女王候補者の道 最後の階段
雷雲をやり過ごしてから三カクンが経過した。
もうそろそろ日の入り時を迎えるはずだが、雲の層から抜け出す気配は一向になかった。疲れて歩けないとぐずり始めたイオリをヤクウの背に乗せ、シンがヤクウの手綱を引いている。
寒さにガタガタと身体を震わせながら、足元だけを見て黙々と歩いているギギルやシンに比べて、寒さに強いヤクウはグフグフと元気よく鳴き声を上げながら歩いている。歩き疲れたイオリは、この寒さにも関わらず、ヤクウの背の上でコクリコクリと舟を漕いでいる。
突然、後ろからついてくる二頭のヤクウが脚を止めて動かなくなった。シンが手綱を引いても脚を踏ん張って動こうとしない。
「どうしたお前たち、こんな所に止まって。何かあるのかい?」
シンがヤクウの鼻面を撫でながら優しく尋ねると、ヤクウはグフグフと鳴いた。先頭を歩いていたギギルが振り返った。
「シン、どうした」
「ああギギル、ヤクウたちが急に動かなくなったんだ」
「困ったな、もうすぐ日の入り時だってのに。こんなところでヨルを明かすと凍えて死んじまうぜ。とにかく雲の層から出なきゃ。シン、ヤクウの尻をひっぱたいてみてくれ。それでも動かなきゃ、俺が尻を蹴飛ばしてやる」
ギギルの言葉が分かったかのように、ヤクウが不満げにグフグフと鳴いた。
ヤクウの背中でコクリコクリと舟を漕いでいたイオリが、ハッと顔を上げた。誰かがイオリの名前を呼んだ気がしたのだ。声がした方にイオリが顔を向けると、イオリの視線の先の壁面がボンヤリと白く輝いていた。イオリの翡翠色の大きな瞳がキラリと光った。
「ねえ、シン、横を見て。これ白光石の祠じゃないかな」
イオリが指差した先には、少しえぐれた絶壁の壁面に彫り込まれたような白光石の祠があった。白光石の祠の扉はしっとりと水滴に濡れて、淡い燐光を放っていた。それは壁面を覆う雲にも似て、うっかり通り過ぎるほど風景に溶け込んでいた。
「本当だ、白光石の祠だ。オーイ、ギギル。これを見てよ」
引き返してきたギギルが祠の前でため息を吐いた。足元にばかり気を取られていたギギルは全く気付かなかったのだ。
「何てこった、気付かずに行き過ぎちまうところだったぜ。これじゃあ先頭を歩くのは失格だな、危ない危ない」
ボヤいているギギルをからかうように、シンがニッと笑った。
「またヤクウたちに助けられたね」
「本当だ、これでますますこいつらを食えなくなっちまったぜ」
ギギルがヤクウの背中をポンと叩くと、ヤクウは感謝しろとでもいうようにグフグフと鳴き声を上げた。
「ギギルはどこまで本気で言っているのか分かんないよ」
シンは笑いながらそう言うと、白光石の祠の扉に左手を当てた。
「私は巡礼者シン。女王候補者イオリを女王の元へ連れて行く使命を負っている者です。どうか私に『女王候補者の道』をお示しください」
白光石の祠の扉が音も立てずに開いた。どこからかリンという鈴の音が響いた。
シンが祠の中に足を踏み入れると、扉の左右の壁面に吊り下げられている照明器具にポッと炎が灯った。シダレバラの花冠を模した照明器具は透明な水晶で作られていて、それぞれの花びらの先でチロチロと薄黄色の炎が揺れている。シダレバラの油を燃料とした照明器具である。その炎は五メル離れた次の照明器具へ、またその次の照明器具へと順次移って行った。壁面に描かれた光の線のように炎が広がって、祠の内部を照らし出した。
そこには幅が百メル、奥行きが三百メル、天井の高さは二十メルもある巨大な空間が広がっていた。その大広間の床や壁には白光石の飾り板が張り巡らされていた。大広間の中は乾いていて暖かく、右手には水場と炉があり、左手には大きな人口の池があってモウモウと湯気が立ち上っていた。炉の中には大きな水晶の桶が置いてあり、中にシダレバラの油が入っていた。この油に火をつけて調理や暖房に利用するのだ。
上層帯では数百トング前までは、このシダレバラの油を生活用燃料として照明や暖房や調理に利用していたもので、コハクニウムの発見と精製方法の確立に伴い、現在ではコハクニウムが主要な生活用燃料として利用されているのである。
ギギルたちは薄黄色の光に照らされた大広間を見て、その美しさに声を失っていた。壁面に五メルの等間隔で整然と一色線に並ぶシダレバラの花冠の帯が、壁や床の白光石に映えて、さながら宙に浮かぶシダレバラの王冠のようだ。
ボッと音がして、炉の中の水晶の桶から炎が上がった。照明器具や炉にどのようにしてシダレバラの油が供給されているのか、どのようにして炎がひとりでに点くのか、いくら考えてもギギルたちには分からなかった。
ギギルたちはヤクウを連れて祠の中に入った。祠の入口は音もなく閉まった。
ギギルとシンは炎を上げている炉の横に腰を下ろすと、背嚢を地面に置いて濡れた外套と長靴を脱いだ。炉の炎にかじかんだ手をかざして温まっていると、上着やズボンから早くも湯気が立ち昇っている。イオリは濡れた外套を気にする素振りも見せずに、壁に吊り下げられた照明器具を珍しそうに見ている。水場の横の岩に繋がれた三頭のヤクウは、水場からチョロチョロと流れ出る水を舐めながらグフグフと鳴き声を上げている。
