緑の大陸
イオリに導かれて、外輪山を越えて回廊大陸の上空を離れたヒト族の前に、それを遮るかのように、黒い球体がユラリと現れた。
大陸が倒れてガスの海に沈むことを察知して、それに巻き込まれないように、いち早く撤収したゾルゲルの大群が作る球体だった。そして大陸から旅立つ羽化したヒト族を見て、獲物を狩るべく接近してきたのだ。
黒い球体はゆっくりと自転しながら、ヒト族に迫ってきた。ゾルゲルが発するギチギチギチという攻撃音が遠雷のように不気味に響いてくる。ゾルゲルはこれから始まる殺戮を思って、喜びのあまり興奮しているようだ。
目の前に現れたゾルゲルの大群を見て、ステアは空中に停止した。それに合わせて、後ろに続くヒト族の群れが一斉に止まった。ヒト族の群れの中から、幾つもの悲鳴が上がり、恐怖心が発するザワザワとした波動がステアの背中に届いた。
「ゾルゲルだ。クソッ、こんな所で・・・」
ヒト族の最大の脅威からまだ逃れていないことを悟ったステアは唇をかんだ。
何としてもゾルゲルから逃れて新大陸に向かわねばならない。どうすればいい・・・ステアは考え込んだ。
ステアのすぐ横を飛翔している戦闘種のオトコが、ステアに声を掛けた。
「ここでゾルゲルに襲われたらひとたまりもない。ひとまず大陸の方角へ引き返して、それから新大陸へは大きく迂回して進んではどうかな・・・逃げ切れるかどうかは分からないが」
恐らく逃げ切れまい。ステアは首を横に振った。生来の飛行生物であるゾルゲルと、新大陸へ移動するために羽化したヒト族では、飛翔能力は比べ物にならないだろう。ステアの脳裏にギギルの顔が浮かんだ。ギギルならどうする・・・。
「そうか、ギギルが言っていた・・・ゾルゲルは体温調節が上手くできない。だから熱に弱いし、日の入り後は寒さで活動を停止するんだ。上だ・・・上空に逃げよう、あの飛翔機が上った場所へ。きっと、ゾルゲルはあの寒さに耐えられない。でも、ヒト族なら耐えられる。このままやられるより、イチかバチかそれに賭けてみよう」
ステアは後ろを振り返ると叫んだ。
「上へ逃げる! 上空へ、ゾルゲルがついてこられない上空へ! 行くぞ!」
ステアは渾身の力で翅を震わせると、上空に向かって矢のように昇り始めた。ステアの命令が順次後方のヒト族に伝えられると、黒い雲のようなヒト族の塊は、ウワーンという翅音を響かせて上空に向かって昇って行った。
ヒト族の群れが高度を上げたことを見たゾルゲルたちは、球体の編隊を維持したまま、後を追って高度を上げた。
上へ上へ、ステアはイオリを抱いたまま上昇を続けた。その後をヒト族の群れが湧き上がる入道雲のように必死についていく。
上昇を続けるにつれて周囲は徐々に光を失い、青黒い水底のように暗くなり始めた。それに伴って気温が下がり、空気が薄くなっていく。
翅を振動させている背中は焼けるように熱いが、手足はかじかみ、顔色は青白く変化していく。ハアハアと喘ぐような息はたちまち白く変わり、それが髪の毛や眉毛に触れて霜となって貼り付いた。息が苦しいのは、翅を振動させているからだけではなく、空気そのものが薄いのだ。しかも、空気が薄くなればなるほど翅の振動によって得られる揚力が小さくなる。高度が上がるにつれて消耗する体力が加速度的に増加した。
ステアは下を見た。ヒト族を追って高度を上げてきたゾルゲルの球体が、はるか下の空中で静止していた。ヒト族との高度差は三ギールほど。おそらくそこがゾルゲルの高度限界なのだろう。しかも、ゾルゲルは徐々に高度を下げているようだ。
ここで止まって、しばらく様子を見ようとステアは思った。とにかくゾルゲルの攻撃から一旦は避難できたのだ。このままゾルゲルが攻撃を諦めて去ってくれればよいが、それは余りにも楽観的過ぎる。次の策を考えなければいけない。何かの状況変化が生じれば、それに乗じることができるだろう。とにかく今はここで耐えるしかないとステアは思った。
「ゾルゲルはここまで追ってこられない。ここでしばらく様子を見よう。辛いが、みんな頑張れ!」
ステアは叫んだ。
