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風の大吊り橋

 ギギルたちがテルミ夫婦と一緒に回廊を上り始めてから、そろそろ三ギグが過ぎようとしていた。イオリはすくすくと成長して身長は四分の三メルほどに伸び、ほっそりとした手足をもつ少女の体形に変化していた。栗色の髪の毛は肩まで伸び、眉の上で切り揃えた前髪の下から翡翠色の大きな瞳が輝いている。

 ギギルとシンは、イオリと並んで回廊を歩きながら目に見えるものの名前を教え、ヨル寝る前には文字と算数を教えた。ギギルは、将来何かの役に立つだろうと剣術の基礎をイオリに手ほどきしている。テルミとサルサは健康のためだと言って、イオリに逆立ちや宙返りなどを教えている。イオリは新しい言葉や知識を驚くべき速度で吸収していった。たどたどしかった発音もしっかりとして、今では小鳥がさえずるような早口で誰彼となく話しかけ、何が可笑しいのかひとりでケラケラと笑っている。

 イオリはギギルとシンの周りを走り回っていたかと思うと、荷車の御者台に上りテルミの横に座って手綱に手を伸ばし、荷車の中でサルサの膝に頭を乗せて横になって甘えたかと思うと、ギギルを相手に剣術の稽古を始め、テルミとサルサが曲芸の練習を始めると一緒になって逆立ちや宙返りの練習をして、気が付くと疲れてシンの背中におんぶされてスウスウと寝息を立てている。少しもじっとしていないイオリの姿をギギルとシンは優しい目をして見守っていた。


 中層帯における三大都市のひとつであるガンデラの街まで残り三分の二バールの場所に、回廊の難所のひとつ『風の大吊り橋』がある。

 トリムカンドからトキオンを抜けてガンデラに至る回廊は、道幅も広く上りの勾配も比較的緩やかだが、風の大吊り橋のある場所だけは三分の二ギールに渡って回廊の幅が五メルほどしかなく、加えて、ガンデラに向かってずっと上り傾斜だった回廊が一旦深い下り傾斜に変わり、再び上り傾斜に転じる谷のような形状をしていた。そして谷の底に当たる最下部の回廊は五十メルに渡って崩落していて、その崩落した部分に大きな吊り橋が架けられていた。

 風の大吊り橋の名前のとおり、特殊な地形のために吊り橋の周囲には強い風が不規則に吹き抜けて、その度に吊り橋を大きく揺らすため、吊り橋からヒトや荷車やリマが転落する事故が後を絶たなかった。

 風の大吊り橋を挟む三分の二ギールの回廊は幅が狭く、荷車がすれ違うことができないため交互通行となっていた。交互通行の整理をするために、トキオン側の回廊に『下の関所』、ガンデラ側の回廊に『上の関所』が設けられていた。

 風の大吊り橋を渡るためには関所で通行料を払い、回廊の通行権を示す通行票を預かる。オトナの掌ほどの大きさの通行票はオニシダの板を五角形に加工したもので、それを荷車を引くリマの首にぶら下げるのだ。風の大吊り橋を越えた先の反対側の関所で通行票を返却すると、そこで待機していた反対方向に向かう荷車に通行票が渡される。これを繰り返すことで、狭い回廊で荷車が鉢合わせして動けなくなることを防止していた。徒歩やリマに騎乗したヒトは、十人ほどの集団になって、荷車と同様に通行票を預かって吊り橋を渡るのである。

 ギギルたちの荷車が風の大吊り橋に向かう『下の関所』に到着した。『下の関所』の手前には通行の順番待ちで待機する荷車を止める広場があり、既に数台の荷車が止まっていた。広場の横には待機しているヒトを当て込んで、リマ肉の串焼きやヴォールを飲ませる屋台が出ていた。

 テルミは荷車を広場に止めるとギギルの方を振り返った。

「さてと、ギギルさん、私は大吊り橋の通行順番の登録に行ってきます。ひいふうみい・・・待機が五台か。これだと二カクンほど待たなきゃいけないでしょうから、屋台でヴォールでも飲んでてくださいな。え? 酔っ払うと危ない?・・・ナハハ、そりゃそうだ。素面でも危ないのにねぇ」

