第200話:そして彼女の世界は崩壊する
セラが閉じていたその目をゆっくりと開くと、湿気を含んだ土の壁が雑然と続いているのが見える。
どうやら自分が寝ているのは洞窟のような空間らしく、遠くからは水が速く流れる音が聞こえてくる。
そんな水の音を聞いたセラはぼんやりと中空を見つめながら、自身が川に落下したことを思い出した。
やがて段々と意識がはっきりしてくると、自身の身体が温かい何かに包まれていることに気付く。
セラが視線を落として自身の身体に目を向けると、茶色い毛布がその身体を暖かく包んでいた。
「???」
セラは不思議そうに首を傾げながら、ゆっくりとその上体を起こす。
身体は相変わらず疲労感に支配され、立ち上がることすら億劫になるほどだ。
気だるそうに片手で頭を抱えたセラの耳に、突然高い声が聞こえてきた。
「あ、起きたんだ。翼の傷はだいじょぶ?」
「っ!?」
セラは背後から響いた声に驚き、目を見開きながらそちらへと視線を向ける。
するとその視線の先ではリースが暖かいスープを持ち、申し訳なさそうに眉を顰めていた。
「えっと……ごめんね。今の僕の実力じゃ、毛布を造るくらいしかできなくて……あ、これ、スープ作ったんだ。うなされてたみたいだし、とりあえず暖まった方がいいよ」
リースはすまなそうに眉を顰めながらもにっこりと笑い、両手で持っていたスープの器をセラへと差し出す。
徐々に近づいてくるリースの手を見たセラの瞳に、あの日男達から伸ばされた大きな手が、フラッシュバックした。
「っ!? いやっ……!」
「あっ……」
セラは怯えた表情で片手を振り、リースの手から器を弾く。
木でできた器は洞窟の中に落下し、中のスープは土の中に吸収されていった。
「あの……セラさん、だいじょぶだよ。僕も最初は怖かったけど、この洞窟意外と頑丈なんだ」
リースは心配そうな表情を浮かべながら、その手をゆっくりとセラに近づけていく。
しかし完全に過去の残像とリースの手を重ねているセラは、半狂乱になりながら声を荒げた。
「いやっ……いやぁああああ!」
段々と近づいてくるリースの手に興奮したセラは落ちていた鋭利な石を手に取ると、リースに向かって覆いかぶさり、細い首にその石の先端を突き立てながら呼吸を乱す。
押し倒される形になったリースは驚きに目を見開くが、セラの瞳の奥に“怯え”があることに気付くと、真剣な表情で言葉を返した。
「……最初にその眼を見た時から、ずっと思ってたんだ。この人は何かを抱えてる。それが重くて大きくて、ずっともがいてるんだって」
リースは悲しそうに眉を顰め、眼前に迫ったセラに向かって言葉を紡ぐ。
押し倒されてなお冷静なリースの表情に、セラは苛立った様子で言葉を返した。
「あなたに、あなたに何がわかるの!? 何にも知らないくせに!」
セラは半狂乱になりながら、ぶつけるように言葉を発する。
そんなセラの言葉を受けたリースは、真っ直ぐにセラの瞳を見つめながら返事を返した。
「ごめんね、セラさん。確かに僕は何も知らない。だから……こんなことしか、できないんだ」
「っ!?」
リースは真剣な表情から笑顔に変わると、その小さな手を伸ばして優しくセラの頬に触れる。
先ほどまでスープに触れていたその手は、ほんのりと暖かい。
その温もりに触れたセラは目を見開き、遠い日に母から受け取ったあの温もりを思い出していた。
「言いたくないなら、言わなくたっていい。でも僕は今、セラさんを助けたい。だから今だけでも、僕を信じてほしいんだ」
リースはにっこりと微笑みながら、柔らかな声でセラに向かって言葉を紡ぐ。
その声を聞いたセラは、数日前の悪夢の中で出会った、一陣の温かな風を思い出す。
色の無い世界で出会った暖かな風は、同時に地平線の向こうから、爽やかな声を響かせていた。
目の前のリースの声はまさしく、あの世界で聞いた声そのものだ。
セラはその事実に気付いた瞬間戦慄し、鋭利な石を握っていたその手を震わせた。
「っ!? い、や……」
突然やってきた温もりにセラは恐ろしくなり、リースの上から身体を起こすと、引き摺るようにしながら洞窟の奥へと後ずさっていく。
リースは身体を起こして立ち上がると、セラを怖がらせないようゆっくりとその足を進めた。
「だいじょぶだよ、セラさん。僕は武器を持っていないし、セラさんを傷つけることなんてしない。だから―――」
「うるさい……うるさいうるさいうるさい! いいからこっちに、来ないでよぉ!」
「……っ」
激しく頭を横に振りながら声を荒げ、セラは怯えた眼でリースを見つめる。
懇願するようなセラの言葉を聞いたリースは躊躇し、進めていたその足を止める。
しかしその瞬間―――微かな声が自身の耳に届くのをリースは感じ取った。
『―――て……』
「えっ?」
