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さまよえる巡礼者の墓場

 水晶の舟に乗って湖面を進み始めてから三カクンが経過した頃、ギギルたちの目の前に聳え立つ岩の壁面が現れた。地底湖の端に着いたのだ。水晶の舟は壁面に向かって真っすぐに進むと、壁面に縦方向に走る大きな裂け目の中に入った。

 壁面の奥に向かって続いている水路の幅は三十メルほどで、上部は暗くて見えない。ヒカリゴケの光が届かない水路の中は真っ暗だが、水晶の舟の船首と船尾の細く尖った先端部分が薄っすらと光って、舟の輪郭が闇の中に浮かび上がっていた。ギギルたちはヒカリ玉を首から下げて胸の前に垂らし、その光を頼りに舟の行く先を見つめていた。

 水路を進み始めて二カクンほど経過すると、水路の幅が徐々に狭くなり、左右の壁面は手が触れられそうなほど近くなった。水路は右に左に何度も方向転換を繰り返しながら壁面の奥に延びていた。水路が曲がる度に水晶の舟は壁面にぶつかるかと思うほど近づき、その都度スッと方向を変えて、何ごともないように先へ進んで行く。

 やがて水晶の舟は、水面からヒョコリと顔を出している平たい岩の前で止まった。平たい石の船着場の先には、壁面の裂け目が更に奥へと続いていた。

「どうやら着いたようだ。ここからは歩きだ」

 ギギルは船着場の上に飛び移った。ギギルたちが水晶の舟から降りると、水晶の舟は音もなくスウッと船着場を離れて闇の中へ消えた。


 壁面の裂け目の中をギギルたちは進んだ。裂け目の幅はギギルが両手を広げたほどしかなく、そこはヒカリゴケが自生していないため真っ暗だった。ギギルたちはヒカリ玉を首から下げて胸の前に垂らし、キヌグモの紐を腰に巻いて互いの身体を繋ぐと一列になって歩いた。

 歩くたびにユラユラと揺れるヒカリ玉の発する薄緑色の光の輪が、ギギルたちの影をぼんやりと壁面に映し出していた。その影は伸びたり縮んだりを繰り返している。極めて狭い視野の中で、聞こえてくるのはハアハアという自分の呼吸音とドクドクという鼓動の響きだけだ。

 やがて感覚が麻痺して、どのくらい長い間歩き続けているのかが分からなくなった。永遠に歩き続けているような錯覚に陥ると、意識が朦朧となり何も考えられなくなる。リーンという甲高い小さな音が耳の奥で聞こえはじめた。その音が大きくなったり小さくなったりを繰り返していくうちに、呼吸音も鼓動の響きも消え、次に頭蓋骨の中がキーンという音で充満した。

 ギギルたちに幻聴が聞こえ始めた。

 ・・・どこかでクスクスとコドモの笑い声が聞こえる。

 ・・・ドロドロドロと低い太鼓の音が響く。

 ・・・アハハハというオンナの高い笑い声が頭の上から降ってくる。

 ・・・パカパカというリマの速駆けの蹄の音が背後から追い抜いていく。

 ・・・耳元で誰かが名前を呼んでいる。

 ・・・市場の中にいるようなザワザワという喧騒に包まれる。

 ・・・オーイオーイと呼ぶ声が背後から追ってくる。

 ・・・誰かが横を歩いていて、ハアハアという呼吸音が聞こえる。

 ギギルは深い霧に取り囲まれ、自分がどこにいて何をしているのかも分からなくなり、夢遊病者のようにフラフラと足を前に踏み出していた。耳元でリリカが何かを語りかけている。リリカの声だと分かるが、何を言っているのかが分からない。リリカを抱きしめようと広げた両手が空を切った。ギギルはリリカの幻影を求めて深い霧の中を前へ前へと進んだ。

 イオリには前を歩いているギギルや後ろにいるシンの気配が感じられなくなり、無性にこみ上げてきた悲しみにシクシクと泣きながら、ひとりポツンと霧の中を歩いていた。誰もイオリを慰めてくれない。誰もいなくなったに違いない。イオリは捨てられたコドモのように泣きじゃくりながら、顔を知らない母親のカオリスの温かい胸を求めて深い霧の中をひたすら歩いた。

 シンは鎖に繋がれて監獄に向かって歩く受刑者のように、項垂れてトボトボと歩いていた。腰に巻かれたキヌグモの紐がクロムの鎖のように重く、シンはその重みにあえいでいた。その重みに耐えるのが精一杯で、他には何も考えられない。宿屋で、食堂で、酒場で、巡礼者シンに向けられた、悪意や暴力が幻影となって蘇った。怒号、罵声、蔑み、嘲笑がシンを追いかけてくる。シンはそれらを背に受けながら、深い霧の中をノロノロと歩いた。