この高度まで上昇するだけで体力が尽きたのだろう、ステアの叫び声が合図であったかのように、労働種の若いムスメが翅を閉じてスウッと落下した。
「アッ!」
イオリが悲鳴のような声を上げたが、ステアの胸に抱かれているイオリには為す術がなかった。落下した先にはゾルゲルが牙を剝いて待ち受けている。それは死を意味するのだ。
「誰か、お願い。助けてあげて」
イオリが懇願するように叫んだ。
「女王、お任せください」
ひとりの戦闘種のオトコが身を翻すと、翅を震わして落下したムスメを追った。その姿を見て、更にもうひとり戦闘種のオトコが後に続いた。
力尽きたムスメは、枯葉のようにヒラヒラと落ちていく。意識はないのだろう、声も上げない。ゾルゲルの球体に引力があるかのように、ムスメはゾルゲルの球体目掛けて真っ直ぐ落ちていった。
ふたりの戦闘種のオトコは、渾身の力で翅を震わせると、真っ逆さまに降下した。空気の抵抗で翅がビリビリと振動している。ふたりの目の前にゾルゲルの禍々しい球体が恐ろしい勢いで迫っている。一体一体のゾルゲルの形が認識できるほど近づくと、ギチギチギチという攻撃音がふたりを取り囲んだ。
ムスメが見えた。
ふたりは頭を下にして落下しているムスメに追いつくと、動けないムスメの両脇に手を差し入れた。ふたりはムスメを抱えると、翅を震わせて上昇に転じた。
ムスメに気付いた数体のゾルゲルが、ムスメに向かって上昇を始めた。しかし、ゾルゲルの上昇速度が遅い。寒さのために身体が上手く動かないのだ。ゾルゲルは直ぐに諦めて引き返していった。
ふたりの戦闘種のオトコに抱えられて、ムスメがヒト族の元へ帰ってきた。
「ありがとう」
イオリの言葉に、ふたりの戦闘種のオトコは眩しそうに目を細めると、頭を下げて答えた。
イオリの翡翠色の大きな瞳がキラリと光った。イオリはヒト族の力、それは団結する力であることを確信した。ひとりの力ではこの危機を乗り切れないかも知れないが、ヒト族が互いに手を携えて立ち向かえば乗り切ることができるはずだ。ヒト族の未来はこの危機を乗り切った先にあるのだ。
「みんな、手を繋いで、ひとつになりましょう。そうして、力の強いものが力の弱いものを助けるのです」
イオリの凛とした声が響いた。
ステアとイオリを取り巻くように浮かんでいたヒトたちが、イオリの声を聞いて互いに手を取り、ヒトの鎖を作り始めた。ヒトの鎖は次々に伸びて長く繋がり、やがて絡み合うように集まると、空中で球形を形作り始めた。キヌグモの紐をザックリとまとめたようなヒト族の球体は、ウネウネと形を変えている。球体の表面で寒さに凍えたヒトが球体の内部に移動して身体を温め、また球体の表面に戻っていく。このようにしてヒトの循環が行われていた。ヒトビトは無意識の内に集団で寒さに耐えるための術を見出したのだ。
一カクンが経過した。ヒト族は力を合わせて耐えていた。
ステアは下を見た。ゾルゲルの球体は相変わらず足元で静止している。ヒト族との高度差は五ギールほど。ゾルゲルはヒト族が力尽きて落ちてくるのを待っているのだ。
・・・このままずっとここに止まることはできない。体力が限界を迎えるのは近いだろう。日の入り時まで体力が持つか・・・
ステアの頭の中は焦燥感でチリチリと焼けていた。ゾルゲルの大群を相手にして、有効な打開策が思い浮かばないのだ。
ステアの腕の中でイオリがつぶやいた。
「何かがくる・・・大きな・・・すごく大きな何かが・・・」
「え? イオリ、何か言ったかい?」
ステアは胸の前に抱えているイオリを見た。ステアは思わず息を呑んだ。イオリの翡翠色の大きな瞳が輝いている。女王の力が発露されるのだ。
ステアの腕に抱かれたまま、イオリはまるで歌うかのように両手を広げると、顔を上げて翡翠色の大きな瞳を天に向けた。イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
イオリは天に向かって言葉を放った。その声には女王の力を秘めた言霊が宿っている。
