凪国国王は、知古の少女を思い出す
愚かな思いの結末は--。
暴走した結果の、報われなかった恋です。
苦手な方はご注意を。
磨かれた大理石の床を鳴らす足音が近づいてくる。
萩波が顔を上げれば、少し離れた場所に見覚えのある相手が居た。
こちらを見てすぐに、相手は足を止めた。
距離にして、大股十歩程。
「どこかで見た顔だと思えば、キミかぁ」
「これはこれは--偉大なる炎の列強十ヵ国が第一位の国王陛下ですか」
「それはこちらの台詞だよ。水の列強十ヵ国が第一位の国王陛下」
水の列強十ヵ国が第一位の座を占める水の大国--いや、帝国と言うに相応しい強国--凪国の王である萩波に彼は薄い笑みを浮かべた。
その笑みは、どこか嘲りを含んでいた。
浅黒い肌に、燃えさかる炎の瞳と、後頭部で一纏めにした腰まで伸びた鮮やかな朱金の髪。
すっきりとした鼻梁と顔立ちからなる妖艶な美貌は、絶世の美女と言う名にふさわしい。
しかし、その引き締まった身体はどれほど蠱惑的だろうとも、中性的だろうとも、女性のそれとは違う。
どこか東洋系の顔立ちは、彼が血を引く古代王国が原因か。
ただ、産まれながらに王者の素質を持つ彼は、時代が時代なら一大帝国の皇帝として在っただろう--。
いや、今もそう変わらないか。
彼は自分の力で、今を手に入れた。
自分の力で、彼はこの炎水界における炎を司る国々の第一位の帝国--『焔帝国』を率いる。
凪国と焔帝国--。
本気でぶつかれば、双方揃って滅亡する事は確実だ。
だから、彼はどんなにこちらが気にくわなくても仕掛けては来ない。
そして、自分もそれが分かっているから静観という手段を取っている。
「奥方はお元気で?」
「ええ、とても。それが何か?」
「--いや」
そう言って少しだけ視線を逸らした相手に、萩波は口を開いた。
「言っておきますが、果竪はただ願いを叶えただけですよ」
「……」
「貴方に苛められ、枯れかけていた花を見つけたのは本当に偶然。ですが、その後の果竪の行動は、彼女がそう望んだのです」
ぶわりと、相手の怒りの気配が大きくなる。
「そして彼女は、当然の事を願ったのですよ」
「とう、ぜん、だと?」
「ええ--そもそも、何を怒るのですか? だって、最初に彼女を捨てたのは貴方でしょう?」
目を見開く相手に、萩波はクスクスと笑う。
「それとも、何ですか? あれだけの大喧嘩をして、殺し合いの末に貴方は部族の半分を引き連れて独立した。にも関わらず、貴方は数百年もすれば、めちゃくちゃに傷つけた相手に近づき、何をするのかと思えば、彼女を嘲笑い馬鹿にし傷つけた」
「ちが--」
「違う? 違うとはどういう事でしょうか? ええ、彼女に対して『キミなんて大嫌いだ』とか『キミの事を好きな相手なんて誰も居ない』とか言うのが、果たして傷つけていないとでも? うちの国なら、簀巻きにされて海溝に投げ捨てられますね」
「っ……」
「そればかりか、貴方は彼女を孤独に追い込んだ。貴方は誰よりも知っていた筈。貴方達がそうであるように、彼女だって『番』が必要だった。それを、貴方は全て奪っていった。奪われれば、彼女にあるのは地獄の苦しみだと分かっていた筈なのに。貴方は一体どうしたかったのですか?」
萩波は淡々と、相手に問いかけた。
「あのままでは暴走していたでしょう。でも、彼女の力を治めてくれる相手は誰も居なかった。だから、彼女は縋るしかなかった。果竪に--」
相手が、強い力で萩波を睨み付ける。
