第21話:脅威
「馬鹿な。デクスの靴音が、気配が、まったく……ない!? 目の前に いるんだぞ!」
リリィの耳に、いつものヒールの音は響かず、頭の中にピリピリと走る
はずの気配も感じない。
しかし目の前では確かにデクスは自分に向かって歩みを進めている。
圧倒的で不気味なその矛盾は、その場に静寂をもたらすには充分過ぎる
ものだった。
「郁年にも渡って続けられてきた、ウォーカー家の研究……それは、“歩行”。ただそれだけの、シンプル過ぎる内容ですわ」
やがて歩みを止めたデクスは、リリィの鼻先数十センチの位置に立ち、一度その場でヒールを鳴らすと、リリィの頭の中に、ようやくデクスの気配が戻ってくる。
肌で感じたその事実に、リリィの背筋は凍った。
「この歩行術はわたくしが初めてストリングス郷に会った時に、おみやげ代わりにと教えて頂いたものですわ。莫大な集中力を要しますから、数歩しか効果を発揮できませんけれど……」
「…………」
“歩む”という、あまりにもシンプルすぎるその動作を、何十年、何百年、何千年といくつもの代を重ねて研究してきた一族。
その成果の、おそらくはごく一部が今、目の前で実演された。
リリィは額に汗を流し、かろうじて言葉を紡ぐ。
「デクス、今の歩行術……どの程度の期間修業して身についたものなんだ?」
リリィは真剣な眼差しでデクスを見つめ、質問する。
その言葉の意図するところを読み取ったデクスは、リリィから視線を外すことなく、言葉を返した。
「……いえ、リリィさん。残念ながらこの技術は、口頭でやり方とコツを教えてもらっただけですわ。少し練習はしましたが、特に修業したというわけではありません」
「っ!? そんな、馬鹿な……!」
デクスからの返答に驚愕し、言葉を失うリリィ。
アニキはそんな二人の様子をじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「歩行術ねえ……へっ、面白えじゃねえか。ただの学者先生を相手にするより、数倍歯ごたえがありそうだぜ」
アニキは両手の拳を胸の前で打ち付け、嬉しそうに廊下の先へと視線を移す。
リリィは呆れたようにため息を落とすと、アニキへと向き直った。
「貴様。事態がわかっていないのか? 初対面の人間に口頭の説明だけでここまでの技術を会得させられるということは、それだけウォーカー家の歩行術が洗練され、完成されている証拠だ。そして歩行とは、すなわち移動術の基礎……その動作を極めた者が一体どんな動きをするのか、私にも想像がつかん」
リリィは危機感をあらわにした表情で、同じように廊下の奥を見つめる。
デクスは胸の下で腕を組むと、言葉を紡いだ。
「以前、彼がとある街で研究の成果を発表していた時、ワームの大群が襲ってきたことがあったそうです。街の住人約4800人のうち、9割以上が死傷するという未曾有の大惨事で……街のほとんどが瓦礫に変わり、その日街一つが死んだと言われています。ですが―――」
デクスは血の気の引いた表情で、少しずつ言葉を紡ぐ。
リリィはそんなデクスの様子を見ると、腕を組み、言葉を紡いだ。
「だがそんな中で、彼は生きていた……か」
「ええ、その通りですわ。彼と彼の周囲に集まっていた傍聴者だけは、怪我一つせずに街を脱出したのです。助かった後の話では、彼はただ周囲の人々に”自分の後ろをついて来るように”と伝えただけだと……」
デクスは少しだけ顔色を悪くしながら、言葉を紡ぐ。
リリィは顎の下に曲げた指を当てると、当時の状況を想像しながら返事を返した。
「つまり、地中から襲い来るワームを何らかの方法で回避しつつ、人々を街の外まで先導した……ということか。嘘であってほしいものだな」
