ウカカの森 精霊の降臨
森の民『ウカカ族』の集落は群生したオニシダの樹上に造られていた。地面から十五メルほどの高さに生い茂っているオニシダの葉が隠れ蓑になって、集落は地上からは見えない。隣接するオニシダに太い渡り板が幾つも渡され、集落全体を結ぶキヌグモの巣のような形状の通路が造られている。キヌグモの巣の中央に当たる集落の中心部分には、板が敷き詰められて直径二十メルほどの円形の共同広場になっている。
一本のオニシダごとに一軒の家が造られていた。ツタブドウの蔓を撚った太くて丈夫な綱が、オニシダの太い枝と枝の間に幾重にも張り渡されている。その上に、オニシダの細い枝を織物のように編んだ丈夫な敷布が置かれていて、それが家の床となっていた。家の周囲の壁は、オニシダの枝を組んだ骨組みになめした動物の皮が貼られたもので、所々に採光用の小さな穴が開けられていた。そうした樹上家屋が百軒以上もあって、それが半径四百メルの範囲内に点在して巨大な樹上集落を形成していた。
ギギルとシンがウカカ族の集落で世話になってから一ギグ近くが過ぎた。
ウカカ族の医師によって手当てを受けたギギルの左腕は順調に回復し、骨折も完全に癒えた。五カイン前に腕を固定していた添え木も取れ、ギギルは腕の筋肉を戻す訓練を続けている。シンは付きっ切りでイオリの面倒を見ていた。
イオリは半ギグ前からハイハイを始め、家の中や共同広場をモソモソと始終動き回っていた。地面に落ちないようイオリの身体にキヌグモの紐を巻き付け、その紐の先をシンがいつも握っていた。イオリは二カイン前にとうとうつかまり立ちをしたかと思うと、キョウは数歩歩いてシンを驚かせた。イオリの口の中には上下に二本ずつ小さな歯も生えてきて、アブアブと言いながらひっきりなしにシンの腕や肩に噛みついている。シンの腕や肩には至る所にイオリの歯型が痣になって浮かび上がっていた。
日の入り時まであと一カクンとなった樹上集落の共同広場にギギルは胡坐をかいて座り、シンに助けられながらヨチヨチと歩いているイオリを見ていた。
樹上を吹き抜ける風がザワザワとオニシダの葉を揺らしている。風に運ばれてきたゲッコウユリの花の微かな蜜の香りが鼻腔の奥をくすぐる。その香りに誘われたかのように、マダラチョウがヒラヒラと舞いながら目の前を通り過ぎていく。日の入り時が近づいて外光は弱まり、オニシダの葉を通して届いた光が広場を金色に染めている。
シンは歩き疲れたイオリを抱え上げるとギギルの横に座った。
「シンよ、イオリの様子はどうだい」
「うん、だいぶん足もしっかりしてきたよ」
イオリはシンの腕の中で両足をバタバタと動かしている。そして、何が可笑しいのかひとりでウキャキャと笑っている。ギギルはイオリの頭を優しく撫でた。
「そうか、それじゃあボチボチ出発するとしようや。ウカカ族の皆さんの好意に甘えすぎちまった」
「そうだね、いつまでもここにいる訳にもいかないしね」
「そうと決まれば、早い方がいい。アシタの日の出時に出発しよう」
ウカカ族の族長ズズはギギルの申し出を了承すると、このヨルはお別れの宴を催すと宣言した。それを聞いたウカカ族のオトコたちは歓声を上げて喜び、オンナたちは大慌てで料理の支度にとりかかった。
日の入り時から二カクンが経過した。
共同広場の中心に山のように積み上げられたヒカリゴケが、薄緑色の冷たい巨大な焚火となって広場をヒルのように明るく照らしている。その冷たい焚火を囲んで、ウカカ族のオトコたちとギギルとシンが輪になって座っていた。シンの横にはピピが座り、ニコニコと笑いながらイオリとリリの面倒を見ていた。共同広場に座り切れない多くのヒトたちは近くのオニシダの枝に鈴なりになって腰掛けている。
目の前の床にはオニシダの葉を編んで作った大きな皿が幾つも並べられ、その中に乾燥させた肉を火で炙って、すりおろしたカラシウリを表面に塗ったバエブという肉料理、モチノミを粉にして水で練ってから薄く焼いたパラクという焼き菓子、塩で炒ったアブラマメ、焼いたバショウイモ、ツタブドウやヤマスモモの実などさまざまな料理が山のように盛られている。ひとりひとりに椀が配られると、大きな革袋からツタブドウの実を発酵させて造ったブブという赤い色をした酒が注がれた。
ズズが椀を片手に持って立ち上がった。
「ウカカゾクノキャクジン アス タビダタレル。コヨイハオワカレノウタゲ ゾンブンニタノシンデ。キャクジンニ ウカノカミノゴカゴガアランコトヲ。(ウカカ語)イパラスカセニョレス、ウカカテレモシンヂュヂュ、パレステアキュンンギレシュ」
ズズはそう言うと椀を高々と掲げ、椀の中のブブを一気に飲み干した。広場の全員がそれに合わせて椀の中のブブを一気に飲み干した。
ブブはトロリとした飲み心地で口の中に濃い果実の甘みが広がるが、飲み込むと喉の奥がチリリと焼ける。ヴォルトよりも酒度は低いが、飲みすぎるとたちまち前後不覚になってしまう。
ギギルとシンの前には、ウカカ族のオトコたちが入れ替わり立ち替わり座って、ひっきりなしにブブを注いでいる。椀を飲み干せばすぐに注がれ、それを飲み干すとまた注がれるということを繰り返しているうちに、ギギルもシンもすっかり酔っ払ってしまった。周りのウカカ族のオトコたちもブブを浴びるように飲んで、真っ赤な顔をして身体を揺らしている。
別れの宴が始まって一カクンが経過した。広場に満ちていたザワザワという喧騒が突然消えた。広場に張りつめた静寂が満ちた。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
腹の底に響く太鼓の音が響いてきた。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ
太鼓の音に合わせてウカカ族のオトコたちがオニシダの幹や枝を細い棒で叩き始めた。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ
オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー
ウカカ族のオトコたちが唸るような声を上げ始めた。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ
オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー
オニシダの高い枝の上から銀色のキヌグモの紐を伝って、十人ほどのウカカ族のオトコたちが広場に下りてきた。その姿は、尻から吐き出した糸にぶら下がるキヌグモのようだ。腰の周りにオニシダの葉を巻き付けただけの裸の身体に、白と赤と緑の染料を縞のように塗り、頭にはザドラの羽で作った大きな髪飾りを被っている。背中にはオニシダの葉で作った鱗をみっしりと並べた蓑を背負い、顔にはオニシダの板をくり抜いて作った奇怪な仮面を被っている。仮面は大きなギョロ目とワシのようにとがった鼻に、耳まで裂けた大きな口があり、口からは四本の大きな牙が、上顎から二本、下顎から二本突き出ている。手には身長の倍ほどもある長い槍を持っていた。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ、カカカカッカッカカカ
オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー、オオオゥー
ウカカ族の戦士の盛装をしたオトコたちは、音に合わせて身体を左右に揺らし、足を踏み鳴らしながら激しく舞った。戦士たちは、槍を振り上げて頭上でクルクルと回し、見えない敵に向かって槍を繰り出している。右に左に、前に後ろに、戦士たちは見えない敵を次々と打倒しているのだった。それは精霊の戦いだ。戦士の身体に塗られた白と赤と緑の塗料が、薄緑色の冷たい巨大な焚火の光を反射して、死者の魂が発する燐光がユラユラと舞っているように光の文様が浮かび上がる。戦士たちの踊りは激しさを増し、踏み鳴らされた広場の床板がミシミシと音を立てて撓んでいる。
戦士たちから発せられた濃密な霊気を全身に浴びて、ギギルもシンも陶然とした表情で身体を揺らしていた。ピピに抱かれたリリは、戦士たちの恐ろしい仮面に怯えて、ピピの胸に顔を伏せたまま動かない。その隣でイオリは、翡翠色の大きな瞳をキラキラと光らせてキャッキャと手を叩いて喜んでいる。
ドドドドンドンドドドン!