「貴方の故郷である『古代王国』は本当に厄介ですね。力を追い求め、その結果、子孫に大いなる力を授け、そして逃れられない災いを背負わせた。貴方は良いですよ。貴方も、貴方の仲間達--『焔帝国』の上層部も。でも、彼女はそうでは無かった。彼女が平気に見えていたなら、それは彼女がそう見せていたから。そして、彼女の様子に果竪は気付いた。だから、果竪は彼女に手を差し伸べた。彼女達部族を我が国に滞在させたのも、無用な暴走で世界が傷つくのを防ぐ為」
萩波はしっかりと相手を見据えた。
「そして誰よりも彼女自身がその力に怯えていた。だから、彼女は果竪に願ったのですよ」
どうか、私を--
「お前だって」
「はい?」
「お前だって! 自分の妻をあそこまで追い詰めたのは貴様だろうっ!」
「--ええ、そうですね」
そして彼女は眠りについた。
そう……果竪が、眠らせた彼女の様に。
しかし、彼女は果竪は違って今も眠り続けている。
膨れあがり、暴走寸前となり、それでも押さえつけ壊れゆく自分という脅威から世界を、彼女の愛したものを守る為に--。
憎しみの目でこちらを睨み付ける相手に、萩波は溜息をついた。
「同族嫌悪って言葉、知っています? あれですね」
取り返しの付かない所に行き着くまで気付かない。
そして、失ってから気付くのだ。
萩波はどこまでも自分と似ている相手を見つめた。
全てに恵まれた男。
そう--恵まれていた。
少なくとも、今世では。
なぜなら、彼女が守り抜いたから。
彼が、彼らが独立するまで。
そう--誰よりも強い光を宿した彼女を思い出し、萩波はそっと目を伏せた。
★
萩波が彼女と出会ったのは、暗黒大戦が終結して百年ほど経った頃の事だった。
何というか、最初からインパクトがありまくりだった。
「……山賊?」
「誰が……山賊だ? あぁっ?!」
キツイ眼差しで凄む相手は、正しくその筋の神に違いないと思った--と、後に萩波の側近達が言った。
萩波が、数神の部下を引き連れその国を訪れたのは、いわば仕事の為だ。そして、その国と隣国の国境付近で魔獣の集団に襲われた。
まあ、ここら辺は魔獣が多く物騒だと言われていたので、たいして驚く事なく『処理』に当たろうとした。
が、そんな萩波達を制する様に目の前の魔獣の首が後ろから切り裂かれ、それは血をまき散らしながら地面に倒れていった。
そして返り血を浴び、こちらを鋭い眼差しで見つめる相手に萩波が「山賊?」と問いかけてもある意味仕方が無いだろう。
そもそも、身につけている衣服は軍の物ではなく、どこかくたびれた感じの衣だった。その姿を見て、「軍の方ですね?」とは口が裂けても言えない。
あと、そんなに口の悪い軍属が居るだろうか
と考え、萩波はその考えを改める事にした。口の悪い軍属を思い出したから。
とはいえ、こちらを睨み付けたまま仁王立ちをする相手に、萩波は顎に手を当てて考え込んだ。
「とりあえず、私達は助けられたという事で良いでしょうか?」
「あ? --まあ」
別にお前の為じゃないからな、お前の為じゃなくて俺の為--とかなんか五月蠅いので聞かなかった事にした。
「じゃあ良いですね、良いでしょう、私が決めました」
「お前、それ聞いてないだろ? ってか、俺に対しての質問の意味がねぇじゃねぇかっ」
相手の言葉を無視し、萩波は薄く笑みを浮かべて頭を下げた。
「助けられたならば礼を申し上げなければ。助かりました、ありがとうございます」
そう言って、萩波は頭からすっぽりと被っていた薄いヴェールを外す。周囲から息をのむ様な音が聞こえたが、萩波は構わなかった。
