街の噂
ガンデラの街は大陸の中層帯の三大都市のひとつである。
ガンデラの街は、街の右半分を占める居住区・商業区・行政区などを有する市街地がある人工洞窟と、街の左半分を占めるコハク鉱石集積場・コハク鉱石製錬工場を有する工業区がある人工洞窟が、厚さ五十メルの岩盤を間仕切りにして隣接している形状となっていた。それぞれの人工洞窟は幅二ギール、奥行き五ギールもある広大なもので、人工洞窟の天井を支えるために掘り残された、直径三メルもある岩柱が二十メル間隔で整然と並んでいた。
更に、右側の人工洞窟が一ギール四方に渡って拡張されていて、そこにガンデラ軍の本部施設・兵士の営舎・演習場が置かれていた。ガンデラは元々商業都市であり、自己防衛を目的として創設されたガンデラ軍の規模は千人足らずである。しかも、そのうちの四分の一は傭兵が占めていた。
ガンデラの入口の門に隣接する検問所の前に百メル四方の広場があり、その広場が左右の人工洞窟を繋いでいた。検問所前広場から、ひとつは工業区に向けて、もうひとつは市街地に向けて、ふたつの通路が延びていた。市街地に延びる通路は、中央大通りと呼ばれていて幅は二十メルもあり、市街地を貫くように人工洞窟の奥に向かって真っ直ぐ延びている。この中央大通りの左右には、屋台や露店がひしめくように立ち並んでいた。
トリムカンドで採掘されたコハク鉱石は、トキオンのコハク鉱石市場を経て、ガンデラのコハク鉱石集積場に集められる。集められたコハク鉱石は隣接しているコハク鉱石製錬工場に運び込まれ、外光反射炉でドロドロに融かされた後、『コハクニウム』という少し黄色がかった半透明の結晶体が抽出される。このコハクニウムは自然崩壊していく過程で微弱な光熱粒子を周囲に放出するのである。
上層帯では気候あるいは地質のせいか、オニシダが特殊な樹脂を幹や枝に蓄えていて、燃やすと煤を含んだ煙と酷い臭いを発するため、燃料として利用することに適しなかった。このため、上層帯では数百トング前まではシダレバラの油を主な燃料としていたが、コハクニウムが発見されてからは、コハクニウムの放出する光熱粒子を収斂させて光や熱に変換することで、生活の基礎的な燃料を得ていた。その意味で、ガンデラは上層帯の生活燃料供給基地になっていて、定期的に『コハクニウム』が上層帯へ輸送されていた。
このため、ガンデラには上層帯の軍事都市コルトバンから派遣された駐留部隊が常時駐留していて、コハク鉱石製錬工場の警備と上層帯に送られる『コハクニウム』の輸送隊の警護をしていた。コルトバン駐留部隊の本部はコハク鉱石集積場の前に設けられていた。すなわち、検問所前広場を挟んで、コルトバン駐留部隊とガンデラ軍が睨み合っているのである。
日の入り時が近づき外光が力を失い始めた。気温は徐々に下がり、ヒトの吐く息が白く変わる。ガンデラの入口の大門は、日の入り時までにガンデラに駆け込もうと急いでやってきたヒトや荷車でごった返していた。土埃がもうもうと舞い上がり、リマのいななきとパカパカという蹄の音に被さるように、荷車の車輪のガラガラギシギシという音が響いて、辺りは騒然としている。日の入り時までに街に入らなければ、閉ざされた門の外で寒さに震えながらヨルを明かさなければならない。街に入ることができるか否かは天と地ほどの違いなのだ。
何とか日の入り時の前にガンデラに入ることのできたヒトたちは、検問所の前の広場にたむろして検問の順番を待ちながら、埃にまみれ外光に焼かれた真っ黒な顔を綻ばせて大声を上げて談笑している。
大門を閉める合図の鐘がガランガランと鳴り響く中で、ギシギシと音を立てて大門が閉まった。検問所の前の広場は、土埃とオトコたちの汗とリマの臭いの入り混じった粉っぽい空気が満ちていて、その中に微かに、街の奥から漂ってきたリマの肉を焼いた香ばしい匂いが混じっている。
検問所を抜けたギギルたち一行は、ガンデラの商業地区にある古ぼけた安宿に腰を落ち着けた。テルミは荷車を検問所横の荷車置き場に止めた後、共同畜舎に預けたリマの世話をするために出かけていた。ギギルとシンはガンデラの中央大通りに立ち並ぶ露店でヴォルトやククや焼いたリマの肉を仕入れると宿に戻ってきた。普段なら買い物に行くとなると一緒に行くと言って飛んできて、「あれが食べたい」「これが欲しい」とうるさいくらいに付きまとうはずのイオリは、疲れたと言って寝台に横になっていた。
大きな買い物袋を抱えたシンが、居間と寝室の間仕切りの分厚いワタスゲの布を開けた。サルサが寝台の横に座ってイオリの頭を優しく撫でていた。
「イオリ、帰ったよ。ほら、ククと焼いたリマの肉だよ。それと、ギギルが奮発してククのクロサトウ焼きを買ってくれたよ。お腹が空いたろう、さあ、食べようよ」
「・・・ないの」
「え?・・・なに?」
「食べたくないの」
イオリは寝台にうつ伏せになって寝たまま顔を上げようともしない。ギギルとシンはふたり同時に首を捻った。これまで、食事だと声を掛ければ一番に飛んできて、全員が揃う前に早くも食べ始める食いしん坊のイオリが、食べたくないと言ったのは初めてだった。
「シン、コリャおかしいぞ。病気じゃないか」
