かなあ。この流れを習慣にできたらいいな。どれも簡単なことなのに、なかなかできない〉
そして指導員との関係がギクシャクする中で実香は今まで出来ていたことすらいよいよ目も当てられないレベルでままならなくなった。さすがに周囲もこれ以上追い詰めたらまずいと思ったのか業務量を減らすよう誰かが課長に進言したらしい。少しだけ気が楽になった。だけど業務量が減っても実香の仕事ぶりは一向に改善の兆しが見えなかった。
〈高熱を出して寝込んだり、といった分かりやすさがあるうちはまだ良い。ちょっと寝不足が続いたり偏食が続いたりすると、少しずつ身体が蝕まれていく。そして体調の悪さが原因で生産性が低下したり気分が落ち込んでいることに気づけな〉
〈出来ないことの原因を全て無意識のうちに自分に求めてしまって苦しくなる。少し自分の都合の良いように何かの所為に出来ればなんとかなるのに。結局自分から悩みのどつぼにはまってしまいに行っているのだ〉
あの場面でこうしてたら上手くいったのに、そんな思いが頭を駆け巡る。それが始まると頭がどんどん冴えてきて眠ることが出来ない。心療内科でもらった睡眠薬もこの状態にまでなると全く効かない。連日連夜そんな状態が続いてさすがに誰が見ても明らかに調子が悪いと分かるほどまでに、顔は青白く目の下にはクマが出来ていた。
課長にちょっといい、手招きされ会議室に呼ばれた。
「ちょっと疲れが溜まっているんじゃない。会社には産業医がいるから産業医の先生と話してみてはどう?少し長めの休息をとって気分を一新させたほうがいいわね。私はね、あなたはけして能力が劣ってるわけじゃないと思っているの。ただこの厳しい世界で生きていくために必要な良い意味での傲慢さが足りてないんじゃないかな。だからまだまだスタートラインにたったばかりだし、悲観せず前向きな休みをとるといいかな、と私は考えているの。もちろん強制はしないし。産業医の先生とまずはゆっくり話をしてみてもらってもいいかしら」
女性課長は普段は手厳しいが、実は部下の挙動を良く見ていたのだ。だから未だ男性社会が根強い総合商社で管理職を全うできている。
産業医は白髪が目立った老齢で温和そうな丸顔の男性だった。
「秋月さん、なぜ秋月さんは今、出社できていると思いますか」
「一度会社に来れなくなれば、もう二度と戻ることができないと恐れているからです」
事実、実香の同期にも一旦休職になってからというものの、同期が連絡しても返事は返ってこず、もう半年以上も休んでいる者もいる。同じ職場でもそうした先輩の存在を耳にする。だから怖いのだ。私だけ例外なんてことは、きっと、無い。
「そうですか。そうすると休んだらどうかなって言っても不安も大きいよね」
「ええ」
「話を変えましょう。最近週末はどんなことをしていますか。私はこの通り、だいぶおじいさんになってしまってね。昔は体育会系だったんだけど最近は文化的活動に勤しんでいます。じいさんばあさんで集まって歌謡曲を一緒に歌ったりなんかして。若かった頃はどこか斜に構えていて、そうやって誰かとつるんで何かをするなんて格好悪い、なんて思っていたんだけど。最近は歳のせいかな。楽しいんだ。誰かと楽しい時間を共有することが。秋月さんはどんなことが好きですか。無論忙しいからそんな余裕は無いかな。無ければ無理しなくていいからね」
「私はたいした趣味はありません。流行りの小説を少しばかり読むこと位でしょうか。だけど最近は億劫で随分本屋には行っていません。あと学生のときは小説を書いていました。だけど社会人になってからは手付かずです」
「小説ですか。それはすごいですな。総合商社での仕事はとても格好いいものだと思うし、きっと小説の題材になるようなネタをたくさん仕入れることができそうですね」
「確かに。そうですね。今までそんなこと考えたこともありませんでした」
「何事も程々でやってみた方が上手くいきますよ。よくスポーツでは力をいかに抜いて自然体で身体を動かせるかが重要なんだって言うでしょ」
「でも程々っていうのはとっても難しいんです。だから程々になるために秋月さんはいったんもっと振れ幅を大きくして会社のお墨付きで会社を暫くサボってみましょう。こんな風に考えたら少しは休職も一つの手段として考慮するに値するとは思いませんか」