露わになったその美貌を前に、相手は--。
「ふぅ~ん、綺麗な顔」
そう言った後に、その相手はニヤリと笑った。
「めちゃくちゃにしてやりたい」
手に持った刀を抱えて血塗れで笑う。
その言葉がどこにかかるかを理解した萩波は、吹き出した。
「くっ! あははははははっ!」
「あんだよ」
訝かしげにこちらを見る相手に、萩波は涙をぬぐった。
「この顔を見て、その感想。いやいや、貴方は貴重な存在ですね--とても」
なぜなら、めちゃくちゃにしてやりたい--は、妖しい雰囲気漂う方ではなく、純粋にボコボコにしてやりたいという意味。つまり、殴りたいと言っているのだ、この相手は。
たいていの者達が、萩波の顔を見ればその美貌と色香に頽れてしまう。それこそ、凪国の上層部達も最初はそうだった。
しかし、目の前に居る相手はそうではない。
ごくたまに、そういう者達が居ないでも無かった。
だが、こんな風な反応をされるのは初めてだった。
「いやはや、その強さといい、口調といい、貴方は本当に面白い方ですね」
「笑うな!」
顔を真っ赤にする相手に、萩波は笑いを堪えながら言った。
「確かに。女性を笑うのは男として最低ですね」
そう言った萩波に、周囲の空気が凍り付いた。
「……おん、な?」
「ええ、どう見ても女性でしょう」
血にぬれたショートヘアーは、一見すれば男性にも見える。見えるが、どう見ても女性だろう。まあ、体付きは貧相なもやしを思わせる所もあるが。
「誰がもやしだっ! あと、俺が女で悪いかっ!」
ゲシッと、萩波ほどではないが、麗しい男の娘である萩波の側近--最も近くに居た男を蹴りつけた。
その見事な足捌きに、他の側近達から「おぉ~」と歓声が上がった。
「すげぇ!」
「女王様だっ!」
というか、相手もそんな反応を返されるとは思っていなかったらしく--結構引いた。
「なんだ、この気持ち悪い集団っ」
「誰が気持ち悪い集団ですか」
そんな出会いだった。
「ああ、お久しぶりですね」
「げっ、また来た」
あの出会い以来、萩波は彼女に時折会う機会に恵まれた。
何度目かで彼女は『密花』と名乗った。もちろん、萩波は知っていた。彼女が、あの魔獣の多く発生する危険地帯で萩波達の護衛として、あの国の女王に派遣された者であったから。
彼女、いや、彼女の部族はその危険地帯に住んでいた。
「相変わらずですね、貴方も」
「うるせえな。ってか、奥方が居るのに、他の女に声をかけてていいのか?」
厭な笑いをする密花に、萩波はからからと笑う。
「おや、私と噂になるとでも?」
「なったらどうすんだって言ってんだよ!」
何気に心配してくれているようだ。
しかし、救いの手?は別の方向から来た。
「いや、陛下は十二で果竪に手を出した。だから、二十歳を過ぎた密花は年齢制限でアウト」
側近に一撃入れて黙らせれば、密花が悲鳴をあげた。
「おまっ! 十二で手を出すって--いやいや、何側近を殴ってんだよっ」
「殴られる方が悪いのです」
「お前は暴君かっ」
「優しいだけでは国は治められませんから」
萩波がそう言えば、密花はキョトンとする。
けれど、次第にクスクスと笑い、終いには笑い転げた。
「は、はは、あははははははっ! そう、そうだな! 確かに優しいだけじゃ守れねぇよ」
「貴方もそうだったからですか?」
萩波の問いに、密花の笑いが止まる。
「……さあな」
ぷいっと背を向けた密花は、そのまま萩波達を残して歩き出した。
その頃、萩波は密花に関する色々な話を聞いていた。
