第19話:証言
“第十五番書庫”と書かれた木製の看板は、担当職員によっていつのまにか綺麗に修繕され、設置されたその時と同じように、壁に立てかけられている。
リリィはガントレットに包まれた手でそっと看板に触れると、奥歯を噛み締めた。
デクスは悲痛な面持ちで、自らの身体を抱きしめるように胸の下で腕を組み、瞳を閉じる。
意を決するように息を吸い込んだリリィは、背後に立つデクスへと向き直った。
「デクス。この中に、半年前に発生した事件の被害者がいる……そう、言っていたな」
リリィは最後の確認をするため真っ直ぐにデクスを見つめ、言葉を紡ぐ。
その手の平はいつのまにか固く握られ、内面にある決意を表しているようだった。
「ええ。その、通りですわ。今の時間なら彼女も、中にいるでしょう」
デクスもまたリリィと同じように眉間に皺を寄せ、ドアに向かって数歩歩みを進める。
金属製のひんやりとしたドアノブに手をかけると、最終確認をするようにリリィへと視線を送った。
「ああ。やってくれ、デクス。私ももう、覚悟はできた」
リリィの瞳と声色を受けたデクスは小さく頷き、“第十五番書庫”のドアを開く。
つい先ほど来たばかりなのに、随分と久しぶりにこの場所に立っているような、そんな感覚。
リリィは意識をしっかりと保ちながらも、心の中に蠢く“否定”の感情と共にドアをくぐった。
開いたドアの先に、薄暗い空間が広がる。
立ち並んだ本棚は微かにその姿を見せるが、それ以外に気配は感じられない。
その感覚が間違いだと知っているだけに、リリィは眉をひそめ、その暗闇の先をじっくり
と見つめた。
「明かり……点けますわね」
「っ!? あ、ああ、頼む」
背後から聞こえた声に驚きながらも、リリィはかろうじて返事を返す。
デクスは小さく頷くと、点灯装置に手を伸ばし、部屋の中に光を灯した。
「??? あの。どなたか、いらっしゃいますか? ……リリィさん?」
「―――っ」
明るくなった部屋の奥から聞こえる、か細い声。
もともと小さかったであろうその声は、不安のせいかさらに細くなり、リリィの耳にかろうじて届く。
リリィはそんな声を聞いているのが耐えられず、たどたどしくも返事を返した。
「シリ、ル」
「!? あ、やっぱりリリィさんだったんですね! えへへ……」
シリルは予想が当たったことが嬉しいのか、それとも別の理由か、頬を赤く染めて恥ずかしそうに笑みを零す。
黒い包帯はそんなシリルの顔半分を覆い隠し、その瞳に宿る光を伝えてはくれない。
リリィは目の奥が歪み、吐き気をもよおすような頭痛を感じた。
「…………」
そう、ずっと、わかっていた。
あんな年端も行かぬ少女が車椅子に乗り、あまつさえその両目を失うなど、そうそうあることではない。
せめて、せめてその原因が事故であることを、リリィは祈った。
しかし現実はいつも冷たく、それでいて残酷に、突然に、その姿を晒す。
シリルの膝の上にかけられたブランケットの下に、本来あるはずの膨らみは見えず、その顔には、黒い包帯が幾重にも巻かれている。
それら全ての事実から目を背けたい気持ちを抑え、リリィは真っ直ぐにシリルを見つめた。
「シリル。昨日以来、だな。元気にしていたか?」
リリィはガントレットを外し、その手でシリルの頭を撫でると出来るだけ柔らかな声色で言葉を落とす。
シリルは頭を撫でられる感覚をくすぐったそうにしながら、嬉しそうに返事を返した。
「はいっ。元気でしたよ。今日は昨日より暖かくて、鳥さんも嬉しそうに鳴いてました」
まるで両親に今日の出来事を報告する子どものような無垢な笑顔で、シリルは声のした方向へと顔を向ける。