このおじいちゃん産業医はきっと手練手管だ。私は、いとも簡単に、落ちた。
「はい。それがいいと思います」
そうして実香は入社2年目の秋、休職することになった。
休職に入ってしばらくは本当に食べる寝るそれだけで、それ以外のことは何もする気がおきなかった。お風呂に入るのも歯を磨くのも顔を洗うのも、日常的な営み全般が全て面倒に思えた。心療内科には毎週通っている。それ以外はほとんど外出しない。六週間位経ってやっと抗うつ薬が効いてきたのか何かをしてみようという気分になった。そうやって段々と気持ちに余裕ができてくると、自分が何故社会に適応ができないのかを具体的に考えてみるようになった。そしてその症状をネットで検索してみた。
「物忘れが多い」「マルチタスクが苦手」「過集中」そんなワードで検索をかけて出てきたのは『大人の発達障害』と呼ばれるものだった。それにはADHDと呼ばれるものと自閉症スペクトラム群と呼ばれるものがあるが、私の場合はどちらかというとADHD傾向が強いような気がする。
『ADHD(attention deficit hyperactiity disorder)』
日本語で言うと注意欠如・多動性障害。これだ私を苦しめてきたものの正体なのだろうか。
まずはウィキペディアをみてみる。衝動性・過活動・不注意などの症状が通常十二歳までに確認されるが、過活動が顕著でない不注意優勢型の場合、幼少期には周囲が気づかない場合も多い。そのため、就職など注意力の重要度が高まる局面に直面する社会人になってから、その障害に気づくケースも多いらしい。
『不注意の症状には以下の症状などがある。
一、簡単に気が逸れる、細部をミスする、物事を忘れる
二、ひとつの作業に集中し続けるのが難しい
三、その作業が楽しくないと、数分後にはすぐに退屈になる』
ああ、どれも当てはまるなあ。この感覚だ。私を苦しめていた正体は。
『過活動には以下の症状などがある。
一、じっと座っていることができない
二、絶え間なく喋り続ける
三、黙ってじっとし続けられない』
『衝動性には以下の症状などがある。
一、結論なしに喋り続ける
二、他の人を遮って喋る
三、自分の話す順番を待つことが出来ない』
小さい頃を振り返れば、確かにこんなタイプの子がクラスに一人二人はいた。だけど私はそういった症状は無かったように思う。
『かつては子供だけの症状であり、成人になるにしたがって改善されると考えられていたが、近年は大人になっても残る可能性があると理解されている。その場合は多動ではなく、感情的な衝動((言動に安定性が無い、順序立てた考えよりも感情が先行しがち、論理が飛躍した短絡的な結論に至りやすい)や注意力(シャツをズボンから出し忘れる、シャツをズボンに入れ忘れる、ファスナーを閉め忘れるといったミスが日常生活で頻発する、など)や集中力の欠如が多い。
〈暫く悩んでいたのだけど、私はADHDなんじゃないかと疑っている。周りに迷惑かけているし、自分も辛いし。このままではいられない〉
〈ADHDというかADD。注意欠陥。ただ努力不足なだけ、甘えるなって声がきこえてきそうだけど、そんな風に思ってしまうこと自体が黄色信号なんだろうな〉
そこでまずは普段通院している心療内科の先生に話してみることにした。
「私、日常生活でいえば、家に帰ってきて化粧を落としてコンタクトを取ってお風呂に入る、とか当たり前の手順が出来なくて先延ばしにしているうちに寝てしまったりするんです。仕事でも、何度も言われたことは覚えているんですけど、すぐにその記憶を引き出してアウトプットできなかったり、どこかにメモをしたことは覚えているんだけどどこにメモしたかを忘れてまた先輩に同じ事を質問したり。そんなことが多々あって、会社では本当に使えないって言われているんです。でとうとう限界が来て会社に行くのが怖くなってしまいました。休職になってから自分が出来ないことの理由が知りたくてインターネットで色々と調べてみたんです。そこでADHDという発達障害の存在を知りました。特に集中力や注意力の欠如が私の場合は顕著に表れているように思います。もちろんADHD傾向の無い人なんていないことはわかっています。誰だってミスをすることはあるし、集中力はいつか途切れます。段取りも完璧な人はそうそういません。だけどそれにしても私はその出来なさ加減の度が過ぎているように思えるんです。だから一度、私はADHDなのか知っておきたいんです」