 ギギルが珍しく渋い顔をしている。

「俺はあの揺れる大吊り橋が苦手でね、渡る度にいつも冷や汗が出るんだ」

「私ら旅芸人は玉乗り、綱渡り、宙返りが商売ですから、揺れる橋の上もへっちゃらですけどね。スイスイってもんです」

 テルミは能天気な顔で掌をヒラヒラと動かした。ギギルの顔を見てシンが心配になったようだ。

「テルミ、その大吊り橋ってそんなに揺れるの?」

「ああ、シンさんは初めてでしたか。まあね、とにかくあそこは強い風が前後左右から不規則に吹くし、酷いトキは吊り橋がひっくり返りそうになりますわ。え? ひっくり返ると落ちちゃう?・・・ナハハ、そうなんです、だから転落事故が後を絶たないんです」

 テルミがここぞとばかりにシンを脅かした。グウウと呻いて青い顔をしているシンの横でイオリが口を開いた。

「ねえテルミ、転落事故ってなぁに?」

「イオリちゃん、転落事故っていうのは橋からヒトや荷車が崖下に落ちちゃうってことだよ」

「落ちちゃうと、どうなるの?」

「そりゃ助からないでしょうなぁ。ウン、無理だ」

「助からないって、どういうこと?」

 イオリの無邪気な瞳に耐え切れず、邪気だらけのテルミが目をそらした。

「えっと、イオリちゃん・・・そうだ、テルミおじさんは仕事があるんだった。シンさんに聞けば教えてくれるよ。え? 知らない?・・・そんな無責任な・・・ナハハ、そりゃ私か」

 テルミはイオリを煙に巻くと、下の関所の入口に向かって走って行った。

「ねえシン、助からないって・・・」

 シンは困った顔をして、何とか質問をはぐらかそうとキョロキョロと周囲を見回した。シンの目に屋台の幟が映った。

「それよりイオリ、あそこでククのクロサトウ焼きを売っているよ。美味しそうだ、食べよう食べよう。ほら、ギギルにお小遣いを貰っておいで。私の分もね」

 イオリは振り返ってククのクロサトウ焼きの屋台を見つけると、ニッコリと笑ってギギルに向かって手を出した。

「ギギル、お小遣いちょうだい。シンの分もね」

 ギギルが口を尖らせた。

「俺が払うのか、マッタクしっかりしていやがる。仕方ない、ほら、みんなの分買っておいで」

 何だかんだ言っても、ギギルはイオリに甘いのだ。

「ねえギギル、リマ肉の串焼きも美味しそうだよ」

「そんなに食べるのか・・・今に俺は破産するぜ」

 ギギルは呆れたような顔をすると、懐の袋から五シリカ玉を掴みだしてイオリに渡した。イオリはウフフと笑いながら、シンと一緒に屋台に向かって走って行った。


 ギギルたちの荷車は『下の関所』の先にある谷の入口で止まった。そこから先の回廊は大吊り橋に向かう急な下り傾斜になっていた。谷の入口から下を見ると、巨大な楔が回廊に叩き込まれて、回廊が鋭角に抉られているように見える。足元のはるか下では、キヌグモの糸が張られたかのような大吊り橋が頼りなくユラユラと揺れている。ギギルたちは最悪の場合を想定して全員が荷車から降りて、荷車の前後を歩いて谷に入った。

 ギギルとシンはキヌグモの紐の端をお互いの腰に括りつけていた。イオリはシンの背中におぶさり、背負子紐でしっかりと縛られていた。テルミは二頭のリマの前に立って轡を取り、鼻歌を歌いながら、ゆっくりとした足取りでリマを先導している。サルサは御者台の横で制動用の梶棒を握り、頻繁に荷車に制動を掛けながら歩いていた。