ひときわ大きな太鼓の音が響いた。ウカカ族の戦士たちはピタリと舞いを止めて、槍を頭上高く振りかざしたまま静止した。広場に静寂が満ちた。
イオリが突然立ち上がると、ヨチヨチと歩いて戦士たちの前に進んだ。イオリの翡翠色の大きな瞳は、薄緑色の冷たい巨大な焚火の光を受けて燃えるように光っている。イオリは万歳をするように両手を頭上に上げ「アアアー」と声を上げた。イオリも霊気を感じているのだろう。
戦士たちの真ん中に立ち一番大きな仮面を付けた戦士が、片膝を突いて屈むと、食ってやるぞと言わんばかりに恐ろしい仮面をイオリに向けた。イオリは恐ろしい仮面にスッと手を伸ばした。仮面の口から飛び出した大きな牙に、イオリの小さな手がそっと触れた。
イオリの手が触れるや否や、ピシリと音を立てて仮面は縦に真っ二つに割れて、床に転がった。
割れた仮面の下から驚愕したウカカ族のオトコの顔が現れた。ウカの神の化身、聖なる戦士『ウカ・ンガンガラ』の仮面が手を触れただけで割れたのだ。それができるのは神の力か女王の力に他ならない。
偉大な力を感得したオトコは、何も言わずにその場でイオリに向かって平伏した。オトコの後ろに立っていた仮面を付けた戦士たちもイオリに向かって平伏し、それを見ていた広場にいるウカカ族のオトコもオンナも、全員がイオリに向かって平伏した。
イオリはキョトンとした顔をして平伏しているウカカ族を眺めている。シンとギギルは呆然とイオリの姿を見つめた。
「ギギル・・・これはいったい・・・」
シンが言い終わる前に、シンの身体がふわりと宙に浮き、次の瞬間前後左右に激しく揺さぶられた。シンはその場で床に四つん這いになって揺れに耐えた。ギギルも床に伏せて床板を掴んでいる。ゴゴゴという低い地鳴りとザワザワという森の呻き声が交差する中で、共同広場の床がメリメリと不気味な音を立てて波のようにうねっている。
地震が再び襲ってきたのだ。
「イオリ!」
シンは身体を左右に大きく振られながら、四つん這いのままで必死になってイオリに向かって広場の床を這った。シンが顔を上げると、目の前に仮面を割られたウカカ族のオトコが立っていた。オトコはイオリを胸に抱えて、嵐の水面に浮かぶ木の葉のように激しく揺れる広場の床の上に、何事もないように平然と立っていた。イオリとそのオトコだけが別の世界に立っているようだ。
激しい揺れは呼吸十回分続いてから収まった。
シンが何とか身体を起こして床にペタリと座ると、目の前のオトコはニッコリと笑ってイオリをシンに手渡した。イオリは興味深げな表情で翡翠色の大きな瞳をキョロキョロと動かして周囲を見てから、ウキャキャと笑ってシンの肩に噛みついた。
「イオリ、無事でよかった・・・イテテ、イオリ噛まないでったら」
「シン、イオリ、大丈夫か。凄い揺れだったな、この前の地震の余震だな・・・広場から振り落とされるかと思ったぜ」
ギギルが腰を擦りながらシンの傍に立った。シンはイオリの背中をポンポンと叩きながら、しきりに首を傾げている。先程の光景が目に焼き付いているのだ。
「ねえギギル、さっきの舞踏儀式の最後はいったいどうなっちゃったんだろう。みんな一斉にイオリに向かって頭を下げちゃって・・」
「俺にも分からん」
ギギルの声はあっけらかんとしている。仮面が割れたことが原因だろうと思いながらも、その先の理由など想像もつかない、考えるだけ無駄なのだ。心配性のシンは仮面が割れたことを気にしていた。
「仮面が割れちゃったけど・・・イオリのせいかな。弁償しなきゃダメかな」
「立派な仮面だったからなあ。ありゃあ、相当値が張るぜ。・・・シリル金貨十枚なんて言われたらどうする」
ギギルはからかうように言った。
「ええ! そんなに・・・」
ギギルに脅かされたシンが眼を剝いた。
シンの驚いた顔を見てギギルがニヤニヤと笑っていると、ギギルとシンの前にズズとピピが近寄ってきた。ピピの腕に抱かれているリリは、まだ地震の恐怖から覚めないのか、ピピの胸に顔を埋めたままだ。
ギギルが広場を見回すと、ウカカ族の戦士たちはひとり残らず姿を消していた。ウカカ族のオトコやオンナも、広場の床に散乱している皿や椀や料理を拾い上げると、潮が引くように広場から離れている。別れの宴が終わったのだ。
ズズはギギルたちに小さく頭を下げた。
「オワカレノウタゲ コレデオワリデス。スゴイジシンデシタ ミンナイエノヨウスシンパイ イエニカエリマシタ」
イオリを胸に抱いたシンが、オズオズとした口調でズズに尋ねた。
「あのぅ・・ズズ族長。先程の舞踏儀式の最後は、いったい何が起きたんでしょうか。そのう・・・皆さんが一斉にイオリに向かって礼をされていましたよね」
「セイナルセンシ『ウカ・ンガンガラ』ノカメンワレタ イオリ ジョウオウノチカラシメシタ。オソレオオイ ジョウオウコウリンサレタ ミンナイオリウヤマウ」
ズズ族長は頭上で両手を合わせると、シンの胸に抱かれたイオリに向かって深々と頭を下げた。イオリに向けられたピピの目も、畏敬の念を込めるかのようにスッと伏せられた。ズズとピピは神妙な顔をして、肩を並べて広場から出て行った。
広場にポツンと残されたギギルとシンは、『女王の力』というズズの言葉を噛みしめていた。
「とりあえず割れた仮面を弁償しなくて良さそうだな」
ギギルが髭面を歪めてニヤリと笑い、シンがワザとらしくニッと笑い返した。ここは掛け合いの呼吸だ。
「ウン良かった。弁償しろと言われたら、ギギルからお金を借りようと思っていたんだ。あっ、借りても返すつもりはないけどね」
「バカを言うなよ、返せないようなやつに金なんか貸さないぜ」
「じゃあ、借りないで、お金を貰うことにするよ・・・イヤイヤ、じゃなくて、女王の力って・・・?」
シンが強引に話の路線を修正した。
「伝説じゃ女王は千トングも生きるって言うじゃないか。その力をもってすれば、仮面を割るくらい造作もないことなんじゃないか。と言うことは・・・やはり、イオリは女王候補者に間違いないってことだ」
ギギルは指で顎を擦りながら、ひとりで納得している。ギギルの思いを知ってか知らずか、イオリは無邪気な顔をして、シンの左肩に噛みついた。
「そうだね・・・イテテ、イオリ噛みつかないでってば。ウン? まさか仮面に噛みついて割ったんじゃないよね」
「ウヒヒヒ、シン、イオリに肩の骨を噛み砕かれないように気を付けるんだな。なにせ女王の力だ、シンの肩の骨のひとつやふたつ朝飯前だ」
「・・・」
シンに抱かれたまま、イオリはスウスウと寝息を立て始めた。
日の出時を迎え、ギギルとシンはウカカ族の樹上集落の共同広場に立っていた。ギギルとシンをウカカ族のオトコやオンナが取り囲んでいる。広場はたくさんのヒトで溢れかえっていた。族長のズズが前に出てきた。
「ウカカゾクノキャクジン タビダタレル。キャクジンノイクサキニ ウカノカミノゴカゴガアランコトヲ。(ウカカ語)イパラスカググセニョレス、パレステニュエルアキュンギレシュ」
ズズはオニシダの若葉を束ねたもので、ギギル、シン、イオリの頭を払うようにサラサラと撫でると深く一礼をした。旅の安全を祈願したウカカ族の儀式である。
「ズズ族長、長い間お世話になりました。お蔭様で腕の骨折も治りました、改めてお礼を申し上げます。ピピさんもありがとう」
ギギルが礼を言い、シンは頭を下げた。イオリがウキャキャと笑った。ピピはリリを胸に抱いてギギルたちに頭を下げた。イオリが去ることが分かるのだろう、リリもイオリに向かって小さな手を振っている。
ズズが声を掛けると、ひとりのオトコがギギルたちの前に進み出た。