「どれ・・・熱はないようだけど。イオリ、お腹が一杯なの? ははぁん、分かった。私たちに隠れて何かつまみ食いしたんでしょう。怒らないから言ってごらん」
「食べたくないの・・・あっち行って」
「イオリ、わがままを言うと怒るよ」
シンは腰に手を当てて、少し怒ったような声を出したが、イオリは顔を伏せたまま動かない。サルサがイオリの頭を撫でながら言った。
「ギギルさん、シンさん、イオリちゃんはあたしが様子を見ていますから、おふたりは先に食事をして下さいな。ああ、丁度テルミも帰ってきた。ねっ、そうして下さいな。しばらくすればイオリちゃんの機嫌も直りますよ」
「それじゃあお言葉に甘えて、向こうの部屋で先に食事を頂きます。イオリ、いい子だから拗ねてないで早く食べにおいでよ。早くこないとギギルに全部食べられちゃうよ」
「俺は優しいからそんなことしないぜ。いじわるするのはシンだからな。イオリ、シンに全部食べられちゃう前にこっちにくるんだよ」
何だかんだと言っても、シンもギギルもイオリには甘いのだ。
ギギルとシンは寝室を出ると、部屋に戻ってきたテルミと一緒に食事を始めた。ククと焼いたリマの肉を皿に盛り、テルミが調達してきたヴォールを椀に注ぐと、早速ギギルがリマの焼き肉にかぶりついた。優しいシンは小さな皿にイオリの分を取り分けている。テルミは慌ただしくククを口の中に押し込み、ヴォールで胃の中に流し込むとゴホゴホと咽てから喋り出した。
「いやあ、荷車置き場でも共同畜舎でも風の大吊り橋が落ちた話でもちきりですわ。まあ、相当古くなっていましたから、危ない危ないとみんなで言っていた矢先でしょう、それ見たことかって・・・。大吊り橋が架かっている内に補強しときゃ良かったのに、落ちた後じゃ工事が大変だ。新しい吊り橋を架け直すのに二ギグはかかるんじゃないかともっぱらの噂ですわ。え? お前が言いふらしているんだろうって?・・・ナハハ、バレましたか・・・いやいや、そうじゃなくって街のみんなが言っていますよ。とにかく、しばらくはトキオンに向かう回廊は通行止めだ。皆さん商売が上がったりだってボヤいてますよ」
シンはククを頬張ったままモゴモゴと言った。
「ねえテルミ、みんな足止めなら暇な連中が大勢いるから、テルミ一座の興行は大人気になるんじゃない?」
テルミの顔がパッと明るくなった。
「うん? そうか、ウヒヒ、こりゃ稼ぎドキだ。アシタから忙しくなるぞ」
「まったく、お前さんはいい根性しているよ」
ギギルが呆れたような顔をしたが、テルミには全く応えない。
「何をおっしゃる、ギギルさんとシンさんにもまたサクラをお願いしますよ。天才興行師と天才サクラが合わされば、大成功間違いなし。天災は忘れた頃に・・・こりゃ違うか、ナハハ。とにかく、ギギルさんの持ってるヴォルトで前祝といきますか」
「何で俺のヴォルトなんだよ。なくなっちまうじゃないか」
「そんな硬いこと言わずに、ね、ホラホラ早く出して・・・」
ギギルとテルミが掛け合いをやっているところにサルサが寝室から出てきた。サルサは神妙な顔をして立ったまま、何も言わずにギギルたちをじっと見ている。サルサの様子がおかしいことに気が付いたシンが声を掛けた。
「サルサ、どうしました。イオリに何か?」
サルサは背後の寝室にチラリと目をやった。
「あの・・・イオリちゃんは、体形変化期に入ったんじゃないかしら。だんだん熱が高くなってきたし、それに呼びかけても返事をしなくなったの」
ギギルとシンは思わず顔を見合わせた。テルミがグウッと変な声を上げた。サルサは腕を組んで、体形変化期と聞いて狼狽えた様子のギギルたちの顔を見回してから、テキパキと指示を出した。
「とにかく、本格的な体形変化期が始まる前に準備しなきゃ。用意する物は体形変化用の保護籠をひとつ、もちろんオンナのコドモ用だよ。それから大きなワタスゲの布を十枚、キヌグモの細い紐を三メル分、寝台に敷くアブラバショウの大きな葉を五枚、クダヤナギの茎を五本、チウシの乳を水筒三つ分、ククを十枚、シリカバチの蜜があれば一壺。みんなで手分けして大至急買ってきて頂戴。大至急よ! テルミ、途中の酒場で一杯なんてやったら承知しないからね!」
サルサが顎を引いてテルミの顔をグッと睨むと、テルミは心外だとばかりに言い返した。
「分かってますよサルサ、私はそんなに信用ないかね・・・え? 姪っコの体形変化のトキに一杯飲んできたって?・・・ナハハ、そんな古い話を・・・」
ギギルとシンはサルサに追い立てられるように、テルミは蹴飛ばされるようにして部屋を飛び出した。
体形変化期に入ったイオリは、寝室の寝台の上に置かれた大きな保護籠の中で横になっていた。寝台の上にはアブラバショウの葉が敷いてあり、その上でワタスゲの布でグルグル巻きにされ、キヌグモの紐で固定された保護籠が大きな繭のように白く光っていた。この繭の中で体形変化が終わるまでの五カインを過ごすのである。
保護籠の中にはシリカバチの蜜を塗ったククが入れられていて、時折サルサがワタスゲの布の間にクダヤナギの茎を差し入れてチウシの乳をイオリに飲ませている。チウシの乳には、イオリの首に掛っていた袋の中に入れてあった卵の殻を、少し砕いて粉にしたものが混ぜてあった。イオリを包むワタスゲの布の繭は時折もぞもぞと動き、その度にサルサが優しく声を掛けている。