その声はか細く、上手く聞き取ることができない。
リースは驚きながらその声の発生源を探すが、この洞窟には自分とセラの二人しかいない。
そうなるとその声の発生源は、ひとつしか考えられなかった。
「…………」
やがてひとつの結論を導き出したリースは、脳内に直接響くその声を信じて一歩ずつセラへと近づいていく。
そんなリースの迷いのない瞳を見たセラは、顔を横に振りながら後方へと下がっていった。
「来ないでって言ってるのが、わからないのぉ!? それ以上近づいたら、本当に殺すわ!」
セラは噛み付くような声を響かせ、リースを殺気の篭った目で睨みつける。
しかしその声に混じって、先ほどより少しだけ鮮明な声がリースに届いた。
『―――けて……』
「…………」
リースはどこからか聞こえるその声を信じて、一歩ずつセラに向かって近づいていく。
まったく足を止めないリースの姿を見たセラは、苛立った様子で声を荒げた。
「話、聞いてないの!? 来るなって言ってるじゃない! くるなぁ!」
「っ!?」
半狂乱になったセラはその手に触れた石をリースの顔に投げつけ、リースの目の下に激突した石はその肌を削って鮮血を引き出す。
しかしリースはその顔から血を流してもなお、歩みを止めることはなかった。
『―――すけて……』
微かに聞こえてくるその声を受けて、リースは足を止めることなく進んでいく。
やがてセラの目の前に立ったリースは、青く輝くその瞳でセラを見つめた。
「……っ! 馬鹿、じゃないの。来るなって言ってるのに、なんで……!」
セラは悔しそうに奥歯を噛み締めながら、リースに向かって言葉を紡ぐ。
しかしリースはそんなセラの瞳を正面から見つめ、黙ってその場に立っていた。
『―――たすけて……!』
はっきりと聞こえたその声にリースは目を伏せ、悲しそうに眉を顰める。
そんなリースを見たセラは、再び半狂乱になって叫んだ。
「早く、離れてよ! 私に近づかないで!」
セラはリースを睨みつけながら後方へと身体を移動させようとするが、洞窟の壁に阻まれてそれ以上下がることができない。
自分を睨みつけてくるセラの瞳を見たリースは、ゆっくりとその口を開いて言葉を紡いだ。
「“離れて”なんて、嘘だ。セラさんは今、嘘をついてるよ」
リースは悲しそうな表情で言葉を落とし、その真っ直ぐな瞳でセラを射抜く。
どこか懐かしいその澄んだ瞳を見たセラは、馬鹿にするような表情を浮かべて言葉を続けた。
「は、はぁ? 何言ってるのぉ? 私は別に、嘘なんて―――」
「嘘だよ」
リースはセラの言葉を遮り、断定するように言葉を発する。
そんなリースの言葉を聞いたセラは頭に血が上り、怒りをあらわにして声を荒げた。
「だから、何言ってるのぉ!? あなたなんていなくても私は平気だし、殺すことだってためらわない! それを―――」
「だったら!」
「っ!?」
突然声を荒げたリースに驚き、セラは息を飲んでその言葉を止める。
リースは今にも涙が零れそうになりながら、かろうじて言葉を続けた。
「だったら、なんで……なんでさっきから、泣きそうな顔してるのさ!」
「っ!?」
リースに指摘されたセラは両目を見開き、自身の顔を両手で包む。
冷たい指先の感触はセラの頬を包むが、その表情までは知ることができない。
セラは胸の奥から溢れてくる熱い何かを感じながら、虚勢を張って言葉を続けた。
「はぁ? 何言ってるのぉ? 私は別に、泣いてなんて。泣いてなんて、ない……!」
リースを睨みつけながら、言葉を続けるセラ。
しかしその時セラの瞳から、ポロポロと熱い涙が流れ出す。
セラは咄嗟に両手でその涙を受け止めると、賢明に拭いながら口を動かした。
「やだ。なに、これ。とまらなっ……!」
まるで、あの色の無い世界で暖かい風に包まれた、あの時のように。
涙が次々溢れて、止まらない。
熱い滴は次々とセラの頬を流れ、顎の先から落ちて地面へと溶け込んでいく。
セラは両手を使って賢明に涙を拭うが、次々流れてくる涙を止めることはできなかった。
「ひっく。なに、これ。もぉ、やだぁ……!」
一体何故涙が出るのか、自分でもわからない。
ただ自分の心の中で、狂おしいほどに“何か”を求めていることは理解できる。
ずっとずっと自分の中で抑えてきた感情が溢れて、止まらない。
ぼやけていく視界―――それはまるで、色の無い世界をさ迷っていた時の自分の状況によく似ていて。
セラはどうしようもない恐怖を感じて身体を震わせるが、その涙は止まらない。
しゃくりあげて苦しくなる呼吸。とめどなく溢れる涙は、両手から零れて落ちていく。
息が苦しい。
涙が止まらない。
悲しい。
寂しい。
誰かに触れたい。
そんな想いがセラの中からこみ上げてきて、抑えても抑えても止まってくれない。