彼女が、大戦が起きるよりも遙か昔に滅んだ『古代王国』と呼ばれる亡国の末裔である事。そして、彼女はその王国が滅びる時に、小さな血の繋がらない少年を連れて逃げた事を。
彼女は小さな少年と義理の姉弟となり、同じように戦火に焼け出された者達を連れて逃げ続けた。
彼女は幼かった。
けれど、強かった。
まだ、十代半ばでありながら。
彼女は小さな弟を守る為に戦い続けた。
寄り集まった者達は個神、家族単位と様々だったが、それは後に一つの部族となった。
彼女はその部族の頂点である族長となり、部族を先頭に立って守り続けた。
彼女にとって災いとなったのは、部族の半数が俗に言う美男美女、男の娘と呼ばれる者達だった事だろう。
彼らは美しかった--いや、美し過ぎた。
それこそ、多くの権力者達がその身柄を狙っては手の者達に襲撃させてくる位には。
彼女は戦った。
刀を手に取り、体中傷だらけになって戦った。
次第に、彼女と共に戦える者達も出てきたが、彼女は部族の者達を殆ど戦いに参加させなかった。
確かに美しい者達が前線に出れば、即座に狙われ連れさらわれるだろう。
だから、彼女は彼らを決して戦いの場に出さなかった。
代わりに、そういった権力者達にも奴隷商神達にも、金持ち達にも全く相手にされない--部族の残り半数達--平凡とされる者達が彼女の後ろに付き従った。
彼らは命は狙われても、略奪対象にはならない。
彼女は実によく戦った。
それこそ、一流の武神も驚きの戦いっぷりだったと言う。
元々、そちらに才能があったのだろう。
彼女は部族を愛し、守った。
部族もまた、彼女を愛した。
彼女にとって、部族は宝物だった。
でも一番の宝物は、彼女が一番最初に連れて逃げた血の繋がらない弟だった。
年頃になり、成神しても、彼女は女の喜びとは無縁の場所で、刀を振るい、彼女の宝を奪おうとする者達と戦い続けた。
血にまみれ、傷だらけになり、それでも彼女は幸せだった。
その、運命の日が来るまでは--。
それは少しずつ……いや、確かに少しずつだが、それでもしっかりと声を上げていた。
誰よりも彼女の側に居た弟は、遂に決別を姉に突きつけたのだ。
俺は自由になりたいんだ
小さかった弟は気付けば彼女よりも大きくなり、そして彼女の手を振り払い出て行った。
志を同じくする者達と共に。
それは、後に炎の列強十ヵ国の第一位たる国家の上層部となり、彼に付き従うのだが、その時の彼女にとって大切なのは、そんな事では無かった。
全てから拒絶され、誰にも受け入れられなかった彼女が初めて手に入れたたった一つの宝物。
彼が居たから、彼女は他の者達も受け入れられたのだ。
部族が部族として成り立つだけの、多くの者達を。
彼女は怒り狂った。
そして嘆き悲しんだ。
どうして?こんなにも愛しているのに
彼女の愛は、最も伝わって欲しい相手に何一つとして伝わっていなかった
殺してでも止めるべきだった。
でなくとも、世界に出ればその子は穢れてしまう。
あの子の、あの子達の美しさに多くの者達が欲望を丸出しにして襲いかかるだろう。
世界は汚く非情だ。
どんな手段だって使おうとする。
残酷なのだ。
傷ついてしまう。
壊れてしまう。
だから、だから--。
殺さなければ。
彼女は決意した。
そして、それがもし実行されていれば、きっと大戦、そして大戦後の世界は変わっていた筈だ。
当時は、まだ彼女の方が強かった。
確かに向こうは能力的には高くとも、実戦経験は彼女の方が上だった。
勝つはずだった。
彼女が本気で、全ての情を切り捨てて戦ったならば--いや、殺し合ったならば。