寝室の隣の居間では、ギギルとシンが椅子に腰掛けてチビチビとヴォルトを舐めていた。テルミは小遣い稼ぎだと言って、ひとりで興行に出ていた。
「ヒト族のオトナは全員が体形変化期を経験しているはずなんだが、自分の体形変化期がどうだったのかは全く覚えていないんだよな」
ギギルがそう言うと、シンは遠くを見るような目をして頷いた。
「みんなそうでしょ。私も何だか身体が無性に熱くなって頭がぼうっとして・・・気が付いたら体形変化期は終わっていたね。体形変化期が終わって起き上がると身体中の関節が痛くて悲鳴を上げたのだけは覚えているよ。母さんが一生懸命擦ってくれたなぁ」
「何たって、たった五カインで身長が倍以上に伸びてオトナの体形に変化するんだから、身体中が悲鳴を上げているんだろうな。なるほど、だから意識を失くして痛みを感じないようになっているのか」
ギギルは指で顎を擦りながら、ひとりで合点している。シンがチラリと寝室を見た。
「イオリは大丈夫かな」
心配性のシンに比べて、楽天家のギギルはサバサバとした表情をしている。なるようにしかならんと思っているのだろう。
「誰でも通る道だ、そんなに心配するな。サルサが付きっ切りで面倒見てくれているから、俺たちには出番がないのさ。ホレッ、シン、もう少し飲め」
「体形変化期が終わってイオリが出てきたトキに、私が酔いつぶれていたらイオリは怒るだろうな・・・それじゃもう一杯だけにしとこう」
「結局飲むんじゃないか」
呆れた顔のギギルに向かってシンがニッと笑った。シンも結構楽天家なのだ。
ガンデラの街役場にある街長室の大きな会議机に、街長のセナリアが座っていた。その左右を挟むように副街長のナビ、街区議会議長のカエラ、ガンデラ軍最高司令官のジルトン大将が座っていた。会議机の反対側にはコルトバンの街から派遣されてきた副街長のイーベルと駐留部隊司令官のシシカ大佐が座っていた。出席者の前に置かれている水晶の椀に入ったチャルはすっかり冷めている。
既に会議が始まって二カインが経過しているが、議論は平行線のままで膠着状態が続いていた。会議室の中の空気はネットリと重く、会議の参加者の顔はどれも疲れのためにどす黒く光っていた。
「それでは、ガンデラの街としては女王の宰相ゴルム様からの勅書を無視すると、そういう結論ですか」
コルトバンのイーベル副街長はそう言うと、顔面を真っ赤に染めてこめかみに血管を浮き上がらせながら、会議机の向こうに座るガンデラ代表団を睨みつけた。
イーベルは貴族種で、ほっそりとした顔は頬がこけて頬骨が飛び出し、落ち窪んだ目の下に嘴のような大きな鉤鼻が付いている。痩せぎすの身体にまとわりつくような、光沢のある布で作ったピッチリした上着を着ている。
「いやいや、無視も何も、女王の宰相ゴルム様からの勅書というのは、我々としては初めて見たものですし、過去にもそのようなものを見たこともありません。ガンデラの公文書館にも保存されたものはありません。ですから、イーベル副街長がお持ちいただいた勅書とやらが本物なのかどうかが判断できないと、そう申し上げているのです。これはガンデラの街の利益に関わる重大な話ですから、こちらとしても軽々に判断できないのです。その点はご理解いただきたい」
先程から同じ議論の繰り返しにうんざりしているガンデラのセナリア街長は、そう言うと同意を得るように、右隣に座るジルトン大将に顔を向けた。
セナリアは労働種で、丸顔に糸のように細い目と団子鼻が付いている。固太りの身体にワタスゲの布のゆったりとした上着を着ている。ジルトンは戦闘種で、でっぷりと太った身体にこれみよがしに勲章をぶら下げた軍服を着ているが、軍服の腹まわりは今にもはち切れそうに膨らんでいる。いかつい顔には立派な口髭が生えている。
セナリアの発言を聞いてジルトンは大きく頷き、皮肉な笑みを浮かべて言った。
「そもそも、この大陸の最上部に女王の城があって、そこに住む女王は千トングも生きているという伝説を、貴方はどこまで信じているのかね」
イーベルは思わず立ち上がると、会議机をドンと叩いた。
「何ということを! この大陸を統べるのは女王であり、我々ヒト族は女王の臣下であり僕なのですぞ! 我がコルトバン軍も、元々は女王直轄の軍隊であったものと言われている。そもそも、街長の就任状には『女王の臣下として、女王から行政権の負託を受けて街の行政を司る』と書かれているではないか」
セナリアは両手を前に突き出して、『落ち着け』という仕草でイーベルを制してから、皮肉交じりの笑みを浮かべながら淡々と言った。
「まあそれは・・・昔からの決まり文句ですからなあ。それを持って根拠とするにはチト足りませんな。そもそも、中層帯や下層帯の街から、チウシやククなどの畜産物、革や布類で作った工芸品、シダレバラの油やコハクニウムといった燃料資源の生産高の百分の二十を税として一トングに一度の割合で女王に納めています。それらの財貨はガンデラを経由してコルトバンに持ち込まれていますが、その先は本当に女王の元に届けられているのですか? 上層帯の貴族種が女王の名を借りて、我々中下層帯の労働種を搾取しているのではありませんか?」
