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触れた跡  作者: 山石尾花
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前編

 乾いた冬の風がくじらまくを揺らした。

 黒縁の額の中で微笑む真希まきはどこかぎこちない。それもそのはず、この写真は高校入学の時、学生手帳用に撮ったものだからだ。

 もっと可愛く写っているものがあったはずなのに。父も母もどうしてこんな写真を使おうと思ったんだろう。

 真希はこの世界では命を終えたのかもしれない。真希は死後の世界へ旅立っただけなのだ。黒と白の鯨幕なんかじゃなく、青と白の綺麗なカーテンが、そして線香の香りなんかじゃなく、胸いっぱい吸い込みたくなるようなラベンダーの香りがこの場にはふさわしい。青は真希の好きな色だったし、ラベンダーは真希の好きな花だった。

 もうすぐ通夜つやが終わる。真希に別れを言いにやって来た人もまばらになっていた。

 斎場さいじょうのスタッフが何やらせわしない。裏で明日の葬儀の準備に取りかかり始めたのだ。通夜が終わるまで待てないのだろうか。私が死んでもこの斎場で葬式はあげないでほしい、そう思った。

「この度は誠にしゅうしょうさまでした……」

 少し低めの落ち着いた声、喪服に身を包んだ長身のシルエット。普段は無造作な茶髪も、今日はきっちりとまとめられていた。フォーマルな格好に慣れていないせいか、彼はとても窮屈そうに見えた。服に関わるアルバイトをしているくせに、服に着られているだなんて。人気アパレルショップ店員として失格じゃないか。

 受付で記帳きちょうする彼の姿を見て、私は深くため息をついた。来なければ来ないで薄情者だとののしるだろうし、来たら来たで厄介者扱いだ。とにかく、私はこの男に対していい感情は一つも持ち合わせていなかった。

 真希はこの男を選んだのだ。


 *****


 真希と初めて出会ったのは七年前、二人が中学二年生の時だ。私の父と真希の母が再婚したのだ。同い年の連れ子がいるとは前もって父から聞いていた。一度、四人で顔合わせをしよう、そう言って父は都内ホテルのレストランを予約した。

 ホテルのロビーに現れたのは美しい少女だった。濡れたからすの羽根のような漆黒(しっこく)の髪は、肩より少し下のあたりまであった。日本的な切れ長の目と整えられた弓形ゆみなりの眉が、真希の聡明さを物語っていた。白磁はくじのようななめらかで白い肌、血色のよいつややかな唇、繊細に動く指先、均整の取れた肢体。どれをとっても完璧だった。

「初めまして。真希です」

 真希と目が合い、微笑みかけられるたびに私は下を向いた。当時、陸上部に入っていたため、私の髪は男子と間違われるほど短く、日に焼けた肌は浅黒かった。それでも私が通う中学では、私は男子生徒に人気がある方だった。それなりに容姿に自信はあった。けれども、真希には敵わない。自意識過剰って私のことじゃないか。顔から火が出る思いだった。

「ねえ、このまま抜け出さない? 二人きりにしてあげようよ。私、あなたとゆっくり話がしてみたいと思っていたの」

 レストランでの食事が終わり、化粧室で身嗜みだしなみを整えている時だった。真希は唐突に私を誘った。

「ロビーにいるお母さんたちには黙ってね。ほら、私たちがいると気を遣わせちゃうでしょ。せっかくなんだし、二人でデートしてもらおうよ。大丈夫、後でお母さんにメールするから」

 躊躇ためらいがなかったと言ったら嘘になる。真希と二人になったところで、一体どんな話をすればいいのだろう。進学校に通う真希と普通の公立中学に通う私では、共通する話題なんてあるはずない。しかし、真希の言葉には不思議な魔力があった。あらがうことのできない引力。

 そして私と真希は秋風吹く夜の街へと繰り出した。


 ホテルから一番近い駅前にあるコーヒーショップで、私はブレンドコーヒーとラズベリースコーンを注文した。真希はアールグレイとチョコチップクッキー。

「外で飲もうよ。お砂糖、いる?」

 私は店員にテイクアウトで、と告げた。二人とも飲み物に砂糖は入れなかった。

 コーヒーショップの紙袋を片手に、私たちは駅から徒歩で数分の場所にある公園へ向かった。夜の公園なんて初めてだ。私はなんだか不良めいたことをしているような気分になった。

 公園には意外と人が多かった。空いているベンチを探すのが難しいくらいだ。そして、ベンチのほとんどは男女の二人組で占領されていた。

「カップルばっかりだね。あ、あそこ空いてるよ」

 真希は私の手を取り、空いているベンチへと強引に引っ張っていく。真希の手が私の手首に触れた瞬間、ビリッと痺れるような感覚があった。クラスメイトが持っていたアヒルのキーホルダーを触った時に似ている。アヒルの胴体にあるスイッチを押すと電流が流れるというジョークグッズだ。