だから、それが出来ずに、彼女が地面に頽れた時に全てが決まったのだ。
彼女は殺せなかった。
それが全てだった。
そうして、彼女は全てを失った。
彼女の手には、もう何も残って居なかった。
いや、守れなかったのだと気付いた。
違う。
最初から、彼女の手には何も無かったのだ。
彼女は気付いてしまった。
弟は彼女を嫌いだから出て行った。
弟は彼女を疎んでいたから立ち去った。
彼女が愛した、他の部族の者達と共に。
そして、愚かで傲慢だった彼女は気付く。
相手の頭を押さえつけるだけで、自分の考えばかり押しつけて。
だから、見捨てられた。
だから、その手を振り払われた。
愛していたんじゃない。
強引に相手を押さえつけていただけだ。
自分の愛は相手を苦しめるだけだ。
だから、愛される筈が無かったのだ。
「もう……誰も……愛したりしない」
彼女は降り続ける雨の中、呟いた。
醜い娘。
何よりも醜く、醜悪だったがゆえに全てに拒絶されてきた。そんな彼女が初めて手に入れた愛しい存在。
彼が居たから、彼女は彼女で居られたのだ。
どんなに手を汚そうと、血にまみれようと、汚泥に沈もうとも。
けれど、もう、どうでも良い。
彼女は再び、一神きりで残った部族の者達を引き連れ旅を続けた。
もう、二度と会うことは無い弟と、分かれた部族の思い出を心に仕舞い込んで。
彼女の涙は誰にも知られる事は無かった。
雨と雷鳴が全てを隠してくれたから。
「どうせ、一神で産まれてきたんだ。死ぬ時だって、俺は一神だろうよ」
彼女は産まれてすぐに捨てられ、一神で生きてきた。
そして彼女は全てを失った。
いや、残った者達も居たのだ。
でも、彼女が最も愛した者に去られた事は彼女にとても大きな心の傷を残した。
彼女は心を閉じなければ生きてはいけなかった。
彼女は心を封じなければ、先に進めなかった。
「なんだよ、そんな辛気くさい顔してっ」
彼女はケラケラと笑う。
その頃、彼女と袂を分かち、その手を振り払って独立した元弟が、炎の列強十ヵ国の第一位--『焔帝国』の王、いや、皇帝として国を平定させる傍ら、元姉の所にちょっかいを出し始めていたと聞いた。
彼女の所で、焔皇帝たる男を見た時、萩波は気付いてしまった。
ああ、だから彼は--
彼女は強い。
心も体も。
そしてその強さ故に、彼女は気付かなかった。
もう、大丈夫だよ--
俺に任せておいて--
大丈夫、何も恐い事はないから--
俺が守ってあげるから--
身体中傷だらけになりながら、それでもカラカラと笑う彼女。
その裏で、己が無力に苛立つ者達に、彼女は気付けなかった。
どうして、どうして分かってくれないんだ!
共に戦いたいと願った者が居た。
痛みと苦しみを分かち合いたいと願った者達が居た。
彼らの思いは一つしか無かった。
彼女は、それを決して許さなかった。
全ての痛みも苦しみも、彼女一神が背負おうとした。
それはどこまでも平行線を辿り、そして亀裂を生み出した。
そうして気付いた時には、その亀裂はもう深い溝となり、埋められる事のないものとなった。
「だから、独立したんですよ」
萩波は、彼女をからかう元弟を遠くに見ながら呟いた。
そして、その瞳に混じる感情に気付き、苦笑するしかなかった。
その頃、萩波は密花の神となりをある程度知るようになっていた。だからこそ、萩波は元弟の狂おしい気持ちに気付いてしまった。
彼女は愛した。
大切な弟を。
大切な部族と言う名の家族を。
でも、元弟は--。
どこで間違えてしまったのだろうか?