「上層帯の貴族種は女王直轄の親衛隊であり、女王に納められた財貨の一部を貴族種の生活に充てることは当然のことです。断じて搾取などではない」
イーベルはムッとした顔でそう言うと、プイッと横を向いた。イーベルの横に座っているシシカは、イーベルの表情を横目でチラリと盗み見してから下を向いた。上層帯の貴族種にとってあまり触れられたくない話題なのだ。セナリアがここぞとばかりに畳み掛けた。
「ということは、税として納められた財貨の幾らかは、直接女王の元に届けられているということですな。その役目はコルトバンが?」
イーベルは顔を背けたまま苛立たしげに答えた。
「女王の城に直接足を運べるのは、上層帯の貴族種の中でも限られている。それが誰かは・・・コルトバンとしては関知していない」
イーベルの答えを聞いて、ジルトンは胸の勲章をいじりながらフンと鼻で笑った。
「本当に女王はこの大陸の最上部におられるのか、更に千トングも生きておられるのか・・・中下層帯のヒト族にとっては、女王は伝説にしか過ぎないのですよ」
イーベルは眼を剝いた。とんでもないことを聞いたという顔をしている。
「女王を伝説に過ぎないなどと・・・監督使の耳に入ったらどうなることか」
「監督使? 監督使とやらもコドモを怖がらせるための作り話だろう」
ジルトンは薄ら笑いを浮かべている。イーベルはすくい上げるような目でジルトンを睨みつけると、押し殺したような声で言った。
「ジルトン大将はこの大陸のことを何もご存じないらしい。女王のお怒りに触れぬよう十分に気を付けられることだ」
「何が『女王のお怒り』だ!」
今度はジルトンが血相を変えて立ち上がった。舐めるのもいい加減にしろという顔をしている。セナリアは、イーベルに向かって身を乗り出そうとしたジルトンの腕に手を置いて「まあまあ」と宥めてから続けた。
「先程から同じ話の繰り返しで埒が明かん。ガンデラとしては女王の宰相の勅書とやらいう一枚で、苦心して製造した新資源のオルギニウムを、はいそうですかと差し出す訳にはいかない。これがガンデラの最終回答です。コルトバンに帰って女王の宰相とやらにそうお伝えください」
セナリアは一方的に宣言すると、イーベルの返事を待つことなく席を立った。その後を追ってナビ、カエラ、ジルトンがぞろぞろと席を立ち、街長室を出て行った。ジルトンは街長室を出る間際に一瞬振り返って、イーベルをギロリと睨みつけた。ジルトンの腹の中は煮えくり返っているのだろう。
広い街長室にはコルトバンからの使者であるイーベルとシシカのふたりだけが取り残された。さっきまでの熱気が嘘のように、街長室は静まり返っている。
事の発端は、コルトバンの街からガンデラの街に示された女王の勅書である。
勅書には、コルトバンで新たに製錬された新資源オルギニウムに関して、オルギニウムの製錬は女王直轄とする、オルギニウムの製錬技法は女王の城に帰属するものとし門外不出とする、現在製錬されているオルギニウムは全て女王の城に差し出すこと、が記載されていた。そして、勅書には、アマテス女王の宰相ゴルムの署名と宰相の紋章が押印されていた。ガンデラの街としては、この一方的な内容に承服できないのだ。コルトバンとガンデラの交渉は決裂した。
「まったく、女王の宰相の勅書の真贋が不明だと? そんなこと言われなくても、私だって半信半疑なんだ」
イーベルが吐き捨てるように言うと、シシカが不思議そうな顔をした。
「それでは、あの勅書はいったいどうやって?」
イーベルは横目でチラリとシシカを見てから、近くに寄れと手招きをした。シシカが顔を寄せると、イーベルは周囲を気にするように左右に目を配ってから声を潜めた。
「コルトバンの街長室には女王からの命令を受け取る通信箱があるんだ。箱には鍵が掛けられていて街長しか開けることができない。女王から命令が下されれば、その通信箱の中に命令書が置かれると言われている。まあ、そういう言い伝えでね、ここ数百トングもの間、中に何か入っていたことなんぞないのさ。
ところが半ギグ前に、街長が朝の定例行事として通信箱を開けたところ、中に勅書が入っていたんだ。誰が入れたのか分からない。街長も私もいたずらかと思った。しかし、五百トング前にゾルゲルの大群がこの大陸を襲ったとき、女王からコルトバン軍に対して下された出動命令書が古文書館に残っていて、その命令書に押されている女王の宰相の紋章と、今回の勅書に押されている紋章が同じだった」
「それでは勅書は本物・・・」
「コルトバンの立場としては疑いようがないと言うことだ。ガンデラのセナリア街長はそんなことは知らないから、好き勝手なことを言っているがな。とにかく、これ以上は何ともならん。何かしようにも、たかだか五十人の駐留部隊ではガンデラ軍に太刀打ちできないしな。一旦コルトバンに引き上げて、女王からの命令とやらを待つしかないだろう」
イーベルとシシカはガンデラ街役場を後にすると、検問所前の広場でガンデラ軍と睨み合いを続けているコルトバンの駐留部隊と合流した。
イオリが体形変化期に入って三カイン目を迎えた。
