第11話:デクスとアニキ
「ふふっ。やはり適材適所、でしたわね。さすがわたくし」
デクスは小さくガッツポーズを決めながら、軽い足取りで廊下を歩いていく。
リリィの働きのおかげで思ったより早く仕事は片付きそうだし、もしかしたら久しぶりに、部屋で読書をする時間が取れるかもしれない。
「そうなると、読む本が問題ですわね。大体の文字数から必要時間を計算して、より多くの本が読めるように計画……を……」
「あん?」
廊下の角を曲がったデクスの瞳に映る、疲れたように色あせた“赤”。
アニキは両手をだらんと垂らして、気だるそうにデクスを見上げた。
「あんだよ。またおめえか。随分嬉しそうだったけど、何かあったのか?」
「なっ……あ……あな、あなっ……!?」
「穴ぁ? 何言ってんだおめえ」
「ちがっ!? あ、あなたには関係ないと言っているのです! それより、仕事はもう済んだんですの!?」
デクスは耳まで真っ赤に染めながら、びしっとアニキを指差し、声を荒げる。
アニキは面倒くさそうに小指で耳をほじると、気だるそうに返事を返した。
「あ? ああ、もう大体終わったぜ。俺を引っ張ってった姉ちゃん達は、先に寝ちまったみたいだけどな」
「…………」
アニキのぶっきらぼうなその言葉に、デクスは内心、納得していた。
アニキが歩いてきた方向には、職員たちの宿舎がある。
だとすれば……考えうる可能性は一つしかない。
「ふぅ。あれだけ大量の本を整理しながら、女性二人を宿舎まで運ぶなんて……相変わらずの体力馬鹿ですわね。呆れて言葉も出ませんわ」
「ああん!? 俺だって好きでやったわけじゃねえ! あいつらが寝ちまって邪魔だったから運んだだけだ!」
アニキは面白くなさそうに腕を組み、声を荒げる。
デクスは口元を隠しながらズレた眼鏡を指で押し上げ、言葉を続けた。
「そう。一応、お礼は言っておきますわ……職員の世話をしてくれて、ありがとうございます」
「―――は!? あ、お、おう。わかった……」
予想だにしないデクスの言葉に呆けながら、かろうじて返事を返すアニキ。
どうせまたぎゃあぎゃあ騒がれると思っていたのに、素直に礼を言われるとは、思ってもみなかった。
「なんですの、その顔は。自分の組織の人間が世話になったのですから、お礼くらい当然ですわ」
デクスは不満そうに目つきを鋭くしながら、アニキを睨みつける。
その瞳の奥には、どこか拗ねているような色が隠れていた。
「お、おう。まあ、そりゃそうなんだけどよ」
アニキはばつが悪そうに頭を掻き、デクスの透き通った銀の瞳を見つめる。
デクスは眼鏡を押し上げながら横を向き、遠くの山々の間に浮かぶ月に視線を移した。
その後いつものようにため息をひとつ落とすと、アニキから目線を外したままの状態で言葉を続ける。
「それで、その、あなた―――本当にあの事は、覚えていないんですの?」
デクスはちらちらとアニキへ視線を投げつつ、言いにくそうに言葉を紡ぐ。
胸の前に置かれた手の平には、微かに汗がにじんでいた。
「あん? あの事? 何の話だそりゃ」
アニキは要点を得ないデクスの言葉に疑問符を浮かべ、訝しげな表情を浮かべる。
真っ直ぐに見つめたデクスの瞳が、一瞬だけ揺らいだ。
「―――っわたくしの、この、クロスの話です! あなた本当に覚えていませんの!?」
デクスは慌てた様子で胸元から十字架のネックレスを取り出し、アニキに向かって思い切り突き出す。
その勢いにアニキは半歩後ろに下がりつつも、言葉を返した。
「はあ!? だから覚えてねえって! なんなんだおめえはよ!」
煌びやかな装飾ながら、鋼鉄で頑丈そうなそのネックレスは体の下半分が欠け、もはや十字としての様相を呈していなかった。