「とにかく助かった。ここなら凍えて死ぬ心配もない」
安心した途端、ギギルのお腹がグウと鳴った。
「シン、イオリ、とにかく夕食にしようや」
「よーし、キョウのヨルは奮発するか。といっても干したコケモモの実とツルイモの根の煮込みだけどね」
シンが鍋とツルイモの根を持って水場に向かった。イオリは湯気の上がっている池に興味津々という顔をして、池の縁に膝を突いて中を覗き込んでいる。
「イオリ、こっちにきて濡れた外套を脱いで炉の火に当たれ。そのままじゃ風邪を引くぜ」
イオリはギギルの声に振り向きもせず、恐る恐る池の水の中に指を入れた。
「ウワッ、ギギル。この池の水は温かいよ」
イオリが飛び上がった。ギギルは炉の前から立ち上がると、イオリの横に膝を突いて池に手を入れ、湯を掌にすくい上げると匂いを嗅いだ。湯はさらりとしていて、少し茶色掛かった色で、微かにクロムの臭いがした。池の深さは二分の一メルほどしかない。地下に純度の高いコハクニウムの鉱脈があって、コハクニウムの発する熱で温められた地下水が湧き出している場所に人工の池を造ったのだ。ギギルは嬉しそうな顔をしてバシャバシャと池の湯をかき混ぜた。
「こりゃ温かい泉だ。上層帯のザップという街に同じような泉が湧いている。この泉に浸かると身体は温まるし疲れも取れるんだ、こりゃあ有難い」
ギギルはそういうや否や上着を放り投げズボンを脱ぎ捨てると、肌着も取って裸になり、そのままザブンと湯に飛び込んだ。
「いやだギギル、若いムスメの前で裸にならないでよ」
イオリは赤くなって裸になったギギルから顔を背けた。
「丁度いい温度だ、こりゃあ最高だ・・・」
ギギルはウムウムと気持ち良さそうに声を出しながらザブザブと顔を洗っている。ギギルの声を聞いたシンが、いそいそと上着を脱ぎながら歩いてきた。
「温かい泉だって? どれ、私も。ツルイモが煮えるまで浸かるとしよう」
「それじゃあ、あたしはアッチで入るわ。ふたりともしばらく目をつぶっていてね」
イオリはそう言うと、ギギルとシンから離れて大広間の奥に向かって歩いていった。
ギギルとシンは池の縁に頭を乗せて、並んで湯に浸かっていた。冷え切っていた身体はポカポカと温まり、身体の奥底に凝り固まっていた疲労がゆっくりと融けて、身体の外へ流れ出していくようだ。シンがバシャリと頭から湯を被った。微かなクロムの臭いに混じって、シダレバラの油の芳醇な香りが空気の流れに乗って漂ってくる。
立ち昇った蒸気が天井で冷やされて、ポタリポタリとギギルたちの頭の上に落ちてきた。
「ああいい気持だ・・・ねえ、ギギル、思ったんだけど、ここは女王の城に向かう身支度をする場所じゃないかな」
「なるほど・・・ということは、女王の城はもうすぐってことか」
「おそらくね」
パタパタと足音がして、イオリが走ってきた。イオリは身体にワタスゲの布を一枚巻いただけの姿をしている。シンが眼を剝いた。
「コラ、イオリ! 若いムスメがそんな恰好で・・・」
シンの小言を遮るようにしてイオリは言った。
「ギギル、シン・・・アッ、温かい泉から出なくていいから、そのままで聞いて。この大広間の奥に白光石の階段があるの。ずうっと上まで続いているわ」
ギギルとシンは顔を見合わせた。
「やはりそうか。それが女王の城に通じる最後の階段だろう」
「よし、それじゃあ、夕食には最後のククを出そう。ひとり一枚だけどね」
「こうなりゃあヴォルトも飲んじまうか」
ギギルとシンは顔を見合わせてウヒヒと笑った。
温かい泉で身体を温めたギギルたちは、ワタスゲの布を身体に巻いて炉の前に座り夕食を食べていた。炉の周りには濡れた衣服が岩の上に広げられていて、もう半ば乾いていた。
ギギルが手に持っている椀の中には、ツルイモの根の煮物が入っている。細長いツルイモの根をぶつ切りにして塩水で煮込んだもので、口に入れると硬い繊維がパラリとほどけて、その間から歯に絡み付くようなネットリとした汁が出てくる。ほのかな甘みの後に少し土臭い渋みが舌に残るが、栄養価が高くて食べると身体がポカポカと温まった。干したツルイモの根をそのままかじるより柔らかくて食べやすいのだ。
イオリはククをペロリと平らげると、干したコケモモの実をかじりながらシンの手元のククをじっと見ている。味が苦手なのか、膝の上に置いた椀の中のツルイモの根の煮物には手が付いていない。
「なんだいイオリ、もうククを食べちゃったの。うん? これを狙っているのか・・・分かった、半分あげるよ。え、代わりにツルイモの根の煮物をくれる? マッタク、好き嫌いしちゃダメじゃないか」
シンはブツブツと小言を言いながら、手に持っていたククを半分ちぎってイオリに渡した。ギギルはそれを笑いながら見ている。ギギルはツルイモの根の煮物を肴にして、既に水で薄めたヴォルトをチビチビと口に運んでいた。ギギルはまだ手を付けていないククをイオリに差し出した。