「さあ、上がっておいで、大きなモノよ。そして、私たちヒト族を助けるのです」
濃密な液化瓦斯の海がゆっくりと盛り上がった。液化瓦斯の海の中を何かが泳いでいる。その何かは巨大な体をくねらせると、一度海底に沈み、そこから浮力を利用して一気に液化瓦斯の海から空中に飛び上がった。
それは、液化瓦斯の海に棲む巨大なウチュウナマズだった。体長が十バール、腹部の周りは三バールもあり、液化瓦斯の海の底深く回遊して、動くものは何でも食べる最強の肉食のサカナである。体長の三分の一は頭部で、先端にある大きく横に広がった口は直径二バールもある。二バールと言えば、トリムカンドからトキオンまでの距離に相当する、とてつもない大きい口だ。口の周りには大きな髭状の突起が二本生えている。体色は黒く、身体はヌラヌラとした粘液で覆われている。えらの後ろに手のような胸びれが付いていて、背中には三角形の背びれが突き出し、大きな尾は縦に長く伸びている。ウチュウナマズは液化瓦斯の海に落ちた無数のゾルゲルの死体に引き寄せられて海面まで浮上したのだ。
ウチュウナマズは空中に飛び上がると大きな口を開けた。そして、ゾルゲルの球体を一呑みにすると、背びれから海面に落ちていった。
ウチュウナマズが海中に没した際の衝撃は、巨大な液化瓦斯の津波となって波紋のように広がって、倒れかかっている回廊大陸を襲った。そして巨大な液化瓦斯の津波は大陸の近くまで回遊していた回遊島も呑み込んだ。ゾルゲルの複合集落のある回遊島は液化瓦斯の海に沈んだきり、浮かび上がることはなかった。
ゾルゲルの球体は消えた。回遊島も液化瓦斯の海に没した。ヒト族はゾルゲルの厄災から逃れたのだ。
ヒト族が形作る球体の中から、ウチュウナマズの姿を見た恐怖とも驚きともつかぬ声が上がった。それに合わせて、ゾルゲルの厄災から逃れることのできた安堵の声が広がり、それはやがて、女王イオリを称える歓喜の声に変わった。
ヒトビトは、イオリの女王の力が巨人族の伝説にあるウチュウナマズを召喚して、ゾルゲルからヒト族を救ったのだと感得したのだ。
「私は何を見たんだ・・・あんな大陸ほどもある大きなサカナがいるなんて・・・この世界はいったいどうなっているんだろう・・・」
ステアはあまりの出来事に呆然としていた。
ステアの胸の中で、イオリがすました顔をして言った。
「ステア、新大陸へ行こうよ。ここは寒すぎるから」
ステアはイオリを抱いて高度を下げた。その後ろに、歓喜の声が収まらないヒト族が続いた。
回廊大陸の傾きはますます酷くなった。頻繁に襲ってくる余震によって砕けた岩石がガラガラと崩れる音が響いている。
頭から流れ出た血で顔面を真っ赤に染めたシンが、女王の霊廟からアマノイワトの大広間に向かってヨロヨロと歩いていた。右腕は骨折しているらしく、身体の脇でブラブラと力なく揺れている。外輪山に開いた穴に入ると、シンは這うようにして北の穴に向かった。
大広間の北の穴の前で、行く手を阻むようにギギルが両手を広げて立っていた。
シンはギギルの足元にゴロリと倒れ込むと、ゆっくりと身体を仰向けにして床に腰をつけ、壁面に背中を預けた。
「ギギル・・・イオリは行ったよ。羽化したステアが現れて、イオリを連れて行ってくれた。私たちの役割はここまでだ・・・」
ギギルの身体が膝から崩れるようにしてドサリと倒れた。
「シンか・・・」
息が漏れるような掠れたギギルの声がした。
「ギギル、生きていたのかい」
「ヘヘヘ・・・俺は不死身のギギルだ・・・ゾルゲルのヘナチョコな矢じゃ、俺は殺せないぜ。もっとも、こいつのお蔭だがな」
ギギルが上着の前を広げると、チウシの革の帯で締め付けられたクロムの板にゾルゲルの弓が突き立っていた。矢尻部分はクロムの板を突き抜けてギギルの身体に刺さっているが、致命傷は免れていたのだ。
「シン、お前さんも酷いありさまだな」
「女王の霊廟の崩落に巻き込まれて、もうちょっとで白光石の瓦礫の下敷きになるところだったよ。右腕は・・・折れているね」
床がグラリと揺れた。大陸の傾きが大きくなっていく。
