第196話:遠い記憶の中で
川底に沈んでいくセラの視界には、自身を抱きしめているリースの胸元だけが映る。
懐かしいその暖かさに触れながら、セラはゆっくりとその意識を手放す。
そしてそのまま、自身の中に眠る遠い記憶の中へと落ちていった。
空中を浮遊するウォーレンの里。道は石畳によって綺麗に整備され、木々にとまる鳥達は歌うようにさえずる。
この里の中心には大きな市場があり、そこでは多くの人々が活気ある声を交わしながら、今日もそれぞれの生活を営んでいる。
そして暖かな日の光に包まれた市場の中を、一人の少女が駆け抜けていく。
ほとんどの大人が空を飛んでいる中、少女はその金色の髪を揺らしながら、市場の中央道路をひた走る。
やがて一軒の果物屋に到着した少女は、太陽のような笑顔を見せながら店の主人に向かって言葉を発した。
「おじちゃん。いつもの果物盛り合わせ、ちょーだい!」
少女は無邪気に笑い、肩から斜めにかけたお気に入りのポシェットから財布を取り出すと、店の主人に向かって声を発する。
店の主人は声を張り上げて客寄せをしていたが、そんな少女の声に気付くと嬉しそうに返事を返した。
「おー、セラちゃん! 今日もおつかいか。偉いねぇ」
「えへへ……」
主人はにっこりと笑いながら屈みこみ、セラの頭を優しく撫でる。
セラは気持ちよさそうに背中の羽をぱたぱたと動かすと、少しくすぐったそうに笑った。
「しかしセラちゃん、まだちゃんと飛べてないのかい? 白くて綺麗な羽してるのになぁ」
主人はフルーツの盛り合わせとお金を交換しながら、首を傾げてセラの背中に生えた白い羽を見つめる。
しかしそんな主人の頭に、突然拳骨が落とされた。
「あんたはまた、余計なこと言うんじゃないよ! セラちゃんはこの市場のアイドルなんだ。変なこと言うと殴られるよ!」
「もう殴ってるじゃねえかよぉ!? いてて……」
突然自分を殴ってきた女房の顔を見上げ、涙目になりながら自身の頭を摩る主人。
そんな主人を心配し、セラは眉を顰めながら言葉を紡いだ。
「あの、おじちゃんだいじょうぶ? 痛い?」
セラはその小さな右手を伸ばし、主人の殴られた箇所を優しく撫でる。
暖かなセラの手の感触を受けた主人は、感極まってセラの身体を両手で高く持ち上げた。
「うおお、セラちゃん! 俺の味方はセラちゃんだけだぁ!」
「ひゃう!? お、おじちゃん、高いよぉ!」
突然高くなった視点に驚き、セラは両手を胸元に寄せながら言葉を返す。
するとそんな主人の周りに他の商店の店主達が集まり、口々に声を荒げ始めた。
「あっ!? ずるいぞ果物屋! 俺もだっこさせろ!」
「ていうか俺も頭! 頭摩ってくれ!」
「俺も俺も!」
いつのまにか果物屋の周りには多くの店主達が集い、セラに向かってわいわいと声を集める。
セラは困惑した様子でそんな店主達を見回していたが、やがて他の店主達の頭にもそれぞれの女房から拳骨が落ち、その場は静寂を取り戻した。
「ほら、あんたもいい加減下ろしてあげな! ごめんねぇセラちゃん。うちの旦那馬鹿だからさ」
女房の一括を受けた果物屋がセラを地面に下ろすと、今度は女房が屈んでセラと同じ視線の高さに合わせ、そのまま言葉を紡ぐ。
そんな女房の言葉を聞いたセラは、再び太陽のような笑顔を浮かべた。
「あ、えっと……だいじょうぶ。ちょっとびっくりしただけだから」
セラは背中の羽をぱたぱたと動かしながら、無邪気な笑顔を女房へ送る。
女房はその笑顔に感激すると、口元に手を当てながら返事を返した。
「あーもう、かわいい。セラちゃんがうちの子ならよかったのに」
「???」
女房は小さくため息を落としながら、セラに向かって言葉を紡ぐ。
セラはそんな女房の言葉の意味がわからず、不思議そうに首を傾げていた。
そして周囲の店主達はそんな女房の言葉に反応し「それを言うならうちにも欲しいぞ!」と声を荒げていた。
しかしそんな店主達の声を無視して女房は立ち上がると、店先から赤い果実をひとつ手にとり、セラへと優しく手渡した。
「ほらこれ、おまけだよ。セラちゃんこの果物好きだろう?」
「わぁぁ……! うん! ありがとう!」
セラは赤い果物を両手で受け取ると、花が咲いたような笑顔を見せる。
そんなセラの笑顔を見た女房は優しくセラの頭を撫でながら、微笑みつつ言葉を続けた。
「本当にかわいいねぇセラちゃんは。きっと将来はとびきりの美人さんになるよ」
「えへへ……じゃあじゃあ、お母さんみたいになれるかな?」
セラは嬉しそうな笑顔を見せながら、首を傾げて質問する。
そんなセラの言葉を受けた女房は、力強く頷きながら返事を返した。
「ああ、もちろん。お母さんみたいな美人さんに、きっとなれるよ」
「えへへぇ……そうかなぁ」
セラは少し恥ずかしそうに頬を赤らめながら、ぎゅうっと赤い果物を抱きしめる。
背中の羽は先ほどより早くぱたぱたと動き、まるでセラの喜びに連動しているようだった。
「あ、ところでセラちゃん。今日は早く帰らないといけないんじゃないかい? 大事な日なんだろう?」
果物屋の店主は拳骨のダメージから回復したのか、ぽんっと自身の手のひらに拳を当てながら言葉を発する。
そんな店主の言葉を受けたセラは、びっくりした表情を浮かべて返事を返した。
「あ、そうだ! 今日はおとうさんの誕生日だから、早く帰らなくちゃ!」
セラは自身の手を口元に当て、大きな声で返事を返す。
店主はそんなセラの頭を優しく撫で、ぐっと親指を立てて見せた。
「それじゃ、早く帰んな! セラちゃんいなかったら、きっとお父さん泣いちまうぞぉ? 少なくとも俺は泣く!」
「また情けない事言って……」
女房は自信満々で言葉を発する店主に頭を抱え、呟くように言葉を落とす。
そんな店主の言葉を受けたセラは、こっくりと頷きながら笑顔で返事を返した。
「ん、ありがとうおじちゃん! 私行くね!」
「おう! 気をつけてなぁー!」
セラは踵を返し、自身の家に向かって駆け出していく。
店主はぶんぶんと片手を振り、そんなセラを笑顔で見送った。
なお、帰路の途中で様々な店の店主から話しかけられたセラは、買ってもいないのに大量のおまけを貰い、大荷物にふらふらしながら自身の家に到着することになるのだが……それはあと少しだけ、先のお話。