 私と真希は並んでベンチに座った。なんとなく緊張する。私は真希と少し離れたところに腰かけた。沈黙を破ったのは真希の方だった。

「ねえ、誕生日はいつなの?」

「十一月十三日よ」

「じゃあ私の方がお姉さんになるんだね。私は六月二十七日生まれ」

 真希は得意げに鼻を鳴らした。

「ゆきちゃんってさ。名前、どんな漢字を書くの?」

「理由の由に、希望の希」

 私の返答は素っ気ないものだった。けれども、真希は一向に気にかける様子もなく、大はしゃぎで手を叩いた。

「私と似てる! 私はね、真実の真に希望の希で、真希。なんだか本当の姉妹みたいだね」

 なんてことはない、ただ単に名前の字面じづらが似ているだけだ。そんな些細なことにも、真希は大げさに反応した。

「運命だよ、きっと。私たち、姉妹になる運命だったんだね」

 安っぽい、使い古された表現だ。もしも私に言い寄ってくる男子が言おうものなら、その場は一気に白けてしまうだろう。

 真希の口からつむがれる「運命」という言葉は甘い響きがした。初めて会ったばかりなのに、そんな風に感じる私がおかしいのだろうか。いや、一目惚れなんてものがあるくらいだ。一目見ただけで仲良くなりたいと思うことは変じゃない。

「そう……かな」

 本当はこの時、「そうだね」と言いたかった。言えなかった。

 真希が隣で冷めた紅茶をすすり、クッキーを口にした。

「あんまりおいしくないね」

 そう言ってかじりかけのクッキーを私に差し出した。じゃあ一口、と私はそれを小さく齧る。

 チョコチップはほとんど入っていなかった。


 *****


 ひつぎの中には死化粧しにげしょうを施された真希が横たわっていた。

 大学へ向かう途中、交差点で暴走したトラックにはねられ、真希は命を落とした。遺体の損傷は激しかった。不思議なことに、顔だけは無傷だった。神様も真希の美しい顔を傷つけるのは忍びないと思ったに違いない。

「由希ちゃん、気をつけて帰るのよ。一緒に帰ってあげられなくてごめんね」

 母の目は真っ赤だった。けれども、私の前では気丈に振る舞っていた。

「いいのよ、お母さん。私は一人でも大丈夫だから。それよりお父さん、お母さんをお願いね」

「ああ、分かってるよ」

 真希の側にいたい、そう言えば母は聞き入れてくれただろう。ただそれは母にとってあまりにも残酷だと思った。

 血の繋がった唯一の娘が死んだのに、血の繋がっていない私が「お母さん」と呼ぶのだ。母は私を本当の娘同然に扱ってくれた。でも、本当の娘じゃない。仮そめの娘だ。

 私も一緒に寝ずの番をするより、父と二人きりにしてあげる方がいい。私といると、言いたいことも言えないだろうから。

 私はもう一度、棺の中の真希を見た。私も本当は真希についていてあげたい。一晩、真希の顔を眺めていたい。

「じゃあね、真希。また明日ね」

 そっと小窓越しの真希に触れ、私はその場を離れた。


 自宅近くのコンビニエンスストアに立ち寄ろうとした時だった。背後から急に呼び止められた。

「あの、由希さんですよね。ほんじょう由希さん」

 振り返った先に誰がいるのか、振り返らなくても分かった。とは言え、無視をするわけにもいかない。私は渋々後ろを向いた。

「よかった、人違いだったらどうしようかと思った」

「どちら様でしょうか」

 爽やかに言い放つ男に、私は露骨に嫌な顔をした。あなたのことは知っている。でも決して、知っているなんて言うつもりはない。

「すみません、申し遅れました。よしざわけんと申します。お姉さんと……真希さんと交際させていただいてました」

 吉澤は背筋をピンと伸ばし、深々と頭を下げた。そして、どこか寂しげに微笑んだ。

「どういったご用件でしょうか」

 傷心の吉澤を気遣う気などさらさらない。私だって真希を失ったのだ。吉澤はまだいいじゃないか。短い間だったとはいえ、真希に選んでもらえたのだ。私は選んでもらえない……そもそも選択肢にすら入っていなかったのだから。

「真希さんからよく君の話を聞いていて、つい。運命の人なんだって、いつも言っていたから」

 運命の人。その言葉で、胸が締め付けられるように苦しくなった。七年前の遠い昔の話。あの話を、真希はずっと覚えていてくれたのだ。

「そう、ですか」

「帰ろうと思っていたら、たまたま君が歩いているのを見かけて。話してみたくなったんです」

 吉澤はビニール袋の中から熱い缶コーヒーを一本取り出し、私に手渡そうとした。が、それを渡すことは叶わなかった。私はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、首を横に振った。

 真希は私のことを何と言っていたのだろう。どんな話をしたのだろう。吉澤に聞いてみたかった。その一方、それを聞かされることで、真希と吉澤の仲のよさを見せつけられるような気がした。