「ギギル、どうやらこれで終わりのようだね。いろいろありがとう。巡礼者の役割を果たせたのはギギルのおかげだ」
シンはニッと笑った。全てをやり遂げたという穏やかな顔をしている。シンに取り憑いていた巡礼の精霊は昇華したのだ。
「そうだなあ・・・シンが俺の命を救ってくれて・・・イオリを助けて・・・俺は忘れていた過去を思い出して、カギ爪を失った・・・イオリは新女王として旅立った・・・不思議な縁だな。何度も死にかけたが・・・でも、楽しかったぜ」
ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。ギギルも三人の旅を思い出していた。妻と卵の仇を討つための放浪の旅の結末は、ギギルにとって残酷な記憶を呼び起こさせたが、ギギルの魂をイオリが救ってくれた。ギギルはイオリの女王の力で救われたのだ。
「そうだ、ヴォルトでも飲もうよ。大陸の最後に、ギギルと一緒にヴォルトを飲む。私は幸せだよ」
シンは上着の下から、チウシの胃袋の水筒を引っ張り出すと、ヴォルトをゴクリと一口飲んでギギルに渡した。ギギルの髭面に満面の笑みが浮かんだ。
「そうこなくちゃ」
シンの後ろの通路から、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきた。
「うひゃあ、ギギルさんとシンさんを見つけた。大陸が倒れるっていうに、こんな所で何をしているんです。あっ、ヴォルトなんか飲んでる。相変わらず緊張感のないふたりだ・・・え? お前はどうしたって? ナハハ、地震で城が崩れたんで、サルサとトナンと三人で逃げてきたんですよ。え? どうやって? ナハハ、前庭に止めてあった飛翔機ですよ。だいぶんガタがきていましたが、何とか飛べました。羽化したヒト族について行こうと、この上を飛んでいたらシンさんが穴の中に入っていくじゃないですか、だから助けにきたんです。さあ早く逃げましょう、グズグズしてたら死んじまいますよ」
テルミは早口でぽんぽんとまくし立てると、シンとギギルの間に入り、ふたりの腰に手を回して担ぎ上げ、ホイホイと掛け声をかけながら通路を走った。
どれぐらい飛翔しただろう。
回廊大陸が倒れて液化瓦斯の海に沈む音を背中で聴きながら、ステアとイオリは緑色に輝く新大陸に向かって懸命に飛び続けた。イオリたち羽化したヒト族を送るかのように、強い風が背後から吹いている。半ば飛翔し、半ば風に乗りながら羽化したヒト族の群れは液化瓦斯の海を渡っていく。
イオリが顔を上げた。
「見えた。緑の大陸だ・・・」
イオリが指差す先に、緑色に輝く大陸が液化瓦斯の海に聳え立っていた。
「見えたぞー! 新大陸だ!」
「とうとう着いた!」
「何て美しいんだ!」
イオリの背後から、ヒト族の歓喜に満ちた叫び声が上がった。それは地鳴りのように広がって、オオオウと言う耳を聾する歓声に変わった。
その歓声に混じって、どこからかビイインという耳障りな翅音が響いてきた。
イオリの背後から「危ない!」という叫び声が上がる。
イオリとステアの前に、一体のゾルゲルが上空から姿を現した。
ゾルゲルは瞬かない複眼をヌタリと光らせて、ステアの胸に抱かれているイオリを見ている。アマノイワトの大広間に最後まで残り、ギギルに矢を浴びせたゾルゲルが、追いついてきたのだ。ゾルゲルの大群からはぐれて球体に加わることができなかったおかげで、ウチュウナマズに捕食されずにすんだのだ。
ゾルゲルはイオリが発する女王の匂いを嗅ぎつけてギチギチギチと攻撃音を発すると、双翼剣を頭上でグルグルと回し始めた。ゾルゲルはステアとイオリに向かって一直線に飛翔している。
ステアはゾルゲルの姿を確認すると左手一本でイオリを抱き、腰の後ろに差している剣の柄に右手を置いた。そして、すぐ横を飛翔している戦闘種のオトコに声を掛けた。
「ゾルゲルが襲ってくる。私はやつと刺し違えてでも倒して見せる。やつの翅を狙って攻撃すれば、勝機はある。この下は液化瓦斯の海だ、やつをそこへ引きずり込んでやる。すまないがイオリ女王を頼む」
