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ウカカの森 タテガミオオカミの襲撃2

 日の出時から一カクンが経過した後。腹ごしらえをしたギギルとシンは、オニシダの森の中に続く六本の小道のうちの、一番大きく、かつ、大陸の壁面がある左側に向かって延びる小道に入った。シンがオニシダに登って周囲を見渡すと、確かに左手の方角に大陸の壁面が見えたのだ。

 オニシダの森の中に延びる小道は、道の両側にオニシダの幹が檻の格子ように並び、幹と幹の間にはワタスゲやアマクサなどの様々な下草が垣根のように生い茂っていて、森の中に掘られた隧道のようだ。地震のせいだろう、足元の地面にはオニシダの枝や葉が散乱していて、所々でオニシダの幹が途中から折れて小道を塞ぐように倒れ込んでいた。

 明るくなるにつれて、黄色と青色の羽が美しいイワカケスがチチチチとオニシダの枝の上で囀り始めた。オニシダの幹の間から、マダラチョウがヒラヒラと舞い出してきて、ギギルたちの前をフワリと横切る。ワーンという音を立てて、シリカバチが頭を掠めて飛んでいく。気温が上がるにつれて、オニシダや下草が発する、むせ返るような緑の臭いが強くなった。

 前を歩くギギルは、いつもは肩から下げている長剣を、鞘ごと右手に持っている。用心のためだ。シンはイオリの入った保育器を胸の前に抱えて、イオリがフガフガとぐずり出すと、せっせと保育器を揺らしてあやしている。

 ふたりが歩き始めて二カクンが経過した。それまで続いていた一本道が、大きなオニシダの前で二本に分かれていた。道の周囲は背の高いオニシダが密集していて、大陸の壁面は全く見えない。

「また分かれ道だよ、どうするギギル?」

「俺たちの左手に大陸の壁面があるはずだ。とにかく壁面に沿って歩けばいいから、左の道を進もう」

 左側の道を選択して歩きだしてから更に二カクンが経過した。森の中に延びる小道は時折左右にうねりながら単調な景色を見せて延々と続いていたが、そろそろ昼食時になろうかという頃に、ギギルとシンの目の前にポッカリと広場が現れた。

「ギギル、広場に出たよ、そろそろイオリに乳をあげなきゃいけないんだ。ここで昼食にしようよ」

 小道の上で感じていた周囲の緑が発する圧迫感から解放されたシンは、ホッとしたようにギギルを見た。森の中の小道の、いつまでも続く単調な景色に少々うんざりしていたギギルも、表情を緩めた。

「よし、一休みして昼食にするか。と言っても、俺とシンはチャルだけだがな」

 ギギルとシンは広場の中に足を踏み入れた。ギギルとシンの正面に幹の周囲が二抱えもある大きなオニシダが聳え立っていた。

「ウン? あれは・・・」

「ギギル、あれは・・・焚火の跡だ。まさか・・・」

 ギギルとシンは自分たちの目を疑った。目の前の大きなオニシダの前に焚火の跡があり、その周囲の地面には黒々とした血の跡が残っていた。大きなオニシダの枝からキヌグモの紐が垂れ下がっている。そして、焚火の跡の少し先には、広場を切り裂くように、大地震でできた地割れが大きく口を開けていた。タテガミオオカミの死骸だけはどこにも見えない。

 ギギルは焚火の跡に駆け寄ると、片膝を突いて燃えカスを摘まみ上げ、匂いを嗅いだ。まだ新しい。そんなことをしなくても、出発したはずの広場に戻ってきたことは間違いないのだ。

「まさか・・・元の広場に戻ってきた・・・そんなバカな。何てこった、半日も無駄にしちまった。すまん、シン、俺の判断ミスだ」

 ギギルがガックリと項垂れた。ギギルの後ろで、シンはあっけらかんとした顔をしている。ギギルのせいじゃないよと言いたいのだ。

「ギギル、まあこういうときは焦っても仕方ないよ。ほら、座ってチャルでも飲んで落ち着こうよ。しかし、タテガミオオカミの死骸はどこへ行ったんだろう。血痕しか残っていないけど。ザドラかな?」