実香は一気にそうまくしたてました。
「そうですか。わかりました。仰る通り大人の発達障害というのはかなりグレーなところがあると思います。実際にADHDだったとしても、その事実を知らないまま一生を終える人もいるでしょう。要するに自分次第だということです。でも仮にADHDだと分かったことで、どうその特性に向き合えばよいのか、どういった配慮が職場で必要になるのか、が分かるという面では一度診断をしてみるのも良いかもしれません。ADHDの診断には国際的な基準があって、それに基づいて検査をし診断がなされます。また小学生のときの通知表のコメント欄を参考にするケースもあるので、病院によっては持参を求められると思います。日本ではこうした大人の発達障害を専門に診ている先生は数が少ないのが現状です。とりあえず紹介状を書いておきますので、そちらに行ってみて下さい」
その後、紹介された虎ノ門にあるメンタルクリニックに電話をし予約をとった。大変込み合っているようで予約が取れたのは三週間後だった。そして長い時間様々な検査を受けた。一週間後、告げられた診断結果はやはりADHDだった。治療は基本的には鬱病と同じように薬によるものが主流だ。ADHD向けの治療薬はストラテラとコンサータの二種類がある。ストラテラは即効性は無く効き目があわられるまでに約二週間かかり安定した効果が得られるまでには二ヶ月近く必要となる。一方コンサータは脳の神経に直接作用するため即効性がある。一方で依存性を生じるリスクも多い。
実香は休職中ということもあり、まずはストラテラから試してみることになった。
今まで自分ができなかったのはこのADHDという脳の発達の障害のせいなんだ。そう言い訳が出来た様で安心した自分がいたことに気がついた。そして怖くなった。これからは何か出来ないときにすぐにADHDだから仕方ないと思ってしまうようになるのかな、と。だから自分に言い聞かせるように呟いた。
〈結局ADHDの診断がついたけれど、病気か病気じゃないかは問題じゃない。サプリメント気分で薬は飲んでいくけれど、規則正しい生活リズムを保つこと、習慣力を磨くことが何より大事だ〉
〈だけどそれでもうまくいかなかったとき、八方塞にならないようにADHDという逃げ道を用意しておこう。そう思えば今回診断を受けたことには意味があったはずだ〉
休職になったときには彼氏がいた。ADHDの診断を受けた後、彼氏にその事実を話した。彼氏は実香の話を最後まで聞き終わらないうちにこう言った。
「それってさ、結局実香次第なんじゃないの」
「えっ、何それ。どういうこと」
「うつとかって言って会社休んだりそのまま居なくなったりする奴、俺の会社にもいるよ」
実香の彼氏は大学三年生からの付き合いだった。彼は家柄もよく優秀だった。外資系投資銀行に内定を貰い日々深夜まで働き時には土日も出勤する日々を送っていた。彼のことは正直言って好きでも嫌いでもない。ただなんとなく学生のときに実香に言い寄ってきた男の中で一番押しが強く、雄としての強さを感じたから受け容れた。ただそれだけだった。彼といると胸が痛いとか、何かを共有できるという感覚は無かった。ただ彼は優秀だったし、見栄えも悪くなかったから友人達からは羨望の眼差しを得ることができた。
「そういう奴ってさ、自分の能力が劣っていることに直面した時、その事実を受け入られなくて。努力ではどうにもならない病気や障害っていう言い訳を手に入れて安心したいだけなんじゃないの」
「私のこともそう思っているの?」
「いや、実香はそっち側の人間じゃないだろって言いたいだけ。今はおかしな波に呑み込まれそうになっちまっているだけだって言いたいだけ」