「私は何も話すことはありません。急いでいるので、失礼します」

 今日は家にストックのあるカップ麺で夕飯を済ませよう。これ以上ここにいれば、また吉澤に引き留められる可能性があった。

「待って、少しだけでも!」

 吉澤が私の手首をつかんだ。けがらわしい。私は勢いよくその手を振り払った。

「姉がいなくなったら、次は妹に手を出してやろうってつもりですか? 私はあなたと話すことはないって言ってるんです! ほっといてください!」

 通行人が、何事かといった風に私たちを凝視ぎょうしした。ばつが悪いなど言ってられない。むしろ注目を集めることで、この男が去ってくれることを願っていた。周りの目があれば、これ以上吉澤も食い下がっては来ないだろう。

「あ……ごめん」

 案の定、吉澤はうなだれた。青菜に塩とはまさにこのことだ。さっきまでの勢いは嘘のように消え失せていた。

「とにかく、私、もう行きますので。大声出してすみませんでした」

「あの! これ、俺のメールアドレス。捨ててくれても構わない。ただ、少しでも真希の話がしたくて……話してやってもいいって思ってくれたら、連絡をくれないか」

 吉澤は無理矢理、薄紅色のメモを握らせた。いりません、そう言って突き返してやろうと思ったが、吉澤は私にメモを渡すと逃げるように走り去って行ってしまった。

 ゴミ箱に捨ててしまえばいい。こんなものを持っていたって仕方ない。私はコンビニエンスストアのゴミ箱の前に立った。捨てるのは簡単だ。あのぽっかりあいた口に放り投げればいいのだ。

 真希の話がしたくて……吉澤の一言が私の体を縛りつけていた。

 私はメモをくしゃくしゃに握り潰し、コートのポケットに押し込んだ。


 *****


「由希は誰か気になる子、いないの?」

 この手の質問が苦痛に感じるようになったのはいつからだろうか。

 中学校を卒業し、私は真希と同じ高校に入学することができた。陸上部を引退後、寝る間も惜しんで猛勉強した。真希の真似をして髪を伸ばし、日焼けして荒れた肌をこれでもかというくらい手入れした。

 真希は理系クラスに、私は文系クラスに進んだ。本当は真希と同じ理系クラスに進みたかったが、どうしても数学だけは克服できなかった。けれども同じ大学を目指すことはできる。模試で悪い判定を取らないよう必死だった。

 相変わらず真希は美しかった。男子からは人気があったが、高嶺の花と思われていたのだろうか。真希に思いを打ち明けた男子がいるという噂は一向に聞かなかった。

「私はそんな人いないかな。ほら、なんだか男子って子供っぽいやつばかりじゃない」

 私がそう言うと、女子の大半は笑いながら同意してくれた。それからたいてい人気アイドルや人気俳優の話になるのだ。ほとんどの女子は背伸びをして、年上の俳優を好みのタイプに挙げていた。

 私の答えの半分は正しく、半分は正しくなかった。子供じみた男子が多かったのは事実だ。クラスの女子のランク付けをしていたり、友人同士でちょっかいを出し合ったりしていた。

 気になる人がいないという部分は、真っ赤な嘘だ。私は、どうしようもなく、真希のことが気になっていた。


 思えば、初めて真希に会ったときに感じたのは、すでに恋愛感情だったのかもしれない。

 同性を、ましてや家族の真希を愛してしまうなんて。私は葛藤した。そういう愛の形もあると思えるほど、私はまだ人間として器は大きくなかった。

 それは初恋ではなかったが、初恋以上に甘美で蠱惑こわく的な感覚が私を襲った。その感情に戸惑いながらも、ずぶずぶとのめりこんでいく私がいた。もう引き返せない。違う、引き返したくない。真希を知らなかった時間、私はどんな風に日々を過ごしていたんだっけ。

 毎晩、隣の部屋で眠る真希のことを思うと胸が熱くなった。あの瞳が私だけを見てくれたら、あの指先が私だけに触れてくれたら、あの唇が私に愛を囁いてくれたら……あの体と一つになることができたら。

 真希、真希、私の美しい真希。真希の名を呟きながら、私は眠りにつくのだった。

 しかし、朝になり、リビングで真希と顔を合わせる度、私は自分の下卑げひた妄想を恥じた。真希をけがせるものなんてない。たとえ私であっても、純白の真希を汚す権利なんてないのだ。それなのに、頭の中だけであれ真希を汚してしまった。私という人間はなんて身の程知らずなやつなのだ。

「おはよう、由希」

 その眩しい笑顔をいつまで私に向けてくれるのだろう。私のこの気持ちが真希に知れてしまったら、真希は私を軽蔑するに違いない。いや、軽蔑なんてものじゃない、きっと私の存在自体を認めてくれないだろう。

「うん、おはよう、真希」

 隠し通さなければならない。誰にも知られてはいけない。真希といられるのであれば、容易たやすいことだ。


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