 シンはタテガミオオカミの死骸を探してキョロキョロと辺りを見回している。ギギルは違うと首を横に振った。

「こんな深い森の中までザドラは飛んでこられない。ザドラじゃないだろう」

「それじゃあ、何が死体を運んで行ったんだろう?」

 シンが気味悪げに首をすくめた。

 タテガミオオカミは共食いをしないと言われているし、ザドラでもないとなれば、別の肉食獣がこの森の中に潜んでいることになる。厄介な相手がまたひとつ増えたかも知れないと考えながら、ギギルは地面に残っている血痕を睨んでいる。

「とにかく、私がチャルを淹れるよ。チャルを飲んでからゆっくり考えよう」

「シン、ちょっと待て。水はどれくらい残っているんだ?俺は水筒に半分だ。ヴォルトは別だが」

 シンが肩から下げているチウシの胃袋の水筒を揺らすと、チャプチャプと軽い音がした。

「私は水筒に四分の一くらいかな」

 ギギルの顔が曇った。またひとつ心配事が増えたのだ。

「ふたり合わせて水筒に四分の三か・・・。こりゃあ、早いことこの森を抜けて、回廊の水場にたどり着かないと大変なことになるな。とにかく俺たちは我慢だ、イオリに飲ませる乳の分だけ水を使おう」

「空から水は降らないかなぁ・・・」

 シンが頭上に目をやった。密集したオニシダの枝葉の僅かな隙間から差し込む外光は強く、雲などなさそうだ。

「大陸の中層帯じゃあ、空から水はほとんど降らないぜ。まずは期待できないな。よし、イオリに乳を飲ませたら、アサ出発した道をもう一度進んで、あの分かれ道を今度は右に進んでみよう」


 イオリに乳を飲ませ、おむつを替えると、ギギルとシンは再び左側に向かって延びる小道に入った。歩き始めて二カクンが経過すると道が二本に分かれている場所にたどり着き、今度は右側の道を選択して更に二カクン歩いた。薄暗い森の中に延びる小道の前方がうっすらと明るくなったかと思うと、ふたりの目の前にポッカリと広場が現れた。

 その広場には幹の周囲が二抱えもある大きなオニシダが聳え立っていて、その前には焚火の跡があった。周囲の地面にはどす黒い血痕が残っている。

 焚火の跡を見たギギルは広場の中に走り込んだ。ギギルの口から思わずムウウと呻き声が漏れた。

「バカな! また同じ広場に戻ってきただと! 途中に分かれ道もなかったのに、いったいどうなっているんだ」

 ギギルは苛立ち紛れに焚火の跡を長靴で蹴った。燃えカスがパッと舞い上がる。イオリを胸の前に抱いたシンは、硬い表情で周囲を見回している。

「ねえギギル、こりゃあただごとじゃないよ。ひょっとして、私たちは監督使に妖術を掛けられているんじゃないかな」

「監督使? しかし、監督使ならとっくに襲ってきているはずだがな」

 ギギルは監督使と聞いて、納得できないという顔をして指で顎を擦っている。シンは足元のどす黒い血痕に目をやった。

「中層帯には本来いないはずのタテガミオオカミが、この森にいることも不思議じゃないか」

「そりゃそうだが。監督使ねぇ・・・獣を操る妖術使いってことか。こりゃあ新手だな」

 ギギルはまだ腑に落ちないようだ。ギギルには、監督使の妖術というよりも、この森自体が意思を持って、ギギルたちを森の外へ逃がすことを妨げているように感じられるのだ。ギギルの頭の中が分かったかのように、頭上のオニシダの枝がザワリと揺れた。

「ギギル、日の入り時まであと一カクンしかないよ。キョウはこれ以上進むのは無理だろう?ここでヨルを過ごす準備をしなきゃ間に合わなくなるよ」

 シンにそう言われてギギルはウムと腕を組んだ。いずれにしても、アシタ仕切り直しだ。そのためにはキョウのヨルを無事に乗り切らなければならない。あの白いタテガミオオカミは必ず襲ってくるだろう。ギギルを恐れて逃げた訳ではないのだ。さて、どうするか、ギギルは考えを巡らせている。口を真一文字に結んでしばらく目を閉じていたギギルが、パッと目を開けた。

