第217話:撤退
やがて先行する戦士達に追いついたリース達は、戦士達たっての希望でその後ろから谷の奥へと進んでいく。
しかし、谷の奥に進めば進むほど空気が重くなっていくような感覚に襲われ、吹き抜ける冷たい風に包まれたリースは、微かにその身体を震わせた。
『本当に、嫌な感じだ。こんなの今まで、感じたことない』
リースは警戒心をもった瞳で谷の奥を見つめ、自身を抱きしめるようにしながら奥へと進んでいく。
そうしてしばらく進んでいくと、谷の合間に美しい泉が見えてきた。
泉は透明で美しい水を地面から吹き出しており、この冷たく不気味な谷の中で唯一のオアシスとも言えるような存在だった。
先行する戦士達はその泉を見ると目を輝かせ、我先にと泉に向かって駆け出した。
「泉だ! 水が飲めるぞ!」
「やった……喉カラカラだったんだ!」
戦士達はそれぞれの手に空の水筒を持ち、泉に向かって走っていく。
美しい泉の姿を見たリースは安心したようにため息を落とすが、戦士達が泉へ近づくと泉から大量の蒸気が噴出され、戦士達とリース達を視界的に完全に分断した。
「っ!? まずい……何かおかしい! 皆さん、こっちに戻って!」
リースは鞄の紐を強く握りながら、先行してしまった戦士達へと言葉を発する。
しかしそんなリースの声も虚しく、蒸気に覆い隠された戦士達からは断末魔のような声が響いてきた。
「なっ……なんだ。体が動かな……あああああああああ!」
「ひいいいいいいいいいいいいい!?」
「助けてくれぇ!」
蒸気の向こうからは戦士達の怯えきった叫び声だけが響き、そんな戦士達の声を聞いたリースは鞄の紐を強く握りながらガタガタと震える。
そしてそんなリースの肩を、セラはその温かな手で優しく叩いた。
「大丈夫よぉ、リース。何があっても私が守るわぁ」
「セラさん……」
セラの体温をその手から受けたリースは、次第に体の震えを止めていく。
その時蒸気が突風によって吹き飛ばされ、戦士達の姿があらわになった。
「っ!? これ、は……」
「ひどい……」
戦士達は皆恐怖した表情のまま石化しており、しかも蘇生ができないよう全員の首がへし折られている。
その残虐な光景を見たレンは、大きく唾を飲み込みながらその呼吸を乱した。
「し、しかし。誰がこんな酷いことを? そもそも人間を石化するなんて、かなり高度な魔術を使わなければ不可能なはずです」
レンは槍を再度精製してその柄を掴み、震える切っ先を泉の方に向けながら言葉を落とす。
そんなレンの言葉を聞いたアスカは、二本の刀を抜刀しながら返事を返した。
「いや……レンちゃん。どうやらそれが出来る奴は、もう目の前にいるみたいだよ」
「えっ……!?」
アスカの声を聞いたレンがさらに目を凝らすと、泉の水面に巨大な蛇のようなシルエットが微かに映っているのが見える。
その蛇の身体を見ようとレンが視線を上に上げた瞬間、その視線の高さにアスカが刀を突き出し、その視界を遮った。
「そこまでだよ、レンちゃん。あいつの目を見たら、大変なことになるからね」
「なっ!? 何をするんです。これじゃ敵が見えない―――!?」
突然刀で視線を遮られたレンは、文句を言おうとアスカの方へと視線を向ける。
するとそこには、すでに両足を石化されているアスカが震えながら刀を横に突き出しているのが見えた。
「っ!? その、身体は……!」
「はははっ。目が良いってのも考えものだね。あいつの目を見たらさ、蒸気ごしでもこの通りだ」
アスカは大量の汗を流して震えながら、引き続き刀でレンの視線を遮り続ける。
その身体は足先から次第に石に変わっており、もはや俊足を誇ったあの両足を動かすこともできない。
そんなアスカの様子を見たリースは震える両足を自身の両手で無理矢理押さえつけると、ゆっくりとした歩調ながらもどうにかアスカに向かって近づいた。
「アスカ、さん。これを……これを飲んで!」
リースは震える手で鞄の中から輝く結晶体を取り出すと、アスカの顔に向かって突き出す。
その結晶体はリースの父親である風の大精霊ウィルドからもらった、万能薬の水を固めたもの。
それを察したアスカはかろうじて動く上半身を屈めると、リースの伸ばした右手の先にある結晶体を噛み砕いた。
「んっく、んっく……! ぶはっ……! はぁっはぁっはぁっ……!」
砕けた結晶体から溢れてきた水を飲み干すと、アスカは乱れた呼吸を繰り返す。
するとアスカの下半身の石化が解け、自由になった両足には生気が戻っていた。
「せ、石化が治癒した!? リース、今のは一体……!」
「それよりここは退きましょぉ? レン。ちょっと相手の情報が少なすぎるし、一体だけとは限らないわぁ」
レンの言葉を遮るように響く、セラの声。
その声がした方角に顔を向けると、レンは槍の柄を強く握りながら噛み付くように声を荒げた。
「そんな……! この僕に逃げろと言うんですか!?」
レンは絶対に嫌だという意思を強く持ち、言葉を発してきたセラを睨みつける。
すると突然レンの身体はアスカによって抱きかかえられ、気付けば谷の外まで連れ出されていた。
「ちょっ!? 離して下さい! 僕はまだ戦えます!」
「いやいや、あいつはヤバいって。セラっちの言う通り、一度戻って体勢を立て直さなきゃ」
アスカは大量の汗を流しながらレンを抱え、クロックオーシャンに向かう街道を高速で走っていく。
そしてそんなアスカの隣を、セラがリースを抱えながら高速で飛行していた。
「アスカちゃんの言う通りよぉ。リースも、それでいいわねぇ?」
「う、うん……そうだね。わかったよ」
リースはセラに抱えながらも鞄の紐を強く握り、自身の中に湧き上がっている恐怖の感情と戦っている。
レンはアスカに抱えられ、高速で離れていく灰の谷を睨みつけながら、悔しそうに奥歯を噛み締めていた。