日の出時を過ぎて早速起き出してきたテルミは、ククを腹に入れると曲芸の興行にひとりで出かけた。風の大吊り橋が落ちた影響だろう、暇な連中を相手に、ひとりの興行でも結構な実入りになっているらしい。興行を終えると、テルミはホクホク顔で帰ってくるのだ。ギギルとシンはキノウのヨルの深酒のせいで未だ寝ていた。サルサは寝室で椅子に座り、イオリの入っている保護籠を優しく揺らしていた。
バタバタと廊下を走ってくる足音が響いてきたと思うや否や、バタンと音を立てて入口の扉が開き、テルミが部屋の中に飛び込んできた。
「大変だ! ギギルさん・・・ありゃまだ寝てる・・・シンさんまで・・・。マッタク、こんなときに悠長に寝ているなんて・・・。ギギルさん、シンさん、起きてください!」
テルミはギギルとシンの肩を乱暴に揺すると、「大変だ大変だ」と呟きながら部屋の中をウロウロと歩き回っている。ギギルが呻き声を上げて目を開けた。何ごとかと寝室から顔を出したサルサは、呆れた顔でテルミに声を掛けた。
「テルミ、いったいどうしたって言うの? 少しは落ち着きなさいよ」
「サルサ、これが落ち着いていられるかって・・・え? 知らない? ナハハ、そりゃそうだ、何も言ってなかったっけ・・・ああ、ギギルさん起きましたね、ねえ、聞いてくださいよ」
テルミはすがり付かんばかりにギギルに駆け寄った。
「テルミ、どうした・・・まさかイオリが」
ギギルは跳ね上がるようにして椅子から立ち上ると、イオリの寝ている寝室を見た。
「違います、イオリちゃんじゃありませんよ」
テルミが答えると、ギギルはドサリと椅子に倒れ込んだ。ギギルは机の上の水差しを掴み上げて酔い覚めの水を一口飲むと、口の周りを手の甲で拭ってフウと一息ついた。
「なんだ良かった・・・? テルミどうした」
ギギルはまだ眠いのだろう、右手で髭面をゴシゴシと擦ってから、顎がはずれんばかりの大きなあくびをした。
「とにかく私の話を聞いてくださいな。え? 早く話せ? ナハハ、分かってますよ・・・ああ、シンさんも起きましたか。はいそれじゃあ・・・」
テルミは部屋の真ん中に立ってギギルたちを見回し、エヘンとひとつ咳払いをしてから話し出した。
「キョウも私が中央大通りで曲芸の興行を始めたんですが、キノウまでの盛況が嘘のように誰もコッチを見向きもしない。そこここで集まって何やらヒソヒソと話をしているんです。仕方がないんで、どんな話をしているのか聞き耳を立てたところ・・・」
テルミはそこまで言ってから、机の上の水差しから椀に水を注ぎ、もったいぶってゆっくりと水を飲んだ。
「え? もったいぶるな? ナハハ、バレましたか。いやいや、そうじゃなくて、大変な話なんです。ガンデラからコルトバンに向かう途中に回廊が大きく外に向かって突き出ている遠目岬というところがあるんです。そこは見晴らしがよくて、液化瓦斯の海から湧き上がる雲が晴れたトキには何バールも先まで見渡せるんだそうです。まあ、そう言っても普段は何もありゃしませんがね。
ところが、四カイン前に遠目岬を通ってきたヒトが見たそうなんです。え? それだけじゃ何だか分からない? ナハハ、せっかちですな・・・いやいや、そのヒトが言うには、瓦斯の雲が切れたその遥か彼方に、赤い大きな島が見えたらしいんです」
ギギルが眉間にしわを寄せた。シンは二日酔いで痛む頭を抑えながらボンヤリとした顔をしている。
「赤い島? まさか、あの伝説の・・・」
ギギルの上げた声にテルミは大きく頷いた。
「そのまさかです。液化瓦斯の海を回遊して五百トングに一度、この大陸に近づいてくるという、伝説のあの回遊島ですよ」
ギギルは指で顎を擦りながらウウムと唸った。
「ということは・・・ゾルゲルの襲来が近いということか」
テルミは我が意を得たりと大きく首を縦に振った。
「そうです。五百トングに一度、回遊島から飛来して大虐殺と大略奪を繰り返しているゾルゲルがとうとう現れるということです。ガンデラの街中がこの噂でもちきりです。おかげで私の興行に誰も見向きもしない、困ったもんだ・・・」
「お前さんの興行はともかく、その話はどこまで信ぴょう性があるのかなあ」
ギギルは頭の後ろで両手を組んで、疑わしげな眼でチラリとテルミを見た。テルミが心外だと言わんばかりに口を尖らせた。
「あら、私の話が信用できないと・・・え? いつものことだ? ナハハ、酷いじゃないですか。まあ、私が回遊島を見た訳じゃありませんからね・・・」
テルミの声はしりすぼみに小さくなった。ギギルはパンと膝を叩くと椅子から立ち上った。
「よし、それじゃあ俺が食糧の買い出しのついでに、テルミの仕入れてきた噂を確認してきてやろう。シンはどうする・・・ダメ? 二日酔いか。いいよ、寝てろ」
ギギルはそう言うとフラリと部屋を出て行った。
中央大通りの左右に肩を寄せ合うようにして立ち並ぶ露店や屋台は、オニシダの枝を組み合わせて支柱や梁にして、そこにチウシの革を壁代わりに垂らしただけの簡素な造りである。
