それは突然に……。2
ーーそうだ。逢坂歩は俺だ。史也なんかじゃない。
そもそもなぜ病院にいるかも分かっていないのに、史也とか呼ばれても意味が分からない。
「説明するととてもややこしいんだけど、聞く?」
「回りくどいのは嫌いなんだよ。さっさと説明しねぇと警察呼ぶぞ不審者」
「酷いなぁ。これでも僕はキミの恩人みたいなものなのに」
終始相手を頗る不快にさせる男に、歩は本気で殴り飛ばしてやりたいと思った。が、痛みで動けない今、我慢するしか選択肢はない。
イザナと名乗った胡散臭い男はベッドサイドまで近づくと、ちゃっかり置いてあるパイプ椅子に腰を下ろす。
「逢坂歩くん、キミは覚えていないかい? 駅のホームで起きたこと」
言われて歩は記憶を辿る。
放課後に少しでも親の助けをしようとバイトを始めたのが高校入学してすぐ。慣れないながら、短い時間ではあるが充実した日々を送っていたと記憶している。病院の世話になるようなことは……。
「ああっ!」
「ようやく思い出したかな。良かった良かった」
そうだ。
あの日も、いつもと同じようにバイト先に向かおうと駅のホームで電車が来るのを待っていた。ちょっと担任に呼び止められていたせいで遅刻ギリギリになって気が急いていたのを思い出す。早く電車が来ないかと時間とやってくる方向ばかりを確認していた。
ようやく電車が見えて、間に合いそうだと安堵した時だと思う。電車がホームへスピードを落としながらも入って来たと思ったら、視界の端で何か黒い影が通りすぎたのを見た。反射的にそちらに視線を向けて歩の視界に映り込んだのは、今まさに入ろうとしている電車の前に一人の中学生がホームから飛び降りようとしているところ。
『っ!』
咄嗟に体が動いた。自分のことなんか何にも考えてはいなかった。
傾いた中学生の体を抱き締め共に線路に落ちたが、すぐに近くの避難口へと中学生を移動させて歩自身も追うように入ろうとした。その目前に電車が迫ってきたのを思い出す。
「……俺は」
「はい、お察しの通り。電車に轢かれて死んじゃいました」
「でも……」
死んだのならば、なぜ痛みを感じるのか。左胸に手を当てれば心臓だって動いている。
「電車はあの時ホームに入るためにスピードを落としていました。だから轢かれたキミは挽き肉になることは免れたけど、全身を強く打ってしまってそのまま体は時間をかけて朽ちていった」
「……」
「この子の顔に身に覚えはないかな?」
そう言ってイザナはこちらに鏡を向ける。鏡に映っていたのは、自分ではなく他人の顔。しかもそれは歩が命懸けで助けた中学生の顔だ。
「……まさか」
「そう、そのまさかだよ。死んでしまったキミの魂は今、キミが助けた中学生である遠藤史也くんの体にいる」
「な、なんで……」
「ややこしいけれど、至極簡単なことさ。史也くん自身が自分が死んだと思い込んでしまった。そのせいで彼の魂は体から切り離された。魂がない体はやがて朽ちていく。だから体は朽ちてもまだ死んだと思っていないキミの魂を史也くんの体に入れた。これが真相だね」
胡散臭い男、イザナの言葉に信憑性がないとハッキリと言い切れないのは、現実歩が史也の体を動かしているからだ。全身が痛いのも軽い衝撃による打撲からだろう。
途方もない話に歩は頭を抱える。そんなことが現実にあるのだろうか。しかし、見知らぬおじさんおばさんが本当にこの遠藤史也という中学生の両親ならば、二人の反応も頷けるところが多々ある。
「本来のキミの体は明日、荼毘に臥される。育ててくれたお母さんに別れを告げるなら早い方がいいよ。ただし、それは歩ではなく史也として生きる為だ」
「ふ、ふざけんな……。そんな……急に……」
動揺が隠せない。確かにこの体は脈打ち生きているのに、自分ではなく他人のもの。自分の死を受け入れることすらできない。それなのにいきなり他人に成り代わって、親と別れろと言うのはあまりにも残酷に聞こえた。
「僕は一旦帰るよ。また会おう、歩くん」
イザナは静かにそう告げて、まるで空気に溶けたように姿を消したのだった。
目の前で起きたことに、あの胡散臭い男の話が真実味を帯びる。幻覚とか妄想でもしていたのか、なんて考えが過ることもあったが、そもそも歩にそんな妄想力はない。むしろ自分が死んで他人の体に入るなんて妄想、普通ならしない。
歩は徐にため息を吐いて、改めて自分ではない他人の手を見つめた。普段から自分の手を見る習慣はないが、手短に他人だと理解するには手の形や手相、肌の色で充分だ。近くに鏡があるわけでもない。歩は記憶の中にある自分自身の手と比べてみたが、なにもかもが違った。
ーーお、生命線長ぇ……。
なんとなく見た手相に、思わずくだらないことを考える。手相に詳しくなくても、生命線がどれなのかぐらいは歩には分かっていた。自分の生命線は変な風に途切れていたのを覚えていたのもあり、目の前にある綺麗に伸びた生命線を見て、やはり他人の体なのだと実感した。
「これからどうすんだよ、俺」
手相から視線を外して、目の前に広がる白い天井を見つめて考える。
遠藤史也として生きなければならない。それはなんとなく分かったが、どうも腑に落ちない。
今まで別に悪さをしたわけでも、親に反抗したこともなく生きてきたのに、この仕打ち。
ーー俺、神様に恨みでも買ったのか?
なんて考えてしまうのも無理はない。電車に牽かれて死なないほうが稀だし、少なくとも歩は死ぬことを覚悟していた。でも死にたいとは思わなかった。母を独りにしてしまうのがどうしても嫌だったからだ。
ーーだからって、これはないよな。俺泣きたくなるわ。
泣かないけど。
とりあえず、この体の持ち主である遠藤史也の両親が戻ってくる前に、冷静に且つ史也になりきる覚悟を決めなくてはならない。
ーーて、そもそも史也ってどんなやつなんだよ。
助けただけの相手のことを知るわけもなく。見た目だけで推測したところでボロが出そうな気がした。そうなるぐらいなら、いっそ素のままの歩として振る舞った方が、面倒な言い訳とかする必要もないだろう。
「あの人たちを親として見れる自信は全くないけどな」
いきなり他人の二人を親だと認識できるほど歩は優しくないし幼くもない。
「当面は探り探りだな」
どう足掻いたところで、現状が変わるわけでもない。自分にできる限りのことをするぐらいしか、今の歩にできることはないだろう。そう自分の中で決意した頃に、史也の両親が担当医を連れてやってきたのを確認した。