「ギギルサン、モリノソトマデ コノトトガアンナイシマス」
ズズ族長に紹介されたトトがペコリと頭を下げた。トトの身長は、ウカカ族のオトコの中では高い方で、シンの胸の辺りまである。丸顔に線を引いたような細く垂れた目、高い頬骨と大きな耳たぶが特徴的な顔をしている。トトはキノウのヨルの舞踏儀式で、イオリに割られたウカ・ンガンガラの仮面を被っていた戦士だった。それは、ウカカ族の戦士の中で一番の勇者であることを意味する。その証拠に、トトの胸板は厚く、二の腕の筋肉はこぶのように盛り上がっている。
ギギルたちはトトの先導で、ウカカ族の樹上集落を後にして森の中の小道を進んだ。
歩き始めてから一カクンほど経過すると、ギギルたちは大きなオニシダの生えている広場に出た。大きなオニシダの前には黒っぽい焚火の跡が微かに残っていた。ギギルたちが最初に迷い込み、そこから出ることができなかった広場だ。広場の横にある断層の壁は残っていたが、壁の下にあったはずの白いタテガミオオカミを飲み込んだ地割れの深淵は、キノウのヨルの余震によって口を閉じていた。
「トト、ちょっと待っていてくれ」
ギギルはそう言うと、広場の端にある地面がこんもりと盛り上がった場所に向かった。そこには、ウカカ族の手によってアベルが埋葬されていた。墓の上には墓標のように一本のオニシダの若木が植えられていた。アベルの身体は土に還り、オニシダの養分となって、やがてオニシダの若木は大木になる。アベルは森と同化するのだ。
墓の前でギギルが首を垂れていると、シンが静かに後ろに立ち、森の中に咲いていた白いゲッコウユリの花をそっと差し出した。ギギルとシンはゲッコウユリの花を墓の前に並べて置いた。
「さてと、アベル爺さんよ、俺たちは行くぜ。いろいろと世話になったな」
「アベルさん、さようなら」
ギギルとシンに合わせるように、イオリがウキャキャと笑った。
トトの先導で広場から出ようとして、ギギルは名前を呼ばれたような気がして振り返った。オニシダの若木の横で、アベルが穏やかな笑みを浮かべて片手を上げているのが見えた。その姿は陽炎のようにユラリと消えた。
ギギルたちは広場から森の中に通じる三本の道のうち、一番大きな左側に向かって延びる小道に入った。それは以前にギギルたちが選択した道だ。歩き始めて二カクンが経過すると道が二本に分かれている場所にたどり着き、左側の道を選択して更に二カクン歩いた。その道も以前にギギルたちが選択した道だ。ギギルたちは一ギグ前と全く同じ道順を進んでいた。トトは迷うそぶりも見せず、平気な顔をしてギギルの前をスタスタと歩いている。道を進むにつれてギギルの心は不安感でいっぱいになった。
そろそろ昼食時となる頃に小さな広場に出た。これも一ギグ前と同じだ。ギギルとシンは思わず顔を見合わせた。
「まさか、また元の広場に戻ったんじゃないだろうな」
「でもギギル、大きなオニシダは生えていないよ。アベルさんの墓もないし、それに小さな泉がある」
ギギルはムウウと唸った。
「同じ道を通ってきたはずなのになぜだろう?」
ギギルは盛んに首を捻っている。
「ウヒヒ、先導するヒトが違うと、こうも結果が変わるもんかねぇ。ねえギギル、こういうときは落ち着いて、座ってチャルでも飲もうよ」
シンがニヤニヤ笑いながらギギルをからかうと、ギギルは不満げに口を尖らせた。ヴォルトでも一口飲みたい気分だろう。
トトが森の中に入って枯れ枝を集め、火を焚いて泉の水で湯を沸かした。シンはその湯でチャルを淹れた。
シンの膝の上にチョコンと座ったイオリが、アーンと口を大きく開けて待っている。シンは湯に浸したククを小さくちぎり、口の中で柔らかくなるまで噛んでからイオリに食べさせた。大陸のコドモが与えられる一般的な離乳食である。お腹いっぱいになるまで離乳食を食べたイオリは、小さくゲップをすると、食べ疲れたとでもいう風に、シンの膝の上にゴロンと寝ころんだ。
ギギルたちはウカカ族の村で貰った干し肉を軽く火で炙り、それを齧りながらチャルを啜った。
「そういやシンよ、俺たちが倒したタテガミオオカミの死骸は、結局どこへ行ったんだろうな」
ギギルが思い出したように言った。シンはもうどうでもいいやという顔をしている。シンの返事は素っ気ない。
「あれも監督使の幻術じゃないのかな」
「でも地面に血痕が残ってたんだぜ」
「それじゃ、やっぱりザドラだね」
ギギルとシンのやり取りを聞いていたトトが、ニコニコしながらギギルの肩をポンポンと叩いた。
「ミナサン、タベテマス」
ギギルは手に持った干し肉をしげしげと見た。
「これは・・・タテガミオオカミの肉なのか。リマともチウシとも味が違うと思っていたが・・・まあ、俺たちを襲った罰だな。ウン、少し硬いが意外といける。シンよ、次はザドラの肉を喰おうぜ」
ギギルは手に持った干し肉をポイッ口の中に放り込んだ。シンは背嚢に括りつけている毛皮の肩掛けを指差した。
「トトさん、それじゃ餞別に頂いたこの毛皮の肩掛けも?」
「タテガミオオカミノケガワ アタタカイ サムイヨル ソレデダイジョウブ」
トトはそう言うとジャラリと音を立てて魔除けの首飾りを見せた。首飾りにはタテガミオオカミの牙がずらりとついていた。
昼食を終えたギギルたちは、トトの先導で広場の中にある泉から流れ出ている小さな小川に沿って森の中を進んだ。小川の水深はギギルのくるぶしほどしかなく、水は透明で、川底はサラサラとした砂が堆積している。小川の両岸には背の低いアマクサやワタスゲが群生していて、小川はオニシダの森の中に敷かれた緑の帯のようにウネウネと延びている。頭上からイワカケスのチチチチという鳴き声が聞こえてくる。頭上のオニシダの枝々の隙間から差し込む外光が、光の柱となって水面に突き立っている。その光の柱の周囲を、黄色と黒のまだら模様の羽をもったマダラチョウの大群が、渦を巻くようにして舞っている。
二カクンほど歩くと、小川の流れは徐々に細くなり、やがて小川は砂地の中に吸い込まれるように消えた。湿った砂地の一帯にはクロドクダミが群生していて、黒々とした葉の中に所々小さな白い花が顔を出していた。シンが大喜びでクロドクダミの葉を摘んで、せっせと大きな袋に入れている様子をトトが不思議そうに見ていた。
「シン ソノクサイクサ ドウスルノ?」
シンは満足気な顔を上げてトトに答えた。
「トトさん、これは毒消しや解熱に効果のあるクロドクダミという薬草だよ。煎じて飲めばお腹の痛みも、発熱もすぐ良くなるんだ。切り傷にも効くしね。ウカカ族では薬として使わないのかい?」
「クサクテ サワルノイヤ。クチニイレルナンテ トンデモナイ」
トトは顔をしかめて低い鼻をつまんだ。ギギルがトトに向かってニヤリと笑いかけた。
「俺もシンに教えられるまで薬とは知らなかったが、これのおかげで二度も命を救われたよ。効能は抜群だ。トト、命が危なくなったらこれに賭けてみなよ。それと・・・不気味な粘菌に襲われたトキもな」
「フーン オボエテオキマス」
トトは半信半疑で、シンが差し出したクロドクダミの葉を受け取った。
砂地の先に道らしきものはなかったが、トトは構わずにオニシダの森の中に分け入った。トトは半メルほどの長さのオニシダの枝を持ち、それを使って目の前に塞がるワタスゲやイバラツルなどを器用にかき分けてヒョイヒョイと進んで行く。身長が一メルのシンや、シンよりも身長の高いギギルにとってはオニシダの森の中は緑の壁に囲まれているようで視界が全く効かないが、三分の二メルの身長しかないウカカ族はその緑の壁の下を潜るようにスイスイと進んで行くことができる。ウカカ族はオニシダの森に適応して小型化したヒト族だった。ギギルとシンはそのことに気付くと、トトと同じ目線となるように身体を屈めて森の中を進んだ。