ある種歪なその姿に、信仰を表す意味はもはや込められていないのかもしれない。
「そう……まあ、良いですわ。わたくしの十年来の復讐も、ようやく完了したわけですし」
デクスは呆れたようにため息を落とし、夜空の月を見上げる。
いつもより透き通って見えるその月は、まるで何かを祝福しているかのように思えた。
「復讐ぅ? さっきの氷漬けの話かよ? 確かにありゃ、寒くてマジできつかったぜ」
アニキはぶるっと肩を震わせ、先ほどまで感じていた悪寒を頭の中で反芻する。
出来ることなら、二度としたくない経験なのだろう。
「ふふっ。やはりあなたには、一番効果的な攻撃でしたわね―――――さっきのあなた、中々傑作な顔してましたわよ」
デクスは口元を手の平で隠し、必死で笑いを堪える。
先ほどまでの冷たい雰囲気とは違う表情に、アニキは一瞬呆気に取られるが、すぐに噛み付くような声を返した。
「はあ!? さっきからおめえ、喧嘩売ってんのか―――」
「はい。話は、ここで終わり。明日の朝も早いのですから、さっさと眠っておくことですわね」
デクスは機敏な動きで踵を返し、そのままヒールを鳴らして廊下を歩いていく。
意味不明な言動に混乱しつつ、デクスの最後の一言に、アニキはかろうじて反応を返した。
「っておい!? ちょっと待てや! 俺は明日も働くなんて聞いてねえぞごらあああ!」
アニキは両拳から炎を噴出しながら、吹き抜けの廊下に雄たけびを響かせる。
デクスはそんなアニキに振り返りもせず、廊下の角を曲がってその姿を消した。
「ふう。まったく、あの男……何も、変わっていませんわ」
デクスは頭の後ろで束ねていた銀の髪を解き、月光の下で解き放つ。
小さな束縛から解放されたデクスは、気持ちよさそうに頭を振った。
「復讐、か。まったく我ながら、色気のない言い方ですわ」
デクスは苦笑いを浮かべながら唇にその白い指を当て、変わらぬ歩みを進めていく。
星と月の光が交差する、ガラス張りの廊下。
銀に輝くその髪はどこか嬉しそうに、その体を揺らした―――
「チッ。ったく、結局明日も強制労働かよ」
アニキは乱暴にズボンのポケットへ両手を突っ込み、ガニ股で歩いていく。
ふと廊下の壁に視線を移すと、銀の装飾が掘り込まれ、廊下のずっと奥深くまで美しい曲線を描いている。
不意に本を抱きしめて嬉しそうに歩くデクスの姿が、頭に浮かんだ。
「あの馬鹿、嬉しそうにしやがってよ……」
アニキは歯を見せて笑いながら、ガラス張りの天井と、その上に輝く星空を見つめる。
今まで見たことのないその暖かな瞳は、幾千の星をとらえ、いつかの青空を呼び覚ます。
少しだけ眩しそうに目を細めると、アニキは再び廊下の先を見据え、歩き始めた。
「ま、何より……ってとこか」
アニキはどこかくすぐったそうに笑いながら、星空の廊下を歩いていく。
今夜泊まる予定の宿舎まで、あと数百メートル。
夕飯を何にすべきかと思案していたアニキの耳に、微かな音が響いた。
『あ、あのっ。今日は本当に、ありがとうございました! すっごく臨場感があって、その……とにかく、楽しかったです!』
『ふふっ。そうか、それは何よりだ。でも礼はいらんぞ。これも仕事だし、何より私も、楽しかった』
「あん?」
突如開いたドアの向こうから、にこやかに現れるリリィ。
ばったりと出会った二人は、まるで申し合わせたかのように目が合った。
「ああ!? てめえしばらく見ないと思ったら、こんなとこでサボタージュかゴラァ!」
アニキは思い切りリリィを指差すと、噛み付くように言葉をぶつける。
自分は丸一日本を運ばされ、苦手な女性二人にどやされて……それに対しリリィは、楽しげな笑みを浮かべながら少女と談笑。
これでは世の不条理を感じても仕方なかった。