「よし、シン。イオリに乳を飲ませたら、とにかくシンとイオリは、キノウのヨルと同じようにオニシダの枝に上がれ」

「ギギルはどうするんだい?」

「俺だけなら何とでもなるさ、いつものことだ。それに俺に考えがある。あの白いタテガミオオカミと決着を付けてやる。もし、監督使がやつを操っているなら、監督使も姿を見せるだろう。監督使も一緒に始末してやるぜ。シン、イオリのおしめを替えて乳の準備に取り掛かれ。俺は焚き火用の枯れ枝を集めてくる」

 心が決まったのだろう、ギギルの顔から迷いの色が消えている。ギギルはシンの肩をポンと叩くと森の中に入って行った。


 日の入り時を迎えてから既に六カクンが経過した。日の出時まであと四カクン、ヨルの闇が一番深いトキである。

 ギギルはオニシダの幹に背中を預けて、地面に腰を下ろしていた。既に左手は手袋を外してあり、右手には抜き身の長剣が握られている。目の前の焚火の炎が、微かに流れてくる風になびいてユラユラと揺れるたびに、オニシダの幹に映るギギルの影も、踊っているかのように伸びたり縮んだりしている。先程まで頭上から降るように聞こえていたリマヅラハネムシのギリギリという鳴き声が突然止んだ。広場にはねっとりとして重苦しい静寂が満ちている。

 何かの気配を感じたギギルは、顔を上げて広場の向こうに横たわる森の闇に目を向けた。微かに獣の臭いが漂っている。森の闇に無数の青い小さな光が瞬いた。

 ・・・やつがきた・・・

 ギギルは右手に長剣をぶら下げてゆっくりと立ち上がった。そして左手のカギ爪と右手の長剣を身体の前で交差させるようにして構え、少し腰を落として前屈みになった。霧が木立の間から流れ出てくるように、白い大きなタテガミオオカミが音も立てずに広場の中にユラリと姿を現した。他のタテガミオオカミは姿を見せない。それを見てギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。

「よくきた。一頭だけとはいい心がけだ、キノウの続きをやろうじゃないか。差しで勝負だ」

 白いタテガミオオカミは前脚を折るようにして少し前屈みになり、鼻の頭にしわを寄せると、あたかもニヤリと笑うかのように口の両端を上げて大きな二本の牙を見せた。瞬かない赤い両目は、真っ赤な熾火が燃えているようにユラユラと光を放って、じっとギギルを睨みつけている。そしてジリジリとギギルに向かってきた。グルルという低い唸り声がギギルの耳に届いている。

 ギギルは白いタテガミオオカミに目を向けたまま、ペロリとカギ爪を舐めた。

 ギギルと白いタテガミオオカミとの間の距離は焚き火を挟んで十メル。白いタテガミオオカミを睨みつけているギギルの、少し紅潮した顔面を焚火の黒い煙がフワリと撫でた。

 ギギルは思わず一瞬目を閉じた。

 ゴッという呻き声を発して白いタテガミオオカミが十メルの距離を雷光のように走り、焚火を飛び越えてギギルに襲い掛かった。目を閉じた分だけ、防御のためにギギルが振り上げた長剣は、白いタテガミオオカミの俊敏な動きに僅かに間に合わない。白いタテガミオオカミの前脚の鋭い爪がギギルの両肩に食い込んだ。そして飛び掛かった勢いのまま巨体をギギルにぶち当てて、ギギルを仰向けに地面に押し倒した。ギギルの長剣は弾き飛ばされて五メル先の地面に転がった。ギギルの喉笛に食いつこうと、白いタテガミオオカミがやや首を傾げるようにして大きく口を開けた。鋭い牙がギギルの喉に迫る。

 ギギルは仰向けに倒れながら両足を白いタテガミオオカミの腹に当てると、仰向けに倒れた動きを利用して両足を蹴り上げた。飛び掛かった勢いのついていた白いタテガミオオカミは、空中を一回転して背中からオニシダの幹に激突した。ギギルのチウシの革の外套の両肩は、白いタテガミオオカミの爪で切り裂かれてズタズタになっている。分厚いチウシの革のおかげで、爪はギギルの肩の肉まで届かなかった。

