第26話:アニキの拳
「あ、アニキさん、ちょっと待って。いったいどこいくの!?」
廊下を早足で歩いていくアニキを、リースは駆け足で追いかけていく。
しばらく息を切らせながら走っていたリースだったが、その不安をアニキへぶつけようと、思い切り息を吸い上げた瞬間―――
「わぷっ!? ……あ、アニキさん、急に止まらないでよぉ!」
急に立ち止まったアニキに顔をぶつけ、赤くなった顔を手で擦るリース。
アニキは腕組みをした状態で、リースへと向き直った。
「着いたぜ、リース。この場所で俺ぁ、てめえの仕事を片付けるんだ」
アニキは突然廊下で立ち止まり、大きな扉を指差しながら言葉を紡いだ。
「これって、扉? 随分大きいけど、なんの部屋なの?」
「それは……これだ」
アニキは両手で扉を押し開き、その奥に広がる空間を視界に入れる。
その部屋は広めのホールで、部屋の中央には巨大な柱が堂々と鎮座し、一見すると壁にしか見えない。
リースはそのまま数歩後ろに下がり、ようやくそれが壁ではなく柱だと認識できたほどだ。
「おっきい柱。でもアニキさん、ここでいったい何をするっていうの?」
アニキもリリィ達と一緒にストリングスの元へ向かい、リリィ達に加勢すべきではないか。
しかしアニキはそれをせず、この場所に来た。その真意が、リースにはわからない。
「リース。ストリングスには、あの馬鹿剣士でも勝てねえ」
「えっ!?」
アニキの発した意外な言葉に、一瞬言葉を失うリース。
両目を開けて驚いているリースの姿を横目で認め、アニキは微笑を浮かべながら言葉を続けた。
「ストリングスの歩行術。どんな仕組みかは知らねえが……ありゃ、マジでやべえ。目の前にいるのに気配を消すなんざ、もう魔法と言ってもいいくらいだ」
「アニキさん……」
珍しく弱気な発言を続けるアニキに不安を覚え、リースは肩にかけた鞄の紐を強く握り締める。
その様子を見たアニキはリースの頭に片手を置き、言葉を続けた。
「だがよ、リース。確かにあの馬鹿剣士一人じゃ、勝機は薄いかもしれねえ。でも今俺たちの前にゃあ、ストリングスを倒すための秘策が転がってるんだぜ?」
「ひさ、く……?」
リースは頭に疑問符を浮かべ、首をかしげながらアニキを見上げる。
アニキはリースの頭から手をどけると、涼しげな表情でホール中央へと視線を戻した。
「ストリングスの強さの源は、歩行術。まともに戦えば負傷はおろか、最悪死ぬことすら有り得る。でもなぁ……目の前のこいつをぶっ叩けば、何かが変わるかもしれねえのさ」
「えっ!?」
アニキの視線の向かう先、そこには、ホールの中央に鎮座した、壁と見まがうほどの太さを持った大黒柱。
ストリングスの歩行術、柱、そして、ぶっ叩く……それらの単語が一つの糸を紡ぎだした瞬間、リースは両目を見開きアニキを見上げた。
「あにき、さん。まさか……まさかこの柱を、壊しちゃうつもりなの!? しかも、その、素手じゃないよね!?」
「この柱はよ、ストリングスの野郎の部屋を支えてやがるのさ。そして奴の最大の武器は、“歩行術”……ここまで言えば、もうわかんだろ?」
アニキは悪戯な笑みを浮かべ、リースを見下ろす。
リースは両目を見開くと、鞄の紐から手を離し、呆然と柱を見上げた。
「そっ、か。どんなに凄い技術でも、足場がなかったら、歩けない……」
この柱をアニキが破壊し、ストリングスの部屋にいるリリィが床を破壊すれば……ストリングスの力は一瞬だが、ほぼ0に等しくなる。
つまり歩行術を得意とするストリングスに対し、空中戦を仕掛けようというのだ。
「いや、ただの素手で壊すわけじゃねえ。この鍛え抜かれた両拳で叩き壊すんだぜ!」
アニキは両拳を構え、目の前の柱を自信満々に睨みつける。
リースは再び血の気の引いた顔で、弾けるように言葉を返した。
「いえっ!? ちょっ……ちょっと待ってアニキさん! あんな大きくて硬そうな柱を殴ったら、それこそ拳の方が壊れちゃうよ!」
リースは青い顔のまま鞄の紐を強く握り、どうにか考えを改めてもらおうと声を荒げる。
アニキは一度言い出したら、自分の言葉などで止まるような人ではない。
ならばせめて、アニキ自身が傷つかず、ストリングスを倒せるような術を考えたかった。
アニキは両拳を下ろし、真剣な表情で再びリースの頭に手を置いた。