ただ、萩波に分かる。
互いに譲れないものの為に、彼らは戦った。
決して譲れない一線。
その為に、袂を分かつ事になろうとも。
姉と呼ばれた存在を捨て、そして離れる事になっても。
「密花」
「ん?」
「貴方の譲れないものは何ですか?」
彼女にもあるだろう。
そして、同じように彼らにもあった。
顔に大きな切り傷を作り、両腕に包帯を巻いた密花。
何でもないように笑う彼女は、萩波の目から見ても。
ならば、彼らの目には一体どのように映ったのか。
萩波の目から見てもそうなら、尚更--。
「俺には部族が居る。俺の守るものはまだある。--それで良いんだ」
彼女は、元弟と会う事が多くなった。
彼女が拒もうとも、それを向こうが許さない。
彼女が滞在していた国は小国で、その国の女王は彼女を守ろうとしてくれた。
けれど、次第に生じた圧迫は、彼女の立場を悪いものへと変えていった。
元弟は、いわゆる『恵まれた存在』だった。
美しさも、有り余る才能と能力も持ち合わせていた。
萩波は彼と共闘した事はないが、遠くにその噂を聞いていた。
その強大な神力は、萩波に勝るとも劣らない。
ただ、萩波の方が神力の使い方が上手く、そして経験もあった。
彼が姉に大切に守られていた分、どうしたって萩波の方が経験があった。
だから、彼は初めて萩波を目にした際に。
「ふう~ん、キミが凪国国王かぁ。で、なんで密花と一緒に居るの? こんなおばさんと一緒に居るなんて、キミもすっごくおかしな神だね?何?もしかして脅されてるの? ああ、密花ってもの凄く凶暴だし、乱暴で喧嘩っぱやいから、それもありえるかも。ごめんね、でももう大丈夫。俺がきちんと言っておくからね」
「ちょっと待て」
密花が何かをぎゃあぎゃあと言っているが、その元弟は気にしなかった。
最初はただの嫉妬だったかもしれない。
それが、次第に暴走を始めたのは、萩波が原因か。
いや、その前--もっとずっと前から、あの元弟の思いは歪に歪んでいた。
「密花?」
「……なんだよ」
少しずつ、密花が苦しそうにするのが増えていた。
最初は、呼吸の荒さ。
それは本当に少しだった。
けれど、次第に顔色が青ざめ、苦しそうに胸を押さえる。
それでも、彼女は何とかなる筈だった。
彼女には、『番』候補が居たから。
彼女の症状こそが、『呪い』。
遙か昔、力を追い求めた『古代王国』は、幾つもの近親結婚、実験やらを繰り返し、子孫にその大いなる力を受け継がせていった。
けれど、次第に力は溢れ、心を壊し狂わせていった。
それを抑える為に産まれたのが、『番』というものだった。
確かに『古代王国』の者達は、大いなる力を受け継いでいた。
しかし、全ての者達が溢れる力をもてあましていたのではなく、逆に全く力を持たない者達が居た。
その者達は、彼らの持つ力をその身に受け止め、そして結晶化して外に排出する事で力をコントロールさせていた。
『古代王国』は力を求めた。
けれど、その裏で、いつかの未来を予測して、秘密裏に行われていた研究。
だから、『古代王国』の者達には二つのタイプが居た。
強すぎる力を持つ『α』。
力を持たず、相手の力を受け止め、その力を結晶化させる『β』。
そして、『α』と『β』は互いに生きる為に『番』と言う名の契約を結ぶ。一度結ばれれば、解除は出来ない。
この契約はどういう風に行われるのか?相手はどうやって見つけるのか?と言うと、何やら本能で分かると言う。
また、『番』となった者達は常に寄り添い、行動を共にする--までは行かなくとも、互いにすぐに連絡が取れる、またはすぐに駆けつけられるようにしているという。
因みに、常に側に居る事もあってか、そんな『番』同士で、夫婦になる者達も居る。何せ、力の受け渡しは『口づけ』が一番上手くいく。そんなのも理由の一つだった。
もし、互いに別の伴侶が居るのに、『番』同士だからと『口づけ』をして力のやりとりをしていたら、そりゃあそれぞれの伴侶達にしたら面白くないだろう。