小さくため息を落とすリリィに、「まったくその通りですわ」と、ため息を合わせるデクス。
そんな二人の憂鬱を、アニキの声が引き裂いた。
「んだぁぁぁ! しゃらくせえ! ストリングスの野郎がどんだけ凄かろうと、行ってみりゃどうにかなる! つうかどうにかすっから任せとけ!」
髪色を鮮やかな赤に変え、アニキは拳を手の平に打ち付ける。
拳の間から小さな火が四散し、アニキの瞳に確固たる力が宿る。
そこに恐れなどという感情は、欠片も存在していなかった。
「……どうにかすると、そう言ったな。何か有効な策があるのか?」
リリィはマントの中で両腕を組み、アニキへと向き直る。
アニキは白い歯を見せて笑うと、同じように両腕を組み、高らかに宣言
した。
「おおよ! 教えてやるぜ! 俺の考えた、ストリングスの野郎をぶっとばす作戦は―――」
「なっ!? 何を言ってますの!? そんなの無理に決まってますわ! ね、リリィさん!?」
「いや。確かに奇抜な策だが、この馬鹿なら、もしかしたら……」
「そんな、無理ですわ! それに危険過ぎます!」
「なぁに、俺なら余裕で平気だぜ! 任しときな!」
「あなたは少しお黙りなさい! 下手をすれば、怪我では済まないんですのよ!?」
「大丈夫だっつの! つうか心配してくれてんのかよ?」
「なぅ。ば、馬鹿言っちゃいけませんわ。誰があなたなんか……」
デクスはその長い耳の先まで真っ赤にして、悔しそうに歯を食いしばる。
アニキは頭に疑問符を浮かべながらも、言葉を続けた。
「まあともかく、俺に任しとけや。それより馬鹿剣士、てめえもヘマすんじゃねえぞ? あの野郎が犯人だとわかったら、その時点でてめえが俺に合図すんだからな」
アニキはリリィを指差すと、強い視線でその姿を射抜く。
アニキの考えた、ストリングスを捕縛するための作戦。
当然ながらストリングスが犯人だと確信した後でなければ、その作戦を発動することはできない。
発動するか否かはデクスの、そしてリリィの判断に任されていた。
「任せておけ、馬鹿団長。馬鹿の考えた作戦でも、立派に遂行してみせるさ」
リリィは小さく微笑みながら、挑戦的な目線でアニキを見返す。
アニキはそんなリリィの言葉に反応し、片眉を動かした。
「ああん!? その馬鹿の作戦に乗るてめえはもっと馬鹿じゃねえか! どうせ失敗するだろうけどよ!」
まるで噛みつくような言葉を浴びせるアニキの背中には炎が逆巻き、今にも目の前のリリィを食らおうと蠢く。
リリィは少しも物怖じすることなく、返事を返した。
「ふっ、言ってくれる。なんならここで、クロイシスでの決着をつけても良いんだぞ?」
「上等だコラァァァァ!」
剣の柄に手をかけたリリィと、拳を強く握りしめるアニキ。
今にも戦闘が始まりそうな緊迫した空気の中、取り残されたデクスが声を荒げた。
「ちょ、ちょっと! なんでそうなるんですの!? 今は身内で争っている場合ではありませんわ!」
今にも戦闘を始めそうな二人の間に割って入り、それを制止するデクス。
リリィは剣の柄から手を離すと、小さく息を落とした。
「あ、ああ。すまない。少し感情的になってしまった。確かに今は、争っている時ではないな」
「チッ。わーったよ。今はまず、あのガキの敵を討つのが先だ」
リリィとアニキは互いに拳と剣を収め、ひとまず場には静寂が戻る。
デクスはスーツの胸ポケットに入れた懐中時計を取り出すと、時刻を確認した。
「うう。もう夜の八時を回っていますわ。少々失礼にはなってしまいますが、ともかくストリングス郷に会いに行かなければ始まりませんわね」
幾許か無駄な時間を過ごしてしまったことに後悔しつつ、デクスはその胸の中に小さな決意を固める。
容疑者は決定し、作戦は展開した。これ以上、足踏みをしていられない。