「ほらイオリ、俺のククもあげるよ。ただし、それを食べたら剣術の型の練習を忘れるなよ」
「ありがとうギギル。ウフフ、分かってるよ」
イオリは満面の笑みを浮かべてギギルのククに手を伸ばした。結局、ギギルもシンもイオリには甘いのだ。
ギギルたちは、シリバスの街を出発して以来、久しぶりに温かく乾いた場所で身体を休めることができた。ギギルたちは水で薄めたヴォルトの入った椀を回し飲みながら、ボンヤリと明日からの旅に思いをはせていた。
絶壁の麓に向かって下りていった飛翔に乗っていた七人の監督使は、絶壁の麓の小さな空き地に飛翔機を着陸させると、ギギルたちを追って女王候補者の道を駆け上った。ギギルたちとの距離は二十五ギールも離れているが、鍛えられた監督使の足なら、ヤクウを引いて歩いているギギルたちには三カクンほどで追いつけるはずだ。黒い霧のように女王候補者の道を上る七人の監督使たちには、もう一機の飛翔機が雲の層の中で雷電を受けて墜落したことなど知る由もなかった。
七人の監督使は女王候補者の道を黒い霧のように駆け上ったが、行けども行けどもギギルたちの姿は見えなかった。
とうとう雲の層の中に飛び込んだ監督使たちは、視界の利かない女王候補者の道をずぶ濡れになりながら走った。既に日の入り時を過ぎていて、辺りは暗闇に閉ざされていた。それとともに気温がぐんぐん下がり始め、濡れた女王候補者の道はあっという間にカチカチに凍った。寒さと疲労のために、ひとりの監督使が凍った女王候補者の道の上で足を滑らせ、声も上げずに絶壁の下へ落ちた。
六人となった監督使たちは、漆黒の闇に埋もれた女王候補者の道の上に両手と両膝を突いて、這うようにして進んだ。監督使たちは絶壁の壁面に設けられた白光石の祠の扉に気付かず、その前を通り抜けた。
日の入り時から二カクンが経過した頃、六人の監督使の周囲の雲が突然切れた。監督使たちは雲の層の上に出たのだ。ポッカリと開けた上空は光のない暗闇だが、監督使たちの胸の前に垂らしたコハクニウムの入ったヒカリ玉が、監督使たちの姿を浮かび上がらせた。暗闇の中で凍った女王候補者の道を上り続けた監督使たちは、滲み出た疲労のためにガックリと肩が落ちていた。足元の女王候補者の道はヒカリ玉の明かりの輪の先で暗闇の中に消えている。絶壁の上までたどり着くのは、まだはるか先のはずだ。
監督使の班長のダハルが静かに言った。
「だめだ、これ以上進めば体力を失って動けなくなる。仕方がない、日の出時をここで待とう。やつらも日の出時まではどこかで休んでいるはずだ」
ダハルの声に頷いた監督使たちは女王候補者の道の上で身体を寄せ合い、一塊の黒い影になった。監督使たちは懐からチウシの革の小袋を取り出すと、中から小指の先ほどの黒い丸薬を摘まみ出して口に含んだ。監督使の非常食兼滋養強壮薬である。胃の中に入るとポオッと身体が温かくなり、一カインは何も食べなくても身体が動いた。監督使たちはコハクニウムの入ったヒカリ玉を心臓に当てた。コハクニウムの発する微かな熱で極寒のヨルを乗り切るのである。
静かなヨルが過ぎ、日の出時を迎えた。
ギギルたちは朝食を食べ、身支度を済ませると白光石の祠の扉の前までヤクウたちを引っぱっていった。
「こいつらとはここでお別れだ。シン、扉を開けてやってくれ」
シンが白光石の祠の扉に左手を触れると、扉は音もなく開いた。どこからかリンという鈴の音が響いた。
扉の外から外光が差し込み、湿った冷たい空気と共に白い雲が流れ込んできた。扉の外の女王候補者の道はまだカチカチに凍っている。
イオリはヤクウたちの鼻面を撫でながら、小さな声で一頭一頭に別れを告げた。ヤクウたちも別れを覚ったのか悲しそうな眼をしてグフグフと鳴き声を上げている。
「さあ、お前たちの役目は終わった、シリバスへお帰り。途中、オニウツボカズラに注意するんだよ。まあ、お前たちは賢いから大丈夫だろうけど。お前たちには何回助けられたことか、ありがとう、礼を言うよ」
シンがヤクウの首を優しく擦りながら言った。そして、轡を外してヤクウたちを自由にしてやると、ヤクウたちは嬉しそうにブルブルと首を振った。
「それとザドラにも気を付けるんだぜ。俺に食われなかったんだ、ザドラやオニウツボカズラに食われるんじゃないぞ」
ギギルはそう言うと、一頭のヤクウの尻をパンと叩いた。
ヤクウの首にはユタ街長への感謝の言葉を書いたワタスゲの布が括り付けられていた。ヤクウたちはグフグフと鳴き声を上げながら扉の外に出ると、ギギルたちに向かって別れを告げるようにブルブルと頭を振った。首から下げた鈴が、出発の合図のようにカランカランと音を立てた。そして三頭のヤクウはパカパカと蹄の音を立てて女王候補者の道をシリバスに向かって下って行った。
白光石の祠の扉が閉まり、ギギルたち三人が残った。
「さて、俺たちも女王の城に向かうか」
