第28話:リリィの奮戦
「ふふっ、まったく、理解に苦しみますよ。そんなことをして、一体何の意味があるのか……」
部屋の地面に剣を突き立てたリリィを、ストリングスは呆れた表情で見下す。
リリィはそんなストリングスの様子など気にも止めず、自分の剣の状態を確認していた。
『ヒビが大きくなっている。耐えられて、あと2撃というところか』
驚異的な握力で握られた柄はリリィの手の形に歪み、刀身はひび割れて、 まだ剣の姿を保っていること自体が奇跡に近い。
だが―――
『だが、なんだ? この感情は。もう何も恐れる必要などないと、胸の奥底から響いてくる、この鼓動は』
視線はブレない。心は逃げない。
リリィの脳裏に、シリルの声が響く。
『ストリングス様に会ったら、伝えてください。“お手伝いできなくて、ごめんなさい”……って。あと、ここに置いてもらって、ありがとうございます……と』
シリルのはにかんだ笑顔が、リリィの心を締め付ける。
楽しい時、嬉しい時、幸せな時、人は笑うという。
ならば、あのシリルの笑顔は、一体何だ?
「私には、わからない。わかろうはずもない。きっと貴様にも、シリルの笑顔が何なのか、わかりはしないだろう」
「??? 何を言っているのかはわかりませんが、笑顔は笑顔です。連続した筋肉運動の結晶ですよ」
リリィの言葉を受けたストリングスはニヤニヤとした笑みを浮かべ、小馬鹿にした表情で言葉を返す。
リリィは突き立てた剣を握りしめ、叫んだ。
「貴様には、貴様にはわかるまい! 永久に続く暗闇の中で、シリルがどんな絶望を抱え、どれだけの涙を抱えて生きているのか、貴様にわかろうはずもない!」
それは私も同じなのだと、そう心に響かせながら、リリィは真っ直ぐにストリングスを睨み付ける。
ストリングスは一瞬眉間に皺を寄せるが、すぐに柔和な笑顔を取り戻した。
「ふう。ま、いいでしょう。あなたのその言葉に、剣を突き立てるというその行為に、一体どんな意味があるのかはわかりませんが……いずれにせよ、私も暇ではないのです」
ストリングスは地面を慣らすように足元の砂を動かすと、つかの間、完全にその場から姿を消す。
一瞬の静寂が、その場を支配した。
「消えっ……!?」
デクスは驚きに両目を見開き、周囲を警戒するが……次の瞬間には鈍く重い嫌な音が、部屋の中に響いた。
「あっ……ぐっ……!」
「!? リリィさん!」
腹部を抑え、その場にうずくまるリリィ。
その横ではストリングスが穏やかな笑みを浮かべながら、その姿を見下ろしていた。
「おや、解せませんね。あなたなら今の一撃、剣で受けることは容易いはずです。なぜそれをしないのですか?」
ストリングスはおどけた様子で顔を横に振り、理解できないと馬鹿にしたような目線を送る。リリィはかろうじて立ち上がると、殺気の篭った瞳でストリングスを睨みつけた。
「貴様に答える義理は、ない……!」
「そうですか」
「っ!?」
再びリリィの腹部に鉄球が打ち込まれ、骨の砕けるような嫌な音が、リリィの体の中を走る。口の端から垂れてきた鮮血は、事の重大さを物語っていた。
「おや、叫び声を押さえ付けるとは、さすがにプライドは一人前以上だ。しかしそれも、いつまで続くか?」
ストリングスは穏やかな笑みを浮かべながら右手をリリィの顔面に向け、鉄球の発射体勢に入る。
奥歯を噛み締め、リリィがストリングスを睨みつけたその瞬間。
デクスが、二人の間に割って入った。
「あっ、ぐ……!?」
「!? デクス!」
二人の間に割って入ったデクスの左肩には鉄球が直撃し、ミシミシと嫌な音がデクスの中を走る。
リリィは初めて動転し、声を荒げた。
「やめろデクス! 私なら大丈夫だ!」
リリィは剣を杖にしながら立ち上がり、目の前のデクスへ声をぶつける。
デクスは気を失いそうな痛みを口の端を噛んで耐え、左肩を抑えながら叫んだ。
「絶対に、嫌……ですわ! わたくしは世界図書館司書として……いえ、それ以上にシリルの友人として、目の前のこの男を許すわけにはいかないんです!」
「デクス……」
震える足で、デクスは立ち上がり、目の前のストリングスを睨みつける。