ほんの少しズレてしまった目線を、リリィは半歩動くことで交差させると、言葉を返した。
「そうか。それは何より、だな……」
「??? リリィさん?」
様子のおかしいリリィの声色を聞き取ったのか、シリルは疑問符を浮かべながら首を傾げる。
リリィの後ろに立っていたデクスは、小さくヒールを鳴らしてシリルへと近づいた。
「っ! この音……デクスさん? デクスさんもいらしてるんですか?」
「ええ、シリル。その通りですわ。わたくしもいます」
デクスは胸の下で腕を組み、出来るかぎり平静を装って慎重に言葉を選
んでいく。
シリルはそんな状況にますます疑問符を浮かべ、反対側に首を傾げた。
「お二人がこんなところにいらっしゃるなんて、珍しいです。もしかして何かあったんですか?」
シリルは不安そうに眉をハの字にしながら、リリィのいる方角を見つめる。
リリィはシリルの頭を優しく撫でながら膝を折り、鼓動の早さを悟られないよう、ゆっくりとした口調で返事を返した。
「いや、何かあったわけではない。ただ私たちは、シリルに話を聞きに来たんだ」
「??? は、はい。わたしのわかることなら何でもお答えしますが、お二人にわからないことが私にわかるかどうか……」
シリルは不安そうにリリィのいる方角を見つめ、言葉を紡ぐ。
デクスは一度瞳を閉じると、意を決したように目を見開き、シリルへとさらに近づいていく。
やがてリリィと同じように膝を折ってシリルの目線に合わせると、出来るかぎり冷静に言葉を紡いだ。
「シリル。実は最近この図書館で、行方不明者が続出しているんです。そして、特に行方不明者が増え出したのが……丁度、半年前なのですわ」
「っ!? はんとし、まえ……」
デクスの言葉を聞いた瞬間、シリルの顔からはみるみる内に血の気が引いていく。
その小さな両手は膝にかけたブランケットを強く握りしめ、微かに震えているようにも見えた。
「シリル。申し訳ないのですけれど、事件の事、少しだけ話してもらえませんか?」
シリルの様子を見たデクスは眉をひそめ、決心が揺らぐが、心を鬼にして言葉を紡ぐ。
しかし次の瞬間、シリルのその小さな口から、予想だにしない言葉が帰ってきた。
「デクスさん。わたし、話します。少しでもみなさんの役に立つなら、協力、したいんです」
「っ!? シリル、あなた……」
シリルは肩を震わせ、瞼の下に涙をいっぱいに溜めながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。
自分自身の光と両足を奪った、忌まわしい事件。
被害者の、それも年端もいかぬ少女がその事件を思い出し、話をするのは、一体どれほどの苦痛を伴うだろう。
リリィは胸の奥に鈍い痛みを感じ、右手で胸元を押さえて奥歯を噛んだ。
「すまない、シリル。だが私は、ここにいる。シリルが望む限り、私はここにいるからな」
「あっ……」
ブランケットを握り締めるシリルの手に、リリィはそっと自らの手のひらを重ねる。
包み込まれるような暖かさに、シリルの体から力が抜けていった。
「…………」
デクスは自らの手のひらを見つめ、ほんの少しだけ、瞳を揺らす。
自分のこの凍てついた手のひらで、シリルの心を溶かすことはできない。
ならばせめて声だけは、彼女の言葉を引き出すその声だけは、しっかりと届けようと、デクスは瞳を閉じて、心を決めた。
「シリル―――わたくしも、ここにいます。だから安心なさい。何があっても、わたくしとリリィさんが、あなたを守りますわ」
「デクスさん……」
デクスは欠片の躊躇も迷いも無く、力強い声色で、言葉を紡ぐ。
シリルはそんなデクスの声に安らぎを見つけ……ゆっくりと、口を動かした。
