第182話:バー・オールズビート
港町の空を、金髪の女性が背中の翼を動かしながら羽ばたいていく。
女性は最後に一度だけ少年の部屋を見返すと、楽しそうに笑って街の上空を滑空する。
やがて一軒のバーの看板を視界に収めると、上機嫌で地面へと降り立った。
やがて女性は鼻歌交じりに、バーのドアを開く。
重厚な音楽が木製のカウンターを叩き、店の中全体に響き渡っているそのバーは、落ち着いた空気が流れていた。
バーのマスターは今日もこだわりのグラスを磨き、時折横目でお客様の顔色を確認する。
会話の盛り上がっている男女には極力近づかず。落ち込みにきているようなお客様には、心ばかりのサービスを。
隠れファンの多いバー「オールズビート」には、今日も当たり障りのない人数の客達で賑わっていた。
そんなバーへ来店した、金髪の女性。
新たな来店者の姿は、その場にいたほとんどの客達の目を釘付けにした。
「ふふっ。今日は良い子だったから、なんだか調子がいいわぁ」
全身を白い布で覆った金髪の女性は、胸元の豊満な膨らみを隠そうともせず、挑発的にヒールの音を響かせる。
歩く度にその胸は揺れ、宝石から抽出したような美しい金の髪は店内に流れる音楽に合わせて弾むように踊る。
背中に生えた大きな羽は絶対の白を讃え、服の色と相まって、初見の者には女神かあるいは天使にしか見えないだろう。
女性は慣れた様子でカウンター席に腰掛け、マスターへと横目で視線を送った。
「……こちら、いつものでございます」
マスターは手際よく果実から精製したお酒を木製のカウンターへ差し出し、低い声で接客する。
ひんやりと冷たいグラスに火照った指を当て、女性は挑発的な視線で店内を見渡した。
「ありがと」
女性は嬉しそうにグラスを手に取るとお酒を一口飲み、相変わらず官能的な視線で店内を見渡す。
紳士淑女が集まるこのバーで、今ほとんどの男性の視線が彼女へと向けられている。
しかし彼女の興味は、どうやらその辺りにはないようで……誘うような紳士達の目線もまったくの空回り。
次々と撃沈していく紳士達はそのまま、敗北の酒を喉に流した。
「やっぱりこのお店、落ち着くわぁ。お酒も美味しいしね」
「ありがとうございます」
マスターは小さく頭を下げるが、女性に視線を向けることなく手元のグラスを磨いている。
そんなマスターの態度に満足したのか、女性は嬉しそうにもう一口お酒を飲んだ。
「今日は本当に良い日だったわぁ。あの子、また会っちゃおうかしらぁ」
「…………」
上機嫌で話す女性の話を聞いているのかいないのか、マスターは無言のまま手元のグラスを磨く。
そんなマスターの様子を見た女性は、嬉しそうに笑いながらグラスを傾けた。
「……ふぅ。おいしぃ」
女性はうっとりと笑いながら、少しだけ頬を赤らめてグラスに注がれている赤い果実酒を見つめる。
お酒と自分と音楽だけが存在する、その空間。
落ち着いたその場所はとても居心地が良くて。彼女は嬉しそうに今日もグラスの中のお酒を見つめる。
しかしそんな時間を叩き壊すように、入り口のベルが乱暴に打ち鳴らされた。
「なぁんだ……もう来ちゃったの。興醒めだわぁ……」
ドアを開けて入ってきた人物を見る事もなく、女性は憂鬱そうなため息を落とす。
店に入ってきたのは、下品な笑顔を浮かべた黒服の男と、無表情な中年の男性だった。
この場の雰囲気にそぐわないその二人は大きな白い翼を見つけると、迷わずこちらへと歩みを進めてきた。
「ぶふぅっ。お前がdeath13(デスサーティーン)だな? 噂通りの
び、美女だ」
黒服の男は下品な笑顔を浮かべながら、舐めるようにdeath13と呼んだ金髪の女性を見つめ、舌なめずりする。
そんな男に視線を向けることも無く、不機嫌そうにdeath13はため息を落とし、やがて返事を返した。
「無事明日を迎えたいなら、さっさと用件を言ったらぁ?」
death13はグラスの中の氷を鳴らしながら、不機嫌そうな表情で言葉を返す。
黒服の男は彼女の言葉の意味を理解していないのか、相変わらず汚い笑顔を浮かべながら言葉を続けた。
「ぶふぅっ。こ、こちらが、今回の依頼人だ。依頼内容は“暗殺”。そし
て対象は……こいつだ」
黒服の男は上着の内ポケットに手を入れ、death13の持っているグラスの下に一枚のイラストを挟み込む。
そのイラストの中では黒いマントに黒いフードを被った剣士らしき人物が、丁寧なタッチで描かれていた。
death13はいつのまにかそのイラストを手に取り、興味のなさそうな表情でそれを眺めた。
「ふぅん……顔見えてないけど、まあいいか。受けてあげるわぁ」
death13は自身の懐事情を鑑みて、依頼を受けることを黒服の男へ伝える。
黒服の男は汚い笑顔を浮かべながら、death13へと言葉を続けた。
「ぶふぅっ。そ、それはありがたい。ところで君、この後の予定は空い
てるのかな?」
黒服の男はdeath13の豊満な胸を見ながら、口の端に涎を溜めて言葉を発する。
death13は小さく息を落としながら、面倒くさそうに返事を返した。
「一度しか、言わないわぁ。依頼を達成したらまたここに来るから、そ
の時までその臭い口、閉じてなさぁい?」
death13は意図的に黒服の男から目線を避け、いつもより低い声でゆっくりと言葉を返す。
そんな彼女の言葉を聞いた黒服の男は、めげることなくその手をdeath13へと伸ばした。
「つ、つれないな。少しくらい―――」
「……はぁ」
death13がため息を落とした瞬間―――黒服の男は跡形もなくその場から消え去り、痕跡すら残っていない。
横に立っていた依頼人の男は両目を見開き、その場で腰を抜かした。
「ひっ……え……!?」
依頼人の男は状況が理解できず、カタカタと震えながらdeath13を見上げる。
黒服の男は確かにさっきまで、目の前に立っていた。
しかし今ではその姿はおろか、立っていた痕跡すら見当たらない。
突然目の前の人間が消失した恐怖。そして状況から判断するに、death13が何かをしたことは間違いない。
しかしその“何か”が、依頼人の男には想像ができない。
想像ができないから、怖い。依頼人の男は失禁しそうになるのを賢明にこらえながら、震える身体を抱えて無言のままdeath13を見上げていた。
「……賢明、ね。もし一言でも喋ったら、あなたも同じことになってた
わぁ」
death13はカウンターの席から降りると、地面に尻餅をついた依頼人の男の横を、ヒールを鳴らしながら歩いていく。
バーのドアを開ける瞬間、一度だけdeath13は振り返り、マスターに向かって言葉を紡いだ。
「そうそう、マスター。悪いけどぉ、今日のお代はツケにしておいてね
ぇ?」
death13はにっこりと微笑みながら、バーのマスターに向かって手を横に振る。
マスターは相変わらずグラスを磨きながら、低い声で返事を返した。
「……かしこまりました。本日のお代は、セラ様の請求分に上乗せしておきます」
「ん。よろしく~♪」
death13……もといセラは、ぷらぷらと手を振りながらバーを後にする。
セラが去った後のバーのカウンターには、耐え切れず失禁した依頼人の男性と、静かに頭を抱えたマスターだけが残されていた。