イオリはステアの首にしがみついた。
「嫌だよ、ステア・・・死ぬトキは一緒だよ」
「離れるんだ、イオリ。イオリは新大陸の女王としての使命がある。ここで死なせる訳にはいかない。私の・・・私の役割はイオリを守ること。そう、ギギルとシンから引き継いだ役割だ。今度は私がそれを果たす番だ」
ステアがそう言ってイオリの腕を掴んだが、イオリはステアの首に両手を回したまま離れようとしない。
「イオリ女王をお守りするのだ」
戦闘種のオトコたちが口々にそう叫びながら、ステアとイオリの周囲を取り囲んだ。ステアも戦闘種のオトコたちも、イオリのために命を捨てる覚悟だ。
必ずイオリを守って見せる、ステアは闘気を浮かべた目でゾルゲルを睨みつけた。
「ステアさん、イオリ女王を連れて後方に下がってください。我々戦闘種の決死隊がやつを仕留めて見せますよ」
戦闘種のオトコがステアに声を掛けた。
「決死隊だって? しかし、ゾルゲルの戦闘能力を考えれば、数名程度の決死隊では歯が立たない。なにしろ、十体のゾルゲルがガンデラ軍の主力部隊を壊滅させたんだ」
「ステアさんがさっき言ったでしょう、液化瓦斯の海にやつを引きずり込むって。なあに、勝てなくてもいい、死体になってやつに食らいついてやるんです。死体が十体も二十体もしがみつけば、さすがのゾルゲルも飛んでいられないでしょう」
戦闘種のオトコは不敵に笑った。イオリとステアを取り囲んでいる決死隊のオトコたちの顔には、自らの死に対する恐れも迷いもない。ヒト族という種を守るために、イオリ女王の盾となる。それはヒト族の危機に際して発露される戦闘種としての本能だ。
「あなたたちは下がりなさい」
イオリの凛とした声が響いた。
「イオリ女王、いま何とおっしゃられました?」
「あなたたちは下がりなさい。ゾルゲルは私が、いや、私とステアが倒します。ヒト族をゾルゲルから守ることは女王の務めです」
イオリのために命を捨てようとしているオトコたちを見て、女王の血がイオリの魂を激しく揺さぶった。これまでずっと誰かに守られてきたイオリは、やっと気付いた。女王が逃げてはいけない。女王は守られる存在ではない。女王は自らヒト族の危難に立ち向かい、ヒト族を守るのだ。それが女王の使命であり、そのために与えられた女王の力なのだ。イオリの脳裏にギギルとシンの顔が浮かんだ。ギギルとシンは、オトナになった、いや、女王の真の姿に気付いたイオリを見て優しく笑ってくれるだろう。
イオリはステアを見た。
ステアはニコリと微笑むと、しっかりと頷いた。イオリが女王の務めを果たそうとしている。それに最後まで寄り添うのは、ギギルとシンから役割を引き継いだステアしかいない。
イオリの周囲を取り囲んでいる戦闘種のオトコたちは、女王の威厳に息を呑んだ。そして、イオリがスッと目を上げると、戦闘種のオトコたちは気圧されたように、無言のまま後方に下がった。
「ステア、剣を貸して」
ステアは言われるがままに、腰の後ろに差した剣を抜いてイオリに渡した。
ゾルゲルはビイインという翅音を響かせながら、高速でステアとイオリに迫った。ゾルゲルの複眼がヌタリと光った。笑っているのだ。
イオリはゾルゲルの複眼を睨みつけた。イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
「さあ、かかってきな。あたしは翅なしのイオリ。ヒト族を統べる女王だよ。お前さんのようなヘナチョコには負けやしない!」
イオリは右手に持った剣をペロリと舐めると、それを頭上に高々と上げた。
イオリが頭上に掲げた剣から陽炎のような炎が立ち昇った。イオリが持っているのは女王の力を秘めた炎の剣だ。
ゾルゲルの動きが止まった。イオリの表情に、アマノイワトで立ち塞がった悪鬼のようなギギルを見たのだ。ゾルゲルの瞬かない複眼に怯えの色が浮かんだ。
オオオウ、オオオウ、オオオウ・・・
イオリの背後のヒト族の群れから、耳を聾するかのような唸り声が響いてきた。それは、イオリ女王を守るべく発したヒト族の威嚇の声だ。
