第202話:世界には、優しい風が吹き抜ける
海を進む船の上でリリィは不機嫌そうに腕を組み、一点を見つめている。
そんなリリィの隣に歩いてきたアスカは、その肩をぽんぽんと叩いて言葉を紡いだ。
「いやー、よかったねぇリリィっち。リースちゃんは無事だったし、言うことなしじゃん?」
「ああ、そうだな。それが何よりだ」
隣で言葉を紡ぐアスカに視線を向けることなく、リリィはぶっきらぼうに返事を返す。
今度はアスカの反対側にイクサが立ち、淡々とした調子で言葉を発した。
「暗殺者を差し向けたのは恐らく竜族でしょうが、すぐにワームサイドを離れれば追っ手に遭遇する危険性は大幅に減少します。リース様を救出してすぐこの船に飛び乗ったのは、英断であったと思われます」
「ああ、そうだな。この船は乗客も多いし、私も隠れて乗り込んだから追っ手がすぐに気付くということもないだろう。その点は安心だな」
リリィは不機嫌そうに両腕を組み、相変わらず一点を見つめながら返事を返す。
そんなリリィの視線の先では、セラが後ろからリースに抱きつき、妖しい笑顔を浮かべながら言葉を紡いでいた。
「ね、リース。さっき船員さんから聞いたんだけどぉ、今日は客室が不足してるんですって。だから今夜は、私と同じベッドで眠らない?」
セラは小さく首を傾げ、リースの顔に至近距離まで近づきながら言葉を発する。
花のような香りと柔らかな感触に包まれているリースは頬を赤く染めながら、わたわたと返事を返した。
「ええっ!? あ、えっと、恥ずかしいので遠慮します、です……」
リースはセラからの提案に頬を赤らめ、ぶんぶんと両手を横に振りながら返事を返す。
初々しいその反応を見たセラは嬉しそうに微笑みながら「そう? なら今だけ私の部屋に来るぅ? 歓迎するわぁ」と言葉を続けていた。
そしてそんなセラを見たリリィはついに堪忍袋の尾が切れ、セラを指差しながら声を荒げた。
「―――で、何故暗殺者の貴様がここにいる!? というか溶け込みすぎだろう!」
リリィは怒りのあまり眉間に皺を寄せながら、大声で言葉をぶつける。
そんなリリィの言葉を聞いたセラは、面倒くさそうに息を落として返事を返した。
「もう、だからさっき話したでしょぉ? 私はあなたを暗殺する依頼を蹴ったの。だからもう戦う理由がないわぁ」
「―――っそういう問題ではない! 私を死にかけまで追い込んでおいて、何をぬかすか!」
「過去のことを引き摺るのはよくないわよぉ? それに、怒ると老けちゃうわぁ?」
「きっ、貴様。よくもいけしゃあしゃあと……!」
リリィは怒りのあまり腰元の剣に手をかけてセラに向かって歩みを進めるが、気付けばセラは空間を歪め、遠くの手すりの上で優雅に腰掛けていた。
「こわぁいママがいるから、今日のところは退散するわぁ。リース、またね♪」
「待て貴様! ……くそおおおおおおおお!」
他の乗客で溢れているデッキの上では、無闇に走り回ることもできない。
歪んだ空間の中に消えたセラに手を伸ばすリリィだったが、その手は虚しく空を切っていた。
「やー、なんだかわかんないけど、色っぽい姉ちゃんがパーティに加入したねぇ」
「ちっ……また女かよ。いつになったら男の仲間が増えるんだ?」
「あ、あはは……」
思い思いの言葉を発するアスカとアニキの姿を見上げ、どうしたものかと乾いた笑いを響かせるリース。
リリィは両手を左右に広げると、どこまでも青い空に向かって声を荒げた。
「納得、できるかあああああああああああああ!」
リリィの叫びは青い空の中に溶け、風に吹かれて何処かへと運ばれていく。
一方セラは船の中で最も高い場所にひとり立ち、海風をその身体に受けていた。
「今日は……ううん。今日からきっと、良い風が吹くわぁ」
セラは眼下で叫んでいるリリィと困ったように笑うリースを交互に見つめ、楽しそうに微笑む。
その笑顔はずっと遠い日に輝いていた、幼いセラの笑顔そのままで。
暖かな海風はどこか嬉しそうに、そんなセラを包み込んでいた。