第101話:雨
「はぁっはぁっはぁっはぁっ……」
セイは港から伸びる君乃塚家への道を、笑顔を浮かべながら走っていく。
その懐には紙に包まれた粉末状の薬が揺れ、セイはその薬を大事そうに抱えながら家路を急いでいた。
「やった……やったぞ、カナデ。これで助かるんだ……!」
セイは満面の笑顔で坂を駆け上がり、角を曲がり、君乃塚家へと急ぐ。
そんなセイの頬に、冷たい粒が当たった。
「雨……? くそっ、薬が濡れないようにしないと」
セイは薬を抱きしめるようにして守り、家路を急ぐ。
やがて君乃塚家の玄関に到着した頃には、雨は本降りになっていた。
昨晩は歌うように鳴いていた虫達も今は歌うことを止め、ただ雨が地面を打つ音だけが周囲に響く。
セイは慌てて草履を脱ぐと、真っ直ぐにカナデの部屋へと急いだ。
「そういえばカナデは、雨が好きだったな……。ふふっ、今日は本当に良いことだらけだ」
セイはまるで天がカナデを祝福してくれているような気がして、くすぐったそうに笑いながら、中庭の見える廊下を急ぎ足で歩く。
やがて雨音だけが響く中庭の目の前。カナデの部屋の前に立ったセイは、興奮した様子で言葉を発した。
「カナデ! 僕だ! 入るよ!」
セイはもうカナデの返事を待ちきれず、笑顔で障子を開く。
そんなセイの瞳に飛び込んできたのは……まるで神社の石段から見た山々のような、圧倒的な“赤”だった。
「―――え?」
部屋の中央、布団の上で、うずくまっているカナデ。
その着物は鮮血に染まり、部屋中を赤く染め上げる。
そんなカナデの横には、大切にしていた宝箱が、綺麗な状態で落ちている。
セイは事態を飲み込めず、部屋の奥へと視線を向けると、影の中から一人の男が歩みを進めてきた。
「ふ、ふひひっ……なにが、特効薬だ。この家の実権を握るのは、私なんだ。こんな娘など最初から、いらなかったんだ……!」
狂ったように笑う父。ぴくりとも動かないカナデ。
部屋中に飛び散った鮮血。綺麗なまま置かれた宝箱。
それらの事実が導き出す答えは、ただ一つ。
セイは両目を見開き、気付いた時にはもう、叫んでいた。
「亜アアアアアアアアアアアアアアアアああアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」
セイは両手で頭を抱え、涙を浮かべながら、叫ぶ。
ふらつきながらカナデへと歩み寄るセイ。カナデに触れるとその身体はほんのりと温かく、セイの瞳に一瞬の光が宿る。
しかし次の瞬間カナデはごろんと横たわり、光を失ったその瞳をセイへと見せる。
瞬きもしない目。光を失った瞳。背中と腹部に見える、突き刺されたような大きな傷。
それら全てが、カナデがもうこの世界にいないことを物語っていた。
父親は無表情のままセイへと歩みを進め、やがて口を開いた。
「ふん。最後の最後まで意味のわからない娘だ。腹を貫かれたというのに、こんなガラクタの入った箱を大事そうに守りおって……まったく、理解に苦しむ」
父親は落ちていた宝箱を足で踏み壊すと、ぐりぐりと地面に擦り付ける。
その表情に感情は無く、何も感じてはいない。
「とにかくこれで、私達が君乃塚家の実権を握る事が確定した。さあセイ、私と共に来るがいい」
瞳の光を失ったセイに、言葉を発しながら右手を差し出す父親。
セイは両目を見開き、立ち上がって咆哮した。
「あんたは……あんたはああああああああああああああああああああ!」
セイの咆哮と共に、セイの身体から複数の影が伸び、その影から生じた黒いトゲが父親の右手を襲う。
父親は右手を瞬時に引っ込めると、セイに向かって言葉を紡いだ。
「セイ……父に逆らおうというのか? ならば仕方ない、少し教育してや―――」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
セイは両目を見開いて右手を父親へと突き出し、その右手の影が、部屋全体を一瞬にして覆う。
全方角を影によって包囲された父親は、驚愕に顔を歪めた。
「なっ!? 馬鹿な。一瞬でこれほどの影を生み出すなど……そんなことは、まだ教えて―――」
「あああああああああああああああああああああああああ!」
セイは咆哮と共に、突き出した右手を握り込む。
その刹那、包囲していた影から無数のトゲが父親に向かって猛スピードで襲い掛かった。
「ばっ……!?」
馬鹿な。そう言おうとした父親の身体はすでに無数のトゲによって貫かれ、まるで糸の切れた操り人形のように宙に浮かぶ。
そんな父親の鮮血がカナデの部屋に落ちる前に……セイは父親の遺体からトゲを抜き、中庭へと放り投げた。
「…………」
セイは光を失った瞳で、カナデと宝箱を交互に見つめる。
散らばってしまった宝箱の中身をかき集め、もう壊れてしまった宝箱の上に落とす。
カナデの遺体をそっと布団の中に入れると、宝箱とその中身の残骸を、そっと掛け布団の上に置いた。
「…………」
セイは一言も発することなく、君乃塚家の中を徘徊する。
雨の音にかき消されながらも、屋敷の中から一人、また一人と、断末魔が響いてくる。
雨はますます強くなり、君乃塚家に響く悲鳴を、いつまでもかき消していた。
陽山家の食卓。ろうそくの淡い光の下で、食事を取るカレン。
しかしその表情はどこか暗く、そわそわしているように見える。
「カレン……どうかしたの? 全然箸が進んでいないじゃない」
母親は心配そうな表情で、カレンへと声をかける。
カレンは箸を持ったまま俯き、返事を返した。
「あ、いえ、大丈夫ですお母様。何も……」
カレンが言葉を返しているその最中に、カレンの茶碗に、一本の亀裂が入る。
セイが誕生日にプレゼントしてくれたそれは、まだ使い始めて間もなく、割れるとは考えにくい。
カレンは両目を見開いてその亀裂を見つめると、慌てて箸を置き、席を立った。
「ごめんなさい、お母様。私、ちょっと行ってきます!」
「え、あ、カレン!?」
カレンは席を立つと、急ぎ足で玄関へと向かい、傘を差して外へと飛び出していった。
『この胸騒ぎは、一体何? セイ様、カナデちゃん……!』
カレンは原因不明の胸騒ぎを抱えながら、君乃塚家へと走っていく。
雨はますます強く降りしきり、カレンの目の前の視界すら、次第に奪っていった。