ストリングスはやれやれと頭を振り、嘲笑しながら言葉を返した。
「やれやれ、デクス女史……あなたはもっと聡明な方だと思っていたのに、残念です」
「気安く名前を呼ばないでください! 汚らわしい……!」
左腕を抑えたままのデクスは、強烈な痛みに表情を歪めながらも、ストリングスから視線は外さない。
リリィは奥歯を噛み締め、途切れゆく意識をつなぎ止めながら、一歩前へと踏み出した。
「だめ、だ……デクス。君にはこれから、やってもらわねばならんことがある……!」
リリィはストリングスとデクスの間に立ち、まるでデクスを庇うように右腕を広げる。
全身に打ち込まれた鉄球のダメージは甚大で、両足と剣の三点で、かろうじてその場に立っているようにも思えた。
「私たちにはまだ、希望がある。もしそれが成った時。君の力が必要なんだ。だから君を、ここで失うわけにはいかない」
「リリィ、さん……」
目の前に立ったリリィの大きな背中を見つめ、デクスは過ぎ去りし日の青空を思い出す。
青く高かったはずの空も、今では無機質な天板が、冷たく暗く遮っていた。
「希望? もしかしてそれは、下で何やら足掻いている男……いえ、男と少年ですか。この二人のことを言っているのですか?」
「「っ!?」」
おどけた調子で核心を突くストリングスの言葉に、動揺を隠せないデクスとリリィ。
ストリングスは愉快そうに笑うと、さらに言葉を続けた。
「ふふっ。歩くとは則ち、”支配する”ということ。地面を踏みにじり、蹂躙し、大地を支配する崇高な行為。それを極めた私が、足元で動く人間を見逃すわけがないでしょう?」
「…………」
意味不明なストリングスの理屈はともかくとしても、その予想が的中していることは事実。
しかし男はアニキの事だとしても、少年というのは―――
『まさか、リース!? ついてきてしまったのか……』
リリィは悲しげに足元を見つめ、リースの身を案ずる。
『……いや。少なくともあの馬鹿と一緒なのは間違いない。問題はないだろう』
何だかんだ言っても、あの団長はリースを見捨てるようなことはしない。
アニキの真っ直ぐな正義感だけは、リリィも認めていた。
しかし―――
『しかし、この男の言っていること……果たして、本当なのか? それとも、戯言か……』
リリィは疑わしそうな視線をストリングスへ向け、事の真意を探ろうと思考を巡らせる。
ストリングスは小さくため息を落とすと、眉を顰めながら言葉を紡いだ。
「ウォーカー家の歩行術とは、ただ歩くだけではない。むしろ“どう歩くか”が重要なのですよ。私は一歩を踏み出すとき、歩行に関する“条件”と一歩踏み出す際の足の角度、比重、速度などの“技術”を全て頭の中で整理しながら、一歩一歩を踏み出しているのです。例えば―――」
ストリングスは2、3度足の裏を地面にこすり付けたかと思えば、一瞬にして砂埃を上げ、その中に自分の姿を紛れ込ませる。
次の瞬間には、リリィの鼻先数センチの場所まで接近し、狂ったような笑いを浮かべていた。
「っ!?」
リリィは体をのけぞらせ、拳を打ち込もうと右手に力を込める。
やがて目にも止まらぬ速さで突き出された右拳がストリングスを捉えるが……ストリングスは数センチ顔を横にずらし、紙一重のところで拳を回避する。
リリィは乱れた呼吸を整え、ストリングスを睨みつけた。
「ふふっ、今の一撃を放つ瞬間……あなたの左足に80%、右足に残りの20%の体重がかかっていた。さらに、足の角度はぴったり90度。そしてこの距離では、斜め下から突き出す拳撃がくる確率はほぼ100%です。既に来るとわかっている攻撃を避けないというのは、逆に難しいものだ」
「っ!」
余裕の表情を浮かべるストリングスを、殺気の篭った瞳で睨みつけるリリィ。
ストリングスはそんなリリィの表情を見ると、視線を逸らし、元の位置へと移動した。
ストリングスはゆっくりと目を閉じ、両手を少しだけ広げると、足裏に神経を集中させる。
そこから響いてきた声に、ストリングスは再びゆっくりと目を開いた。
「なるほど。やはり、あの柱を破壊しようと、そういうわけですか。しかし―――」
「???」