店の前に大きな壺を置き、中にチウシの乳を入れて、柄杓で量り売りをしている乳売りの店。長椅子を置いてアブラバショウの葉を敷き、その上に山のようにククを積み上げたクク売りの店。色とりどりの野菜や果物を入れた大きな籠を店先に幾つも並べた青果売りの店。大きな寸胴鍋でグツグツと煮込んだリマ肉入りのクク粥を、椀に盛って立ったまま掻き込む軽食屋。大きな串に一抱えもあるリマの肉を刺して、グルグルと回転させながら火で炙り、こそげ落とした焼き肉を焼いたククに挟んで食べさせる食べ物屋。ヴォールやヴォルトを立ったままグイっと一杯ひっかける立ち飲み屋。商品棚に山のように古着を積み上げた古着屋。リマの乗せる鞍や鐙や轡を大きな台の上に所狭しと並べた雑貨屋・・・ありとあらゆる品物が売られていた。
ギギルは食料品の調達を兼ねて、テルミから仕入れた情報の確認のためにガンデラの中央大通りを歩いていた。背中の背嚢には先程露店で買ったククとチウシの乳が入っている。
ギギルは一軒の雑貨屋の前で立ち止まった。通路に張り出すように置かれている商品棚の上に、チウシの革で作った外套や長靴、ワタスゲの布で作った上着やズボン、ワタスゲの糸で編んだ襟巻や手袋などが雑然と山のように積み上げられていた。棚の横の柱には色も形も大きさも区々な遮光眼鏡が鈴なりの果実のように掛けられていた。
ギギルの姿を見て、店の奥から外光で焼けた真っ黒な顔をした労働種のオトコが出てきた。頭にピッチリと貼りついた薄いチウシの革の帽子を被り、膝まである長い丈のゆったりとした長衣を着ていた。両手首にいくつも着けた腕輪がジャラジャラと音を立てた。オトコは太い眉を歪めて出っ歯をむき出すと、猫なで声でギギルに話しかけた。
「お客さん、何かお探しですか。うちの店はガンデラ一の品ぞろえで商品は一級品ばかり、しかも価格は良心的ですよ・・・ん?・・・あんた、カギ爪のギギルじゃないか。何だい、またコッチに舞い戻ってきたのかい」
オトコはギギルに気が付くと、取って付けたような営業用の笑顔を引っ込めた。出っ歯の露出が少し減ったようだ。
「よう、アントン、久しぶりだな。相変わらず、あくどい商売をしているのかい」
ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑うと、大げさな仕草で商品棚をグルリと見回した。
「あくどいなんて人聞きの悪い、止めてくださいな。知らないヒトが聞いたら本気にするじゃないですか。うちは一級品を良心的な価格で売っているんですから」
アントンがそう言うと、ギギルはフンと鼻で笑い、眼の前の商品棚に積み上げてあるチウシの革の外套を掴み上げた。ギギルが外套を二、三度揺すると、外套の片方の袖がポロリと取れて地面に落ちた。
「あうう・・・まあ、中にはこういうのも・・・玉石混交ってやつですかな。ヘヘヘ・・・」
アントンは悪びれもせずに歯をむき出して笑っている。ギギルは袖の取れた外套を商品棚の上に放り投げた。
「若いオンナが着る風防頭巾付きの外套と編上げ長靴が欲しい。回廊を旅するからチウシの革で作った丈夫なやつで軽い方がいいな。遮光眼鏡は少し大きめで色は翡翠色。それと護身用の短剣を見せてくれ」
「若いオンナ?」
アントンが興味深げにギギルを見た。ギギルと若いオンナの組合せが想像できないのだ。
「何か文句でもあるか」
ギギルがギロリと睨むと、アントンは首をすくめてヘヘヘと笑った。
「すぐに用意します。短剣は店の奥の壁際に並べてありますから、好きなのを選んでくださいな」
ギギルはヒカリ玉がぶら下がった薄暗い店の中に足を踏み入れた。店の中にも商品棚が所狭しと並んでいて、チウシの胃袋の水筒、オニシダをくり抜いて作った椀、柔らかなアカクロムを叩き出して作った大小さまざまの煮炊き用の鍋、チウシの革の鞄と背嚢、キヌグモの紐やワタスゲの縄などの雑貨類から、リマに乗せる鞍や荷車の部品類までが無造作に積んである。足の踏み場もないような店内を進むと、突き当りの壁に長剣、短剣、刀、短刀、半月刀が数十振りも立て掛けてあり、その前に置かれた箱にも短剣や短刀がギッシリと入っていた。
ギギルは箱の中の小ぶりの短剣を手に取って、あれやこれやと品定めを始めた。どれも今ひとつしっくりこない。ギギルはダメだと首を振った。最後に、箱の底から薄い黄色の布で巻かれた短剣が出てきた。布を解くと、ギギルの目はその短剣に釘付けになった。
短剣の柄の部分には赤水晶が嵌め込まれていて、オニシダの薄い板を貼り合わせた鞘にはイワスズランの花の模様が彫られていた。柄の先には丸い飾りが付いていて、飾りをふたつに開くと、内側には二枚の鏡が向かい合うように貼られて、合わせ鏡になっていた。鏡と鏡の間に口紅の小袋を入れておいて、簡単な化粧ができるように細工されているもので、若いオンナの護身用短剣によく見られる飾りである。幅広の剣はクロムを鍛えたもので、薄い光を纏っているかのように冴え冴えと光っていた。
短剣を持つギギルの手が微かに震えていた。
「これは・・・リリカの・・・」
注文の品を抱えてきたアントンは、ギギルの絶句した顔を見てニヤリと出っ歯をむき出した。悪徳商人の血が値を吹っ掛けろと騒いでいる。
「ははあ、さすがにお目が高い。その短剣はウチの商品の中でも飛び切りの一級品ですよ。何しろ、コルトバンの街の官物払い下げ品の入札会場で見つけたんですが・・・」
