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明るい未来のために  作者: 秋桜
9/11

救いの涙


 次の二限目も無事授業を終えた後、千晴が来る前にトイレを済ませておこうと歩は足早に教室を出た。変に絡まれるより千晴と校内散策をするほうが有意義であることは確かで、このときの歩は完全に失念していた。

 

 上級生と顔見知りだったことが、主犯格の生徒たちにとってどれだけの影響を与えてしまうのかを。


 教室の近くにあるトイレに駆け込み、個室に入って用を足そうとした時に、なにやら外が不自然なほどに人が入ってくる音がした。


「?」


 ガタンガタンと歩の入った個室のドアが音を立ててがたつく。外で何人かの笑い声がして、「しまった」と気づいたときには遅かった。


「っ!?」


 個室の天井から何かが降ってきた。それが水だと分かるまでに数秒のタイムラグが生じる。一気に濡れ鼠となった歩の髪の先からは幾つもの滴が落ちた。


 外で歩、いや史也を馬鹿にする笑い声がこだまする。


「史ちゃん、ちゃんと掃除しとけよぉ!」


 ゲラゲラと下品な笑い声が遠ざかるのを感じて、歩は軽く自分の軽はずみな行動にやや自己嫌悪に陥っていた。


 警戒をしていなかったわけではない。ただ一瞬の油断を狙われたのだ。


「冷た……。うわ、下着までビショビショ……」


 濡れた制服が肌に張りついて気持ち悪い。しかも全身に水を浴びたせいで、下着も靴下も全部が濡れてしまった。着替えなんか持ってきていないし、代わりの体操服やジャージは教室。おそらく濡れたまま戻ったところで、体操服とジャージは彼らによってどこかに隠されている可能性がある。


「しくったな」


 思わず天を仰ぐ。とりあえず濡れたものを脱がなくてはならないが、着替えも用意してもらう必要もある。保健室に行けば、なにかしらの対応をしてもらえるかもしれない。歩は脱げる最低限のものを脱ぐと個室から出た。


 個室から出てから、ドアの下を通った水が床を濡らしているのに気づく。彼らの掃除しろの命令はこれのことらしい。


--良い子なんだか、悪い子なんだか分からねぇな。


 人を濡れ鼠にしたくせに、掃除のことまで気を回しているのが子供ゆえなのだろうか。


 どのみち滴を落としている歩には、今掃除をしている余裕はない。濡れたままやれば風邪引くし、床も掃除した先に自分の滴で濡れるのだから本末転倒だろう。


「さて、保健室保健室……」


 保健室に向かおうとした矢先に、歩は固まる。保健室の場所を知らないのだ。職員室と自分の教室、近くのトイレに、教室近くの特別教室ぐらいしかわからない。こんなことなら千晴に保健室の場所を教えてもらうべきだった。


 今更悔やんでも仕方ないので、保健室を探そうとトイレから廊下に出る。


「史也くん⁉ どないしたん、その姿!」


 その瞬間聞こえた声に視線を走らせると、そこには史也の教室へ向かう途中だった千晴の驚いた姿が映った。


 素直にイジメを受けています、とは言いにくくて咄嗟(とっさ)に誤魔化そうにも、良さげなことが浮かばず、曖昧に笑うしか歩には対処できない。


「うわぁ、頭から靴までびしょ濡れやん。はよ保健室行って体乾かさんと!」


 近づいて頭の先から爪先まで観察した千晴が焦ったように捲し立てるが、残念ながら歩は保健室の場所を知らない。これから探しに行くところだ。


「このままやと風邪引いてまうから、はよ行こ」


 ごく自然に千晴は歩の手を握り、先導するように歩き始めた。どうやら一緒に行ってくれるらしい。探す手間が省けて助かった。


 引っ張られる形で千晴の後を付いていくと間もなく保健室にたどり着く。中に入ると、養護教諭が歩の姿を見るや吸っていたタバコを落とした。


--まあ、普通は驚くよな。


 入ってきた生徒が怪我や病気ではなく、ずぶ濡れだったなら誰でも同じ反応を示すだろう。それ以前に保健室でタバコを吸うなよ、というツッコミは喉元で抑えた。


「見ての通りや、やなっちゃん。タオルとか貸したってくれへん?」


 千晴が養護教諭に気安くあだ名で呼んでいるところから、かなりの常連で親しいと認識する。


「千晴が何しでかしたかは敢えて聞かねぇけどな、さすがにそれはどうかと思うぞ」


「うちのせいや思てるん? 誤解やし。うち何もしてへんよ」


 不服そうに口を尖らせる千晴。養護教諭は落としたタバコの火を灰皿で消しながら、改めてずぶ濡れ状態の歩を見た。


「なんだ、遠藤かよ」


 まじまじとさんざん眺めてから、彼はつまらなそうにそう口にした。


--なんだ、この反応。


 養護教諭の言葉に歩は引っ掛かりを覚える。顔を見て史也だと認識できてしまうぐらい、彼は史也を知っているということだ。一年が入学して一ヶ月二ヶ月ぐらいだ。そんな状態で入ったばかりの史也が分かるということは、史也が普段から保健室のお世話になっていた、という結論にたどり着く。