ストリングスは笑いを堪えるように口の中を噛み、挑発するような視線をリリィへと送る。
リリィはストリングスの意図するところがわからず、一瞬呆気に取られるが……すぐにその意味を悟った。
「まさか、失敗した―――のか?」
リリィの顔から血の気が失せ、立っていた両足が、何かの力を失ったように崩れていく。
デクスは咄嗟にリリィの体を支え、ストリングスを睨みつけた。
「そんな。そんなの、嘘に決まっていますわ! あの柱は確かに大きいですが、あの団長なら壊せない大きさではないはずです!」
デクスはアニキの戦闘力と柱の強度を推測し再度考え直すが、やはり あのアニキの攻撃力なら、いかに大きな柱でも壊せないわけはない。
デクスはさらに記憶の糸を辿り、ストリングスの研究室を増築した日の事を思い出した。
『研究室と、それを支える柱。あの時は確か、見知った顔の土木作業員と、人員が足りないということで、外部から作業員を雇って……』
「っ!? まさか、あなた!」
ストリングスは嬉しそうに笑うと、弾むように言葉を返した。
「ぐくっ。お察しの通りですよ、デクス女史。新しく雇った作業員達は、すべて私の息がかかった者……この隠し部屋を建築するのも、柱を設計より太く頑丈にするのも思いのまま。いわばこの世界図書館は、私専用の要塞のようなものなのですよ!」
今頃気付いたのかとでも言いたげに、ストリングスは大声を出して笑いつづけた。
「私が歩行術を得意とし、それを防御に用いているのは周知の事実……ならば足場を崩そうと考えるものが居てもおかしくはない。そんな単純なことに、私が気付かないとでも思ったのですか?」
「ぐ……!」
自身が最高責任者を勤める大好きなこの場所を好き勝手に弄られ、生まれて初めてできた幼い友人を傷つけられた……デクスの心中は今、表現する言葉の思い付かないほど、荒れ狂っていた。
「もっとも、この研究室も所詮は今の研究のためだけに作ったものですがね。人工物である“室内”しかも自然界で言うところの空中に建造された“2階部分”というのは、研究対象として大いに価値がある。まあその研究も、今や佳境に差し掛かっているわけですが」
ストリングスは一気にまくしたてると、満足げに微笑み、苦しげな表情を浮かべるデクスを見下ろした。
「くくっ、素晴らしい。良い表情ですよ、デクス女史。気の強い女性の悔しそうな表情というのは、どうしてこうも扇情的なのでしょうね。その美しい脚と共にその表情が見られるとは、私も運が良い」
ストリングスはなめるような視線をデクスの脚へと注ぎ、口の端を歪めた。
「そして人が希望を失った瞬間というのは、とても愉快だ……ああ、安心してください。あなたとリリィさんの極上の脚―――見事に昇華させて見せますよ。私の最高の研究成果としてね!」
ストリングスは今一度大きく笑い、弾んだ様な声を響かせる。
デクスは戦闘体勢に入り、ストリングスと対峙しようとするが―――
「くくっ……ふふふふふふっ」
隣から響いてきた聞き慣れない笑い声に、その動きを止めた。
「り、リリィ、さん……?」
デクスは薄ら寒い何かを感じ、ゆっくりとリリィの方へと視線を向ける。
その顔からは、確かに笑い声が零れていた。
「ふふ、可愛そうに。絶望のあまり、おかしくなってしまったのですね?」
ストリングスは慈悲深い表情でリリィを見下し、留めを刺そうと両足に力を込める。
その刹那、リリィは顔を上げ、落ち着いた調子で言葉を返した。
「いいや、違うな。おかしくなっているのは貴様の方だ、ストリングス」
「な、に?」
顔を上げたリリィはしっかりとした口調で言葉を紡ぎ、とても気がふれているとは思えない。
意味不明なリリィの言葉に、ストリングスは一瞬いぶかしげな表情を浮かべるが、両足に伝わってきた微かな振動を感じ、表情を一変させた。
「これは!? いや、そんな馬鹿な……!」
ストリングスは足裏に全神経を集中させ事態の把握に勤めるが、どう考えても足裏に伝わる振動は階下で何かが活動していることを表している。
リリィは地面に突き刺した剣から伝わる微かな振動に暖かさを感じ、言葉を紡ぐ。