大広間の奥に進むと、突き当りの壁面に半円形の隧道がポカリと口を開けていた。その隧道は斜め上方に真っ直ぐ延びていて、隧道の中には幅五メルの白光石の階段が設けられていた。隧道の左右の壁面には二十メルごとに、シダレバラの花冠を模した照明器具が吊り下げられていて、シダレバラの油に灯された炎がユラユラと薄黄色の光を広げていた。隧道を下から見上げると二本の光の線に挟まれた白い梯子がはるか天空に向かって延びているように見えた。
ギギルたちは天空に向かって延びる白光石の階段を上り始めた。
日の出時を迎えて外光が女王候補者の道を明るく照らした。
女王候補者の道の上で一塊になってヨルを過ごした監督使たちはようやく顔を上げた。極寒のヨルを乗り切ったのだ。監督使たちの吐く息が白い。監督使たちの黒衣には白い霜が降りていた。日の出時と共に気温がグングンと上昇して女王候補者の道の上の氷を溶かした。監督使たちのいる場所から五十メルほど下に、外光を受けて白く輝く雲の海がネットリと広がっていた。
監督使たちの目の前には、絶壁に沿って斜め上方に向かって延びる女王候補者の道が外光を浴びて白く輝いている。そのはるか先には女王の城の城壁のように聳え立つ断崖の天辺部分が見えていた。断崖の上にたどり着くまで女王候補者の道をこれから二十ギール上る必要がある。
監督使の班長のダハルは目の前に延びる女王候補者の道を見つめながら首を傾げていた。
「おかしい、女王候補者の一行の姿が見えない。それに、断崖の上に向かったもう一機の飛翔機はどうしたんだ。断崖の上に着陸したのなら、この道をこちらに向かって下りてきているはずだが、その姿も見えない」
監督使たちが口々に話し出した。
「女王候補者の一行は、もうすでに断崖の上にたどり着いているんじゃないか」
「キノウ我々が飛翔機の上からやつらを見つけた場所から考えると、あれから日の入り時までの五カクン足らずの時間で、そんな先まで進めているはずがない」
「まさか追い越してきたんじゃないか」
「女王候補者の道の幅は広いところでも三メルしかない。あの雲の中でも道の上にヒトとヤクウがいれば気付くだろう。追い越すはずは・・・まさか、あの雲の層の中に女王の城に通じる入口が隠されていたのか」
「あるいはこの先にあるかも知れないが」
ダハルは右手を上げて議論を打ち切った。
「よし、二手に分かれて女王の城に通じる入口を探そう。私の班は雲の層の中を探してみる。お前の班はこの道を上って入口を探せ、二カクン経っても入口がなければ引き返してこい。昼食時にもう一度ここで落ち合おう。入口を見つけても勝手に入るなよ、向こうにはカギ爪のギギルがいる。戦力を分散せず全員で襲わなければ勝てない相手だ、分かったな」
監督使たちは二手に分かれると、女王候補者の道を上と下に向かって走って行った。
ギギルたちははるか天空に向かって一直線に延びる白光石の階段をゆっくりと上った。上り始めてから四カクンが経過した頃、ギギルたちの目の前に五メル四方の踊り場と白光石の扉が現れた。白光石の階段はそこで終わっていた。シンが白光石の扉を開けると、その先はまるで空中に放り出されたかのように、周囲に遮るものが何もない岩山の山頂だった。
そこは峩々とした山脈の中に聳える牙のような岩山の山頂で、刃物でそぎ落とされたように荒々しく切り立った壁面を持つ山々がその山頂を取り巻いていた。山々の間の峡谷は暗い深淵のようで、峡谷の底は見えない。その岩山の先に周囲の山々を見下ろすようにひときわ高く聳え立つ円錐形の独立峰があった。その独立峰の中腹に向かって岩山の山頂から巨樹の板根のように細く切り立った尾根が延びていた。
白光石の階段は、岩山の頂上からその板根のような尾根の上を伝って独立峰に向かって続いていた。そして、独立峰の中腹に鍾乳洞の石筍を何本も束ねたような幾つもの塔が連なる巨大な女王の城が白く輝いていた。
隧道を出て岩山の山頂に立ったギギルたちは、目の前に広がる景色に目を奪われていた。
「あれが女王の城か。やっと見えたぜ」
「本当にあったんだね、何て大きくてきれいなんだ・・・」
ギギルとシンの横で、イオリは翡翠色の大きな瞳を輝かせて、何も言わずに女王の城を見つめていた。
岩山から延びる板根のような細い尾根の上に設けられた白光石の階段は、岩山から離れると一度緩やかな下りとなり、下りきった先から女王の城まで急な勾配の上りになっていた。白光石の階段はほぼ一直線で道幅は五メルしかなく、階段の左右は垂直に切り立った断崖絶壁になっている。まるで女王の城に向かって立てかけられた剣の刃のように見える。谷底から吹き上がる風は気まぐれで、前後左右あらゆる方向から不規則に吹いたり止んだりを繰り返していた。
ギギルたちは、ギギルを先頭にして、イオリ、シンの順で一列になって白光石の階段をゆっくりと歩いた。互いの身体はキヌグモの紐で繋がれている。
緩やかな下りが終わり、尾根の最下点に立ったギギルは、そこから天空に向かって延びる急勾配の白光石の階段を見上げた。