 谷の底に近づくにつれて風が強くなってきた。風は前から、後ろから、横からと絶えずその方向を変え、唸りを上げて強く吹いたかと思うとパタリと止まった。風が吹くと地面から黄色い砂塵が舞い上がり、パラパラと音を立ててチウシの革の外套に砂粒が降りかかった。襟巻で鼻と口を覆っていても、いつの間にか砂粒が口の中に入り込み、じゃりじゃりとした感覚が口の中に広がるのだ。

 ギギルたちは谷の最下部に到達した。目の前の大吊り橋が、風にあおられてユラリユラリと左右に揺れている。

 谷のこちら側に二本、向こう側に二本、向かい合うようにして巨大なオニシダの幹が支柱として立てられていた。その支柱の天辺からワタスゲの糸を何重にも撚って作った太い綱が延びて、五十メル先にある向こう側の支柱と結ばれていた。支柱に間に渡されている太い綱はその重みで橋の中央部分に向かって緩やかに撓み、綺麗な弧を描いている。

 支柱に間に渡されている太い綱から何本もの縄が下に垂れていて、その縄が橋の床板に結ばれて、床板を支えていた。一枚の床板の幅は五セルほどで、その床板が二セルほどの隙間を空けて、ずらりと敷き詰められるようにして並んでいて、それぞれの床板がバラバラに動かないように紐で固定されている。それが大吊り橋の橋桁になっていて、ヒトや荷車やリマはその橋桁の上を渡るのである。橋桁の上には、荷車の轍の部分に板が敷かれていて、荷車の車輪はこの上を通ることで、床板の隙間に嵌ることなく進むことができるのである。

 大吊り橋のたもとに『下の関所』から派遣されている労働種の補助員が立っていた。風の状況を見極めて大吊り橋を渡る時機を教える役割と、大吊り橋から転落する事故が発生した場合に、関所に知らせに行く役割を負っているのである。補助員は片手を上げて呼び止めると、テルミに声を掛けた。

「通行票を拝見します・・・はいどうも。キョウは風も穏やかですから、大丈夫でしょう。今のうちに渡っちゃってください。それじゃあ、お気を付けて」

 補助員は通行票をチラリと見ると、早く行けと言わんばかりに手をグルグルと回した。リマの轡を持ったままテルミが笑顔で会釈した。

「ありがとさん。途中で風が吹いて大吊り橋が揺れ始めたら、こっちでしっかりと橋を抑えてちょうだいよ。え? 無理?・・・ナハハ、そりゃそうだ」

 テルミは鼻歌交じりでリマの轡を取り、大吊り橋を渡り始めた。二頭のリマも慣れているのだろう、嫌がる素振りも見せずにテルミについて行く。サルサも大吊り橋の揺れに全く顔色を変えずにスイスイと渡っている。リマと荷車が大吊り橋の上に乗ると、その重みで吊り橋の床板が撓んでギシギシと音を立てた。

 ギギルとシンは荷車の後ろに続いて大吊り橋を渡り始めた。足元の床板の隙間から真っ暗に口を開けた深淵が見える。ギギルはその床板の隙間に身体が吸い込まれそうな恐怖心を覚え、背中に冷たい汗が流れた。足が竦んでいるのだろう、ギギルの歩き方がぎこちない。シンは手摺用に渡されている紐をしっかりと握り、下を見ないように前を向いて震える足を一歩一歩前に出している。イオリはシンの背中でキャッキャと声を上げて喜んでいた。

「ねえ、シン。もっと速く歩かないと、テルミたちに置いていかれちゃうよ」

「そんなこと言ってもイオリ、足が震えて動かないんだよ」

「ねえ、ギギル、シンを引っ張ってあげてよ。ほら、テルミたちはあんなに先に行っちゃったよ」

「俺はこの揺れる吊り橋は苦手なんだ。イオリが俺とシンを引っ張ってくれよ」

「だってあたしはシンの背中に括り付けられて動けないんだもん・・・あっ、見て、テルミたちはもう向こう側に着いちゃったよ」

 ギギルとシンが大吊り橋のちょうど真ん中までやっと進んだとき、テルミ夫婦と荷車は早くも大吊り橋を渡り切り、谷の向こう側の回廊に荷車を止めてギギルたちを見ていた。テルミはニコニコと笑いながらギギルたちに向かって早くこいと手招きをしている。

