プロローグ
瞼を閉じると、最初に思い浮かぶ光景がある。
その光景が鮮明に脳裏に焼き付く。
頭から離れることは―――この先永遠にないだろう。
忘れたくても忘れることが出来ない。
僕たちは、この忌まわしき呪縛から逃れることは出来ない。
ただ、その『呪縛』からひたすら逃げ回って辿り着いた場所で茫然と立ち尽くす。
それは自分が無力であること痛感する時間。
自分という人間の力の限界を知った瞬間だった―――。
自分の力の限界を知り、何も出来ず無気力な身体が現実から背けるように無へと向かう。
立っているのもやっとの身体は、吹き荒れる風に当たり今にも飛ばされそうだ。
周りに生えている草木が風に煽られ、音を立てて揺れ動く。
擦れる音が辺りを包み込む。
近くに聳える林立の隙間から降り注ぐ太陽。
幾光年も離れた地球を遥か先から見下ろすように太陽の熱が彼の体に降り注ぐ。
その場で立ち尽くす彼は、静かに一点を見つめている。
彼の足元付近には夥しい量の血が地面を侵食していた。
血の海となった地面に転がっていたのは、彼と同じ形をした人間。
動かなくなった人間達を悲しげな表情で見つめる彼は、何を思っているのだろうか。
しばらくして掠れるほど小さな声で彼は言った。
「またなのか……。また僕は、大切な人達を失っちゃったんだな……。本当に。どうして僕はこんなに弱いんだろう……」
胸が締め付けられる感覚に襲われる。
ギリっと奥歯を噛み締める。
だが、心の奥底から吐き出した憎しみにも近い言葉は誰の耳のも届かない。
「………………………………」
止めとけばいいものを人間は、更に奥へと歩く。
その先に、この場所より悲惨な光景が広がっていることを知りながら―――。
何も考えたくないと思いながら、前へと歩く。
悲しみと悔しさの感情が交互に襲い掛かってぐちゃぐちゃになる。
大量に積まれた死体の一つ一つが彼の足取りをさらに重くする。
まるで直に足を掴まれているような感覚だ。
生者と死者の狭間を生きている気分。
前へ進んでいると、瞼を開けた状態の死体を発見する。
数秒の静止、それだけで世界が止まるかのような感覚に陥る。
いや―――このまま時が止まってしまえばいいとさえ思ってしまう。
「………………………………」
無言で手を合わせ、祈る。
そして、ゆっくりと合わせていた両手を解いた。
ふと、視線を上空へと向ける。
そこには何とも形容し難い黒い雲が浮かんでいた。
雲の形はとても歪で俯瞰的に見れば、不愉快な姿だった。
不愛想とも言うべき雲に―――だが、その歪な雲はどこか芸術的だった。
例えるなら親とはぐれた子供のように自由を求めて空に浮かぶ。
そんな見えるはずのない光景が自然と浮かんでくる。
視点を変えて見れば、雲は自由気ままに泳いでいるようにも何かから逃げているようにも見えた。
それこそ現在の状況を一瞬でも忘れさせてくれるくらいに儚くて愛おしい。
彼の顔は、どこか柔らかい雰囲気に変わった。
笑っているわけではないが、何かを悟ったような表情をしている。
浮遊する雲の姿に数秒の間、目を奪われていると―――
「おーい、潤‼そろそろ出発の時間だぞー‼」
どこからともなく聞こえてきた自身の名前を呼ぶ声に反応する。
少し怒気の混じった声で潤と呼ばれた青年―――清水潤は、声のした方へと振り向く。
視線の先にいたのは、自分より少し背丈の高い黒髪の青年。
彼は、潤に向かって手を振っていた。
しかし、潤が自分の方へと来ないことが分かると、彼の方からこちらに駆けてくる。
潤の近くまで来ると、少し青味のかかった瞳が自身の目を見つめてくる。
彼は全身を黒緑色で作られた特別仕様の特攻服を身に纏っていた。
声を掛けた青年は、さらに潤へと詰め寄っていく。
「潤‼聞いているのか?もう出発の時間だぞ。皆が待っているぞ‼」
名前を呼ばれ、初めて口を開く。
「ごめんよ蓮。気が付いたら、皆とはぐれていたみたいだ」
いつも通り彼の名前を呼びつつ謝る。
潤の目の前にいるのは、柳蓮。
彼の髪は重力に逆らうように上に向かって掻き上げられていた。
「全く……。潤は気が付いたら、一人で行動しているな。単独行動は危険だと教えられたろ」
「ごめんよ。ボーっとしていたみたいだ」
どうやら潤の心配をしていた蓮。
不機嫌そうな顔をしたのもつかの間。
潤の傍にあった死体を見て顔色を変える。
「なぁ、潤……。そこにいる奴らって―――」
「…………………………」
潤は、無言だった。
有無を言わさない雰囲気に蓮は思わず息を呑む。
しばらく互いに沈黙が続いた後、
「多分、懸命に戦ったんじゃないかな……?」
潤が少し言葉を濁しながら答えた。
疑問形の回答。
彼にはそう答えるしかなかった。
明確な言葉なんて口に出来なかった。
何故なら、彼には確信がなかったからだ。
地面に転がっている者達は、潤と一緒にこの場にいた訳ではない。
彼らは―――潤が来た時には既に地面に転がっていたのだ。
後から駆け付けた潤に、一体何が原因でこのような惨状になったのかは理解することが出来ない。
想像は出来るものの、それらは全て予想に過ぎない。
だから、潤は自分の口から出た言葉は妥当だと思った。
そう―――思っていた。
「そうか……」
潤の濁した答えを聞いた蓮は、一体何を思ったのか。
次にはその死体に近づこうとするが———
潤がその行く手を制して彼の服の袖を掴み止めに入った。
「……どうした?」
「ダメだよ蓮。君は優しすぎるから……。今より近い位置で彼らを見たら、きっと、君は……いつか人が殺されていくのを見るのが耐えられなくなる」
「……」
潤の言葉を聞いた蓮の体が痺れたように止まった。
それは反射的な行動なのか。
自分は―――柳蓮のことをよく知っている。
彼の良い所も悪い所も。
そして、誰よりも他人のことを考えているということも。
故に蓮の想いも感情も感じ取ることが出来る。
だからこそ―――彼は止めた。
この惨状を受け止めるのは、自身だけで十分だ。