黒い包帯の下から覗くシリルの無垢な笑顔を思い浮かべると、デクスは奥歯を噛み締め、廊下の奥を見つめた。
「ああ、そうだな。こうしていても始まらない。ストリングス郷が犯人だったにせよ、そうでないにせよ、シリルの無念を晴らすために、私たちは行かなくては」
リリィは腰元に下げた剣の位置を直すと、鋭い眼光で廊下の奥を見つめる。
瞳孔が開いたその瞳の奥には、何者にも屈さぬ鋼鉄の意思が宿っていた。
「おおよ。そうと決まればとっとと行こうや。俺ぁ早く何か殴りたくってしょうがねえぜ」
アニキは口調こそ柔らかだが、その背中には紅蓮の炎が逆巻き、髪は鮮やかな赤に染まる。
殴るべき対象を見定めたその拳に、紅蓮の炎が逆巻いていた。
「はぁ、まったく。あなたが来るとロクな事になりませんわね……ともかく行きましょう、リリィさん。この人の作戦通りに動くなら、まずわたくしたちが先行しなければ」
デクスはズレてしまった眼鏡を指先で押し上げると、最後に一度、盛大なため息を落とす。
リリィは目の前に続く暗闇の廊下を見定めると、無言のまま頷き、歩みを進めた。
「…………」
「あん? なんだぁ?」
デクスはリリィの後ろについていくように一歩踏み出すが、すぐに後ろを振り返り、アニキの顔をじっと見つめる。
その瞳には不安の色が写り、アニキの迷いの無い瞳を、じっと見つめていた。
アニキは怪訝そうに眉をひそめると、頭に疑問符を浮かべ、腕を組む。
「あんだよ。何か心配事でもあんのか?」
「っ!?」
アニキのその言葉にデクスは両目を見開き、再びその頬を真っ赤に染める。
エルフ特有の長い耳の先まで真っ赤に染まり、銀色の鮮やかな髪が、赤に映えた。
「えっ……と、別に心配とか、そんな事じゃないけど……」
視線を左右に泳がせ、持っていたファイルの束を抱きしめると、もごもごと口を動かすデクス。
煮え切らないその様子に、アニキが声を荒げようとした、その瞬間―――
か細く消え入りそうな声が、デクスの口からこぼれた。
「―――けが、したりしたら、だめですわよ……」
「ああん!? あんだってー!?」
小さくか細いその声はアニキの耳に届かず、言葉はアニキの胸まで届かない。
その大きな声にデクスは顔を上げると、悔しそうに奥歯を噛み締め、声を荒げた。
「っ、馬鹿なんだから、無茶するなって言ったんですわ! ばーか! 馬鹿団長!」
「はああ!? てめえ喧嘩売ってんのかゴラァ!」
デクスは両手をばたばたと動かし、感情を抑制できないまま、声を荒げる。
やがて踵を返すと、最後にもう一度アニキを一睨みし、リリィの隣へと歩みを進めた。
「…………」
リリィは隣に歩いてきたデクスの横顔を見ると、どう声をかけるべきか思案に暮れ、眉をハの字にする。
俯いたその耳と頬は真っ赤に染まり、声をかけるのもためらわれた。
デクスはそんなリリィの様子に気づいたのか、小さな声で言葉を紡ぐ。
「大丈夫ですわ、リリィさん。それより、急ぎましょう」
デクスは俯いていた顔を上げ、廊下の奥を見つめる。
リリィはその視線に導かれるように、道の先を睨み付けた。
「……ああ。そうだな。急ごう」
ほんの少しの笑みを見せると、リリィは勇ましい表情で、歩みを進めていく。
グリーブの鋼鉄の踵と、ハイヒールは廊下を叩き、規則正しい四つの音を響かせていく。
遠くなっていくその音に、アニキは小さく息を落とした。
「チッ、なんだってんだぁ? あの馬鹿は」
アニキは頭を掻きながら、早足で歩いていくデクスの背中を見つめる。
しかし今はそれよりも、気になることがある。
アニキは踵を返し、出来る限り足音を殺して、先ほどリリィたちが出てきたドアのすぐ近
くの物陰へと、近づいていく。
部屋に入るための階段の隅には、小さな小さな死角が存在する。