「ざっと見て、残り十ギールといったところか。ここまできて突風にあおられて転落死なんてのはまっぴらごめんだから、この先は慎重に進もう。急勾配の階段だ、恰好なんて気にしちゃいられないから、階段に手をついて両手両足で這うようにして進むぞ。ふたりとも、キヌグモの紐の結び目をもう一度確認しておけ」
ギギルは左手の手袋を外してズボンの腰紐に挟んだ。カギ爪が外光を反射してキラリと光った。谷底から吹き上がってきた風でシンの外套の裾がバタバタと音を立てている。イオリはチウシの胃袋の水筒から水を一口飲むと、外套の袖口で口を拭った。遮光眼鏡の下のイオリの翡翠色の大きな瞳は、はるか天空に輝く女王の城を見ていた。女王の城は「早くこい」とイオリに囁いているようだ。
ギギルたちが女王の城に向かう最後の階段を上り始めた頃、六人の監督使は雲の層の中で白光石の祠の前に立っていた。壁面を探るようにして歩いていたダハルが白光石の祠を見つけたのだ。ダハルの招集により集められた監督使たちは、いつでも祠の中に踏み込んで戦えるように全員が半月刀を構えていた。ダハルは左手首にはめられた金色の腕輪を白光石の扉に当てた。
「我々は監督使、女王の密命を受ける者だ。ここを開けよ」
白光石の扉は音も立てずに開いた。どこからかリンという鈴の音が響いた。
六人の監督使は無言のまま、流れ込む雲と交わるかのように黒い霧となって祠の中に雪崩れ込んだ。しかし、そこにはギギルたちの姿はなかった。
「誰もいない」
「炉には最近使った跡が残っている」
「ヤクウのフンがある・・・まだ新しいぞ」
大広間の中でギギルたちの痕跡を調べていた監督使たちは、ダハルの前に集まった。
「女王候補者の一行がここでヨルを明かしたことは間違いない。外の白光石の道で我々に遭遇しなかったということは、どこかに別の出口があるはずだ、探せ!」
ダハルの命令を受けて監督使たちは四方に散って大広間の中を探し始めた。
「隧道だ! 白光石の道が奥に向かって続いている!」
六人の監督使は大広間の奥にある隧道の入口の前に集まると、白光石の階段を見上げた。
「何としてでも追いついて、やつらが女王の城に入る前にケリをつけるぞ」
ダハルの声に残りの監督使が無言で頷いた。六人の監督使は流れる黒い霧のように隧道の中に吸い込まれた。
ギギルたちは急勾配の白光石の階段を這うようにして上っていた。女王の城まで残りの距離は三ギール。白く輝く女王の城は覆いかぶさるように目の前に聳え立っていて、高い城壁に設けられた大きな門やその後に立ち並ぶ石筍のような塔に規則正しく一列に並んでいる窓がハッキリと見えている。
最後尾を歩くシンが何かを感じてふと振り返った。シンの目に遥か下から白光石の階段を駆け上がってくる六つの黒い影が映った。
「あれは・・・ギギル、監督使だ! 監督使が追ってくる!」
シンの叫び声を聞いてギギルは立ち止った。首を捻って後ろを見ると、確かに監督使が階段を上っている。ギギルは思わず舌打ちをした。
「何てしつこいやつらだ。あと少しだっていうのに・・・マッタク、ヤモリグモも真っ青だぜ」
ギギルの元にイオリとシンが追い付いた。ギギルは腰に巻いたキヌグモの紐を解き、肩から下げている長剣を手に取った。
「シンが先頭に立ってイオリを連れて階段を上れ。俺が最後尾につく。もしもやつらに追いつかれそうになったら、俺がやつらをくい止める。そのときは俺に構わずイオリを連れて階段を上り続けて、何が何でも女王の城に逃げ込むんだ」
「ギギル、こんなに狭いところで六人を相手にするのは無茶だよ。しかも、相手は監督使だよ。下手すりゃ谷底に落ちちゃうよ」
「かも知れんが・・・俺はお前さんたちの用心棒だ。イオリを女王の城に送り届けるためなら何でもやるぜ。シリバスのユタ街長とも約束したしな。とにかく上れるだけ上ろう。やつらに追いつかれなければ、それに越したことはないからな」
「分かったギギル。よし、イオリ行くよ」
イオリは遮光眼鏡の下から翡翠色の大きな瞳でギギルをジッと見つめた。
「ねえギギル、あたしのために無茶はしないでね」
ギギルはイオリの肩を優しく叩いて、髭面を歪めてニヤリと笑った。
「俺はこの大陸じゃあ、ちっとは名の知られたオトコ、カギ爪のギギルだ。まあ見てな。無茶は・・・これまでも数えきれないほどしてきたから、もう慣れたぜ」
ギギルたちはシンを先頭にして白光石の階段を必死になって上った。ギギルが振り返る度に、追いかけてくる監督使たちの姿が大きくなっていた。距離が縮まっているのだ。六人の監督使は急勾配の階段をものともせず、黒い霧が湧き上がるように恐ろしい速度で上っていた。ギギルたちと監督使との間の距離はもう一ギールしかない。あと少しでギギルたちは監督使に追いつかれてしまう。
先頭を上るシンが叫んだ。
「ああ、階段が終わる! 上りきったんだ。・・・橋だ! 女王の城に繋がる最後の橋が見える」
目の前に壁のように立ちふさがっていた白光石の階段が消えて、ギギルたちは階段の最上部に立った。その先は平坦な道が二十メル続いていて、その先に白光石を積み上げて造った橋が架かっていた。橋は半弓を伏せたように中央部分が盛り上がっているため、橋の反対側はギギルたちの立っている所からは見えない。橋の向こう側は広い岩棚になっていて、その岩棚は女王の城の城壁の最下部に繋がっていた。そこには城の中に入るための白光石の扉が付いていた。