下手したら離婚問題だ。
実際、愛想を尽かされて出て行かれた--なんていう例もあり、事案になった事もあるらしい。
だからこそ、『番』同士で夫婦になる者達は少なくないのだ。
密花は『α』だった。
そして、残念な事に元弟も『α』。
「残念ですね」
ついつい萩波は口にした。
元弟に、射殺さんばかりに睨まれた。
既に、元弟には『番』が居た。
ともすれば暴走暴走になりそうな元弟を抑える『番』が。
彼女は、元部族の者で、元弟が部族を出る際に付き従った少女だった。
彼女は、最も元弟に相応しいとされていた美しく聡明な少女だった。
たぶん、密花とは真逆の位置に居るだろう。
「苦しいですか?」
「……」
密花は何も言わない。
何も言わないで、耐え続ける。
『番』が居ない『α』に待ち受けるのは、力のコントロール不能による体調不良から始まり、最終的には暴発して死ぬ。
それを防ぐには、『番』が必要だ。
しかし、密花にはそれが居ない。
ただ、緊急避難的なものはあった。
それは、『番』を持つ『β』に力を吸い取って貰う事だ。
『α』が了承し、『β』が受け入れれば、『番』以外の『α』の力を吸い取る事が出来る。
ただ、それは救済措置で根本的な解決方法にはならない。
本当の『番』でなければ、『α』は力を吸い取って貰っても、身体の気怠さは抜けきらないという。それに、吸い取れる絶対量が違った。
だが、密花はそんな緊急避難的な手段さえ無かった。
「キミと『口づけ』をしてくれる相手なんて、居るわけないじゃん」
ケラケラと、天使のような笑みを浮かべる元弟。
けれど、その口からは悪魔のような言葉が紡がれていった。
「それに、キミは『α』だって言うけど、本当にそう? だって、今までそういう片鱗さえ無かったじゃないか」
実は『古代王国』には、『α』と『β』以外に、ごく少数だが『Ω』という者達が居た。それは、『α』や『β』以外の、祖先の呪われた遺産を受け継がなかった者達だ。
彼らは、『番』を必要とせず、力に振り回される事なく生きる事が出来た。なぜなら、彼らにはそんな強力な力は無いからだ。
密花は、『α』も『β』でも無かったのだ--産まれた頃は。
たいてい、その二つのどちらかの特性を持つ者達は、生まれつきなのが普通だった。
だから、密花は『Ω』として、強い力は無いけれど、普通に生きていく筈だった。
なのに、成神してから、彼女は『α』として芽生えた。
そういう例が過去に無かったわけではない。ただ、その多くが『β』となっただけで。
密花は自分の力をもてあました。
苦しむ彼女に、萩波は自分の手の者達を使って、彼女の『番』となれる者を探した。
居た。
なのに、元弟は。
「ん? 彼は『番』を見つけたみたいだよ」
『番』は、本能的なもので相手を判断するとされている。
だからこそ、『番』は『運命の相手』と言われる事もあった。
けれど、ごくたまにその相手が死んでいたり、見つけられない時には、それ以外の手段で『番』が選ばれ、契約が結ばれる。
よりにもよって、あの元弟はそれを実行してしまったのだ。
「ん? 何怒ってんだよ」
「……」
「そんな顔をすると、奥方が怖がるぞ?」
「貴方は、それで良いのですか?」
萩波の言葉に、密花は笑う。
それは力無い笑みだった。
「いいんだ。それに、あいつ、優しそうな奴だからな。俺みたいなのより、ああいう可愛い『α』の方が良いだろう?」
『α』と『β』。
それぞれ、男も居れば女も居た。
『番』には、異性同士も居れば、同性同士でなる事もあった。
密花は静かに笑っていた。
本当に、なんて愚かな元弟なのだろう。
けれど、萩波にはその心の内が分かってしまった。
彼は、密花が『Ω』だからこそ、安心していた。
自分の『番』。本能的に選んだ相手は、密花じゃない少女。
けれど、彼女が居る事で、元弟はかなり落ち着いたと言う。