その雰囲気に確信めいた何かを感じたアニキは、ため息を落としながら腕を組み、言葉を紡いだ。
「―――リース……おめえ、いつからそこにいたんだ?」
『っ!?』
明らかに、その場の空気が変わる。
アニキは自分自身の感覚が正しかったことを知り、心の中でため息を落とした。
「…………」
物影から現れた金色の髪は微かな風に揺れ、その表情は悲痛に染まる。
リースは自分の中の感情をどうすれば良いか解らず、ただ下を向いていた。
「やっぱ、いやがったか。おめえ、最初っから聞いてたな?」
「…………」
リースは肩に下げた鞄の紐を強く握り、こっくりと大きく頷く。
それを見たアニキは両目を片手で覆い、天を仰いだ。
「あーあ。で、おめえはどう思ったんだ? 今の話を聞いてよ」
アニキは両腕を組むと、真剣な眼差しでリースを見つめる。
リースはしばらく視線を迷わせると、意を決して両目を見開き、アニキの目を見返した。
「僕はシリルって子のことは知らないし、ストリングスさんが犯人かどうかも、わかんない。ただ―――」
「ただ?」
アニキは両腕を解くと、腰元に手を当て、出来るだけ柔らかな声色でリースの言葉を促す。
自分にこんな声が出せたのかと、アニキは心中驚いていた。
「ただ、僕と同じように本を大好きな女の子がいて。その子の光を奪った人がもし、この場所にいるなら―――そんなのは、許せない。許しちゃいけないんだってことだけは、僕にもわかるよ」
リースはその小さな手を強く握り、奥歯を噛み締める。
その表情に、先ほどまで話していたリリィの表情が、しっかりと重なり合う。
その様子を見たアニキは両目を見開き、やがて大声で笑いだした。
「あっはっはっはっは! そうか、そうかよ。“怖い”より先に、“許せない”か。あっはっはっはっは!」
「わぷっ……あ、アニキさん? どうしたの?」
アニキは楽しそうに笑いながら、リースの頭をがしがしと撫でる。
リースはわけもわからず、アニキの手の平の動きに合わせてふらついていた。
「へっ。おめえらとの旅も、案外面白えことになるしれねえなぁ……」
「えっ?」
リースは掴まれたままの頭を上げ、アニキの顔を見上げる。
アニキは真っ直ぐにその視線を見返すと、もう一度悪戯に微笑んだ。
「うっし。じゃあリース、てめえも来いや。さっきおめえが味わった感情がなんなのか、その答えがあるかもしんねーぜ」
アニキは踵を返すと、リリィ達と同じ方角へと歩いていく。
リースはいつのまにかズレてしまった鞄を持ち直すと、慌ててアニキの後を追い掛けた。
「ちょっ、アニキさん、ちょっと待って。どこいくのー!?」
大股で歩いていくアニキと、その後ろを一生懸命に追い掛けるリース。
アニキは両手をズボンのポケットに入れると、険しい表情で、廊下の先を見つめた。
『ストリングスは……決して馬鹿じゃねえ。もし俺たちが奴を倒せなければ、俺たちと関係した全ての人間を抹殺するだろう。無論、リースも例外じゃねえ』
アニキは苦虫を噛み潰したような表情のまま、廊下をどんどん歩いていく。
両拳に力を込めると、廊下の先を睨みつけた。
『だがよ……俺と一緒にいりゃあ、ちっとはマシになるかもしれねえ。この両手がぶっ壊れても、ガキ一人くれえ、守りきってやるぜ』
アニキは確かな決意を宿した瞳で廊下の先を見つめ、歩みを進めていく。
リースはそんなアニキの後ろを懸命に追いかけ、息を切らしていた。
「チッ。まったく。俺が一番、馬鹿野郎なのかもしんねーな……」
アニキはどこか満足そうに笑うと、ガラス張りの天井から、大きな大きな星の海を見上げる。
輝く星の海に目を細め、シリルの笑顔を、声を、胸の中に落とすと―――
その両の拳には、確かな力が宿っていた。