それは突然に……。
生まれてこのかた十数年。小学生の時に両親が離婚して母一人子一人の生活をしてきた以外は、これといって不幸と呼べるような人生を送ってきた覚えはない。
一人息子を育てるのに朝から深夜近くまでパートのかけもちをして生計を立ててくれている親を疎ましく思う時期なんてなかったし、むしろ少しでも楽をさせてやりたいと高校には行かないで働くなんて言い出した時は、般若のような形相で怒った後に涙を流されたのには、さすがの彼も大人しく高校に進学を決めた。
遠くから聞こえる名を呼ぶ声。それが自分の名前なのか、他人の名前なのか聞き取ることができない。妙に全身に痛みが走って思うように動かない上に、起きたいという意思とは裏腹に瞼はなかなか開いてはくれなかった。
ーーなんなんだよ、さっきから。
しつこいぐらいに呼ばれている声が、次第に鬱陶しく感じてくる。聞いた覚えが一切ない声は、女性のものだと分かるぐらい。いい加減に黙れよ、なんて言いたくなるのを堪えて、彼はようやく少し自由になった体の感覚を取り戻すように重い瞼を押し上げた。
真っ暗だった視界に光が射し込み、思わず目を細めた。光に慣れた頃、視界いっぱいに知らないおばさんが映って思わず叫びそうになったが、なんとか堪えることができた。
「史也っ、史也! 良かった……良かった……っ」
見知らぬおばさんが急に抱き締めてきて、混乱と恐怖で硬直する。抱き締めるおばさんの瞳から幾つもの雫が伝い、そして落ちていく。
この雰囲気から察するに、感動の再会的ななにかだというのだけは辛うじて理解はできたが、残念ながら抱きついて泣き続けているこのおばさんになんの身に覚えもない。
辺りを見れば、涙を堪えていながらも嬉しそうにしているこれまた見知らぬおじさん。そして自分がいるのが病院のベッドの上だということぐらいだ。
ーーどうなってんだ?
この状況を掴み損ねているのは、彼一人だけのようであった。
「どうしたの史也、どこか痛む?」
なんの反応も見せないのを不思議に思ったらしいおばさんは体を解放すると、心配そうな表情を浮かべてこちらを窺う。
これを伝えていいものなのかは分からなかったが、どうしても気になるので思いきって尋ねてみることにした。
「あの、おばさんたち誰?」
直球。曲がることさえなくそのままに思ったことを口にしたら目の前のおばさんが驚きを隠せない様子で何度も首を左右に振っている。
ーーだから誰なんだよ。
一向に答えてくれない見知らぬおばさんとおじさん。体を震わせて涙まで流し始めた。
ーーなんか俺がいじめてるみたいじゃんか。
腑に落ちない状況の中、視界の端に佇む人の姿があった。まるでどこかの漫画とか小説とかのファンタジーものに出てきそうな神官のような白を基調にしたものを身につけた病院の見舞いにしてはおかしいソレは、こちらの視線に気づくや満面の笑顔を浮かべてヒラヒラと手を振ってきた。
「やっと気づいてくれたね。待ちくたびれて干からびるところだったよ」
その嫌味ったらしい仰々しい言い方にカチンと来ないほうが無理だろう。
「ああ、そうそう。僕の姿はキミにしか見えないからここで何か喋ろうものなら、精神鑑定行き確定だね」
語尾に星とかついてそうなふざけた言葉に込み上げてくる苛立ち。ただでさえ格好がふざけているソレは、ボサボサな茶髪に色眼鏡をつけた怪しい男。即刻警察に突き出してやろうかと思うぐらいには胡散臭い。
「あ、でも。さっき『おばさん誰』とか言っちゃったから少なくとも頭の検査はされるかもだね」
この胡散臭いどう見ても来てくるところ間違えた感が否めない神官もどきの男は、他人事のように笑顔で話す。怒鳴ってその胸倉を掴んでやろうかとも思ったが、いかんせん思い通りに体が動かない。
そんな横でおばさんやおじさんは、「お父さんとお母さんが分からないの!?」とか確認してくるが、本当に残念ながら二人に覚えがないのだ。担当医に確認しに向かった両親らしい男女を見送ったあと、改めて胡散臭い男を見た。
「どういうことか説明しろや」
そう切り返すと、男はようやく茶化したような表情をやめて真面目な顔をする。
「僕の名前はイザナ。生と死の狭間にいる者。死んだ人間の魂を預かり転生させる仕事をしている。簡単に言えば天使みたいなものさ」
今、この男の頭がやはりおかしいことだけは理解できた。
「……で、なんで俺にだけアンタが見えるわけ?」
しかし、今の状況を多分誰よりも分かっているらしいのは、この男イザナだけだ。相手を哀れに思うのは話を聞いてからにしよう。
「それは簡単なことさ。キミがすでに死んだ人間だから」
ーーは?
「キミはすでに死んでいるんだよ。逢坂歩くん」