ギギルの耳にはアントンの説明が全く入ってこない。妻のリリカと産まれたばかりの卵が監督使に殺され、ギギルの左手首が切り落とされた後、ギギルは家も財産も全て置いたまま仇を追って放浪の旅に出た。ギギルの財産は全てコルトバン街役場に没収され、それが官物として払い下げられたのだろう。ギギルの財産の中に混じっていたリリカの護身用短剣がギギルの目の前にあるのだ。これは偶然なのか、それともリリカの導きなのか・・・ギギルには分からない。
ギギルは震える声で言った。
「この短剣を貰おう」
アントンの目が抜け目なく光った。
「ありがとうございます。但し、先程申しましたように、これを手に入れるには相当苦労しましたので、お代の方は少しお高くなりますが」
ギギルは短剣を見つめたまま、心ここにあらずという顔をしている。
「いくらだ」
「シリル金貨五枚でいかがです。あっ、高すぎるようなら四枚でも・・・何なら三枚・・・いや、二枚・・・」
咄嗟に吹っ掛けてみたものの、さすがに高すぎると思ったのか、アントンは途中で口ごもった。ギギルは何も言わず懐から金袋を取り出すと、シリル金貨を五枚掴みだしてアントンの掌の上に載せた。アントンの顔がパアッと輝いた。
「ギギルさん、本当に五枚でいいんですか。ありがとうございます。ええ、この外套も長靴も遮光眼鏡も全部おまけします。そうだ、襟巻と手袋も付けましょう。ハハハ、シリル金貨五枚! キョウは店仕舞いだ」
「そうだ、アントン」
「何です? 今更値引きしろだなんて言うのはやめてくださいよ」
アントンは疑うような目をギギルに向けると、シリル金貨を慌ててポケットに仕舞った。ギギルは違うと首を横に振った。その顔は短剣の衝撃から立ち直った普段のギギルに戻っていた。
「値引きの話じゃないから安心しろ。早耳のアントンなら耳に入っているだろう、回遊島が見えたっていう街の噂についてだ。実際のところはどうなんだ」
アントンはホッとした顔でギギルを見ると、商品棚の上に置いてある売り物の椅子をふたつ手に取って狭い通路に並べた。アントンが片方の椅子にチョコンと座ると、向かい合うようにしてギギルがもうひとつの椅子に腰を下ろした。アントンは眉をひそめると、出っ歯をむき出して猛然と喋り出した。
「それが、ギギルさん、困ったことにどうも本当らしいんですよ。ガンデラ街役場の役人が確認のために遠目岬まで行ってきたそうですが、ハッキリと回遊島が見えたそうです。街役場や街区議会では街長をはじめお偉方が侃々諤々の議論をしているそうですぜ。五百トングに一度と言われても、私らにはピンときませんがね。ガンデラの公文書館には五百トング前・・・正確には五百六十九トング前らしいんですが、回遊島の接近とゾルゲルの大群が襲来した記録が残っているそうです」
「ほう、単なる伝説ではなくて記録が残っていたのか」
アントンはコクリと頷くと話を続けた。
「ゾルゲルの大群は食料や家財道具はもちろん、チウシやリマといった家畜まで根こそぎ略奪していくそうです。ヒトも虐殺されるんですが全員は殺さない。この大陸が再興できるぐらいのヒトは残していくそうです。まあ、だからこうして記録が残っているんです。生き残ったヒトは必死になって家を建て、コドモを育て、チウシを増やして街を再興するんです。そして五百トング後に再びゾルゲルが現れて・・・そうか、回遊島の動きに合わせて、ゾルゲルは五百トングごとに収獲のためにこの大陸に訪れているんだ。ゾルゲルにとっちゃ、ヒト族は財産を生み出す家畜みたいなものかも知れませんね」
アントンは眉間にしわを寄せて、イヤだイヤだと出っ歯を振った。ギギルはなるほどと頷き、口をへの字に曲げた。家畜と聞いて腹の底にムクリと怒りが湧いたのだ。
「家畜の収穫か・・・。ゾルゲルから見ればヒト族は家畜かも知れないが、ヒト族だって五百トング前に比べたらずいぶん進歩しているだろう。軍隊だって雲泥の差だろうし。今回は、そうそう簡単にやられるとは思えないがな」
アントンはギギルの言葉を「はあ」と軽く受け流して話を続けた。
「とにかく、ガンデラのセナリア街長の呼び掛けで、トキオンやトリムカンドといった主だった街長が集まって、主要街長会議を開くそうです。回遊島が見えたと言ってもまだ何バールも離れているから、ゾルゲルの襲来までにはまだしばらく余裕がある。主要街長会議で対応策を検討するそうです。でも、風の大吊り橋が落ちているから回廊は通行できないしなぁ・・・主要街長会議なんて開催できるんでしょうかね。そもそも、伝説の女王がこの大陸に本当にいるのなら、私たちを守ってくれても良さそうですがね」
ギギルは指で顎を擦りながらアントンの話を聞いていた。
「女王の力か・・・」
ギギルの脳裏にイオリの顔が浮かんだ。ギギルはイオリが示す女王の力の片鱗を見ている。イオリにはヒト族を救う何かの使命が負わされているのだろうか。女王の真の力とはどのようなものなのか、ギギルには想像もつかなかった。
ギギルがイオリの使命についてボンヤリと思いを巡らせていると、アントンが思い出したように言った。
「そうだギギルさん、街の噂をもうひとつ教えましょう。オルギニウムの話は聞いていますか?」
「オルギニウム? 何だそりゃ」
アントンは出っ歯をグイっとむき出した。恐らく笑っているのだろう。早耳のアントンは仕入れた噂話をヒトに喋りたくて仕方ないのだ。