大きすぎる力は、下手すれば持ち主すらも食らいつくす。
『番』が居る事で『α』は生きていける。周囲を、自分すらを破壊しないで済む。『番』が出来た事で、『α』は愛しい相手を抱き締め、結婚出来た者達も居た。
愚かで、傲慢な元弟。
彼は夢を見て、そして夢に破れた。
密花が『番』を必要とする『α』となれば、彼女は『番』を得ようとするだろう。そしてその隣に立つのは、自分ではない。
自分だって、もう既に別の『番』が居ると言うのに。
いや、彼が『α』となった時点で、密花が『α』となった時点で、彼は『密花の番』となる権利は失われた。
表では笑い、裏では怒り狂う愚か神は、そうして更に歪に歪んで壊れていった。
彼……いや、彼だけでは無い。
彼の周りに居る--上層部達も。
そして、彼の『番』も。
「無くしてしまえば良いの」
元弟の『番』は、元弟と同じぐらい歪だった。
そして、密花への執着は凄まじかった。
それは、彼女が彼女の欲しいものが消え去った時にもう始まっていたのだろう。
『番』は、本能的な--それこそ運命によって決まるとさえ言われている。そして、そんな仲なら当然、夫婦になって当然、いや、夫婦になるべきだという、『番』信仰を持つ者達が居た。それは決して少なくなく、特に美しい『番』同士であれば、それこそ狂信的になる者達だって居た。
彼女が欲しかった青年は、そんな者達の犠牲になった。
肉片一つ彼女の手には戻らなかった。
彼女の心は死んだ。
そして--。
「辛い、苦しい、辛い--」
彼女は、泣きじゃくる。
密花は、萩波にさえ弱音を吐かなかった。
けれど、そんな密花は、『果竪』を前にして血を吐くような叫びを上げた。
「苦しい、苦しいの」
果竪は、そんな彼女の力を受け止め、そして結晶化させていった。
でも、結局果竪は彼女の『真の助け』にはなれなかった。
密花は、怒れば良かったのだ。
元弟を切り捨て、それこそ『番』たる青年を強奪すれば良かったのだ。
でも、それが出来ず、かといって元弟を本当の意味で切り捨てられなかった彼女の未来は、その時点で決まっていた。
彼女は最後まで、元弟に助けを求めなかった。
地面に這いつくばって、哀れにこいねがう事はしなかった。
彼女はどこまでも気高く、そして生き抜いた。
「密花さん--」
止めようと思えば、止められた。
国の国境付近で手をこまねいている、元弟の手の者達。
本当であれば、さっさと外に出してしまうべきだった。
この国が少しずつ侵食され始めた時に。
でも--。
「俺は、居るよ。側に」
そう言って笑った密花。
「いざとなったら、お前からお前の嫁さん抱えて国の外に出す事だってしてやる。ああ、死なせない。死なせないさ、絶対に」
そして
「そんなになってまで、守ろうとした嫁さんだもんな」
そうして彼女は、果竪と出会い、一時の安らぎを得た。
それは彼女にとって、幸せなことだったのか、それとも--。
「密花さんは頑張ったよ」
たった一度だけ使える、『炎水鏡』。
その力をもって、果竪は密花を封印した。
溢れる力に潰されそうになった彼女は、そうして今も自分の力が結晶化した大きな水の入った水晶の柱の中で眠り続けている。
彼女は眠りにつく際、自分の身体を一つの『装置』とした。
それによって、『番』を持たない『α』達は半ば救われる形となった。
「まさか、そういう風にするとは思わなかったですよ」
彼女は自らと、一つの大地を繋いだ。
それにより、彼女の力はその土地に常に供給される事となった。
そればかりか、彼女は『番』を持たない『α』達の力すらも集めた。
何故、彼女がそんな術を使えたのか。
ただ、そのおかげで、その土地は王の力の暴走が起きても消滅する事は無かった。
その土地の名は
凪国と言う。
密花は今も眠り続ける。
凪国王宮の最深部にて。
だから、彼女の元弟は凪国を攻められない。
凪国の土地を傷つける事は、彼女を傷つける事にも繋がるから。