「わたしが、この図書館に来て、丁度1カ月くらい経ったころ……いつものように研究室のお手伝いを終えたわたしは、第八番書庫で、大好きな小説を読もうとしていました。本棚の高い位置にあったその本をなんとか取ってきて、机の上で本を広げたその、時に―――」
シリルはブランケットを強く握りしめ、その小さな手の甲は、大きく震え出す。
リリィは咄嗟にシリルの手を握る力を強め、自らの体温をその手に送った。
「本を開いたら、急に目の前が、まっくらになって。たすけてって、叫んぼうとしたけど、口を何かで塞がれて……こわくて、なにもできなくて、ストリングス様の名前を、デクスさんの名前を、なんどもこころの中でよびました。でも―――っ。……ひっぐ……!」
シリルの瞳から涙は流れず、代わりにしゃくりあげる声が、部屋中に響き渡る。
デクスは車椅子の肘置きを痛いほど握りしめ、奥歯を強く噛み締める。
あの夜のことを、後悔しない日はない。
あの夜の事を思い出さない日など、一日も無かった。
自らの非力を呪い、デクスは瞳を伏せる。
リリィはしゃくりあげる小さな手をしっかりと握り、真摯な瞳でシリルを見つめた。
「シリル。最後に一つだけ、教えてくれ。その日、第八番書庫に行くことを知っていたのは、シリル本人だけだったのか?」
リリィは何度も心の中で葛藤しながら、かろうじて言葉を紡ぐ。
今すぐに抱きしめてやりたい衝動を抑え、代わりにシリルの手を、今度は両手で、しっかりと握りしめる。
シリルはしゃくりあげた喉で、懸命に呼吸を整え、言葉を紡いだ。
「ストリングス様には……いつも行先は、お伝えしていました。夜の図書館は暗いし、心配だから教えておきなさいと、言われていたので」
「―――っ!」
リリィにとって、最も聞きたくなかった一言が、胸を抉る。
出来ることなら、外部の人間の犯行であることを願っていた。
シリルの怪我を癒してやれないならせめて、その傷を広げることのないようにと願っていた。
しかし、やはり、現実はいつも残酷で。
知りたくもない事実を、見たくもない真実を浮かび上がらせる。
リリィは奥歯を噛み締め、今度こそシリルを強く抱きしめた。
「シリル。よく、頑張ったな。もう、大丈夫だ。もう何も、思い出さなくていいから」
「リリィ、さん……」
シリルはリリィの腕の中に収まり、もう何も見えなくなってしまった瞳を大きく見開く。
温かな肌の感触と、どこか懐かしい柔らかな匂い。
それら全てがシリルを包み込み、恐怖に凍った心を溶かしていく。
シリルはその感覚に戸惑いながらも、逃すまいと、自然にその手は、リリィの体を抱きしめ返す。
もう光を灯すことのない、その瞳も。
歩くことを忘れてしまった両足も。
それら全てが震えて、心の奥の感情を引き出していく。
「う……あ……うわあああああああああああ!」
「―――っ」
シリルはリリィの体にしがみつき、泣いた。
黒い包帯は涙に濡れ、ただ残酷にシリルの瞳を覆い隠す。
それでも、無いよりは良い。
欠片のような温かさでも、ないよりはずっと良い。
リリィはそう心で感じながら、シリルの体をそっと抱きしめる。
デクスは両の瞳から冷たい涙を流し、その糸は頬を流れ、地面に向かって落ちていく。
その涙を拭おうともせず、デクスは泣いた。
デクスは泣きじゃくるシリルから片時も目を離さず、ただ涙を流し続けた。
「うっぐ……わああああああああああああ!」
第十五番書庫に、少女の声が、響き渡る。
やってくるかわからない未来ために、少女は、出るはずのない涙を流す。
その事実を、真実を、リリィは瞳の奥にしっかりと焼きつけ―――
窓の奥に浮かぶ夜の月を、ただ真っ直ぐに、睨みつけた。