オニシダの森の中を進んで二カクンほど経過すると、ギギルたちの目の前に高さ四メル、周囲が四十メルもある巨大な岩が現れた。岩の上部は平らになっていて横から見ると台形をしている。それは、まるで岩で造られた大きな舞台だった。はるか昔に大陸の壁面から転がり落ちてきた岩の表面はヒカリゴケにびっしりと覆われていた。岩の壁面には上部に上れるように細い階段が彫り込まれていて、階段の横には岩の上部から、手摺り代わりにツタブドウの蔓で編んだ縄が垂れ下がっている。トトはギギルたちを振り返った。
「キョウノヨルハ ココデヤスミマス。コノウエハ アンシンシテネムレマス」
ギギルは顔を上げると、大きく背伸びをして腰をトントンと叩いた。
「やれやれ、助かった・・・ずっと腰を屈めて歩くのはキツイぜ。腰と背中が悲鳴を上げてやがる」
ギギルにつられるように背伸びをしたシンの腰がゴキリと鈍い音を立てた。シンはイテテと顔をしかめた。
「私の腰もさっきからギシギシと変な音を立てているよ。元気なのはトトさんとイオリだけだ」
つかまり立ちからヨチヨチ歩きを始めたばかりのイオリは、シンに抱かれているより歩きたいのだろう。保育器の中でアブアブと言いながら、しきりに両足をバタバタと動かしていた。
「ユックリヤスンデ アスモタイヘン」
トトは疲れた様子を全く見せていない。ウカカ族にとってオニシダの森の中を歩くことは全く苦にならないのだ。シンは目の前の岩を見上げると、胸の前の保育器をヨイショと抱え直した。
「ギギル、とにかく岩に上って、座ってチャルでも飲もうよ」
「俺はヴォルトにするかな」
ギギルが右手で髭面をザラリと撫でた。ヴォルトと聞いてシンがニッと笑った。
「それじゃ私も一口」
「トホホ・・・なくなっちまうよ・・・」
トトはニコニコ笑いながら岩の階段を駆け上った。
岩の上部は外周二十メルの平らな広場になっていた。広場の中央には石を積み上げて造られた小さな炉があった。ギギルとシンが岩の上に登ると、小さな炉には既に火が焚かれていて、その上に掛けられた鍋の中で湯が沸いていた。炉の周りにはバエブという肉料理やパラクという焼き菓子などが並べられ、その横にブブの入った革袋も置いてあった。
「トト、これは?」
「モリノソトニデルマデ ミナサン ウカカゾクノキャクジン。コレハピピガツクッタ ドウゾタベテ ヤスンデクダサイ」
「ありがたい。シン、早速いただこうや。オッ、ブブもあるじゃないか」
「ヴォルトが減らなくてよかったね」
ウカカ族からの差し入れで夕食を済ませたギギルとシンは、炉の周りに集まって、餞別に貰ったタテガミオオカミの毛皮の肩掛けを下に敷き、背嚢を枕にして横になっていた。ブブを飲んだにもかかわらず、ギギルは寝酒だと言ってヴォルトをチビチビと舐めている。
シンはイオリの入った保育器を胸の前に抱え、時折ユラユラと保育器を揺らしている。シンから離乳食を貰ってお腹いっぱいになったイオリは、保育器の中でスウスウと寝息を立てていた。ヨチヨチ歩きのイオリがフラフラと辺りを徘徊しないように、イオリの腰にキヌグモの紐を巻き付け、紐の反対側をシンの右手首に結び付けてある。
シンは保育器の中のイオリの寝顔を優しい目で見ていた。
「早いもんだね、もう離乳食だなんて。イオリが卵から出てきてからもうすぐ二ギグが経つということは、体形変化期までは残り三ギグだね」
ギギルはヴォルトをチビリと舐めてから、遠くを見るような目をして感慨深げに言った。
「コドモの成長なんてあっという間だ。ヨチヨチ歩きしてると思ったら、もうそこらを駆け回っているよ。体形変化期を過ぎればもう立派なオトナだ」
「イオリはきっと凄く綺麗になるだろうね、今でもこんなに可愛いんだから」
「体形変化期では急激にオトナの体形になるし、凄く面変わりするからな。そもそも、シンはコドモの頃に、街で可愛いと評判だったんだろう?それが今じゃあ、これだ。イオリがシンみたいになったらどうする?」
シンは下唇を突き出した。
「私の顔は苦労を重ねた結果こうなったんだから、ほっといて。もしイオリが私そっくりになっても、私は責任を持って面倒を見るよ」
「アハハハ・・・シン、冗談だよ」
寝ていたイオリが突然フニャフニャと泣き出した。
「ほらギギル、イオリも怒ってるじゃないか。よしよし、酷いことを言ったのはこのギギルおじさんだからね、ちょっと噛みついてやりな・・・ああ、おしめが濡れている・・・」
シンとギギルのやり取りを、トトがニコニコしながら見ていた。トトの顔はブブを飲んだおかげで真っ赤になっていた。
大陸に住むヒト族は母親の胎内から卵で産まれる。産まれてから約二ギグが過ぎると、卵からコドモが出てくる。卵から出てきたコドモは五ギグの間に、乳児・幼児・小児と大きくなり少年少女期を迎える。そして卵から出てきて五ギグが過ぎると体形変化期を迎える。たった五カインという短い期間で身長はほぼ倍になり、オトナの体形に急激に変化するのである。体形変化期を迎えてオトナになったヒト族の平均的な寿命は、体形変化期から六十トングほどである。
日の出時まであと四カクンとなった。ヨルの闇が濃い霧となって全てのものをみっしりと包み込んでいた。炉の中で小さな炎が頼りなさげにユラユラと揺れている。その炉の周りでシンとギギルは横になって寝ていた。シンの腕には保育器がしっかりと抱かれている。
トトは岩の上に張り出しているオニシダの枝の上で眠っていたが、得体の知れない重苦しい気配を感じて目を覚ました。一晩中悪夢にうなされていたように、ねっとりとした汗が身体中に貼り付いている。普段ならザワザワと絶え間なく聞こえてくるオニシダの枝や葉の騒めきも聞こえず、リマズラハネムシの鳴き声も聞こえない。周囲には身体をワタスゲのワタ毛で締め付けられるような、重苦しい静寂に満ちていた。トトは静かに周囲を見回した。
・・・ナンダ?・・・
トトは首筋の後ろがそそけ立つように痺れて、身体中に鳥肌が立った。どこからか微かな腐臭が漂ってくる。トトはオニシダの枝の上から岩の上に下りると、岩の縁に立ち、ヒカリゴケの発する薄緑色の光を透かして闇の中に目を凝らした。
トトの立っている岩の周囲を幾つもの白い影のような塊が取り囲んでいた。その白い塊は宙に浮かんでフワフワと上下しながら、獲物を探しているかのように岩の周りをグルグルと回っていた。
・・・! ゴステ(死霊)だ・・・
トトはハッと息を呑むと、ゆっくりと後退った。そして、炉の前まで戻ると、そっとギギルの肩に手を掛けた。一瞬で跳ね起きたギギルは、無意識のうちに左手の手袋を脱ぎ捨ててカギ爪を構えた。ギギルの視線がトトを捉えた。トトは唇の前に人差し指を当てた。
「シー、ギギル シズカニ オオキナオト タテナイデ」
トトの顔が恐怖で引きつっている。小さく頷いたギギルはトトの耳に口を寄せると、声を潜めて尋ねた。
「どうしたトト?」
「ゴステガキタ オソロシイ ゴステガキタ」
トトはうわ言のようにゴステの名を繰り返した。ウカカ族の一番の勇者であるはずのトトの尋常でない怯え方を見て、ギギルの心の底に警戒心がムクリと湧き起った。ギギルはトトの両肩を掴んで揺さぶった。
「しっかりしろ、トト。ゴステとは何だ」
トトの瞳がスッと定まって、ギギルの顔にトトの怯えた視線が注がれた。