「リース。さっきの話覚えてるだろ? そのシリルってガキにゃあ一度会っただけだがよ、本が大好きなだけの普通の女の子だったんだぜ? そんな子どもから何もかも奪った男をこの俺が、放っておくと思うか?」
アニキはリースの頭に優しく手を置きながらも、その体温は高く、背中には逆巻く炎が渦巻いている。
こうなってしまったアニキを止めることなど、できはしない。
「でも……でもっ……」
「リース」
アニキは真剣な表情でリースの大きな瞳を見つめる。
リースは真剣なアニキの瞳に次の言葉を失い、口を噤んだ。
「何かを得るために何かを失うのが、世の中ってもんだ。今回はその失うもんが、たまたま俺の拳だっただけの話さ」
「そんな……」
アニキは体勢を低くし、左手をだらりと下におろすと、右拳を体の後ろに引き、力を込める。
背中には炎の翼が走り、深い紅だった髪は、鮮やかな赤へとその色を変える。
足元に渦巻く火花は獣のように弾け、背中の炎はそれに呼応するように大きく強くなっていく。
リースは奥歯を噛み締め、鞄の紐を強く握ると……そんなアニキの前に飛び出し、両手を広げた。
「僕がもっといい方法を考えるから、だから、もう少しだけ待って!」
リースは真剣な眼差しでアニキを見つめ、しかしその細く小さな両脚は、細かく震える。
涙を溜めたその瞳に、アニキは口の端を上げ、小さく笑った。
「ありがとよ、リース。だがお前は、このまま廊下に残れ。そして俺がもし柱の破壊に失敗したら……今度はお前が、シリルを連れてこの図書館を出るんだ。それが、お前の仕事だぜ」
「っ!? そん、な」
リースはアニキの言葉に驚き、呆然としたまま声を漏らす。
アニキはそんなリースを睨みつけると、さらに言葉を続けた。
「いいから残れ! 他の誰でもない、お前だから頼める仕事なんだよ!」
「っ!? わかっ……たよ。アニキさん」
頷くリースを見ると、アニキは悪戯に笑い、まるで拳の力を高めるように、炎の翼を大きく強く広げていく。
足元の火花は逆巻く炎へと姿を変え、また右腕から右拳にかけて、炎が走っていた。
「この場所で、生きていこうと決めた奴がいる。この場所を必死で守ろうとしてる奴がいる。その馬鹿を作っちまったのは、この俺だ。だから……」
「……っ!」
リースの脳裏に、デクスの姿が思い出される。
熱気によって乾いた唇を動かし、リースはかろうじて、言葉を紡いだ。
「アニキさん。それって―――っ!?」
リースの言葉を最後まで聞かず、アニキは炎を纏いながら、部屋の中に歩みを進める。
そして部屋の床に拳を打ちつけ、その勢いに乗って空中へと跳ね上がっていく。
地面に打ち付けられた拳は炎を吹き出し、アニキの体を天井へと運んでいった。
真正面から見据えた柱は、まるで壁のようにアニキの前に立ちはだかり、アニキのこめかみに、一滴の汗が流れていった。
「だから引き下がるわけには、いかねーのさ。責任ってもんがあるからよぉ、大人ってやつにはなぁ!」
アニキは右拳を天へと突き上げ、その拳に足元の炎を集約する。
血走った眼で目の前の壁を睨みつけ、左手を対象に向けてかざし、右拳を、体の後ろへと引き付けた。
「アニキ、さん。やめ、て。やめで……っ!」
リースは頭上のアニキを見上げ、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、整わない呼吸で、言葉を紡ぐ。
鞄の紐を痛いほど握り締め、しかしリースは、アニキから視線を外すことはなかった。
空中を進んでいたアニキはやがて静止し、今度はゆっくりと、下に向かって落下していく。
まるで内臓が浮くような感覚を、アニキが感じ始めた、その刹那―――
「っ!?」
天井が大きく揺れ、地鳴りのような音が、ホール中に響き渡る。
その音を聞いたアニキは悪戯に笑い、嬉しそうに、拳にさらなる力と炎を込めた。
「合図、か。ったく粘りやがって、遅えんだよ馬鹿剣士がぁ!」
リリィからの攻撃開始の合図を受け取ったアニキは背中から噴出していた炎の翼の勢いに乗り、驚異的なスピードで柱に向かって突っ込んでいく。
直線に描かれる炎の軌跡がリースの瞳に焼きつき、そして―――
「メテォォォ……ハンドォォォォォアアアアアアアアア!」