ギギルが振り返ると、監督使たちはまだ七百メル下の階段を上っていた。
「何とか逃げ切れたようだな、命拾いしたぜ・・・どうしたシン? イオリ?」
白光石の橋を半ば進んだところで、シンとイオリが立ちすくんでいた。そして、シンがゆっくりと振り返ってギギルを見た。
「橋が落ちている・・・これじゃあ向こうに渡れない」
絶望に打ちひしがれたシンの顔は青ざめて声が震えている。
「何だと?」
ギギルが橋に駆け寄った。橋は盛り上がった中央部分が崩落していた。崩れた部分の長さは十メルほどもあり、跳び越えることは不可能だった。
「何てこった、ここまできて・・・。だからちゃんと整備をしろと・・・今更言っても無駄か」
ギギルは左右を見回したが、迂回路は見当たらない。ギギルたちが立っているのは、まさに幅五メルの切り立った岬の先端といえる場所で、背後の道以外、周囲は全て深淵が取り囲んでいた。
「ねえギギル、投石器を使ってキヌグモの紐を向こう側に渡して、それを伝って行くのはどうかな」
「橋の向こう側に紐を絡めるような場所が見当たらないが・・・試してみるにしても時間がないぞ、監督使がもうすぐここにやってくる。引き返すにしても・・・いずれにしても監督使を全員始末しなきゃならんということか」
ギギルは厳しい顔をして橋に背を向けると、長剣を右手に持って、監督使たちが上ってくる白光石の階段に向かってゆっくりと歩き始めた。
「シン、イオリ、できるだけ離れていろ」
ギギルの背中から闘気が陽炎のように立ち昇っている。ギギルは己の命に代えても、監督使たちを全員葬り去るつもりなのだ。イオリはギギルの背中を見て、ギギルの決意を覚った。
イオリはキッパリと言った。
「飛ぶしかないよ。あたしたちが・・・あたしもシンもギギルも、みんなが一緒に女王の城に入るには、空を飛ぶしかないんだ。空を飛んであの橋を渡るんだ」
「イオリ、何を言っているんだい・・・空を飛ぶだって?ヒトが空を飛べる訳ないじゃないか」
イオリは崩れた橋のたもとに立って女王の城を見上げながら、遮光眼鏡を外し、ゆっくりと外套を脱ぎ捨てた。イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
「飛べる、飛べるよ。あたしには翅がある」
イオリは女王が宣言するかのように凛とした声で言った。イオリの声には女王の力を秘めた言霊が宿っている。シンは言葉を失くしてイオリの顔を呆然と見ていた。
イオリは上着を脱ぎ捨て、ヨロイウオの肌着を肩から滑らせた。イオリの雪のように白い肌が現れた。イオリは両手を胸の前に合わせてふたつの小さなふくらみを隠すと、首を垂れて背中を少し丸めた。イオリの金髪が左右に分かれて、細い背中が顕わになった。
イオリは眼を閉じた。
イオリの身体から翡翠色の炎がユラリと立ち昇り、炎の繭のようにイオリの身体を包んだ。
イオリの身体が小さく震え始め、やがて瘧に罹ったかのようにブルブルと激しく震え出した。
イオリの背中が見る見る盛り上がってふたつのこぶとなり、そこから白く輝く二本の芽が背中の皮膚を突き破って現れた。その芽はメキメキと伸びてイオリの腰の下まで届くと、ゆっくりと広がり始めた。広がるにつれて白い芽は透明の薄い膜に変わり、皺が延びて細長い翅へと変化した。
イオリは羽化した。飛翔体形に変態したのだ。
シンは腰が抜けたようにペタリと地面に座りこみ、両手を前で合わせて、祈るようにイオリを見上げていた。シンの両目は神を見たかのように潤んでいる。
階段に向かっていたギギルは、振り返ってイオリの姿を見ると、魂を抜かれたかのように茫然と立ちすくんだ。さすがのギギルもポカンと口が開いている。
イオリは目を開けると、シンとギギルを見てニコリと笑った。イオリの翡翠色の大きな瞳がキラキラと光っている。イオリは翅を広げると、小さく振動させた。リーンという小さな音が響いた。そしてイオリはスウッと大きく息を吸うと、今度は力一杯翅を振動させた。リーンという音が大きくなった。イオリの両足は地面から離れ、イオリはフワリと宙に舞い上がった。
「シン、ギギル、見て。あたし飛べるよ」
イオリは空中でフラフラと均衡を取りながら、シンの周りをゆっくりと一周した。
「イオリ、お前・・・本当に飛んでいる・・・女王の力だ・・・」
シンは頭上を飛ぶイオリを目で追いながらうわ言のように呟いた。
階段を上ってきた六人の監督使が姿を現した。
ギギルは細い道の上で監督使たちに向き合った。ギギルは少し腰を落として、カギ爪と長剣を身体の前で交差させるように構えると、カギ爪をペロリと舐めた。
「イオリ、お前は橋を飛び越えて女王の城に逃げ込め。俺とシンには構うな、行け!」
ギギルはそう叫ぶと、監督使に向かってゆっくりと歩き出した。