 ギギルは飛び起きて左手のカギ爪を振り上げた。白いタテガミオオカミは地面に伏せた状態で顔を上げて牙を剝いた。ギギルと白いタテガミオオカミが、半メルの距離を隔てて向かい合った。

 ギギルは渾身の力を込めて、白いタテガミオオカミの顔面にカギ爪を叩き込んだ。白いタテガミオオカミの右頬にギギルのカギ爪がザクリと食い込んだ。白いタテガミオオカミは首を激しく振ってカギ爪を振り払い、逆にギギルの左腕に噛みついた。

 ボキッと鈍い音がして、ギギルの左手は肘とカギ爪の間で折れた。

 ・・・クソッ、骨をやられたか・・・だが、まだだ!・・・

 ギギルは右手で腰の後ろの短剣を素早く抜くと、ギギルの左腕に噛みついたままの白いタテガミオオカミの顔面目掛けて短剣を叩きつけた。ギギルの短剣は白いタテガミオオカミの左目に深々と突き刺さった。

 ゴッという呻き声を発して白いタテガミオオカミがギギルの左腕を放すと、首を振りながら焚火の向こうに走り抜けた。チャリンと音がして短剣が地面に抜け落ちた。短剣には刺し貫かれた眼球が付いたままだ。白いタテガミオオカミは広場の真ん中でまで走ると、そこで方向を変え、再びギギルに向かって猛然と走った。決着を付ける気なのだ。白いタテガミオオカミの頭部の左半分は真っ赤な血でグッショリと濡れている。

 ギギルは白いタテガミオオカミが走ってくる姿を見ると、パッと身体を翻して、焚火の左側にある断層に向かって走った。白いタテガミオオカミは焚き火を飛び越えると、ギギルの後を追って走った。目の前を走るギギルの背中に向かって、白いタテガミオオカミが跳躍した。前脚の鋭い爪がギギルの背中に迫る。

 ギギルは断層の崖から空中に飛び出した。

 長いキヌグモの紐の先に身体を縛り付けたシンが、ギギルの動きに合わせるように、オニシダの枝から勢いを付けて宙に飛び出した。シンの身体はオニシダの枝を支点として、振り子のように円弧を描きながら空中を走った。ギギルとシンの身体が空中でひとつに重なり、断層の崖から飛び出したギギルの身体を、シンが空中でしっかりと受け止めた。ふたりはそのまま振り子の軌道をなぞって空中に跳ね上がった。

 ギギルに向かって跳躍した白いタテガミオオカミの前脚の爪は、ギギルの背中に一ケル届かなかった。断層の崖から飛び出した白いタテガミオオカミは、オオーンという鳴き声を上げながら、地割れの深淵の闇の底へ落ちた。


 ギギルとシンが重なり合うようにして、大きなオニシダの横の地面にドサリと落ちた。ギギルの身体を、シンがまだ必死になって両腕で抱きかかえている。ギギルは右手でポンポンとシンの背中を叩いた。

「シン・・・助かったぜ、もう放していい。やつは地割れの底へ落ちた」

 シンはようやく腕の力を抜くと、ギギルの身体を放した。シンの額にはびっしりと汗が浮かんでいる。ギギルとシンの絶妙の呼吸が少しでもズレていれば、ギギルは白いタテガミオオカミと一緒に地割れの底へ落ちていたはずだ。

「ギギル、全く無茶だよ。上手くいったから良かったものの・・・」

 ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。

「なあに、俺の無茶はいつものことだ。シンも慣れただろう・・・ウン、イテテ」

 ギギルは折れた左腕を胸の前に抱えるようにして立ち上がると、焚火の前を通ってその先の地面に落ちている長剣を拾い、ゆっくりと広場の周囲を見回した。

 オニシダの森の暗闇の中から一頭また一頭とタテガミオオカミが広場の中に姿を現した。ギギルの目の前で五頭のタテガミオオカミが低い唸り声を上げている。その目は首領を殺された怒りに燃えている。