「ワルイタマシイ クラヤミノセイレイ ヒトヲトリコロス」
「暗闇の精霊? ヒトを殺すのか・・・」
ギギルは眉根を寄せた。どうやら厄介な存在らしい。
「ヒトゴステニカナワナイ ゴステコロセナイ イナクナルノマツ」
「分かった。とにかくそいつに気付かれないように、静かにしてれば良いんだな」
ギギルがそう言った途端、イオリがフニャアフニャアと大声で泣き出した。
「しまった! 気付かれる!」
イオリの泣き声にシンが吃驚して飛び起きると、イオリを抱え上げた。
「イオリ、どうしたの。ああ・・・おむつが濡れてる。ハイハイ、イオリすぐ替えてあげるから泣かないで・・・ん? ギギルにトト・・・どうしたの、そんな顔をして」
トトはガタガタと震えながら周囲を見回している。シンは手早くイオリのおむつを交換しながらイオリをあやしている。ギギルは足元に置いてある長剣を拾い上げると、シンに近づいて小さな声で言った。
「シン、声を立てるな。トトが言うには、ゴステとかいう暗闇の精霊が現れたらしい。ヒトを取り殺すそうだ」
「ハイハイ、イオリ、もう泣かないで、気持良くなったでしょ・・・シーッ、静かに・・・そんなに泣いたら怖いお化けがくるよ・・・えっ、ギギル、今何て言ったんだい。暗闇の?」
「暗闇の精霊だそうだ」
シンはゴクリと唾を飲み込んだ。
「それは怖いお化けってこと?」
「名前からすると優しいやつには思えないが・・・とにかく気付かれないように、静かにしてやり過ごすしかないそうだ」
「やり過ごすって・・・ギギル、あれは何?」
シンがギギルの肩越しに暗闇を指差した。ギギルが振り返ると、岩の縁から白い影のような塊が陽炎のようにゆらりと立ち上った。
その白い塊はユラユラと形を変えてヒトの姿に近づいたかと思うと、途端に火で炙られたククのようにドロリと崩れ、次にリマの姿に近づいたかと思うと、リマの背中から頭が生えてヒトの形になった。ヒトや動物の姿にユラユラと形を変えながら、その白い塊はギギルたちのいる炉の前へフワリフワリと流れてきた。
「カラダヲヒククシテ ウゴカナイデ イキヲトメテ」
トトが囁くように言った。ギギルは長剣を下に向けて切っ先を岩の上に付けると、長剣を胸に抱くようにして膝を折った。シンは保育器にチウシの革の覆いを掛け、腰の護身用の短剣の柄に手を置いた。
ギギルたちはイオリの入った保育器を真ん中にして円陣を組み、岩の上に片膝を突き、頭を下げて姿勢を低くすると、息を止めた。白い影のような塊は三人の周囲を漂うようにフワリフワリと一周すると、風に流されたかのようにスウッと横に動き、そのまま岩の縁からドロリと流れ落ちた。姿が消えた後に微かな腐臭が残った。ギギルは目の端でゴステが岩から流れ落ちたことを確認すると、シンとトトの肩をポンと叩いた。
「フウ・・・何とか気付かれなかったようだな」
「イオリも静かにしてくれた。いい子だ」
「モウダメカト オモイマシタ」
三人が顔を上げてホッと安堵の息を吐くや否や、ゴウッという音がして岩の周囲の空気がグルグルと回り始めた。
岩を取り巻いて回転する空気の流れはどんどん速くなり、ビョウビョウと音を立て始めた。巨大な空気の渦の中心に位置している岩の上面部分だけが無風状態で、岩の周囲は猛烈な風が渦となって舞い狂っている。折れたオニシダの枝や千切れた葉が渦に流されてグルグルと舞い上がり、その中に何体ものゴステが渦の中を泳ぐように蠢いていた。
岩を取り巻くように聳える空気の渦の壁から、一体のゴステが岩の上にポタリと落ちた。
「ゴステダ! コッチニクル、ニゲラレナイ」
立ちすくんでいるトトに向かって、ゴステが真っすぐスウッと流れてきた。ゴステはトトに向かって進みながら徐々にヒトの姿に変わり、トトの前にユラリと立つと両腕を前に突き出してトトの首を絞めた。トトは顔を真っ赤にして首を振り、ググッという呻き声を上げながらもがいている。周囲には強い腐臭が漂っている。
「トト!」
走り寄ったギギルがゴステの両腕に向かって長剣を振り下ろした。ギギルの長剣は煙を切ったように何の抵抗もなくゴステの両腕をすり抜け、剣の切っ先が地面に当たってガキリと火花を散らした。切断されたはずのゴステの両腕には何の変化もなく、ゴステはトトの首を絞め続けている。真っ赤だったトトの顔がどす黒く変わり始め、だらりと開けた唇から覗く舌は紫色をしている。トトはゴステに精気を吸い取られているのだ。トトの身体が激しく痙攣を始めた。
「クソッ」
ギギルが左手のカギ爪を上段からゴステの背中に叩きつけたが、カギ爪はゴステの身体をすり抜けた。ゴステの霊体には傷ひとつ付いていない。
「ダメだ、こいつには実体がない。俺の剣やカギ爪では倒せない」
渦の壁から更に三体のゴステが岩の上にポタリポタリと落ちると、一体はヒトの形、残りの二体は四つ足の動物の形となってシンとギギルに近づいた。
「ギギル、やつらがくるよ!」
恐怖に駆られたシンが、思わず悲鳴のような声を上げた。ギギルは三体のゴステを睨みつけている。
「ギギル、どうしよう」
「こうなりゃ気合いだ。剣もカギ爪も駄目なら、気合いでぶち殺してやるさ」
ギギルはそう言うと身体の前に構えたカギ爪をペロリと舐めた。シンもイオリの入った保育器を胸の前に抱えると、護身用の短剣を抜き、腰を落として身構えた。ギギルとシンは、フラリフラリと目の前に迫った三体のゴステを睨みつけた。
突然イオリがフニャアフニャアと大声で泣き出した。シンが慌てて保育器をゆすりなだめようとしたがイオリの泣き声は増々大きくなった。
イオリの泣き声を聞いた三体のゴステは、磨き上げられた水晶の板の上を滑るように、保育器を抱えたシンに向かった。トトの首を絞めていたゴステも手を放し、シンの方を振り向いた。ゴステたちはイオリの発する女王の精気に引き寄せられているのだ。
「イオリ静かにして、頼むから・・・」
シンは膝を突いてうずくまると、保育器を身体の下に置き、覆いかぶさるようにして両腕で保育器を抱えた。ギギルがハッと身構える間もなく、シンの身体は四体のゴステに取り付かれて白い繭のようになった。ウウーというシンの苦しげな呻き声と、フニャアフニャアというイオリの泣き声が、白い繭の中から漏れている。
「シン、今助ける。待ってろ!」
ギギルは白い繭をシンから引き剥がそうと、白い繭に向かって両手を必死に振り回したが、ギギルの手は煙を掴むように空を切るばかりだった。
・・・こいつらには実体がないんだ。クソッ、どうすればいいんだ。気合い、気合いか・・・コノヤロウ! 離れやがれ!・・・
ギギルはシンの周囲の繭に向かって、狂ったように両手を振り回した。ギギルの気合いも白い繭には通じない。シンの呻き声が小さくなっていく。精気を吸い取られているのだ。このままではシンは殺されてしまう、何とかしなければといくら焦っても、ギギルには為す術がない。ギギルの頭は焦燥感でチリチリと痛んだ。
フニャアフニャアというイオリの泣き声が止み、繭の中から『アアアー』というイオリの声が響いた。
・・・ドドド・・・ドンドドン・・・ドドドドン・・・ドンドドドン・・・
ギギルはハッと顔を上げて耳を澄ませた。
空気の渦の発するビョウビョウという轟音の中に、微かに太鼓の音が響いている。
「何か聞こえる・・・太鼓の音だ。これは・・・ウカカ族の村で聞いた太鼓だ」
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
太鼓の音は増々大きくなり、太鼓のリズムが空気の振動となってギギルの腹の底に響いた。
ドドドドンドンドドドン!