 三人は幻聴の谷の虜になっていた。

 ギギルの前にボンヤリとした白い影が地面から滲み出るようにユラリと浮かび上がった。その影はギギルを導くように前を歩いている。しばらくすると、ギギルの横にも、イオリの前にも、シンの後ろにも無数の白い影が浮かび上がり、三人を取り囲むようにしてユラユラと揺れながら歩き始めた。ギギルもイオリもシンも、自分たちの周りに浮かび上がった白い影に気付いていない。

 ギギルたちの前で道がふたつに分かれていた。右側の道は広くやや上り坂となっていて、左側の道は狭く地面に吸い込まれるような下り坂になっていた。

 ギギルの前をユラユラと歩いていた白い影が、スウッと吸い込まれるように左側の道に入った。それに導かれるように、ギギルは左側の狭い道に足を向けた。ギギルには道がそこでふたつに分かれていることすら認識できていないのだ。ギギルたちを取り囲んでいる白い影たちは、喜んでいるかのように、ギギルたちの周囲をグルグルと回っていた。

 長い下り坂を進むにつれて、微かな腐臭が前方から漂ってきた。

 やがてギギルたちは、ポッカリと空いた洞窟にたどり着いた。奥行きは五十メルほどの楕円形の洞窟で、天井の高さは二十メルほどあり、壁や天井にはヒカリゴケが自生していた。ヒカリゴケの放つ薄緑色の光の中で、無数の白い影が地面から立ち昇り、ユラユラと揺れていた。

 洞窟の壁面に背中をもたれ掛けるようにして、沢山のヒトが座っていた。地面のいたるところにも、横になったり膝を抱えて座っている沢山のヒトがいた。洞窟の中のヒトたちはギギルたちが洞窟に入ってきても一言も声を発しなかった。黒い穴のような虚ろな目をギギルたちに向けたまま誰も動かなかった。

 それはおびただしい数のヒトの死体だった。ほとんどの死体が白骨化し、一部は骨と皮だけになってカラカラに乾いていた。そして、それらの死体の左手の薬指は、第一関節から先がなかった。

 ここは『さまよえる巡礼者の墓場』だった。

 自ら導くべき女王候補者に巡り合うことができずに大陸をさまよった巡礼者は、死期が近づくと『さまよえる巡礼者の墓場』に吸い寄せられて、ここで生涯を終えるのだった。そしてここには、使命を果たせずに死んだ巡礼者たちの妄念が凝り固まっていた。

 ギギルたちには、巡礼者の死体が見えていなかった。地面に三人が座れるほどの隙間を見つけると、ギギルはゆっくりと腰を下ろし、胡坐をかいて座った。ギギルの横にイオリがペタリと座り、その横にシンが膝を抱えてうずくまった。ギギルもイオリもシンも、一言も口を利かない。いや、隣に誰か居ることすら分かっていない。それぞれがひとりで、深い霧の中にポツンと座っているのだ。

 ギギルたちは幻聴の虜となり、死んだ巡礼者の妄念に導かれて『さまよえる巡礼者の墓場』にきたことが分かっていない。このままでは、ギギルたちは死んだ巡礼者の妄念に取り付かれたまま、命が尽きるまでここに座り続けることになる。


 シンは真っ白な濃霧の中を手探りで歩いていた。自分が何のために歩いているのか、どこに向かっているのかも分からない。誰かと一緒に旅をしていたはずだが、それが誰なのかも思い出せない。先程まで聞こえていた怒号や罵声は聞こえなくなった。頭の中ではキーンという甲高い音が絶え間なく鳴り響いていた。