 ギギルは右手で持った長剣を肩に担ぐようにして構えた。シンもギギルの横で投石器を右手に持ち、左手には投石を三つ持っている。とは言うものの、シンの両膝はガクガクと震えている。十メル上のオニシダの枝に括りつけられている保育器の中で、イオリがフガフガと声を上げて手足をバタバタ動かしている。イオリも加勢する気なのだろう。

 ギギルは五頭のタテガミオオカミの顔を順番に見てから、フンと鼻で笑った。

「さてと、首領の弔い合戦をやる気なら受けて立つぜ。かかってきな」

「ギギル、左腕は使えないんだろう?大丈夫かい」

「なあに、こいつらなんぞ右手一本で十分だ。多分だがな・・・」

 五頭のタテガミオオカミが、ギギルとシンに向かって飛び掛かろうと一斉に体勢を低くした。ギギルは少し腰を落として、長剣を身体の前に水平に突き出した。防御の構えだ。左手のカギ爪は力なくだらりと下がっている。シンが右手の投石器を振り上げて、一番手前にいるタテガミオオカミの顔面に狙いを定めた。あとひと呼吸で戦いが始まる。ギギルがスウッと息を吸って腹の底に力を溜めた。

 オニシダの森が生き物のようにザワリと揺れた。

 オニシダの森の樹上から一メルほどの長さの夥しい数の槍が、光の糸を引きながら流星群のように地上に降ってきた。四頭のタテガミオオカミは身体中に何本もの槍を受けて、ハリネズミのような姿となって動かなくなった。残る一頭のタテガミオオカミも、槍を受けた右脚を引きずっている。

 そのタテガミオオカミに向かって、オニシダの森の樹上から銀色の糸がスルスルと下りてきた。糸の先にはキヌグモのようにヒトが逆さまにぶら下がっていた。そのヒトの肌の色は黒く、腰の周りに毛皮を巻いただけで上半身は裸だ。そのヒトは降下してきた勢いに乗せてタテガミオオカミの頭上に棍棒を叩きつけた。グシャリと音がした。頭部を割られたタテガミオオカミは、眼の前に立つ棍棒を持ったヒトに噛みつこうと牙をむいたが、棍棒を持ったヒトは糸に引き上げられるようにスウッと上空に舞い上がった。頭部を割られたタテガミオオカミの左右にも樹上から糸にぶら下がったヒトが下りてきて、棍棒でタテガミオオカミの身体を殴りつける。その攻撃が二度三度と繰り返されると、身体中を滅多打ちにされたタテガミオオカミは、ゴボリと口から血を吐いて動かなくなった。

 タテガミオオカミが何者かに攻撃されている様子を唖然として見ていたギギルは、突然、広場の端に生えている一本の細いオニシダに向かって猛然と走った。ギギルは走りながら長剣を上段に振り上げると、細いオニシダの幹に向かって斜め上段から長剣を振り下ろした。

 ガッという音と共に硬いオニシダの幹が斜めに両断され、バサバサと葉の音を鳴らしながら倒れた。

 そのオニシダ幹の向こうで、左肩から胸のあたりまで長剣で断ち割られた黒衣の監督使が、ドサリと膝から崩れ落ちた。監督使が倒れると、広場の周囲の森の中で光っていた青い光が消えた。監督使の口には小さな笛が咥えられていた。

 ギギルは倒れた監督使の横にひざまずくと、監督使の顔を覆っている頭巾を外した。その顔を見てギギルは息を呑んだ。

「アベル爺さん!・・・いったい何でお前さんが・・・」

 ギギルはアベルの身体を抱き起こした。アベルの身体は肩から胸にかけて負った傷から流れ出た血でどす黒く染まっていて、両手は激しく痙攣している。咥えていた小さな笛がポタリと地面に落ちた。アベルは眼を虚ろに見開いたまま、うわ言のように言った。

