ふたりはタルトタタン
深夜0時を過ぎると、部屋は冷蔵庫の音だけになる。
エリカはソファに座ったまま、消したテレビの黒い画面を眺めていた。
「まだ起きてたんだ」
キッチンからアザミの声がする。
「うん」
「寝ないの?」
「アザミがガチャガチャ音立てるから寝れなくてさ」
そう言うと、アザミは少しだけ困った顔をした。
「ごめん。うるさくしちゃって…」
「別にいいよ」
エリカは笑った。
最近、よく言う言葉だった。
別にいいよ。
本当は、よくなかった。
付き合って三年。
一緒に暮らし始めて一年半。
歯ブラシは二本並んでいて、冷蔵庫には二人分の食材が入っている。
洗濯物を干す曜日も、ゴミを出す曜日も決まっている。
アザミがご飯、エリカが洗い物といった役割分担も、いつの間にか生活の一部になっていた。
それなのに、最近は隣にいることが少しだけ遠く感じる。
「飯、食べた?」
「食べてない」
「作ろうか?」
「いい。もう遅いし」
「そっか」
会話が終わる。
昔なら、こんなことはなかった。
どちらかが話し始めれば、どうでもいい話が朝まで続いた。
コンビニで買ったプリンがなくなったとか、通学中にすれ違った犬がとても可愛かったこととか、次の休みにどこへ行こうとか。
今では、話すことがない。
正確には、話したいことがなくなったわけではない。
話しても仕方がないことが増えただけだった。
エリカはスマートフォンを見る。
画面には、二人で撮った写真が残っている。
海に行った日。
誕生日。
初めて一緒に作った料理。
どれも楽しそうに笑っている。
「ねえ」
「ん?」
「私たち、いつからこんな感じになったんだろうね」
アザミの手が止まった。
「……俺も、たまに思う」
「そっか」
「エリカはさ」
「うん」
「別れたい?」
心臓が、一度だけ大きく鳴った。
答えはすぐには出てこなかった。
「……分かんない」
「そっか」
「アザミは?」
「俺も分かんない」
「……」
「…………」
二人とも何も言わなかった。
違う、何も言えなかったんだ。
*
次の日、二人は普通に朝食を食べた。
「今日、帰り早い?」
「たぶん」
「じゃあ、一緒に晩飯食べよう」
「うん」
昨日の話なんてなかったみたいに。
エリカはトーストをかじりながら、少し安心していた。
まだ大丈夫なのかもしれない。
別れたいわけじゃない。
ただ、疲れていただけなのかもしれない。
そう思った。
けれど、その日の夜。
アザミは遅く帰ってきた。
「ただいま。ごめん遅くなった」
「うん」
「飯、食べた?」
「食べた」
「そっか」
また同じだった。
何かが壊れたわけじゃない。
ただ、元に戻らない。
そんな日々が続いた。
*
「もう無理かも」
エリカがそう言ったのは、二週間後だった。
喧嘩をしていたわけではない。
アザミが洗い物をしていて、エリカはソファに座っていた。
「何が?」
「こういうの」
「こういうのって?」
「……分かんない」
言葉にしようとすると、全部嘘みたいになった。
嫌いじゃない。
好きじゃないわけでもない。
でも、昔みたいに戻りたいとも言い切れない。
「私たち、一緒にいる意味あるのかな」
水道の音が止まった。
アザミはしばらく何も言わなかった。
「俺はあると思ってる」
「なんで?」
「エリカがいるから」
「それ、理由になってないよ」
「……そうだな」
エリカは俯いた。
その夜、二人は別れなかった。
別れようとも言わなかった。
ただ、同じベッドの端と端で眠った。
背中合わせの距離が、今までで一番遠かった。
*
それから数日後。
帰宅したエリカを、甘い匂いが迎えた。
「なにこれ」
「ちょっと待って」
キッチンに行くと、アザミがオーブンの前に立っていた。
「今日、作るって言ってただろ」
「何を?」
「タルトタタン」
エリカは目を見開いた。
付き合い始めた頃。
二人でケーキ屋に行ったとき、ショーケースの中にあった見慣れないケーキを見て、エリカが言った。
「これ食べてみたい」
「タルトタタン?」
「うん」
「じゃあ今度、俺が作る」
そんな約束だった。
いつの間にか、忘れていた。
「覚えてたんだ」
「忘れてないよ」
アザミはそう言って笑った。
少し焦げた匂いがした。
「失敗した?」
「たぶん」
「ふふ」
「笑うなよ」
「笑ってない」
久しぶりに、二人で笑った。
テーブルに皿を置く。
りんごは少し崩れていて、カラメルはところどころ濃い色になっていた。
「いただきます」
二人で一口食べる。
甘かった。
りんごの甘さが口いっぱいに広がる。
そのすぐあとに、焦げたカラメルの苦みが舌に残った。
「……おいしい」
「ほんと?」
「うん」
エリカはもう一口食べた。
甘い。
でも、苦い。
その両方が一緒に残る。
エリカは、ふと考えた。
楽しかった。
幸せだった。
アザミのことが大好きだった。
それは全部、本当だった。
だからこそ、今の苦しさも嘘じゃない。
好きだから一緒にいたい。
でも、好きなだけではどうにもならないこともある。
「ねえ、アザミ」
「ん?」
「明日、どうする?」
アザミは答えなかった。
エリカも、それ以上は聞かなかった。
窓の外では、夜の街が静かに光っている。
テーブルの上には、まだタルトタタンが残っている。
エリカはフォークを置いて、残った一切れを眺めた。
甘くて、ほろ苦い。
まるで私たちの恋みたいだ。
そう思った。
そしてエリカは、最後の一口を食べた。
明日のことは、まだ分からなかった。
別れるのかもしれない。
もう一度、やり直すのかもしれない。
ただ今夜だけは。
二人の間に残った甘さを、苦さごと大切にしていたかった。