アニキは背中から吹き出た炎の勢いそのままに右拳を突き出し、柱に向かって叩き込む。
炎と共に強大な衝撃波が走り、リースの頬を、砂埃と熱風が襲った。
「……っ! はしら、柱は!?」
見上げたリースの視界の先、砂埃が徐々に四散すると、荘厳な柱は、まだその姿を失ってはいない。
大きなヒビが一本走ったものの……未だ巨大な柱は、その上の部屋を力強く支えていた。
「だったら。これなら、どうだコラァァァァァァァァァァァ!」
アニキは勢い良く落下しながらも、連続して拳を打ち込み、徐々に柱の中に、ダメージを溜め込ませていく。
柱の中にめり込ませた拳からはいつからか鮮血が噴出し、アニキの顔を赤に染めていく。
リースはそんなアニキの姿を見つめ、奥歯を噛み締めた。
「お願い……壊れて……!」
リースは神に祈るように両手を重ね、落下しながらも拳を突き出すアニキの姿を見つめる。
拳が打ち込まれる度に、柱からは鮮血に染まった瓦礫が飛び散り、白く美しかったその体に、黒い焦げ跡を残していく。
細かい衝撃波が何度も何度もリースの体を貫き、熱風はホール中を駆け巡る。
やがて地面へと降り立ったアニキは、炎も勢いも失った拳を、もう一度だけ握り締め―――
「この、クソだらぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
渾身の力を込めた拳を、柱の根本へと打ち込む。
巨大な柱の根本にはいびつな形をしたヒビが走り、柱全体を震わせるが……その直立を揺るがすまでには至らず、未だ天井を支え続けている。
ボロボロの状態ながらも、柱としての役目を守るその姿には、何らかの意思が宿っているようにすら思えた。
「ちっ。野郎、粘りやがるぜ……痛ぅっ!?」
地面へと降り立ったアニキは両拳の鋭い痛みに顔をしかめ、苦々しい表情で膝を折り、自らの拳を見つめる。
拳からはおびただしい量の血液が流れ出し、内側からの突き刺すような痛みが、アニキを襲った。
「アニキ……さん。アニキさん!」
その姿を見たリースは廊下からホールの中へと入り、アニキの元へと駆け出す。
傍まで駆け寄ったリースの目に映ったのは、アニキの手に厚く巻かれた布から滴り落ちる、おびただしい量の鮮血だった。
「リース。てめえ、部屋を出ろって、言ったろうが……っ!」
アニキは鋭い目つきでリースを睨みつけるが、再び拳に走った鋭い痛みに顔をしかめる。
目の前の事態にどうすることもできず、鞄の紐を強く握り締めていたが、やがて意を決したように眉間に力を入れると、さらにアニキへと近付いた。
「ひどい……」
近くで見たアニキの怪我は想像以上に深刻で、拳の皮が裂けているどころか、骨にまで異常をきたしているのは明らかだ。
リースはいつのまにか震え出した両足を、必死で押さえた。
「リー……ス。いいからてめえは、外に出てろ。邪魔だ……!」
アニキは苦悶に満ちた表情でリースを睨みつけ、この場から去るように声をぶつける。
鬼気迫るアニキの形相に、リースは数歩後退り、そして―――
「いや、だ。やだよ、アニキさん。僕もっとアニキさんと、旅を続けたいんだ……」
その小さな両足は震え、鞄の紐をまるで頼るように掴んでいるリースの口から紡がれた、予想外の言葉。
アニキは拳の痛みと驚きから、何も言葉を返せずにいた。
「だから僕は、できることをしたい。明日でも明後日でも、いつかでもない。今この瞬間にこそ、僕に出来ることをしたいんだ。ただ自分自身が、後悔をしたくないから」
リースは鞄を置き、天井へと伸びていく柱を見上げる。
その横顔に迷いは無く、先ほどまでの弱気な姿勢は、微塵も感じられなかった。
アニキは思わず吹き出し、笑いながらゆっくりと立ち上がった。
「あっはっはっはっは! ったくてめえは、いちいち俺の1番言ってほしくねえことを言いやがる。……いいぜ、わかった。てめえの好きにすりゃいいさ」
「っ!? ありがとう、アニキさん!」
悪戯に笑うアニキに、リースは満面の笑みをもって答える。
アニキはそんなリースの姿に苦笑いしながら、言葉を続ける。
「だがよ、一体どうする気だ? まさかそのちっちぇ手で、柱をぶん殴るわけじゃねえんだろ?」
アニキは両手をダラリと下げた状態で、リースの小さな手を見つめる。
その手がこれから何を成すのか、アニキは楽しみになってきていた。