 事故のせいで痣や傷口ができたのかと思ったが、どうやら史也は日頃から暴力も受けていたらしい。


--暴力を受けていて、それでも親に悟らせずに毎日登校していた……か。


 今、歩が受けているのはごく一部の被害だと実感する。たぶんこれから、より酷い仕打ちを受けると思って覚悟をした方がいいかもしれない。


--史也は毎日どんな気持ちで学校に通っていたんだ。


 学校には味方はいない。


 それでも逃げないで学校に通うのは、どれだけの勇気が必要だったのだろうか。


--たった一人で、ずっと闘ってたんだな。


 理不尽な暴力から。


 見て見ぬふりをする周りから。


 歩は、死を選んでしまうまで一人で抱え込んで追い詰められていた史也を思い、胸を痛める。


 知らなかったとはいえ、助けてやれなかった自分がとても腹立たしくも感じた。


「史也くん?」


「!」


 声をかけられて歩は現実に引き戻される。罪悪感から心配そうに覗き込む千晴から視線を逸らして、養護教諭を見た。


--この男なら、史也がイジメを受けているのを知ってんじゃないのか。


 顔見知りになるぐらいに、史也が頻繁に保健室の世話になっていたなら、毎回傷だらけでやってくる史也を不審に思うはずだ。


--知ってて目を(つむ)っていたなら、こいつも同罪だ。


 史也を助けてやることができたはずの存在。なにも行動をしてこなかったかもしれない存在が目の前にいて、歩の心の中は怒りに満ちていた。


「うわ、すげぇ睨んでんな。俺何かした?」


「うちに聞かんといてぇや。うちかて分からんもん」

 

 歩の怒りに身に覚えのない養護教諭は、隣に立つ千晴に答えを求めたが望んだ答えは返ってこず、小さくため息をつく。


「とにかく。遠藤、そのままじゃ風邪引くから着替えろ。予備の体操服貸してやるから」


「……はい」


 怒りを抑え込んでから歩は静かに返事をし、指された場所から体操服を引っ張り出す。


「うちは一旦外に出てるな」


 異性の生着替えを見ないように千晴はそう言って足早に保健室から出ていった。


 歩は体操服をベッドに置いて、その場で濡れた制服を脱ぎ始める。一応カーテンだけは引いてから。


「遠藤、今度は盛大にやられたな」


 保健室内に歩しか生徒がいないと分かっていての言葉に、思わず上半身裸のままで動きを止める。


「やっぱりよ、養護とはいえ教師としては遠藤の状況は黙ってられねぇよ俺は」


--どういうことだ?


 話が見えなくて歩は返事できずにいた。


「遠藤が自分でどうにかするって言ったから、今まで目を瞑っていたけどよ。さすがにホームから落ちるところまで追い込まれてるのは見過ごせねぇ」


--まさか何もしなかったんじゃなくて……、史也から止められたのか。


 冷静に考えれば、頻繁とはいかなくてもちょくちょく保健室に現れる傷だらけの生徒を気にかけないはずはない。話を聞いたら、やはりイジメを受けていた生徒。学校や自分の保身に走るような人間でなければ、助けようと思うのが普通だ。


--史也は味方がいなかったわけではなかったのか。こんなにも心配してくれる人がいたのに、それを拒んでまで史也なりにイジメと立ち向かおうとしてたの、か?


 歩の史也という人間像が少しずつ変わっていく。


「遠藤、もう一人でなんとかしようとすんな。大人を頼れ」


 気遣わしげな優しい声が降りかかる。それに歩はグッと拳を握った。大人はアテにならないと勝手に決めつけていた自分を小さく恥じる。


「だったら、あんたは何してくれるんだよ……」


 叫んでしまいそうな衝動をどうにか抑えてた声で養護教諭に問いかける。しかし、彼はすぐに答えてはくれなかった。


「……おまえ、誰だ?」

 

「⁉」


 やや間を置いてから静かに問われた言葉に歩は息を飲む。


「遠藤は俺に「あんた」なんて一度も読んだことはない。ちゃんと「(やなぎ)先生」と呼んでいた。おまえ、誰だ?」


「……」


 そうだ。これだけ史也を心配するぐらいだ、それなりの会話もしていたはず。史也の言葉遣いや態度、雰囲気も知っていてもおかしくはない。


--言って良いのか……?


 他人の精神が入り込んだなんて非現実的なことを。しかも漫画や映画のように入れ替わったのではなく、すでに本人の史也の魂はここに存在しない。元に戻すことは不可能だ。


--俺自身の体は既に骨だしな。


 言って信じてもらえるような内容じゃない。間違いなく精神科に連れていかれるのが目に見えている。


 だけど。


--死ぬまで俺とイザナ以外の全員を騙して生きていくのは正直しんどい。


 罪悪感を一生背負って生きていくのは、並大抵の精神では平気でいられないだろう。


--俺は、誰かに俺がいることを知っていてほしい。逢坂歩がいることを一人で良いから知っていてほしいんだ……。


 本当なら言うべきことではない。そんなこと歩が一番よく分かっている。絶対に悲しむ人が現れるからだ。歩一人が黙ってさえいれば問題はない。歩の精神の安らぎを得るためだけに、していいことじゃないのは分かっている。


--でもよ、世界中で誰にも知られないって、きつい。


 六十億人以上いる人口の中、歩は誰にも認知されることはない。


 それは(すなわ)ち、『孤独』である。


 これから先、歩は史也と呼ばれることはあっても、『歩』と呼ばれることはないのだ。


--いいよな、これぐらい。たった一人でいいんだよ。『俺』を見てくれる人がいてくれるだけで、それで満足なんだ。


 歩は、どこかにいるであろうイザナに問いかけた。しかし彼は姿を見せない。


「黙ってねぇで、何か言えよ」


 押し黙ったままの歩に、(ごう)を煮やした養護教諭が催促する。藁にもすがるような思いで、歩はさらに拳に力を込めた。すでに数日で歩は自分が思っていた以上に心が罪悪感で疲弊している。家でも学校でも、常に「史也」でなければならない環境。休まる場所などどこにもなかった。


 歩は震える唇をゆっくり開く。


「俺は……」

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