この人はきっと未だ挫折を知らない。そして人の痛みが本当に分からない人なのだ。そう考えたらおかしくなってしまった。私自分のこと可哀想って思っていたけど、今私は彼のことを可哀想だと思った。けして偉くも何とも無いのに彼のことを可哀想だなんて上から目線で形容しようとしている。なんておかしい話なんだろう。もうどうでもいいや。
「そうかもね。ちょっと上手くいかないからって自分を見失ってただけかもしれない」
「だろ。俺の言う通りにしていれば万事上手くいくよ。S商事の面接だって俺のアドバイスがあってこそ通っただろ」
確かにあの時、彼のアドバイスがあったから就職活動は結果的に大成功に終わった。「実香は無難なんだよ。容姿端麗でそこそこ真っ当なことが言える。だけど面接官も人間だろ。つまんんあいんだよ。もし二重丸、丸、三角の三段階評価があったら全員丸をつける感じ。でもさ、人間ってのは欠落が何か無いと不安になるんだよ。だから誰かが三角つけても、誰かが二重丸つけてくれるようなそんな感じのほうが実は通るんだよ。下品な言い方をすれば良い子ちゃん、優等生は必要ないってこと。だからさ、ありきたりな事をいうのはやめて、自分のめんどくささとかこだわりとか出してみたらいいんじゃない」
彼が言っていることは的を得ていた。だけど彼自体はどうだろう。あなたこそ良い子ちゃん、優等生でしかないんじゃないか、と実香は正直思ってしまった。
「それよりさ、早くしようぜ」
彼はそういって実香の服を乱暴に脱がせた。彼との情事はいつも彼の自己満足に終始する。実香はそれをどうでもいいと思っていた。彼がそれで満足するなら従えばいいと。だけど今日はなんだか気が向かない。
「ごめん、今日は駄目な日」
嘘をついた。彼は何も疑わず、
「そっか、そりゃ残念」
そう言って、軽く口付けをして、煙草を吸いに行ってしまった。
彼は外資系投資銀行で数年勤めた後は、総合商社に転職して緩く高収入を得る生活を送るんだといっていた。確かに外資系投資銀行での激務に比べれば総合商社の仕事なんて呑気なものだろう。そして恐らく彼は私を家庭に入れたがる。きっと共働きという選択肢は彼の中にはないだろう。実香が今いる場所を求める女の子は世の中には沢山いるだろう。私は多くの女性の羨望の中にいる。だけどなんだかひどくつまらないな。虚しいだけだ。私はこのつまらない関係に終止符を打とう。そう決めた。
ADHDの診断を受けて少し色んな本を読み漁ってみたけど、結局のところ、その人がその特性を気にするかどうかだ。冷静に考えてみれば自分よりも出来ないことが多く怒られまくっているけれども、なぜだかたいしてへこまず開き直ってる子もいる。異常なメンタルのタフさとキャラで乗り切っているのだ。彼はきっとこの先ずっと、自分は発達障害なんじゃないか、と疑うことも無く生きていけるのだろう。つまるところ万事自分次第なんだ。こんなとき麗ならどんな風に考えるのかな、とふと思った。大学を卒業して以来、三ヶ月に一回くらいの緩い頻度で連絡を取り合っていた。彼女は宣言したとおり、地元愛媛で市役所に勤務する男性と結婚し子を儲けて幸せに暮らしているそうだ。よし、彼女に会いに行こう。そう決めた。
「麗、明後日麗の家に行ってもいい?」
「いいわよ。大歓迎。楽しみにしているね」
麗はどうしたの?なんかあったの?とかそんなつまらないことを聞く人ではなかった。だから今の私には彼女が最高の処方箋になる。そんな気がした。
「可愛い!本当可愛い!」
麗の子供は本当に可愛かった。目がクリッとしていて、時折えくぼらしきものが覗く将来絶対美人になるに違いない。名前は彩だという。
「私、麗なんてハードル高い名前つけられて苦労してきた。だから無難だけど自分の名前を誇れるような名前にしてあげようって思ったんだ。ありきたりかもしれないけど彩り豊かな人生を歩んでくれたらいいなって思って」
麗には怒涛の勢いで社会人になってからの色々をかいつまんで話した。時折、麗はクスッと笑ってこう言う。
「実香ったら全然変わってない。なんていうのかな。クソ真面目で不器用。でもやっぱり私の大好きな実香のままだ。実香はそれでそのままでいいと思うよ。ごめんね、わざわざ愛媛まで来てもらったのに大したアドバイスも出来なくて」