「すまんな、ギギル、すまん・・・」

「アベル爺さん、お前さん監督使だったのか。全く気付かなかった」

 驚きが去った後のギギルの心の中には、怒りも憎しみもない、ただ諦めに似た感情が渦巻いている。

 アベルの顔に寂しげな笑みが浮かんだ。

「昔のことじゃ、ずうっと昔、ワシがまだシンぐらいの頃じゃった。分別のつかん若造で剣の腕にうぬぼれておった。金も名誉も欲しかった・・・その心の隙間に女王の僕が入り込んできたんじゃ。監督使の契約を結んだワシは有頂天じゃった。何も考えずに言われるままに多くのヒトを手に掛けた。・・・ザドラに左足を食われたのはその報いじゃろう。義足となったワシは監督使をお払い箱となった。・・・それからは、しがない用心棒や護衛で、このトシになるまで食いつないできたんじゃ」

 アベルの声は掠れて震えていた。

「アベル爺さんよ、それじゃ何で今になって監督使なんぞに・・・」

 ギギルはやり切れないという表情をしている。アベルは絞り出すように言った。

「監督使はお払い箱になったが、監督使の契約は魂の契約じゃから、ワシが死ぬまで有効なんじゃ。・・・イオリの抹殺に失敗したことを知った監督使の総長から、ワシに命令がきた。契約を履行しろとな・・・ワシはトキオンでイオリの傍から離れようとしたんじゃが、許してもらえなかった。魂の契約には逆らえないんじゃ、頭の中が真っ白になって自分が自分でなくなるんじゃ。じゃからワシはトキオンでギギルたちと別れたふりをして、こっそりと後をつけてきたんじゃ。こんな森の中に迷い込むとは思ってもいなかったが・・・いったい、ここはどこなんじゃろう・・・何じゃ、暗くなってきた・・・暗い、暗い・・・」

 アベルはギギルの腕の中で一度フウッと息を吐いてから動かなくなった。ギギルはアベルの瞼をそっと閉じてやった。

 ギギルの瞳は悲しみで濡れていた。アベルとは何度も一緒に護衛の仕事をしてきた仲だ。そのアベルを自らの手で葬らなければならなかった運命に、心臓が抉られるような思いなのだろう。

 いつの間にか、シンがギギルの横に立っていた。シンの胸にはイオリの入った保育器が抱えられている。保育器の中で、イオリがフガフガと何かを喋っているのは、アベルの死を感じているのかも知れない。

「まさかアベルさんが監督使だったなんて」

 シンは信じられないという顔をしている。ギギルは、アベルの遺体を地面に横たえると、しんみりと言った。

「アベル爺さんだってイオリのことは好きだったんだ、でも魂の契約には逆らえない。だが、自分の剣でイオリを抹殺することはできなかったんだろう。これはイヌブエだ。俺たちの耳には聞こえない音を出して、タテガミオオカミを操っていたんだ」

 ギギルは地面に落ちていたイヌブエを拾い上げると、オニシダの森の中へ放り投げた。

「それじゃあ、残りのタテガミオオカミは?」

「首領を失って、イヌブエの呪縛もなくなったんだ、混乱して逃げ出したんだ。烏合の集団になっているから、当面は襲われる心配はないだろう。そうだ、俺たちを助けてくれたあの連中はどうした」

「森の中に残っていたタテガミオオカミがいなくなった途端、スウッと消えちゃったんだ。ほら、誰もいない」

 シンは振り返って広場を指差した。広場には五頭のタテガミオオカミの死体が残されているだけで、ヒトの姿はなかった。ギギルはオニシダの樹上に目をやったが、そこにもヒトの姿はない。広場に静寂が戻った途端、どこからともなくリマズラハネムシのギリギリという鳴き声が聞こえてきた。ギギルはヤレヤレと首を振った。

「不思議なことがあるもんだ、というより、この森は不思議なことだらけだぜ」

「森の小道が迷路になっていたのも監督使の操る妖術だったのかな」

「分からん。まあ、アシタもう一度歩いてみよう・・・イテテ」

 ギギルは白いタテガミオオカミに噛みつかれた左腕を擦ると、痛みに顔をしかめた。ギギルの左腕は、肘の先で不自然に捻じ曲がっている。血のこびり付いたカギ爪が鈍く光った。