 ・・・ここはどこなんだ。私は何をしているんだろう。ダメだ、何も考えられない・・・

 《シン》

 誰かの声がした。

 ・・・シン?それは私の名前なのか?私はシンなのか?・・・

 《シン・・・しっかりしろ、シン》

 その声は優しくシンに呼びかけた。

 《シン、お前は巡礼者だ。お前の使命は女王候補者イオリを女王の元へ連れて行くことだ。忘れたのか》

 ・・・忘れてなんか・・・いない・・・いや、すっかり忘れていた。いったいどうしたんだろう・・・

 《シン、お前の使命を果たしなさい。ここは『さまよえる巡礼者の墓場』だ、お前たちがくる所ではない。女王候補者イオリを連れて、早くここから立ち去るんだ》

 ・・・イオリ、そうだイオリ!ギギル!私たち三人は女王の城へ行くんだ・・・

 シンの左手の薬指がズキリと痛んだ。巡礼者の証である切り取られた指の跡がドクドクと脈打っている。シンの意識がその痛みに向かい、一瞬幻聴が消えた。

 ・・・ああ、私は何をしていたんだろう。ギギル、イオリ・・・ダメだ声が出ない・・・

 シンの耳の奥にキーンという甲高い小さな音が再び響き始めた。その音はシンの頭の中でドンドン大きくなっていく。

 ・・・このままじゃだめだ・・・

 シンは耳の奥の幻聴を振り払うように頭を振ると、上着の内側の小物入れに手を入れてクロドクダミの葉を掴みだした。そしてクロドクダミの葉を口の中に入れると一気にかみ砕いてゴクリと飲み込んだ。口の中に、鼻の奥が痺れるようなクロドクダミの刺激臭が広がり、胃の中が焼けるように熱くなった。シンはもう一度頭を振ると、手袋を外して立ち上がり、巡礼者の記である左手を頭上に掲げた。

「私は巡礼者シン。女王候補者イオリを女王の元へ連れて行く使命を負っている者です。どうか私に『巡礼者の道』をお示しください」

 シンの凛とした声が響いた。

 幻聴は潮が引くように治まり、目の前を覆っていた白い霧がスウッと晴れた。

 シンの足元で、ギギルとイオリは毒気が抜かれたような顔をしてキョロキョロと辺りを見ている。

「いったい俺はどうしちまったんだ。何も思い出せない・・・ああ、シン、イオリ。何ともないか」

「あたしはひとりで泣いていたの。誰もいない・・・ひとりぼっちで・・・怖かった」

 イオリの翡翠色の大きな瞳が濡れている。シンは膝を突いてイオリの肩を優しく抱いた。そして、シンはクロドクダミの葉を取り出すと、ギギルとイオリに渡した。

「もう大丈夫だよ、幻聴は消えた。これを食べて頭をスッキリさせてから『巡礼者の道』に戻ろう」

 ギギルはモグモグとクロドクダミの葉を噛みながら周囲を見回した。そして、おびただしい死体を見て眉をひそめた。

「ここはどこなんだ。なぜ俺たちはこんな所にいるんだ、この死体は・・・」

「ここは『さまよえる巡礼者の墓場』だよ。私たちは幻聴の谷で意識が混濁して、死んだ巡礼者の妄念に引き寄せられてここにきたんだ。この死体は、はるか昔から累々とここで息絶えたさまよえる巡礼者たちだよ。ここは私たちがいるべき場所ではないんだ」

 シンはそう言うと立ち上がり洞窟の出口を探した。しかし、シンがいくら見回しても、三人を取り巻く周囲の壁は巡礼者の死体で埋め尽くされていて、出口らしきものが見えなかった。

 地面からユラユラと白い影がいくつも立ち昇り始めた。

 シンはオロオロと左右を見回した。

「ダメだ、出口が見えない。ギギルはどうだい」

「俺にも出口が見えない。それよりも、死んだ巡礼者の妄念とやらが、また湧き出し始めたようだぜ」

 ギギルは左手の手袋を外してズボンの腰紐に挟むと、目の前に上げたカギ爪をペロリと舐めた。シンは怯えているイオリの肩を抱いて「大丈夫だ」と声を掛けた。イオリは翡翠色の大きな瞳を見開いて、恐怖のためにカチカチと歯を鳴らしている。

 三人の周囲を白い影がグルグルと回り始めた。白い影の数はどんどん増えて、白い壁となってギギルたちの周囲を取り囲んだ。白い壁の回転が速くなり、竜巻のように上に伸びた。ギギルたちは白い竜巻の渦の中に閉じ込められた。

「クソッ、こうなりゃ強行突破だ。シン、イオリ、ついてこい」

 ギギルはそう言ってカギ爪を振り上げると、白い壁に向かってカギ爪を叩きつけた。しかし、ギギルのカギ爪は空を切った。ギギルはギリリと歯ぎしりをした。

「こいつらには実体がない・・・そう、ウカカ族のオニシダの森で襲われたゴステと同じだ。うかつに触れると精気を吸い取られるかも知れん。こりゃあ厄介だぜ」

 珍しくギギルの言葉に力がない。シンは巡礼者の記である左手を頭上に掲げた。

「私は巡礼者シン。女王候補者イオリを女王の元へ連れて行く使命を負っている者です。どうか私に『巡礼者の道』をお示しください」

 再びシンの声が響いたが、白い壁には何の変化も見られず三人の前に立ち塞がったままだ。

 白い壁の中から、ヒトの唸り声や、助けを求める叫び声や、嘲るような笑い声や、甲高い悲鳴や、怒りの籠った呪いの声が滲み出て、ギギルたちの耳の奥に入り込んだ。その声に合わせるように、白い壁の至る所にヒトの顔が浮かび上がった。その顔はどれも痩せこけていて、怒りや悲しみや絶望や恐怖で醜く歪んでいる。

