第193話:孤独なその世界で、彼女は泣き続ける
「はぐっ……はぁっはぁっはぁっ……」
ワームサイドの一角にある部屋の中で、セラは険しい表情を浮かべながら自身の体に刻まれた傷に薬を塗りこんでいく。
非常に高価なその薬の効果はめざましく、治癒はしないまでも出血はとりあえず抑えることができた。
セラはばったりと身体をベッドに倒し、乱れた呼吸で天井を見上げる。
「はぁっ……私、なにやってるのかしらぁ」
対象の命を奪うこともできず、怪我を負って自身の部屋に帰ってくる。
それは彼女にとって初めての経験だった。
今まで殺し損なった対象はいない。気に入らない依頼人を殺してしまうことはあったが、一度仕事を引き受ければその成功率は100%だった。
仕事を失敗したことに対しての後悔と悔しさ。それはセラの中に確かに渦巻いている。
しかし―――今の彼女には、それよりもずっと気にかかっている事があった。
「何で、あの時……」
奪えるはずだったリースの命を、自分は刈り取れなかったのか。
いや、刈り取ろうという決心はできた。殺さなければいずれ自分が殺される。だから殺すしかないとずっと昔に納得もしていた。
しかし今回は……決心に至るまでの時間が、自分にしてはあまりにも長すぎる。
相手はただの少年。大いなる可能性と器は感じたし、一夜の情事をしてみたいという欲求も生まれた。しかしだからといって、殺さない理由にはならない。
何せ相手は、自分の仕事の目撃者なのだ。目撃者は例外なく消さなくてはならない。
なのに―――
「なのに、なんで……」
セラはその問いの答えを見つけることができず、自身の額に手を当てて火照った身体の体温を感じる。
少し冷たいその手は心地よく、気付けばセラは夢見心地になっていた。
「…………」
セラはとろんとした目で天井を見つめ、ゆっくりとその瞼を落としていく。
そんなセラの瞼の裏には、あの時見たリースの青い瞳が、いつまでも映って離れなかった。
色の存在しない冷たい世界を、セラは歩いている。
視界にはただ直線と曲線だけがぼやけて存在し、風はおろか空気の存在すら感じない、無機質な世界。
セラはそんな世界の中を、一人歩いている。
ずっと歩いていたら、自然と涙が出てくる。しかしその涙の感触さえも、その頬には感じない。
視界がずっとぼやけていて、自分の泣き声だけが響いている。
そんな世界の中でセラは再び、赤い花を見つける。
赤い花にすがりつくように近づいたセラは、手の甲で涙を拭って慎重にその花を摘み取る。
しかし―――
「あ……あっ……!?」
やはり摘み取った花はすぐにその色を失い、気付けば両手には黒い砂だけが残る。
どうしても、手に入れることができない。
やがて全ての花々はセラが近づくだけで、その色を失うようになった。
そしてセラは再び、色の無い世界に戻される。
セラは顔を横に振りながら黒い砂の付いた両手で顔を覆い、ポロポロと涙を流した。
「い、や……いや。ひとりにしないでぇ……!」
両手の下に隠されたその瞳から、とめどなく涙は溢れる。
しかし世界は冷たいまま、セラに救いの手を差し伸べることはない。
色の無い世界で一人、セラは泣き続けている。
涙でぼやけた視界は変わることなく、その身体は冷え切っている。
しかし―――そんなセラの身体を、暖かな一陣の風が包み込んだ。
「えっ……?」
自身の背後から吹いてくるその風は温かく、冷え切ったセラの身体を優しく抱きしめる。
セラは呆然としながら、自身の背後へゆっくりとその身体を向けた。
「だ、れ―――だれ……?」
風が吹いてくるその先から、微かに声が聞こえる。
それは優しく暖かな声で、自分の名を呼んでいるように感じる。
セラはその声の主が知りたくて、溢れてくる涙を拭いながら色の無い世界の地平線を見つめる。
それでも涙でぼやけた視界では、前さえもよく見えなくて。
セラはその細い両手をさ迷わせるように前へと伸ばし、溢れ出てくる涙にも構わず、声を吐き出した。
「だれ……? だれなの……?」
セラはすがりつくような表情を浮かべ、涙をポロポロと流しながら、必死にその両手を地平線に向かって伸ばす。
しかしその両手は、温かな風を力なく掴むだけ。
その暖かさにもっと触れたくて。もっと近くに感じたくて。
セラはぼやけた視界でずっと、その両手をさ迷わせている。
そしていつからか風は失われ、先ほどまで響いてきた声も聞こえない。
そんな現実に絶望し、セラは涙に濡れた両目。光を失った両目を見開いた。
「ひっく。い、や。いかないで。ひとりに、ひとりにしないでぇ……!」
セラは溢れてくる涙を手のひらで拭い、そして俯く。
色のない地面を見つめて、しゃくりあげながら乱れた呼吸を繰り返す。
やはり世界は、セラに対して冷たいままで。
先ほど感じた温もりを求めて、セラは右手を強く自身の前方へと突き出した。
「えっ……」
目が覚めると目の前は、見慣れた自室の天井だった。
気付けばセラは右手を天井に突き出し、その両目からはポロポロと涙が溢れている。
「なに、これ。止まらな……っ!」
セラは自身の手のひらで涙を拭うが、次々と涙は溢れてくる。
いつも見る夢を、今日も見ただけ。
いつも見る悪夢に、今日もうなされただけ。
でも今日は、何かが違った。
暖かな風に包まれている間は本当に幸せで、幸せすぎて身体が震えるほどだった。
そのせいだろうか。夢から覚めた今も、涙が溢れて止まらない。
窓から吹き込んでくる暖かな風はセラを包み込むが、涙は止まることを知らない。
セラは両手で自身の目を覆い、奥歯を強く噛み締めた。
「もうっ、なんなの、よぉ……!」
とめどなく溢れる涙はセラの顔の横を通り、やがて枕に落ちていく。
セラはその涙を両手に感じながら……やがてしゃくりあげるような声を、たったひとりで部屋の中に響かせていた。