ひときわ大きな太鼓の音が響いた。岩の周囲を取り巻く空気の渦は消えていないが、ビョウビョウという耳を聾する轟音が消え、岩の上は静寂に包まれていた。
はるか天空から地上に向かって銀色の細い糸がスルスルと下りてきた。その銀色の糸を伝って何かが岩の上に下りてきた。
身長は三分の二メルほどで、腰の部分にオニシダの葉を巻き付けただけの屈強な裸体には、白と赤と緑の斑の縞が浮き上がっている。頭はまるでザドラの羽が生えているかのように髪の毛が逆立っている。背中には、緑色の鱗にびっしりと覆われた、甲虫の背にあるような硬質の前翅が生えている。その顔は大きなギョロ目とワシのようにとがった鼻があり、口は耳まで裂けていて、その口からは四本の大きな牙が、上顎から二本、下顎から二本突き出ている。そして手には身長の倍ほどもある金色の長い槍を持っている。
ゴステに精気を半ば吸われ、半死半生の状態で岩の上に倒れていたトトが顔を上げてその姿を見た。トトはオオウと感嘆の声を上げた。
「(ウカカ語)ウカペルメニョレス ビルナンチュヘルパ ウカ・ンガンガラ」
「トト、今何て言ったんだ?」
「ウカノカミノケシン セイナルセンシ ウカ・ンガンガラ」
「ウカの神の化身? 聖なる戦士『ウカ・ンガンガラ』だって?」
ギギルの目はウカ・ンガンガラの異様に吸い付けられた。ウカカ族の別れの宴でトトが仮装していたウカ・ンガンガラが、実際に目の前に降臨したのだ。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
太鼓の音が再び響き始めた。
ウカ・ンガンガラは口から銀色の霧の息を漏らしながら、金色の槍を頭上でビュンビュンと振り回し、倒れているシンの周りを飛び跳ねるようにグルグルと舞った。そしてシンを覆っている白い繭に金色の槍をサッと突き刺した。槍が突き通った白い繭はポッと紫色の炎を上げると一瞬で融けて消えた。後にはイオリの入った保育器を抱えたシンが岩の上にうずくまっていた。
「シン、大丈夫か」
ギギルがシンに駆け寄った。四体のゴステに精気をほとんど吸われたシンの顔はどす黒く変色していて、かろうじて息はしているが意識はなかった。保育器の中のイオリは翡翠色の大きな瞳をキョロキョロと動かして、元気そうに手足をバタバタと動かしている。
「ふう・・・どうやらイオリは何ともないようだ。シンのお蔭だな」
ギギルは上着の内側の小物入れからクロドクダミの葉を取り出すと、指ですり潰してからシンの口に含ませた。シンがウウムと唸った。ギギルはシンの外套と上着を脱がせると、肌着の上からシンの身体をゴシゴシと擦り始めた。ギギルが身体を擦る度に、シンの頭が力なくフラフラと揺れている。
ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン、ドドドドンドンドドドン
ウカ・ンガンガラは太鼓の音に合わせて身体を左右に揺らし、足を踏み鳴らしながら激しく舞い始めた。
岩の周囲を取り巻く空気の渦の中からゴステが次々と飛び出してくる。
ウカ・ンガンガラは、槍を振り上げて頭上でビュンビュンと振り回し、岩の上に飛び出してきたゴステに向かって次々と槍を繰り出している。右に左に、前に後ろに、ウカ・ンガンガラは舞うように身体を移動させてゴステを次々と刺し貫いた。ウカ・ンガンガラの身体の白と赤と緑の斑の縞が炉の中の焚火の光を反射して、マダラチョウの大群が光の柱を取り囲んでユラユラと舞っているような七色の光の文様が浮かび上がる。
・・・戦士の舞いだ、別れの宴で見たウカカ族の戦士の舞いだ・・・
ギギルは思わずシンの手当てを忘れ、陶然とウカ・ンガンガラの舞いを見つめていた。
何体ものゴステがウカ・ンガンガラを取り囲み、ウカ・ンガンガラの周囲をグルグルと回っている。そしてウカ・ンガンガラの前から、後ろから、右から、左から、ひっきりなしにゴステがウカ・ンガンガラに飛び掛かる。ゴステの姿はヒトでもあり、リマでもあり、タテガミオオカミでもあった。
ウカ・ンガンガラは舞うように身体を左右に捻りながら、金色の槍を目にもとまらぬ速さで前後左右に繰り出し、飛び掛かってくるゴステを刺し貫いている。金色の槍に刺し貫かれたゴステが消滅する直前に上げる紫色の炎が、墓場に浮かぶ死者の魂が発する燐光のように、ウカ・ンガンガラの周囲で揺れている。
ウカ・ンガンガラの周囲をグルグルと回るゴステが徐々に融合を始め、とうとうひとつの巨大な白い霧の塊となった。巨大なゴステはウカ・ンガンガラの周囲に渦を巻く高い壁となってそそり立ち、その壁から無数の棘のような腕がウカ・ンガンガラに向かって一斉に突き出された。
『ウバガ!』
ウカ・ンガンガラの唸るような声が響き、背中に生えている硬質の前翅がパカリと広がり、その下から半透明の後翅が左右に広がると、ウカ・ンガンガラは真上に飛翔した。崩れ落ちる霧の渦の二十メル上に浮かんだウカ・ンガンガラは、足元に蠢く巨大なゴステに向かって金色の槍を投げつけた。
金色の槍は耳をつんざくような雷鳴とともに、金色の雷光となって巨大なゴステを貫いた。
ゴウッという音を立てて巨大なゴステは紫色の炎の柱に変わり、のたうつように巨体を捩りながらヒトの形に変化した、そして崩れるようにリマの形に変化し、最後にタテガミオオカミの頭部が現れたかと思う間もなくグシャリと潰れ、紫色の炎が消えた。
どれほどトキが経過したのか分からない。ギギルが気付くと、太鼓の音は止み、岩の周囲を取り巻いていた空気の渦も消えていた。
岩の上にウカ・ンガンガラが槍を手に持ったまま静かに立っていた。辺りは清浄な空気に満ちている。全てのゴステがウカ・ンガンガラによって浄化されたのだ。
シンに抱えられた保育器の中からイオリが這い出ると、突然立ち上がり、ヨチヨチと歩いてウカ・ンガンガラの前に進んだ。イオリの翡翠色の大きな瞳は炉の中の焚火の光を受けて燃えるように光っている。イオリは万歳をするように両手を頭上に上げると、ウカ・ンガンガラに向かって『アアアー』と声を上げた。
ウカ・ンガンガラは片膝を突いて屈むと、食ってやるぞと言わんばかりに仮面のような恐ろしい顔をイオリに向けた。イオリは恐ろしい顔にスッと手を伸ばした。ウカ・ンガンガラの口から突き出ている大きな牙に、イオリの小さな手がそっと触れた。
イオリの女王の力を感得したのだろう。ウカ・ンガンガラはウハハハハという腹の底から響く笑い声をあげ、立ち上がるとイオリの頭を優しく撫でた。そしてウカ・ンガンガラはイオリを抱きかかえると、ゆっくりとギギルたちに向かって歩いた。
岩の上に横たわって意識のないシンの横で、ギギルは毒気を抜かれたような顔をして、ウカ・ンガンガラを呆然と見ていた。信じられないものを見たという思いなのだろう。聖なる戦士ウカ・ンガンガラの発する霊気に圧倒されて、ギギルは身じろぎひとつできなかった。
ウカ・ンガンガラはイオリを抱いたままシンの傍に進み、片膝を突くとイオリを地面に下ろした。そして両手でシンの肩を掴んで上体を引き起こすと、シンの右肩にいきなり噛みついた。ウカ・ンガンガラの四本の大きな牙がシンの肩口に深々と突き刺さった。