「オルギニウムというのは、ガンデラのコハク鉱石製錬工場で新しく製錬された物質なんです。噂では、ひとつのオルギニウムは同じ重さのコハクニウムを千個集めて、更にそれを千個集めたものと同じ光と熱を出すそうです。途方もないもんですな、本当なんですかねぇ。製錬方法は門外不出で、オルギニウムはガンデラの専売品にするようですよ。ですから、ガンデラ軍がコハク鉱石製錬工場に常駐して、誰も近づけないようにしているそうです。そのせいで、コハク鉱石集積場前の営舎にいるコルトバンの駐留部隊と、製錬工場内のガンデラ軍が睨み合っているそうですよ。まあ、駐留部隊とコルトバン軍の仲が悪いのはいつものことですけどね」
「へええ、そんなに凄いものなのかい」
驚いて見せたものの、ギギルにはあまり興味が湧かない。そんなギギルの様子を気にするそぶりも見せず、アントンは内緒話だという風にギギルに向かって顔を突き出すと声を潜めた。
「ここからが問題なんですよ。コルトバンの副街長がガンデラの街役場を秘かに訪れて、ガンデラのセナリア街長と面会したそうです。何でも、女王の宰相から下された『オルギニウムの製錬を女王直轄にするので、全てを女王に差し出せ』という勅書を持参してきたそうですよ。女王の宰相なんて本当にいるんですかねぇ。ガンデラの街区会議では議員連中が『コルトバンの誰かが欲に目がくらんで女王の名前を騙っているんだ』って言って、勅書を無視すると息巻いているそうです」
ギギルがホウと顔を上げた。
「無視なんてできるのかい」
ギギルが首を捻ると、アントンはここからが重要だとばかりに、更に声を潜めた。
「コルトバンの駐留部隊がガンデラから撤収するそうです。おそらく、コルトバンとガンデラの交渉は決裂したんでしょう。コルトバンの駐留部隊の規模は、たかだか五十人くらいだから、交渉が決裂したと言っても強引なことはできなかったんでしょうな」
アントンはひと呼吸おいてから続けた。アントンの顔には不安の色が浮かんでいる。
「コルトバンの駐留部隊が撤収することを喜んでばかりもいられないんです。コハク鉱石製錬工場を接収するために、コルトバンから軍本隊が派遣されるんじゃないかと言われているんですよ。そうなればガンデラ軍とコルトバン軍の全面戦争だ。ゾルゲルがくるかもしれないってのに、そんなことをしてる場合ですかねぇ」
ギギルの顔が曇った。なるほど、アントンが不安がるのも無理はない。ガンデラとコルトバンの全面戦争になれば、ゾルゲルの襲来前にガンデラの街は壊滅するかもしれないのだ。
「ということは、ガンデラの街に戒厳令が出される可能性が高いってことか。こりゃ、足止めを食らう前に、早いことガンデラを出た方が良さそうだ」
「ゾルゲルが襲ってきたら、この大陸のどこに逃げても同じですよ。それなら軍隊のいるガンデラの方がマシじゃないですかね。それとも大陸の最上部にあるという女王の城にでも逃げ込みますか」
アントンは諦めたような顔で投げやりに言った。アントンの出っ歯が力なく下を向いた。ギギルはなるほどと頷いてから、買い求めた品々を商品棚の上にあったシダタケを編んだ大きな籠に入れ、ついでに近くにあったキヌグモの紐やワタスゲの布やチウシの胃袋の水筒などを手当たり次第に放り込むと、籠を抱えてアントンの店を出た。ギギルの眉間には深いしわが刻まれている。ガンデラに、いや、この大陸に大きな厄災が迫っているのは間違いないようだ。
ギギルはアントンの店を出ると、ガンデラの入口にある検問所前の広場に足を向けた。検問所前の広場から、ガンデラの街の左半分を占めるコハク鉱石集積場とコハク鉱石製錬工場に向かう大きな通路が延びている。コハク鉱石集積場の入口は閉められていて、コハク鉱石集積場の前庭にはオニシダの太い幹を組み合わせた防護柵が設けられていた。防護柵の向こうには、ガンデラ軍の主力部隊が整列していた。それと相対するように、防護柵の手前にはコルトバンの駐留部隊が一塊になって、ガンデラ軍と睨み合っていた。
ギギルは広場を埋め尽くす群衆に混じって両軍の睨み合いを見ていた。
ギギルの横で睨み合いを見ているヒトたちの目には、何かことが起こるかも知れないという野次馬的な好奇心と、これから先どうなるのだろうという不安感が入り混じった、複雑な色が浮かんでいる。
突然、コルトバン駐留部隊の隊列の中から大きな声で号令が掛けられた。コルトバン駐留部隊は緩慢な動作で回れ右をすると、ゆっくりと動き出した。リマの隊列を先頭にして、その後ろに荷車が続き、最後に隊列を組んだ歩兵がノロノロと歩いて行く。コルトバン駐留部隊は粛々とガンデラの大門から回廊に出て行った。コルトバンに撤収するのだ。
これはコハク鉱石製錬工場の警備とコハクニウム輸送の警護というコルトバン駐留部隊の責務の放棄であり、コルトバンとガンデラの関係断絶を意味するのである。
コルトバン駐留部隊の姿が大門の外に消えたことを見届けたギギルは、広場から離れてシンたちが待つ宿屋に向かった。事態は予断を許さない状況になっているようだ。イオリの体型変化が終われば、少しでも早くガンデラから脱出しなければならない。とにかく、回廊を上り、戦争に巻き込まれないようにコルトバンよりも上の街を目指そうとギギルは考えていた。