 やがて、白い壁はギギルたちを取り込もうとするかのように、ジリジリと渦の輪を狭めてギギルたちに迫ってきた。

「私は巡礼者シン、どうか私に『巡礼者の道』を・・・」

 シンが叫ぶように再び声を張り上げた。

 気が付くと、シンの後ろにひとりのオトコが立っていた。ボロボロのチウシの革の外套を着た労働種のオトコで、ボサボサの髪は白く、痩せこけた顔は外光で真っ黒に焼け、埃にまみれていた。ノッペリとした顔についた糸のように細い目には優しい光が浮かんでいる。

 《シン、私についてきなさい》

 オトコはシンの肩を叩くと、スタスタと歩いて白い壁の中に入り両手を広げた。

 白い霊体の渦の流れがオトコの身体に遮られたかのように、目の前に立ちはだかる白い壁に小さな穴が空いた。

 《シン、出口に向かって走れ》

 オトコの声がシンの頭の中に響いた。

 穴の先には洞窟の出口がポッカリと黒い口を開けていた。オトコが身を挺して、シンに出口を示してくれたのだ。

「出口が見えた! ギギル、イオリ、行くよ!」

 シンはイオリを胸の前に抱き、ギギルの手を引いて目の前の穴に飛び込んだ。

 シンたちが穴を走り抜けるや否や、オトコの姿は力尽きたように白い壁に飲み込まれて見えなくなった。裏切り者を処刑するように、オトコの身体は白い壁の中で渦に揉まれてバラバラに引き千切られていく。そのオトコは身体を引き千切られながら、白い壁の中からシンをジッと見つめていた。

 白い壁からオトコの左手が突き出された。その左手には、シンに託すかのように、小さな袋が握られている。シンはその袋を手に取った。

 その途端、オトコの身体はバラバラに砕けて白い壁の中に消えた。砕け散る瞬間、オトコはシンに向かって優しく微笑んだ。

 さまよえる巡礼者の墓場を脱出したギギルたちは、狭い道を駆け上った。その先で道がふたつに分かれていた。

「ギギル、イオリ、巡礼者の道だ。助かった」

 シンが指差した上りの広い道のすぐ先に岩の裂け目があり、そこから『巡礼者の道』の石の階段が見えていた。それを見たギギルは、膝の力が抜けたように分かれ道にドサリと座り込んだ。イオリがその横にチョコンと座った。理由は分からないが、とにかく助かったのだ。ギギルはフウと一息吐くと、チウシの胃袋の水筒を取り出してグビリと水を飲んだ。ギギルの背中のもたれ掛かるように座っているイオリが、その水筒に手を伸ばした。

「マッタク、どうなることかと思ったぜ。とにかく、今回はシンに助けられたな」 

 ギギルがそう言ってシンの顔を見た。シンは何やら神妙な顔をして、オトコから渡された小袋を見ていた。オトコは自分の身体を犠牲にしてシンを助けたのだ。

「シン、その袋は何だい」

「これは巡礼者の証を入れておく袋だよ、私も首から下げている。でも、あのオトコはなぜこれを私に?」

 シンは袋を開けて中のものを取り出した。それは干からびた左手の薬指だった。そして袋に同封されていた布に書かれた文字を読んだ。

 〈巡礼者ダン 下層帯・アジステア生まれ アマテス暦九百七十三トング花ノギグ二十カインに巡礼に出発 これを証する アジステア街長タング(署名)〉

 シンの手がブルブルと震えている。

「どうした、シン?」

「私のお父さんだ・・・私が体形変化期を迎える前に巡礼の旅に出たお父さんだ。ここで死んでいたのか・・・そして、私を助けてくれた」

 シンは掠れた声でそう言うと指と証明書を袋に戻し、胸の前で袋をギュウッと握ってから首に下げた。シンの両目に力が宿っている。迷いも恐れもない巡礼者の目だ。

「さあ行こう、ギギル、イオリ。巡礼者の責任を果たさなきゃ、お父さんの分もね」

 シンはそう言うと『巡礼者の道』に向かって歩き出した。

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