「なっ、いきなり何だ貴様! 私は別にサボっていたわけではない!」
リリィを指差して怒号を響かせるアニキと、素早く反論を返すリリィ。
シリルは突然聞こえてきた大声に驚いたのか、ぴくんと肩をいからせた。
「あっ、すまないシリル、驚かせたな……。この男は凶暴だが、何もとって食おうと言うのではない。安心するがいい」
リリィは出来るだけ暖かな声で言葉を紡ぎ、安心させるようにシリルの頭を撫でる。
シリルはそんなリリィの手に身を委ねると、やがて呼吸を整えていった。
「は、はい。大丈夫、です。えっと、この方は、リリィさんの……?」
「ああ、お荷物だ。それも可燃性の」
「をい」
あんまりなリリィの物言いに、静かなつっこみを入れるアニキ。
一度自らを落ち着かせるように息を吐くと、気を取り直して少女を見つめた。
「―――それより、てめえは一体なんの仕事をしてたんだ? ……まさかそのガキに、本を読み聞かせてたってわけじゃあるめえ」
「うっ!? は、ははははは……」
思い切り図星を突かれたリリィは乾いた笑いを浮かべ、あさっての方へと視線を向ける。
シリルはわたわたと手を動かし、咄嗟に言葉を紡いだ。
「あっ。い、いえ、違うんです! 私その、本が読めないので、リリィさんが代わりに本を読んでくれて……だから、その、サボタージュとあちがうんでつ!」
「いや、今俺が言ってたのと大体合ってるんだが……つうか噛んでるし」
「あぅ」
シリルはしゅん……と小さくなり、車椅子の上でわかりやすく落ち込む。
リリィはそんなシリルの頭を撫で、今度は落ち着いた口調で言葉を紡いだ。
「確かに、この子に本を読み聞かせていたのは事実だが……これも、臨時職員として当然の責務だ。実際に、デクスから命じられた事でもあるしな」
命令という単語が気に入らないのか、苦虫を噛み潰したような顔で、言葉を紡ぐリリィ。
アニキはそんなリリィの顔を見ると頭をボリボリと掻き、面倒くさそうに言葉を返した。
「チッ、わぁったよ。とりあえずサボってたわけじゃねえのは認める。しかしあのアマぁ、俺にばっかきつい仕事回しやがって……」
アニキは壁に描かれた銀の装飾を見つめ、何かを吐き捨てるように毒づく。
リリィとシリルは疑問符を浮かべ、同時に首をかしげた。
「ふう。まあとにかく、寝床に行くとするか。もう夜も更けてきているからな」
リリィはガラス張りの天井から覗く星空を見上げ、小さくため息を落とす。
山を越え川を越え、モンスターと戦いながらの旅路は、知らず知らずのうちにリリィの中に疲労感を溜めこんでいた。
こんな穏やかな時間を過ごすのは、一体いつ以来になるのか、想像もつかない。
何よりシリルとの時間に安らぎを感じていた自分自身に驚き、リリィは少しだけ困ったように眉をひそめた。
「ん、おう。そーだな、寝るとすっか。確かゲスト用の寝所を使っていいとかなんとか言われた気がする」
アニキは頭の後ろで手を組んで夜空を見上げると、昼間にデクスと話した時の記憶を呼び起こす。
もっとも、どうせ廊下の真ん中でも寝られるのだからと、そのほとんどを聞き流していたのだが。
「はぁ、相変わらず適当な男だな。デクスの話では、この先を右に曲がったさらに先に職員用の宿舎があるから、その空き部屋を使えと言っていたぞ」
リリィは頭痛を抑えるように頭に手を当て、言葉を返す。
念のため自分もデクスの説明を聞いていてよかったと、心の中で安堵していた。
「おーっ、そういやそうだったな。まあなんでもいいや、俺はここでも寝れるし」
「頼むからやめてくれ……」
廊下の真ん中で堂々と大の字になって眠るアニキの姿を想像し、頭を抱えるリリィ。
容易にその姿を想像できるというのが、何よりも悲しかった。