「ギギル、左腕が曲がっているじゃないか」

「やつに噛まれて肘の先で骨が折れているんだ」

「よく食いちぎられなかったね」

「シンから借りたヨロイ布の肌着が役に立った。これがなきゃ今頃俺の左腕はあいつの胃袋の中だ」

 ギギルが上着を脱いで左腕を見せた。鈍い銀色に輝くヨロイ布の肌着が、ギギルの左腕にしっかりと巻き付けられていた。剣の刃を通さないヨロイ布の肌着が、タテガミオオカミの牙を防いだのだ。

 ギギルとシンは大きなオニシダの前に戻り、焚火の横の地面に腰を下ろして胡坐をかいた。シンの腕には保育器が抱かれている。焚火の炎は何ごともなかったかのようにユラユラと揺らめいて、ギギルとシンの顔を照らしている。ギギルは長剣の刃に付いた血糊を拭い、長剣を鞘に納めた。地面に落ちていたギギルの短剣には、白いタテガミオオカミの左目の眼球が刺さったままだ。ギギルは眼球を摘まみ上げると、焚火の中に放り込んだ。炎の中で眼球がジュッと音を立てた。

 ギギルはヨロイ布の肌着を左腕から外すと、右手で折れたところをなぞりながら骨折の状況を確かめた。シンが心配そうにギギルの手元を覗き込んでいる。

「折れた骨を真っ直ぐに接いでから固定しなきゃならんが・・・フム、骨は斜めに折れて、腕全体が少し捻じれているな。折れた個所を一度引っ張って、伸ばして捻じれを直してから骨折面を合わせる必要がある。シン、できるか」

 シンは一瞬驚いた顔をした。そんな施術はしたことがないのだ。シンの顔は施術の際の痛みを想像してすぐに青白く変わった。他人事とはいえ、頭の後ろがチリチリと痺れた。

「そんなのやったことないよ、それに何だか相当・・・いや猛烈に痛そうだけど」

「そりゃあ痛いさ。だが、このままにしておく訳にはいかない、なるだけ早い方がいいんだ。俺が指示するからその通りにやってくれ・・・その前に痛み止めのヴォルトを一口・・・いや二口飲ませてくれ」

「二口じゃ足りないかもね」

 シンは大真面目だ。ギギルはウウムと唸った。

 ギギルは、足を骨折した護衛仲間が、骨接ぎの施術を受けるのを見たことがあった。骨折したオトコは激痛に身体をのけ反らせて、最後には失神してしまった。それを思い出しがギギルはさすがに不安になった。

「・・・ヴォルトは三口にするかな」

「?・・・ギギル、何かが森の中から・・・取り囲まれている」

 森の闇の中から音もなく幾つもの黒い影が広場の中に現れ、ギギルとシンを取り囲んだ。

 黒い肌の色をした身長が三分の二メルほどの小さなヒトたちだった。小さなヒトたちは腰の周りに獣の毛皮を巻き付けただけで、裸の身体に白の染料が縞のように塗られている。その身体は精悍に引き締まっていて、腕や胸の筋肉が盛り上がり、手には槍やこん棒が握られている。五頭のタテガミオオカミを倒した戦士たちだ。小さな戦士たちは無言でギギルたちを見つめている。

 ギギルとシンは周囲に油断なく目を配りながら、ゆっくりと立ち上がった。ギギルの右手には鞘に入ったままの長剣が握られている。曲がった左腕はダラリと下がったままだ。シンは保育器を胸の前に抱えて、護身用の短剣の柄に右手を置いている。気配を察したのか、保育器の中でイオリがフガフガと声を上げている。

 五頭のタテガミオオカミを瞬く間に倒した先程の集中攻撃をギギルは思い出していた。あの攻撃を受けたらひとたまりもないだろう。だが不思議なことに周囲の戦士たちから殺気は伝わってこない。ギギルは身構えながら当惑していた。

 ギギルとシンを取り囲んでいる戦士の輪の中から、ひとりのオンナがギギルの前に進み出た。オンナは胸の前で両手を合わせて、身体を硬くして警戒しているギギルに向かって呼びかけた。

