第8話:労働の時間
「で……結局、この有様。まったく、ダブルエッジの団長が聞いて呆れますわね」
「…………」
デクスは指先で勢い良く眼鏡を上げ、目の前で正座している団長を物理的に見下す。
周囲では散乱した本を整理し、その対応に追われる職員たちが血眼になって走り回り、アニキの横では同じように正座させられているリリィが、今にも飛び掛りそうな勢いでアニキを睨みつけていた。
「ふぅ。幸い、散乱したのは観賞用のレプリカばかりでしたけど……一歩間違えれば、死罪級の大犯罪ですわ」
デクスは今日何度目になるかわからないため息を落とし、気だるそうに顔を横に振る。
アニキは辛抱たまらんといった様子で立ち上がり、再び声を荒げた。
「ううるっせえ! 大体てめえがいきなり人のことを氷漬けにしやがるから、こんなことになったんだろが!」
アニキはデクスとの間に十分すぎる距離をとり、吼えるように言葉をぶつける。
デクスは眉をぴくりと動かし、言葉を返した。
「はあ。あのままあなたと私が戦っていたら、間違いなく山火事になっていましたわ。最近は空気も乾燥しているし、風も強く吹いている。火事になどなったら、一体どれほどの人が死ぬことになったか……あなたに想像できますの?」
「ぐっ……! ぬうううう……!」
至極もっともなデクスの言葉に、閉口するアニキ。
いずれにしても今言える事は―――
「ともかく。あなたには何かしらの償いをしてもらいますわ。ただでさえ忙しいのに仕事を増やされて……過労死が出てもおかしくないですもの」
「やはり、そうなるか……」
リリィは頭を抱え、眉をひそめる。
それはそうだ。デクスにも責任の一端はあるにせよ、先に暴れたのはこちらの方。
この件でデクス達が被った被害相当は、アニキ達がなんとかしなければ筋が通らない。
「はああああ!? てめえ、俺たちゃ急いでんだよ! 俺たちは、その、特に目的地はねえけど、とにかく急いでんの!」
「ははは、説得力ゼロだな……」
リリィは疲れたように笑うと頭を抱え、強くなってきた頭痛を押さえこむ。
確かに街に出るよりは目立たなくてすむかもしれないが……アニキを図書館に置くというのは、火薬庫の真ん中でキャンプファイヤーをするようなものではなかろうか。
『一週間……いや三日もあれば、私の胃は荒れ果てるだろうな……』
これからやってくるであろう気苦労を考え、さっそくキリキリとした痛みを腹部に覚えるリリィ。
罪滅ぼしとはいえこんな男を図書館に置くのだから、デクスは相当なギャンブラーなのかもしれない。
「ともかく、あなたにはしばらくここで働いてもらいますわ。力仕事が得意そう……というか、力仕事しかできないでしょうから、蔵書整理でもお願いしましょう」
デクスは指先で眼鏡を押し上げ、まるで雨あられのように言葉を浴びせる。
そんなデクスの言葉に反論しようとアニキが口を開いた瞬間……その鍛え抜かれた両腕は、スーツに包まれた細い四本の腕に拘束されていた。
「てめっ……おわっ!? な、なんだてめえら! 離しやがれゴラァァ!」
「そうはいかないわよ……散々暴れてくれちゃって、私たち間違いなく徹夜よ!?」
「絶対手伝ってもらいますからね!」
どうやら図書館の職員らしき二人のスーツ姿の女性は、アニキの腕をがっしりとホールドし、部屋の外へと引きずっていく。
アニキは体中にさぶいぼを立たせながら、懸命に叫んだ。
「うごあああ! クソがあ! なんでもいいからとりあえず離せあああああ!」
アニキは女性二人に腕を掴まれ、力なく暴れてはいるものの、そこから逃れることはできない。
ある意味では、氷よりも有効な捕え方だろう。
「あの方が女性を苦手としているのはわかっていますからね。まあ、あの様子ならとりあえずは大丈夫ですわ」
「む、むごいな」
苦手とされる女性二人と、アニキはこれから眠れぬ夜を過ごすのだろう。
言葉だけ拾えばうらやましそうにも聞こえるが、当の本人にとっては地獄以外の何物でもない。
「さて、リリィさん。あなたに折り入って、ご相談があるのですが……」
「へっ!? あ、ああ。なんだ? 私に出来ることなら、協力しよう」
突然聞こえてきた声に驚きながらも、平静を保ち返事を返すリリィ。
デクスは少々言いにくそうに口をもごもごと動かすと、やがて意を決したようにまっすぐにリリィを見つめた。
「リリィさん。世界図書館筆頭司書官として、正式にお願いしますわ。この緊急事態を凌ぐため、わたくしの仕事を手伝ってはいただけませんか?」
「へあっ!?」
突然紡がれたデクスの言葉に驚き、ぽかんと口を開けるリリィ。
デクスはため息を落としながら眼鏡を押し上げ、言葉を続けた。
「もちろん身勝手なお願いだとは、重々承知の上ですわ。今回の騒動の原因は、わたくしにもあるわけですし、特にリリィさんにお手伝いしてもらうような義理もありません。ですが―――」
「い、いや、デクス。そもそも私自身手伝ってしかるべきと思っていたのだから、仕事をすること自体は問題ない。ただ私が驚いているのは、君のその肩書きだ」