監督使たちは、宙に浮かんでいるイオリを見て思わず「オオ」と息を呑み、その場で立ち止まった。あまりの衝撃に足がすくんだのだ。黒い頭巾の下に隠された目が、あり得ないものを見たかのように驚愕でおののいている。
「どうするお前さんたち。女王候補者のイオリはあのとおり、空を飛んで女王の城まで逃げる。翅のないお前さんたちじゃ追いつけないぜ。何しろ、この先の橋が落ちているからな。俺とシンは空を飛べないからここまでだ、お望みなら相手をしてやってもいいぜ。だが、俺はカギ爪のギギル、そこらへんのヘナチョコとは違うぜ、やるなら心して掛かってきな」
六人の監督使の身体から殺気がほとばしり出た。監督使たちは無言で半月刀を抜いた。
イオリはシンの前にフワリと下りると、ヨロイウオの肌着を胸の前で結んでふたつのふくらみを隠しながらシンに向かって言った。
「シン、行こう。女王の城へ、橋を飛び越えるんだ」
「イオリ・・・どうやって? 私には翅がないんだよ」
「あたしが手を貸すから大丈夫だよ、さあ、急いで!」
シンは勢い良く立ち上がると、地面に脱ぎ捨ててあるイオリの外套と上着を自分の身体に巻きつけ、イオリの荷物を首から掛けた。
「シン、走って! 橋の上から思いっきり跳んで!」
「分かった」
シンは白光石の橋に向かって走り出した。イオリがフワリと浮き上がり、シンの頭上を飛びながら両手を差し出した。
「シン、あたしの手に掴まって」
シンが両手を頭上に上げてイオリの両手をしっかりと掴んだ。シンが橋の斜面を駆け上る。
「跳んで!」
イオリの声を合図に、シンは崩れた橋の上から十メル先の橋の向こう側目掛けて跳び上がった。空中を走るかのようにシンは両足を交互に動かしている。
シンの体重がイオリに掛かった途端、イオリとシンはガクンと高度を下げ、谷底に向かって落下した。
「ウワアア落ちる!」
「ムウウ」
シンの叫び声とイオリの腹の底から絞り出すような呻き声が重なった。イオリの顔が朱に染まる。イオリは歯を食いしばって背中の翅に意識を集中した。
「上がれぇぇ!」
イオリが叫ぶ。翅音が力強いビイインという音に変わった。
シンの両手を掴んだまま、イオリの身体は一旦空中で静止すると、ゆっくりと上昇を始めた。イオリとシンの身体は見る見るうちに上昇して崩れた橋を飛び越えると、反対側の岩棚の上にフワリと着地した。それと同時に、イオリは力を使い果たしたかのように膝から崩れてシンの上に倒れ込んだ。シンが慌ててイオリの身体を抱きとめた。
「イオリ、大丈夫かい」
シンが声を掛けると、イオリは肩で息をしながら頷き、すぐにキッと顔を上げた
「ギギルを助けに行かなきゃ」
イオリは翅を震わそうとしたが、力を使い切ったイオリの身体は言うことを聞かない。イオリはシンに肩を抱かれたまま、橋の向こう側のギギルの姿を探した。
ギギルは細い通路の上で監督使たちと戦っていた。
細い白光石の通路の上を六人の監督使が一列になってギギルに向かって走り寄った。ギギルはやや腰を落とし、右手の長剣を地面と水平にして身体の正面に構えた。相手からの攻撃に自在に対応できる受けの構えである。左手のカギ爪はダラリと下に垂れている。ギギルはこちらかの攻撃を仕掛けることを避け、監督使からの攻撃をこの場で一歩も下がらずに受け止めるつもりでいた。
ギギルの正面に走ってきた監督使が、上段に振りかぶった半月刀をギギルに向かって叩きつけた。そのすぐ後ろに影のように続いていた監督使は、左に一歩足を踏み出すと、前にいる監督使の身体を盾にしてその横からギギルの腹目掛けて半月刀を突き出した。ギギルは頭上に落ちてくる半月刀を身体を傾けて躱すと、腹に向かって突き出された半月刀に長剣を絡め、巻き上げるようにして払いのけた。上段からの打込みが空を切った正面の監督使が体勢を崩してたたらを踏んだ。やや前屈みになったその監督使の腹をギギルは思いきり蹴りつけた。腹を蹴られた監督使はすぐ後ろの監督使にぶつかり、ふたりは地面に転がった。
そのふたりを跳び越えるようにして姿を現した三人目の監督使が、左上段からギギルの左肩目掛けて半月刀を振り下ろした。ギギルの左手が横殴りに動いて、カギ爪が半月刀を払いのけた。ガキリと音がして火花が飛ぶ。下からすくい上げるように振り上げたギギルの長剣が、監督使の脇腹を切り裂いた。ギギルが身体を捻ると、監督使は通路から足を踏み外し、脇腹から血を吹き出しながら谷底に落ちた。
地面に仰向けに倒れて立ち上がろうともがいているふたりの監督使の後ろで、残った三人の監督使が半月刀を構えてギギルを睨んでいた。
「まずひとり」
ギギルはそう言うと、再び長剣を地面と水平にして身体の正面に構えた。
ギギルの背後から、イオリの「跳んで」という声に続いて、シンの「落ちる」という絶叫が響いた。それを聞いたギギルは、思わず背後にチラリと視線を動かした。ギギルに一瞬の隙が生まれた。