「ギギルサン アンシンシテ。ワタシ ピピデス。タスケニキマシタ」

 ピピの顔を見て、ギギルの身体からスウッと力が抜けた。周囲の戦士たちから攻撃を受けることがないと分かったのだ。状況が理解できないシンはポカンと口を開けている。

「ピピさんか、これはいったい?」

 がっしりとした身体つきの白髪交じりのオトコが戦士の輪の中から前に出てきて、ピピの肩を抱いた。オトコの顔は狭い額に太い眉、小さな丸い目と潰れたように開いた低い鼻、前に突き出た分厚い唇と小さい顎、異相だ。動物の毛皮をなめして作った、くるぶしまである長い上着を着て、首にはザドラの歯を繋げた首輪を掛けている。ザドラの羽を付けた冠を被っているところを見ると、この戦士たちの長なのだろう。

 オトコは胸の前で両手を合わせて、ギギルに向かって深々と頭を下げると、たどたどしい大陸共通語で話し出した。

「ワタシハ ウカカゾクノゾクチョウ ズズデス。ギギルサン、ピピトリリノ イノチタスケタ。レイヲイイマス。コンドハワタシタチ ギギルサンタスケルバン。デモ スコシオクレタ」

 ギギルはズズに向かって礼を返すと、髭面を歪めてニッコリと白い歯を見せた。

「いやいや助かりました、礼を言わなきゃならないのはこっちの方です。俺はギギル、こいつはシン、保育器の中にいるのはイオリです」

 ギギルに紹介されたシンがペコリと頭を下げると、保育器の中のイオリがフガフガと声を上げた。

「ギギル、このヒトたちは・・?」

「地震の後に、断層の崖の下で登り口を探して歩いていたら、ピピさんとリリちゃんが地面の亀裂に落ちそうになっていたので、俺がふたりを助けたんだ。だから今度は俺たちを助けてくれるそうだ。それにしても、ウカカ族っていう名前は初めて聞いたな」

 シンは周囲を取り巻く戦士たちをチラリと見ると、気遣うように少し声を落とした。

「ねえギギル、このヒトたちはおとぎ話に出てくる『小さいヒト』じゃないかな。ほら、オニシダの森の奥深くに住むという『森の民』だよ」

「なるほど、森の民ねぇ・・・おとぎ話は本当だったってことか」

 ギギルを見るズズの小さな丸い目には敬意が浮かんでいる。ギギルと白いタテガミオオカミの死闘を見たのだろう。

「アナタ ツヨイ ユウシャダ」

 ギギルは苦笑いを浮かべた。

「勇者と言われると、ちとこそばゆいが。白いタテガミオオカミは何とか倒したが、残りのタテガミオオカミが向かってきたトキは、どうなることかと思っていたんだ」

「あれ、ギギル。あのときは右手一本で十分だって言ってたじゃないか」

 ギギルの様子を見て緊張が解けたシンがすかさず茶々を入れた。

「ハハハ、その後で『多分』と言っただろう・・・イテテ」

 ギギルは笑ってごまかしてから、曲がった左腕を擦った。ズズはギギルの左腕を見ると、顔色を改めた。

「ユウシャ キズツイタ。ソノキズワタシタチガナオス ムラヘドウゾ」

 ズズは身体の前で両手を開いた。村へ招待するという意味だろう。ギギルたちを取り巻く戦士たちが一斉に頭を下げた。

「ねえ、ギギル。その左腕の骨折を手当てするのは、私じゃ無理だよ。村できちんとした手当てを受けた方がいいよ」

「そうだな、それに食料も水もないし・・・俺たちは二進も三進もいかない状況だ・・・ズズさん、お言葉に甘えて御厄介になります」

 ギギルは神妙な顔をすると、ズズに向き直り、改めて頭を下げた。ギギルと並んでシンが頭を下げると、途端に保育器の中でイオリがフニャフニャと泣き出した。安心したのか、お腹が減ったのか、おしめが濡れたのか・・・全部かも知れない。

「ドウゾ、ドウゾ」

 ズズはニッコリと笑うとギギルの手を取った。助けてもらった礼ができると思っているのだろう、ピピの顔がほころんでいる。

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