セラが自身の心を制御できず、ぼやけた視界で地面を見つめていると―――不意にその頭が、温かい何かに包まれているのを感じた。
「ごめんね……セラさん。僕は馬鹿だから、こんなことしかしてあげられない」
「―――っ」
不意に頭を抱きしめられたセラは、その温もりに目を見開く。
ああ…………そうだ。
自分がずっと求めてきたもの。全てを失ったあの夜からずっと、探し続けてきたもの。
それがこの温もりだ。あの色の無い世界でただひとつ、自分を包み込んでくれた、あの風だ。
セラは震える両手をゆっくりと上げ、恐る恐るリースの身体を抱き返す。
そしてその瞬間―――色を失っていたセラの世界が壊れ、ヒビ割れた無色の空が、鮮やかな青空に変わっていく。
暖かな風に髪をなびかせ、その青空を見上げたセラは、まるで何かが決壊したように泣き崩れた。
「あ……あ……うあああああああああああ……っ!」
セラは、泣いた。
心の中には暖かな風が吹き、自身の頭を包むリースの胸から、確かな鼓動を感じる。
ずっと昔に忘れていた、その安らかな気持ち。
その気持ちに包まれてもなお、セラは泣き続けた。
リースはセラが泣き止むまでずっと、その頭を抱きしめて。
小さなその手で、優しくセラの頭を撫でる。
セラは優しいリースの手のひらにあの日の母の姿を思い出し、さらにその瞳から涙を流す。
しかしその涙は暖かく、両頬には涙の流れる感触が確かに伝わってくる。
強くセラを抱きしめるリースと、それよりもずっと、ずっと強く抱きしめ返すセラ。
小さな洞窟にはしゃくりあげながらも泣き続ける、セラの声だけが高く響き―――
やがて泣き疲れたセラは、がっくりと力を抜いてその意識を手放していった。
「―――っ!?」
セラが再び意識を取り戻すと、気付けば横向きになって地面に倒れ、その身体には毛布がかけられていた。
その毛布を抱き寄せるようにして掴みながら、セラはキョロキョロと洞窟の中を見回す。
「……?」
傍にリースがいないことに気付いたセラはその姿を探すが、洞窟の中には見当たらない。
最初は不思議そうに洞窟内を見回していたセラだったが、段々と不安な感情が溢れ、自分でも気付かない内に毛布を抱きしめていた。
「……っ」
もしかしたら、リースは自分を置いてどこかに行ってしまったのではないか。
もう、あの温もりに触れることはできないのではないか。
そんな不安がセラの胸の中に落ち、それはどんどん大きくなっていく。
やがてセラが両目に涙を溜め始めた時、洞窟の入り口から高い声が響いた。
「あっ! セラさん、起きてたんだ。翼の怪我は痛まない?」
リースは笑顔を浮かべながら、鞄の中に詰めた果物を抱えてセラに向かって歩いてくる。
そんなリースの姿を見たセラは、頭で考えるより早くリースを抱きしめていた。
「ふぇっ!? せ、セラさん!?」
膝立ちのセラに突然抱きしめられたリースはその花のような香りに驚きながら、両手で抱えていた果物を落とす。
セラは無言のままリースを抱きしめ、その小さな肩に頭を乗せると、不満そうに頬を膨らませて涙をこらえていた。
「えっ……と……」
突然のセラの抱擁に驚いたリースはその手を空中にさ迷わせ、どうしたものかと思案に暮れる。
しかし自身を抱きしめるセラの力を強く感じたリースは、とりあえず自分がされて嬉しいことを考え、やがてセラの頭にぽんぽんと手を置いた。
「っ!?」
リースの小さな手の感触を感じたセラは一度目を見開くが、やがて気持ちよさそうに目を細め、リースを抱きしめる手の力を緩める。
そんなセラの羽が微かに動いているのを見たリースは、恐る恐る手を動かしてその頭を撫でた。
「えっ……と。こ、こう、かな……」
「っ!」
リースは少し恥ずかしそうに頬を赤く染めながら、たどたどしい動きでセラの頭を撫でる。
セラはその手の感触に気持ちよさそうな表情を浮かべ、背中の羽を微かに動かした。
しかし怪我をしているセラの翼はその瞬間痛みをセラに伝え、思わずセラは「痛っ……!?」と声を上げた。
「い、痛かった!? ごめんねセラさん!」
「あっ……」
リースは驚きながらセラの身体を離し、申し訳なさそうに眉を顰める。
しかし温もりを失ったセラは不満そうにそっぽを向いており、リースの視界からは表情を見ることもできない。
顔を背けてしまったセラを見て不安になったリースは眉を顰め、さらに言葉を続けた。
「あの、えっと。セラ……さん?」
「……っ」
セラはあさっての方向に顔を向けながら、その目に涙を溜める。
リースの暖かさに再び触れたセラは冷静さを取り戻し、先ほどまでの自身の姿を思い返していた。
『私、何してたの? こんな坊や相手に、何を……っ!』
「???」
先ほどまでの自分の行為を振り返り、その頬をどんどん赤らめていくセラ。
リースはそんなセラの様子に疑問符を浮かべながら、不思議そうに首を傾げていた。