「ウウウウ・・・・」
シンが呻き声を上げ、小さく身震いをした。どす黒く変色していたシンの顔色に徐々に赤みが差し、細々としていた呼吸がしっかりとしてきた。ウカ・ンガンガラがシンに精気を与えているのだ。シンがゆっくりと目を開けた。ウカ・ンガンガラは口を開いてシンの右肩から離れるとゆっくりと立ち上がった。イオリがヨチヨチと歩いてシンに近づくと、ウカ・ンガンガラの真似をしてシンの左肩に噛みついた。
「イテテ、イオリ噛まないでったら・・・・」
ウカ・ンガンガラはウハハハハという笑い声を上げながらギギルたちに背中を向け、岩の中央まで進むと、はるか天空から地上に向かって延びる銀色の細い糸を右手で掴んだ。ウカ・ンガンガラは流星のように光の帯を引きながら、はるか天空に昇った。
ウカ・ンガンガラが消えた天空から、ウハハハハという笑い声が遠雷のように響いてきた。
ギギルはウカ・ンガンガラが消えた天空を見上げながら、シンの横に腰を下ろした。そして、ギギルはシンの左肩に噛みついているイオリを両手で抱え上げた。イオリは未練がましく両足をバタバタと動かしている。
「ヤレヤレ、何とか助かったぜ、正直、今回はもうダメかと思ったが、ウカ・ンガンガラに助けてもらったな。感謝しなきゃ」
シンはウカ・ンガンガラに噛まれた右肩を擦りながらギギルを見た。
「ギギル、今のは、いったい何なんだい? ウカ・・・・?」
シンの顔には未だ青みが残っているが、声はしっかりとしている。先程まで死にかけていたとは思えないほどの回復ぶりだ。
「ウカ・ンガンガラ。トトによると、ウカの神の化身で聖なる戦士だそうだ。剣もカギ爪も役に立たない死霊相手じゃあ、生身の俺たちじゃ太刀打ちできない。ウカ・ンガンガラを遣わしてくれたウカの神様に感謝しよう」
ギギルは天空の神に礼をするように深々と頭を下げた。首に手を当てたまま、トトは酷い嗄れ声を出した。ゴステに絞められた喉が痛いのだろう、顔をしかめている。
「チガウ ギギル チガウ ウカ・ンガンガラヲヨンダノハ イオリデス イオリノジョウオウノチカラガ ウカ・ンガンガラヲヨンダノデス」
トトは畏敬の念を込めた目でイオリを見ている。
「なるほど、イオリの女王の力か・・・そうかも知れんな。イオリ、ありがとうよ」
ギギルは腕の中のイオリの頭を優しく撫でた。ギギルに礼を言われたのが分かったのだろう、イオリが嬉しそうにウキャキャと笑った。
「そうだ、トト、お前さん身体は大丈夫なのかい」
トトは岩の上に座り込んでしきりに首を擦っている。ゴステに絞められた首には青黒いあざが残っていた。顔に血の気がなく身体はブルブルと小刻みに震えている。
「クビガイタイ カラダガヤケルヨウニアツイ カラダニチカラハイラナイ・・・アタマガワレルヨウダ・・・」
トトはうわ言のようにそう言うと、身体をゆっくりと後ろに倒した。起きていられないのだ。イオリを抱いたまま、ギギルが駆け寄った。
「こりゃあいかん。首も腫れているし・・・ああ、ひどい熱だ。よし、炉の焚火の傍にトトを移そう。シン、寝床を作ってくれ」
タテガミオオカミの毛皮の肩掛けを炉の焚火の傍に敷いて簡単な寝床を作ると、トトを肩掛けで包むようにして寝かせた。トトは「サムイ、サムイ」とうわ言を口にして震えているが、高温の発熱にも関わらず汗が全く出てこない。額に手を当てると燃えているように熱かった。トトの意識はボンヤリとして、ギギルが話しかけてもウカカ語で何かをブツブツと繰り返すだけで、何を言っているのか理解できなかった。
シンは炉に掛けた鍋でクロドクダミの葉を煎じて薬湯を作っている。
「とりあえず、薬湯を飲めば熱は下がると思うけど、ゴステにだいぶん精気を吸い取られたんだ、体力が持つかな」
「タテガミオオカミの乾燥肉で精の付く煮汁を作って飲ませてみよう。とにかく腹に何か入れなきゃ・・・それとも、いっそのこと、ヴォルトを飲ませてみるか。よし、その前にオレが一口・・・」
ギギルは上着の下に肩から下げているチウシの胃袋の水筒を取り出すと、中に入っているヴォルトの量を確かめるように左右に振った。水筒は軽く、中のヴォルトはチャプチャプと心もとなげな音を立てている。
「クロドクダミの葉に少量のヴォルトを加えて擦り潰すと、解毒と鎮痛に効く塗り薬になるんだ。トトの首に塗って見ようよ、ギギルは飲むのを我慢して塗り薬を作ってあげてくれないかな」
ギギルはチウシの胃袋の水筒の口を慌てて締めると、きまりが悪そうに肩をすくめた。
「そうとも、俺はそれをやろうとしていたんだ」
「嘘ばっかり、ギギルは飲もうとしてたでしょうが」
シンに睨まれて、ギギルは笑ってごまかした。
「バレたか・・・ヘヘヘ、かたいこと言うなよ」
ギギルの腕の中でイオリがウニャウニャとぐずり始めた。
「どうしたイオリ、ああ、おむつがビショビショだ・・・ウン? やられた、俺の外套までビショビショに・・・何てこった。シン、頼む」
ギギルの外套の胸の前がぐっしょりと濡れて色が変わっている。そういうことは日常茶飯事のシンは驚く様子もない。
「よーし、イオリ、泣かないでこっちへおいで・・・イテテ、イオリ噛むんじゃないってば・・・」
ギギルの作った塗り薬をワタスゲの布の上に薄く延ばしてから、その布をトトの首に貼った。冷たくて気持ちがいいのだろう、トトがフッと目を開けた。それを見たシンが薬湯の入った椀をトトの口に当てた。
「さあトト、これを飲んで。解熱薬だよ」
トトは一口飲んでむせ返ったが、シンに励まされるようにして椀の中の薬湯を何とか飲み干した。
「よし、これで何とかなるだろう。少し様子を見ようか」
シンはホッとした顔で、トトの額を優しく撫でた。トトは再び深い眠りに落ちた。
半カクンほど経過すると、トトは夥しい汗をかき始めた。クロドクダミの薬湯の効果が現れたのだ。シンはトトの額から滝のように流れる汗をこまめに拭いた。時折、薬湯をトトの口に含ませてやると、喉が渇いているのかトトはごくごくと薬湯を飲んだ。更に一カクンが経過した頃には、トトの熱はすっかり下がっていた。ハアハアと荒かった呼吸も穏やかになり、トトは少し口を開けたまま昏々と眠り続けている。
周囲が薄っすらと明るくなってきた。日の出時が近づいているのだ。しかし、トトを見つめるシンの顔色は暗い。
「もうそろそろ日の出時だけど、トトの意識が戻らないんだ」
ギギルがトトの顔を覗き込んだ。
「熱は下がったんだろう、呼び掛けて見なよ」
「トト、トト、起きてトト。目を開けてトト」
シンの呼び掛けにトトは全く反応しない。ギギルがトトの肩に手を掛けて激しく揺さぶった。
「トト、トト、起きろトト。どうした、美味い煮汁もあるぞ、トト・・・。仕方がない、ヴォルトを口移しで飲ませてみるか」
「ギギルは自分が飲むつもりでしょうが」
「バレたか」