「自慢話に、夢中になっていたのか? それともデクスの脚に集中していたのか……いずれにせよ貴様はもう、詰んでいるぞ。ストリングス=ムーンムーン=ウォーカー!」
リリィは体力が回復したのか、先程よりもしっかりとした様子で立ち、真正面からストリングスを見つめる。
隣で動揺しているデクスを横目に見つけると、デクスの細い手を握り、剣の柄へと触れさせた。
「っ!? 微かに、振動してる……」
デクスは剣の柄から微かな振動を感じ取り、驚きに両目を見開く。
そうしている間にもどんどん振動は強くなり、ついに両足に直接伝わっ
て来るほどの強さになった。
「やめろ。そんな、馬鹿な。命が惜しくないのか。この男、本当に馬鹿なのですか!?」
ストリングスは頭を抱え、足元から伝わって来る振動に、どんどん血の気が引いていく。
階下の様子が最も鮮明に解るからこそ、事態の深刻さがダイレクトに伝わって来るのだろう。ついに振動は地震へと変わり、足元が大きく縦に揺れた。
「ふふっ。どうやら本格的に、柱が倒壊を始めたようだな。これで終わりだ、ストリングス」
リリィはふらつく足元を懸命に押さえ、剣を頭上へと振り上げる。
しかしその時、ストリングスの笑い声が部屋中に響いた。
「くふっ。くくくくくくくく!」
ストリングスは腹部を押さえ、狂ったように笑い声を響かせる。
俯いていた頭をグルリと起き上がらせると、瞳孔の開いた瞳でリリィを射抜く。
「っ!? いけない、リリィさん!」
ストリングスの目に確かな殺気を感じたデクスは、リリィを庇おうと二人の間に割って入る。
しかしストリングスはそんなデクスの脇をすり抜け、一瞬にしてリリィに近接した。
いくら柱を破壊されようと、床が壊れなければまだ自分に勝機はある。
むしろ地面さえ健在なら、自分が負ける道理はない。
シンプルな思考によって導き出された、シンプルな答えだった。
「残念ですが、おしまいです。あなたたちの苦労も無駄に終わった! 何一つ守れず、何一つ成すことなく、ここで散っていただきますよ!」
ストリングスはリリィの頭部へと狙いを定め、手の平を握り込む。
腕に装着された装置から鉄球が驚異的な早さで発射され、リリィの頭部へと直撃した。
「りっ……!?」
デクスはその瞬間、全ての時が止まったかのように思えた。
頭部に激突した鉄球と、微動だにしないリリィ。
その沈黙は重く、デクスの口を塞ぐには十分過ぎるものだった。
「あひゃひゃひゃひゃ! は……!?」
「…………」
リリィは頭部の衝撃をものともせず、ゆっくりと頭を上げる。
鮮血を浴びたその赤い瞳は真っ直ぐに、確かな光を持って、ストリングスを睨みつけていた。
「それが……それがどうしたぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
リリィは咆哮と共に、剣を天井高く振り上げる。
リリィの頭部からの血飛沫がストリングスの顔にかかり、呆気に取られていたその瞬間、リリィの剣が、再び地面へと突き刺さる。
舞い上がる膨大な量の砂埃と、吹き飛びそうなほどの衝撃波。
一体あの体のどこに、そんな力を残していたのか。
砂埃が薄れ、目を開けられるようになると、今度は大きく凛々しい声がデクスの耳へと届いた。
「デクス! 私の肩を掴め!」
「!? はっ、はい!」
デクスは返事を返すが、どこにリリィがいるのかすらわからない。
やがて砂埃の向こうから、黒い塊が飛び出してきた。
「うぉあああああああああああああああ!」
リリィは剣を突き立てたままデクスのいる方角へと走り、部屋の地面を切り裂いていく。
その後ろからはストリングスが右手を構え、今にも鉄球の発射体勢に入ろうとしていた。
「させるか! このハンター風情がああああああ!」
ストリングスは鬼の形相でリリィの背後を取り、後頭部へと狙いを付ける。
感情的になったストリングスは無理な体勢で跳躍し、完全に無防備な状態となっていた。
リリィはそんなストリングスに狙いをつけ、言葉をぶつける。
「ストリングス! これで……これで終わりだ!」
「っ!? やめろおおおおおおおおおお!」
リリィは地面に突き立てた剣を思い切り振り抜き、衝撃波が地面を伝っていく。
そして―――