ふたりの監督使が地面に倒れている監督使を跳び越えると、ひとりは左上段からギギルの左肩口へ、もうひとりは右上段からギギルの右肩口に向かって半月刀を振り下ろした。一瞬反応が遅れたギギルは、長剣とカギ爪を交差させるように振り上げて二本の半月刀を受け止めるのが精いっぱいだった。二本の半月刀の勢いに押されて、ギギルは片膝を突いた。
最後に控えていた班長のダハルがギギルの元に走り寄ると、がら空きになっているギギルの腹に向かって半月刀を突き出した。ギギルは渾身の力を込めてカギ爪と長剣で受け止めている二本の半月刀を押し返すと、仰向けに倒れるようにして腹に向かって伸びてくる半月刀の切っ先を躱した。半月刀の切っ先はギギルの頬を掠めて空を切った。
そのまま通路の上に仰向けに倒れたギギルは、咄嗟に身体を転がすと、身構えようと上体を起こした。途端にギギルの右足が細い通路を踏み外し、身体が右に傾いた。
・・・しまった、落ちる・・・
ギギルの身体は体勢を崩し、細い通路の上から断崖の底に向かって転がるように落ちていく。ギギルは必死になって左手を振り回すと、カギ爪を細い通路に敷かれた白光石に叩き込んだ。
ギギルは左手一本で断崖にぶら下がっていた。ギギルの身体は今にも落ちそうにユラユラと揺れている。ギギルは足場となる岩場を探してバタバタと両足を動かした。しかし、ギギルの両足は、身体を預けることのできるような足場を探し当てることができなかった。
ザラリと砂が落ちてきてギギルの顔に掛かった。ギギルが顔を上げると、白光石の細い通路の縁に五人の監督使が立ち、じっとギギルを見下ろしていた。そしてダハルがギギルに止めを刺すべく、半月刀をゆっくりと頭上に振り上げた。
・・・クソッ、これまでか・・・
ギギルはダハルを睨みつけたまま、髭面を歪めてニヤリと笑った。羽化したイオリは無事に女王の城にたどり着けるだろう。リリカと卵の仇は討ち損じたが、イオリを守るという使命を果たすことができた。ギギルの心の中は穏やかだった。
「ギギル―!」
イオリの絶叫が響いた。疲労のためにまだ翅を動かすことができないイオリが、シンの腕の中で身体を震わせて叫んでいた。
「ギギル――!」
「ギギル―――!」
イオリの絶叫が続いている。
イオリの絶叫が凛々と谷に響き渡った。そしてその絶叫がこだまとなって返ってくると、残響となって山々に囲まれた谷を埋め尽くし、ウワーンという耳を聾する音となって増幅された。
そしてそれは音を超えた衝撃波となって監督使たちの鼓膜を貫き、脳を震わせた。監督使たちは耐えがたい痛みに耳を塞いで立ち尽くした。身体を動かすどころか、声を出すことすらできない。
イオリはスックと立ち上がった。
イオリはまるで歌うかのように両手を広げると、顔を上げて翡翠色の大きな瞳を天に向けた。イオリの翡翠色の大きな瞳が炎を発しているかのようにメラリと光った。
イオリは天に向かって言葉を放った。その声には女王の力を秘めた言霊が宿っている。
「ああ、小さきモノたちよ、力を貸して。ギギルを助けて頂戴」
谷底から地鳴りのような音と共に空気の振動が伝わってきた。それは徐々に大きくなり、やがてイオリの発した絶叫をかき消すようなゴオオオという大音響に変わった。谷底から真っ黒な帯のようなものが湧き上がってきた。それはウネウネと蛇行しながら急激に太くなり、やがて巨大な黒いイワヘビに姿を変えると、更にそれは竜巻のように渦を巻いて谷を上ってきた。
巨大な黒いイワヘビは通路の上にいる五人の監督使とギギルを飲み込んだ。ゴオオオという風の音、バタバタという羽音、キイキイという鳴き声が辺り一面を覆った。
それは数百万匹ものドウクツコウモリの大群だった。
イオリの絶叫と祈りに召喚されたドウクツコウモリの大群は谷を埋め尽くし、巨大な竜巻となって通路を襲ったのだ。黒い奔流に巻き込まれた監督使たちは通路の上で身体を捩り、その猛烈な圧力に耐え切れずに、ひとり、またひとりと通路から足を踏み外して断崖の底に落ちた。
ドウクツコウモリの大群は上空に舞い上がると、黒い帯となって飛び去った。
ドウクツコウモリの大群が飛び去った後の白光石の細い通路の上に、五人の監督使の姿はなかった。ギギルは右手に長剣をしっかりと握ったまま、白光石の細い通路から投げ出されたように左手一本で断崖にぶら下がっていた。
「見て! ギギルは無事だよ」
イオリはギギルを助けるために、リーンという翅音を響かせて空中に舞い上がった。
「ギギル、よかった・・・」
もうダメだと思っていたのだろう。シンは腰が抜けたように地面にペタリと座り込むと、ガクリと項垂れた。安心したシンの両目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
ギギルたちは女王の城に繋がる岩棚の上で白光石の扉の前に立っていた。シンはギギルとイオリの顔を交互に見てから小さく頷くと、左手を上げて白光石の扉に触れた。
「私は巡礼者シン。女王候補者イオリを女王の元へ連れて行く使命を負っている者です。どうかこの扉を開けてください」
白光石の祠の扉が音も立てずに開いた。どこからかリンという鈴の音が響いた。