話すだけで心が晴れやかになっていくのが分かった。
〈やっぱり来て正解だった〉
心療内科の先生と相談して半年後の春、入社三年目になろうとしていた春に職場復帰することになった。
休職明け後は人事と相談の上、新たな部署に異動になった。
異動先の部署は忙しいけれどまだ前の場所に比べればお互いを思いやる余裕はありそうだった。それでもやはり忙しいことには変わらなくて。ここでも時々パンクして休職になってしまう人はいたと聞く。
多分仕事をしている大多数の人が余裕が無くて毎日しんどいんだろうけど、それでも自分のことは横に置いて、少しでも周囲を気にかけることが大切なのかもしれない。皆が皆自分のことだけやっていたら破綻する。それは一見効率の悪いことなのかもしれないけど、部署の雰囲気が良ければ情報も共有しやすく、思い切った意思決定もできる。何より休職者や退職者も減ることで、人手が安定する。
それは入社三年目の夏のことだった。同じ会社の入社二年目のある女の子が自殺した、と知った。彼女は浪人して東京大学を経て入社したから、年次では下だが同学年だった。
お盆休みが明けた月曜日のことだったそうだ。二日後の水曜日、社内に関して情報通の同期とすれ違いざま、ちょっと今いい?と手招きされた。非常階段の踊り場で事の次第を聞いた。会社側は本件を社員に通知する気はないらしい。
実香とは全く別の部署で接点も少なかったから、入社時の新入社員歓迎会で少し会話を交わした程度の存在だった。それでも衝撃的だった。
自分と同じように同じ場所で働いている同年代の若い女性が自ら死を選択したという事実。
少し会話を交わしただけだけど、明らかに頭の回転が速く私は彼女のような切れ者達といつか競争していくのかと、思ったことは鮮明に覚えている。明らかに自分よりも秀でていた彼女が何故?
途端に気持ち悪くなってお手洗いに駆け込んだ。
社内通の同期からは後でメールが来ていた。
「さっきは大丈夫だった?ごめんね、いきなりショッキングな話しちゃって。少しタイミングを考えるべきだったかな。繊細な実香ちゃんのことだから感情移入しちゃうかもしれないけど。彼女には申し訳ないけどあまり考えない方がいいよ。考え出したらキリが無いから。考えて考えて突き詰めてしまったらそれはもう発狂するしかないと思う。こんな私でも怖くなった。自分の中に抱えたままでいるのが怖くなって。だから誰かに話したくて。ごめん。とりあえずお互いあまり気にし過ぎないようにしよう、ね」
当然同期の中には彼女に近いところで働いていた者もいるだろうから、この話を知っている同期は他にもいるはずだ。
普段だったら、同期の男子がフラれたから慰め会をしようとかそんなどうでもいいことでもグループLINEで連絡が来るのに、この件についてはついぞ誰も触れることは無かった。皆、何かしらの形でこの件を知っていったのだと思うけれど。その後、彼女の事が話題に上ることは無かった。
人の死とは何ともこんなにあっけないのだろう。そして折り合いのつけ方は人によって様々だ。
何が理由か知らないけど自分で死を選ぶなど弱い人間がすることだ。特に実香の勤めるS商事にはそう考える者も社内には多くいるだろう。彼らは小さい頃から競争社会を意識して戦い抜いてきたことを誇りに思っているからだ。
たけど詰まるところは紙一重なんだと思う。順調に出世しても景気の風向きが悪ければ、どこかでポストが詰まって先が見えなくなったり。どんな形であれ人はどこかで挫折を知る。挫折しない人間なんて果たして存在するのだろうか。辛いときにそれでも生きる希望が死んでしまって楽になりたい思いを少し上回った、その結果に過ぎないのではなかろうか。
一方で実香のように意識しないようにと却って意識し過ぎて尾を引くケースもある。自殺した彼女の心情を慮ったり、私に何かできることがあったんじゃないか、そう考えてしまう人間も少なからずいるはずだ。
ねえ、どうして自ら死を選択したの。ねえ、どうして逃げてしまわなかったの。教えてよ。私とっても世界が怖いものに思えてきたよ。どうしたらいい?