リリィは自らの頭を整理するように頭に指を当て、必死に事態を理解しようと思考を整理する。
世界図書館の司書といえば、世界中の書籍を管理する“本の守護者”とも言える人物。
デクスのただならぬ様子から、少なくとも司書レベルの人物だろうとは思っていたが……まさか世界図書館のトップである“筆頭司書官”だったとは、夢にも思わなかった。
国家間の会議にすら出席を許されるほどの人物が道端で男を氷漬けにしているなど、誰が想像するだろうか。
「肩書き? ああ、あんなもの、大した意味などありませんわ。他の職員より、処理する書類の量が多いだけです」
「い、いや、そんなことはないだろう」
リリィ自身竜族の国にいたころには知らなかったが、絶対中立都市というのは世界的に非常に稀有で、国家間の関係上非常に重要な立ち位置にいる。
もちろんブックマーカーの町長は別にいるだろうが……実質的なことを言うなら、世界図書館の長であるデクスの方がはるかに発言力が高い。
今更ながらにリリィは、デクスが顔を隠して街道を歩いていたことを思い出していた。
『なるほど。これほどの重役が、顔を晒して街の外を歩いているはずもないか。しかし護衛も付けずに外を歩くとは、少々……いや、かなり不用心ではないのか?』
リリィは曲げた人差し指を顎の下に当て、不思議そうに小首をかしげる。
強固な壁に守られた街中ならまだしも、街道を一人で歩くなどありえない話だ。
それこそ一国の王が、一振りの武器も持たずに山道を歩くのに等しい。
「ともかく今は、緊急事態なのですわ。個人的依頼で不都合なら、ダブルエッジを経由して依頼をかけますが―――」
「ああ、いや、その辺りは大丈夫だ。ダブルエッジという組織は、その辺りかなり柔軟なようなのでな」
『もっとも、柔軟すぎてあの馬鹿のような支部団長の存在を許しているわけだが……』
と少々ブルーになりながら、デクスへと言葉を返すリリィ。
デクスはその言葉を聞くと、ほんの少しだけ眉間の皺を緩めた。
「ふぅ。それは、助かりますわ。正直言って、断られたらどうしようかと思っていましたもの」
デクスは冷たい息を地面へと落としながら、憂いを帯びた表情を垣間見せる。
今後の事務処理や書籍の整理。彼女に降りかかる仕事の量は、常人の想像をはるかに超えているのだろう。
徹夜慣れをしているリリィだが、今宵はなかなか骨が折れそうである。
「さて、それでは臨時職員として登録しなければなりませんわね。“名前:リリィ=ブランケッシュ”“性別:女性”……っと」
デクスは持っていたファイルの中から一枚の書類を取り出すと、その場でサラサラと筆を走らせていく。
『立った状態であれだけ達筆の字が書けるというのも、司書の条件なのだろうか……』
などと考えていたリリィだったが、聞き捨てならない言葉があったことに気付き、声を荒げた。
「!? ちょ、ちょっと待ってくれデクス。今、私のことを“女性”で登録したか!?」
「ひゃいっ!?」
突然大声を出したリリィに驚き、肩をいからせるデクス。
やがて言葉の意味を理解すると、目を見開きながらも返事を返した。
「え、ええ。確かに、女性で登録しましたわ。だってリリィさん、女性ですわよね?」
「…………」
まさか性別がバレてしまっていたとは思わなかったリリィはその場に固まり、フードの影の下からデクスを呆然と見つめる。
デクスは何かを思い出すように目線を上へ上げると、落ち着いた様子で言葉を続けた。
「最初は失礼ながら、エルフの男性かと思いましたが……同族の男性にしては声が細いですし、何より歩き方に女性らしさがありましたもの」
デクスは核心をもった瞳でリリィを見つめ、迷い無く言葉を紡ぐ。
理由を聞けば聞くほど、完璧にデクスが自分の性別を見破っていることをリリィは認めざるを得なかった。
「そうか、なるほど。エルフであるデクスは、当然同族の男性の特徴くらい知っているだろうし、この結果は当然か……歩き方というのはいまいちわからないが」
普段からガニ股で歩いているというわけではないが、別段女らしい歩き方をしているとも思っていない。
まさかそんなところから性別が割れてしまうなど、思いもしなかった。
リリィの装着している“ミラージュマント”は、その影に隠れたものを完全に隠す特殊効果がある。そのため性別がバレることなど、想定していなかったのだが……。
「あら。どんな事情かは知りませんけれど、何なら男性で登録しておきますか? これまでもそういう特殊な事情のある閲覧者の方はいらっしゃいましたし、わたくしが許可すれば出来ないこともないですわよ」
デクスは特に不審がる様子も無く、淡々と言葉を続ける。
その様子に安心したリリィは、小さく息を吐きながら言葉を返した。
「そ、そうか。すまない。では、お願いできるだろうか」
「ええ、わかりましたわ」
デクスはサラサラと筆を走らせ、女性の部分を訂正する。
登録上の性別だけ変更しても、竜族の追っ手を撒くことにはならないのだが……そのことにリリィが気付くのは今日よりずっと後の話だった。