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ふたりはタルトタタン

作者: 煌坐
掲載日:2026/08/19


 深夜0時を過ぎると、部屋は冷蔵庫の音だけになる。


 エリカはソファに座ったまま、消したテレビの黒い画面を眺めていた。


「まだ起きてたんだ」


 キッチンからアザミの声がする。


「うん」


「寝ないの?」


「アザミがガチャガチャ音立てるから寝れなくてさ」


 そう言うと、アザミは少しだけ困った顔をした。


「ごめん。うるさくしちゃって…」


「別にいいよ」


 エリカは笑った。


 最近、よく言う言葉だった。


 別にいいよ。


 本当は、よくなかった。


 付き合って三年。


 一緒に暮らし始めて一年半。


 歯ブラシは二本並んでいて、冷蔵庫には二人分の食材が入っている。


 洗濯物を干す曜日も、ゴミを出す曜日も決まっている。


 アザミがご飯、エリカが洗い物といった役割分担も、いつの間にか生活の一部になっていた。


 それなのに、最近は隣にいることが少しだけ遠く感じる。


「飯、食べた?」


「食べてない」


「作ろうか?」


「いい。もう遅いし」


「そっか」


 会話が終わる。


 昔なら、こんなことはなかった。


 どちらかが話し始めれば、どうでもいい話が朝まで続いた。


 コンビニで買ったプリンがなくなったとか、通学中にすれ違った犬がとても可愛かったこととか、次の休みにどこへ行こうとか。


 今では、話すことがない。


 正確には、話したいことがなくなったわけではない。


 話しても仕方がないことが増えただけだった。


 エリカはスマートフォンを見る。


 画面には、二人で撮った写真が残っている。


 海に行った日。


 誕生日。


 初めて一緒に作った料理。


 どれも楽しそうに笑っている。


「ねえ」


「ん?」


「私たち、いつからこんな感じになったんだろうね」


 アザミの手が止まった。


「……俺も、たまに思う」


「そっか」


「エリカはさ」


「うん」


「別れたい?」


 心臓が、一度だけ大きく鳴った。


 答えはすぐには出てこなかった。


「……分かんない」


「そっか」


「アザミは?」


「俺も分かんない」


「……」


「…………」


 二人とも何も言わなかった。


 違う、何も言えなかったんだ。


     *


 次の日、二人は普通に朝食を食べた。


「今日、帰り早い?」


「たぶん」


「じゃあ、一緒に晩飯食べよう」


「うん」


 昨日の話なんてなかったみたいに。


 エリカはトーストをかじりながら、少し安心していた。


 まだ大丈夫なのかもしれない。


 別れたいわけじゃない。


 ただ、疲れていただけなのかもしれない。


 そう思った。


 けれど、その日の夜。


 アザミは遅く帰ってきた。


「ただいま。ごめん遅くなった」


「うん」


「飯、食べた?」


「食べた」


「そっか」


 また同じだった。


 何かが壊れたわけじゃない。


 ただ、元に戻らない。


 そんな日々が続いた。


     *


「もう無理かも」


 エリカがそう言ったのは、二週間後だった。


 喧嘩をしていたわけではない。


 アザミが洗い物をしていて、エリカはソファに座っていた。


「何が?」


「こういうの」


「こういうのって?」


「……分かんない」


 言葉にしようとすると、全部嘘みたいになった。


 嫌いじゃない。


 好きじゃないわけでもない。


 でも、昔みたいに戻りたいとも言い切れない。


「私たち、一緒にいる意味あるのかな」


 水道の音が止まった。


 アザミはしばらく何も言わなかった。


「俺はあると思ってる」


「なんで?」


「エリカがいるから」


「それ、理由になってないよ」


「……そうだな」


 エリカは俯いた。


 その夜、二人は別れなかった。


 別れようとも言わなかった。


 ただ、同じベッドの端と端で眠った。


 背中合わせの距離が、今までで一番遠かった。


     *


 それから数日後。


 帰宅したエリカを、甘い匂いが迎えた。


「なにこれ」


「ちょっと待って」


 キッチンに行くと、アザミがオーブンの前に立っていた。


「今日、作るって言ってただろ」


「何を?」


「タルトタタン」


 エリカは目を見開いた。


 付き合い始めた頃。


 二人でケーキ屋に行ったとき、ショーケースの中にあった見慣れないケーキを見て、エリカが言った。


「これ食べてみたい」


「タルトタタン?」


「うん」


「じゃあ今度、俺が作る」


 そんな約束だった。


 いつの間にか、忘れていた。


「覚えてたんだ」


「忘れてないよ」


 アザミはそう言って笑った。


 少し焦げた匂いがした。


「失敗した?」


「たぶん」


「ふふ」


「笑うなよ」


「笑ってない」


 久しぶりに、二人で笑った。


 テーブルに皿を置く。


 りんごは少し崩れていて、カラメルはところどころ濃い色になっていた。


「いただきます」


 二人で一口食べる。


 甘かった。


 りんごの甘さが口いっぱいに広がる。


 そのすぐあとに、焦げたカラメルの苦みが舌に残った。


「……おいしい」


「ほんと?」


「うん」


 エリカはもう一口食べた。


 甘い。


 でも、苦い。


 その両方が一緒に残る。


 エリカは、ふと考えた。


 楽しかった。


 幸せだった。


 アザミのことが大好きだった。


 それは全部、本当だった。


 だからこそ、今の苦しさも嘘じゃない。


 好きだから一緒にいたい。


 でも、好きなだけではどうにもならないこともある。


「ねえ、アザミ」


「ん?」


「明日、どうする?」


 アザミは答えなかった。


 エリカも、それ以上は聞かなかった。


 窓の外では、夜の街が静かに光っている。


 テーブルの上には、まだタルトタタンが残っている。


 エリカはフォークを置いて、残った一切れを眺めた。


 甘くて、ほろ苦い。


 まるで私たちの恋みたいだ。


 そう思った。


 そしてエリカは、最後の一口を食べた。


 明日のことは、まだ分からなかった。


 別れるのかもしれない。


 もう一度、やり直すのかもしれない。


 ただ今夜だけは。


 二人の間に残った甘さを、苦さごと大切にしていたかった。

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