ゾルゲルが頭上で回していた双翼剣の動きが止まった。ゾルゲルは戦闘意欲を失くしたかのように、双翼剣をダラリと下げたまま、イオリの前に浮かんでいる。
しばらくそうしていたゾルゲルの双翼剣が、再びゆっくりと頭上に上がった。戦闘種族としての本能が戦いを選択したのだ。ゾルゲルの頭上で双翼剣がグルグルと回り始めた。ゾルゲルはギチギチギチという攻撃音を発しながら、イオリとステアに向かって飛翔を始めた。
「イオリ、くるぞ!」
「任せて、ステア。あいつを倒してやるわ」
ゾルゲルを迎え撃つべく、イオリとステアも前に出た。
はるか上空から音も立てずにザドラが滑空してきた。
ザドラは鋭い牙が並んだ大きな口を開けると、ゾルゲルの腹を咥えて下方へ飛び抜けた。ザドラは羽を広げて制動を掛けると、浮き上がるように上昇してイオリとステアの前で止まった。バサバサと羽音を立てながら空中に停止しているザドラが、バキリと口を閉じると、咥えられていたゾルゲルの身体がボキリと折れ、ザドラの歯の間からゾルゲルの緑色の血が滴り落ちた。
ザドラは黄色い目でジッとイオリを見ている。ザドラの両脚の先には産毛を纏ったヒナドリが優しく握られていた。ヒナドリはイオリを見るとクウクウと鳴いた。オニウツボカズラの谷でイオリが助けたザドラのヒナドリだった。
「ザドラ・・・ああ、クウちゃん・・・」
ザドラはザアッと羽を翻すと、緑の大陸に向かって飛んでいった。その後を追うようにして、ザドラの群れが液化瓦斯の海を越えて緑の大陸に渡っていった。
ステアはイオリを抱いたまま、呆然とした顔でザドラの群れを見ていた。目の前で起こったことが信じられないのだ。
「何てことだ、ザドラがヒトを助けるなんて。いや、違う、ザドラに助けられたんじゃない。ゾルゲルの目には怯えがあった。あのまま戦えば、間違いなくイオリが勝っていた。勝ったのはイオリだ。イオリ女王がゾルゲルからヒト族を守ったのだ」
イオリとステアの背後から、ヒト族の上げる勝利の歓声が沸き起こった。
ヒトたちは語り継ぐだろう、イオリ女王が身を挺してヒト族を守ったことを、そして、イオリ女王が発した女王の力を。
イオリは少しはにかんだ顔でステアを見た。これからはステアとふたりでヒト族を導いていくのだ。
イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
「さあ行こうステア、緑の大陸へ」
一機の飛翔機がヨタヨタと液化瓦斯の海の上を渡っていた。本体部分は歪み、六枚ある翅も一枚が折れて、更にもう一枚が曲がっている。
「フウフウ、まったく。ねえトナン、いつになったら着くのかねぇ。え? 知らない? ナハハ、そりゃそうだ。何たって、あの上空からチラッと見ただけですからね。ギギルさんも、シンさんもちゃんと踏板を漕いでくださいね、怪我人だからって甘えてちゃだめですよ。え? ヴォルトを一口? ウヒヒ、早く言って下さいよ。ありゃ、サルサ、そんな顔をして。悪いのはギギルさんですよ。まったく・・・おや、あれ、あれは・・・緑色・・・新大陸じゃないですか・・・」
飛翔機は緑色に輝く大陸に向かって飛んでいった。
(おわり)
【参考】
《時間》
分に相当 1カイ 約9分
時間に相当 1カクン(10カイ) 約90分
日に相当 1カイン(20カクン) 約30時間
月に相当 1ギグ(40カイン) 約1.4月
年に相当 1トング(10ギグ)(400カイン)約1.4年
※日の出時から一日(1カイン)が始まる
ヒル:日の出時から日の入り時まで 10カクン
ヨル:日の入り時から日の出時まで 10カクン
《長さ(距離)》
㎜に相当 1ケル 約15㎜
㎝に相当 1セル(10ケル) 約15㎝
mに相当 1メル(10セル) 約1.5m
㎞に相当 1ギール(1000メル)約1.5㎞
1バール(1000ギール)約150㎞
《重さ》
gに相当 1グル 約15g
㎏に相当 1セグル(1000グル) 約1.5㎏
トンに相当 1トグル(1000セグル)約1.5トン




