黒の道 前編
男は、命乏しい砂漠を独り歩いていた。
伴うものは己だけ。
身に纏うは艶やかに光る、黒曜石を思わせる金属の鎧。そして担ぐのは、巨人の腕骨を思わせるほどに大きく、飾り気が無い、歪で、しかし鎧と同じく、美しい黒曜石の杖だった。
熱砂を運ぶ風もない、足音すらも水滴のようにい吸われる静寂。
男は、虚無を覚えるような空と砂と己だけの世界に、独り歩いていた。
どれほど歩いたか。
陰りなど見せぬ空の神はその力を、祝福を、大地に注ぎ続けている。
「呪いも祝福なり、か」
誰に聞かせるわけでも、そも己が独りの今において耳を傾ける事ができるのは男だけの、呟きだった。
崩れる足場を事もなく進み、砂丘の頂上に出る。
辺りを見れば、砂、砂、砂。
巨大な砂の波が時を止めたかのように、地平の彼方までいくつもあった。
男は小さくため息をつくと、顔に巻いた黒いスカーフを緩めて腰にかけている水筒から一口だけ含んだ。水は酷く生ぬるかったが、ここでは水そのものが貴重なので気にすることは出来なかった。
水筒とスカーフを戻し、飲み込まないでいた水を舌で転がす。
水に味など、なかった。むしろ不味いとすら言えた。
だが、この水が無ければ息絶える。その事実だけが男の体を、水を美味なものとさせた。
そんな風に水を転がし、ゆっくりとゆっくりと嚥下しながら男は片手で懐から懐中時計を取り出す。
懐中時計はターバンすら黒い、黒ずくめの男の中で数少ない他色の、銀色に輝く品物だった。そして、男の心音以外に音が無い静寂においての音があるものだった。
カチコチ、カチコチ、カチコチ。
蓋の向こうから聞こえる、己以外の音に灰色の瞳をうっとりとさせながら耳を澄ます。男は灼熱でも喉の乾きでもなく、この歯車の奏でる音で己を生きていると認識していたのだった。
カチリと爪を外し、バネじかけの蓋が開く。中の時計は4時を指しているが、目を引くのは空の神が居座る高さとの不一致ではなく、数字部分にはめられた虹を思わせる――黄、若葉、緑、青磁、緑青、青、群青、紫、薄紅、赤、朱、橙、そして針を押さえる部分に透明――宝石達。
男は親指の腹でひとつずつ、黄から青を経て橙へ、ぐるりと触って最後に中央の透明な宝石を触れる。すると時計の針はピタリと止まり、内部の鼓動も静まる。一瞬の静寂。
コチリ。
先ほどまでと異なる音。
コチリ、コチリ、コチリ。
2本の針は逆回転してゆき、長針に幾度か追い越されながら、緑青を指していた短針は3の青磁を越え、2の緑を越え、1の若葉を越え、0の黄でピタリと止まった。
再び訪れる静寂。
男が顔をあげると、砂丘の彼方――地平の先よりは近く、だが近いと言うには遠い――に天を穿かんとするほどに高い、煌めく黒曜石の柱が建っていた。
気が確かであれば、気が狂ったかと思うだろう。
正常であると日頃思っていたなら、気が違ってしまったと思うだろう。
だが、だが、だが。
灼熱の中、虚無と錯覚する静寂の中、海とも呼べる砂の中。
いかにターバンとスカーフを巻こうとも、黒という黒に染まり、あつまさえ外套の下には金属の鎧。
この砂漠においてこの男を異常であると、ましてや正常であるなどと口に出来る者は誰一人としていなかった。いるのは己が独り、この男だけなのだから。
静かに頷くと、パチリと爪が食い込む音を立てて男は懐中時計の蓋を閉じる。
途端、彼方にあった黒曜石の柱は陽炎のようにその形を揺らめかす。まるでそこにあるのは幻であるのかと嗤うように。
「水、あるといいが」
しかし男は笑う様子もなく、腰にかけた水筒をちゃぷりと揺らしてその残量を確かめる。ここにあるのは幻などではないと確かめるかのように。喉を潤し、飲み込んだものは確かに存在していたのだと。
閉じられた銀色の宝石箱を懐にしまうと、男は再び砂漠を、虚無の静寂を、灼熱を踏みしめた。
■■■
どれほど歩いたか。
陽炎のように揺らめいていた黒曜石の柱は確固不動として、確かとして男の目前にあった。
しかし、それは柱ではなかった。天を穿つのでもなく、支えるのでもなく、それは門だった。
懐中時計を開いた時には、あまりにも巨大すぎたために柱だと思っていたのだ。
しかし、男はそんな事は気にもとめず門の足元へと進む。
門は何故あるのか。何故そこに置かれたのか。人ならば当然疑問に思う。
しかし、男は懐疑しない。
何故ならば――
「鍵はここに。異なる地、異なる時、異なるを遮る不完全な境。人という型はここに。我が通る」
――門は開く為にあるのだから。
巨人の腕骨を喚起させる巨大で、飾り気が無く、歪で、そして美しい黒曜石の杖を掲げ、唱える。すると、同じ素材と思わせる黒曜石の門は男の持つ宝石箱のように虹色を煌めかせること一瞬。静寂は轟音へと塗り替えられた。
門はその足元にある膨大な砂をものともせず、ゆっくりと瀑布のごとき音をたてながら、観音開きに口を広げてゆく。
押しのけられた砂は一時の間だけ水となった。砂丘の間を溝とするかのように怒涛と、さながら津波となって流れ込んでゆく。
当然、男にも砂の津波は襲い来る。だが、杖を掲げ続ける男の前には目に見えぬ壁があるかのように砂は避けていく。砂の渦中にあって、男は静寂に包まれていた。
一瞬か、それとも永遠か。
顎門が開き切り、虚無が主の座に戻ると、辺りにあった砂丘は消え、平坦な土地となっていた。だが、男はその光景を気にもとめず、杖を担いで歩き出す。
門の間には、水を喚起させる揺らめきがあった。水面のようなゆらめきは、透明であるにも関わらず向こう側を覗くことを阻む。
杖を持たない、空いた手で揺らめきに触れると、さらりとした絹のような感触とひんやりと爽やかな温度が指先に伝わる。
目のまわり以外で唯一外界に晒す肌である指先でひとしきり楽しむと、男は無色のベールをかき分けながら門の向こう側へと進むのだった。
すっかり男の姿が砂漠から消えると、門は再び動き出す。
向こう側へと砂を巻き込むこと無く、砂の津波を巻き起こしながらゆっくりと閉じられると、思い出したように黒曜石の門は陽炎の如く形を揺らめかして、その存在を不確かな曖昧なものにしてしまったのだった。