ギギルやシンが激しく肩を揺すってもトトは目を覚まさない。スウスウと規則正しい呼吸を続けながら少し唇を開け、時折細かく瞼を痙攣させながらトトは昏々と眠り続けている。炉の前で横になっているトトを挟んで、ギギルとシンは額を突き合わせていた。ふたりの顔は曇っている。
「どうしようギギル、このままトトが目を覚まさなかったら」
「ウカカ族の村に助けを呼びに行くしかないだろうな」
「村の場所は分かるのかい」
ギギルは腕を組んだまま首を横に振った。
「・・・分からん。そうすると、トトが帰ってこないことを心配して、ウカカ族の村から捜索隊がくるのを待つしかないか」
「トトの身体はそれまで持つかな」
「ウカの神に祈るしかないな・・・」
ギギルとシンが額を突き合わせて暗い顔をして話していると、保育器の中からイオリが這い出し、ヨチヨチと歩いて昏々と眠り続けているトトの前に立った。ギギルとシンは、イオリが何をするつもりだろうと、興味深げにイオリの姿を目で追った。イオリは小さな手でトトの額をペタペタと叩き、ちょっと屈むとトトの左の耳たぶにガブリと噛みついた。ウカ・ンガンガラの真似をしているのだ。
イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
《トトの意識は真っ暗な空間をフワフワと漂っていた。遥か遠くからトトの名前を呼ぶ声が聞こえるが、答えたくても声が出ない。卵の殻の中で身体を丸めているような陶然とした気持ちよさに、トトは目を開ける気にもならない。『このまま永遠に漂っているんだ』とトトは納得した。眠い、眠い・・・。突然、トトは左の耳たぶに痛みを感じた。誰かがギュウッと抓り上げているようだ。コドモの頃にトトが悪戯をすると母のキキがいつも左の耳たぶをギュウッと抓り上げるのを思い出した。『分かったキキ、分かった、怒らないで、ゴメン悪戯は謝るから・・・イテテ』・・・トトの左耳にキキがフウッと温かな息を吹き込んでいるようだ。空っぽの身体に温かな血が流れ込んでくる・・・何だか、力が湧いてきた。起きなきゃいけない、起きなきゃ・・・目を開けるんだ・・・》
トトがパチリと目を開けた。途端に左の耳たぶに激痛が走った。
「イテテ・・・?」
トトが悲鳴を上げながら上半身を起こした。トトの左の耳たぶには、噛み付いたままのイオリがぶら下がっている。起き上がったトトを見てシンが安堵の声を上げた。ギギルもホッとしたような顔をしている。
「トト、良かった、気が付いた!」
「イテテ・・ミミガチギレル・・・イオリハナシテ」
トトの左の耳たぶにぶら下がっているイオリを、シンが抱き上げた。
「イオリ、放して。ほら、お口をアーンして」
シンがイオリのお尻をポンポンと叩くと、イオリはやっとトトの左の耳たぶを放した。イオリを胸に抱いたまま、シンがトトの背中を優しく擦った。
「良かったトト、意識が戻らないんで心配していたんだ」
「マックラナナカヲ タダヨッテイマシタ コエガキコエテ デモコエガデナイ ソシタラミミタブヲツネラレタ イヤ ミミノアナカラ アタタカイイノチガ ナガレコンデキタ イオリノオカゲ イオリガイノチクレタ イオリガジョウオウノチカラシメシタ」
左の耳たぶからポタポタと血を流しながら、トトはシンに抱かれているイオリの頭をそっと撫でた。イオリは喜んでウキャキャと笑い声を上げている。
「ねえ、ギギル。イオリの女王の力というのは本当なのかな」
ギギルは指で顎を擦りながら、女王の力という言葉を噛みしめていた。
「今回、イオリに助けられたことは間違いない。不思議な力だ・・・やはりイオリは女王候補者だよ・・・よし、シン。トトの回復祝いにヴォルトを一杯やるか」
シンが呆れたような顔をした。
「ギギル、もう日の出時だよ。私がチャルの用意をするから、その間にギギルはトトの耳の手当てをしてあげて」
ギギルとシンの掛け合いを、トトがニコニコしながら見ていた。
ギギルたちは朝食を終えると、ゴステに襲われた大きな岩を後にして、オニシダの森の中を進んだ。オニシダの森の中を五カクンほどの時間をかけて進み、そろそろ昼食時となった頃、緑の壁となって周囲を覆っていたオニシダの森がポカリと消えて、ギギルとシンは明るい平原に出た。五十メル先に回廊が目の前を横切って延びていた。トトの先導でオオニシダの森を抜けて回廊に戻ることができたのだ。
ギギルとシンは平原に降り注ぐ外光に目を細め、慌てて遮光眼鏡を掛けると襟巻を鼻まで引き上げ、外套の風防頭巾を目深に被った。イオリもコドモ用の遮光眼鏡を掛けて襟巻で鼻と口を覆い、ブカブカの外套を羽織っている。
「何とかオニシダの森を抜けたな、トトのお蔭だ。礼を言うぜ」
ギギルが振り返ると、トトはオニシダの森の中から外に出ようとせず、森と平原の境界に立っていた。そこが結界なのだろう。トトはニコリと笑い、右手を上げてギギルとシンに挨拶すると背中を向けた。トトの背中は森の中に溶けるように消えた。
トトが消えた森を見ていたシンが、我に返ったようにポツリと言った。
「何とも不思議な森だったね。何だか夢を見ていたようだ」
「おとぎ話に出てくる森の民か・・・こんなにでかい大陸だからな、まだまだ俺たちの知らない世界があるってことさ」
ギギルが感慨深げにそう言うと、保育器の中のイオリがウキャキャと笑った。オニシダの森が原生生物のようにザワリと蠢いた。たぶん風が吹き抜けたのだろう。
ギギルとシンはオニシダの森に背を向けると、目の前に延びる回廊に入った。回廊は昼食時の明るい外光に満ちていて、ザアッと吹いてきた風に巻き上げられた乾いた土埃が宙に舞っている。
回廊を五十メルほど進んでから、シンは何気なくオニシダの森を振り返った。
「ギギル・・・森が・・・オニシダの森が消えてしまった!」
「何だとシン。まだヒルだってのに、もう酔っ払っているのか?まさか俺のヴォルトを盗み飲みしたんじゃなかろうな・・・!」
驚いたようなシンの声に、半信半疑のギギルは後ろを振り返って、自分の目を疑った。
たったいま出てきたばかりのオニシダの森が消えていた。ギギルの目の前にはオニシダがポツリポツリとまばらに生えているだけの、だだっぴろい平原が広がっていた。
「ねえギギル、これはどういうことだろう?」
シンの声は震えている。ギギルはあっけにとられたような顔で、目の前の平原を見ていた。
「俺にも分からん、シンの言うとおり夢でも見ていたのか・・・シン、ちょっとほっぺたを抓らせてくれ」
ギギルの指がシンの頬に伸びる。シンが慌てて飛び退いた。
「自分のほっぺたを抓りゃいいでしょ・・・でも、夢じゃないよ、だってウカカ族の村で餞別にもらったタテガミオオカミの毛皮の肩掛けは・・・ほらここにある」
シンは背嚢の上に丸めて括りつけてある肩掛けをポンポンと叩いた。ギギルがウウムと唸った。
「不思議だ、森だけが消えたということか」
「ねえギギル、こういうときは落ち着いて、まずチャルでも飲もうよ」
保育器の中から顔を覗かせたイオリは、遮光眼鏡の下の翡翠色をした大きな瞳で消えたオニシダの森の方角をじっと見つめ、やがて誰かに別れを告げるかのように小さな右手を上げた。イオリには何かが見えているのだろう。