 突然、ゴオッという音が谷に響いた。

 谷の下に口を開けている大陸の深淵から吹き上がってきた突風が、濁流のように谷を駆け抜けた。大吊り橋は突風にあおられて、一度ふわりと浮き上がってから激しく左右に揺れた。ギギルとシンのいる大吊り橋の中央部分は揺れが一番激しく、ギシギシと軋みながら遊動円木のように揺れている。

 ギギルとシンは橋の橋桁の上に身体を投げ出し、床板の隙間に指を差し入れて床板を掴んで、必死にしがみついていた。揺れは少しずつ収まってきているが、ギギルとシンはまだ立ち上がることができない。この前触れなく吹く突風により、風の大吊り橋から転落する事故が後を絶たないのである。

 パタパタという乾いた音が谷の上空から降ってきた。その音に気が付いたサルサは、音のする方を見て思わず声を上げた。

「何だいあれは! ねえテルミ、見てよ、あれ・・・空を・・・ヒトが空を飛んでいる!」

「サルサ、何を言っているんだい、ヒトは空は飛べないよ。もし、空を飛べるヒトがいたら、うちの芸人一座に雇うよ・・・え? 本当だって?・・・ウヒヒ、サルサも冗談が上手くなって・・・ウン? 何だありゃ!」

 サルサが指差すその先を見たテルミがあんぐりと口を開けた。信じられない光景が目に飛び込んできたのだ。

 十メルの長さの細長い円筒形の胴体の上に、胴体と直角に交差するように片側三枚、反対側三枚、合計六枚の翅が付いていて、その翅が前後に小刻みに振動するように揺れていた。翅の長さは七メルで、水晶を薄く板状に削ったような半透明の膜でできていて、振動するたびに鈍く外光を反射している。胴体の下にはオニシダの枝を組み合わせた骨組みだけの簡素な乗員室が付いていて、その中に踏板の付いた四脚の椅子が縦に並んでいた。動力台である。動力台の一番前の席は操縦席になっていて、椅子の前には方向舵・昇降舵を操る操舵棒が付いている。動力台の踏板を漕ぐことで機体を貫くように設けられた動力棒が回転する。これが飛翔機の動力源であり、生まれた動力が胴体の上の翅を振動させて揚力を得るのだ。蜻蛉が翅を震わせて、空を飛ぶための揚力を得るのと同じ原理である。

 乗員室の動力台に三人が座って、両足でクルクルと踏板を漕いでいた。動力台の前にもヒトがひとり立っていて、狭い乗員室から身体を乗り出すようにして外を見ている。

 その飛翔体の姿は大きな蜻蛉にそっくりだった。

「サルサ、ありゃ蜻蛉だ。蜻蛉だが・・・ヒトが造ったもんだ。そういや以前に、飛翔機っていう名前の空を飛ぶ機械が上層帯のナントカっていう街で発明されたって噂を聞いたが、これのことじゃないかな・・・え? 知らない?・・・ナハハ、そりゃそうだ」

 飛翔機を見つめるサルサの顔がサッと曇った。

「ねえ、テルミ、あれに乗っているヒトたち、真っ黒い上着に黒い頭巾を被っているけど、まさか・・・」

「最近目がよく見えなくって・・・なになに・・・黒い上着・・・監督使だ! 監督使が乗っている!」

 テルミの顔が恐怖で凍り付いた。半ば開いた唇がわなわなと痙攣している。

 蜻蛉の形状をした飛翔機は、ゆっくりと上空から舞い降りてくると、テルミたちのいる側とは反対側の大吊り橋のたもとの二メル上でふわりと浮かんだまま静止した。乗員室から身体を乗り出すようにして外を見ていた監督使と、踏板を漕いでいたうちのひとりの監督使が、細い紐を伝って素早く地面に降りた。橋のたもとであっけにとられている補助員に、先頭の監督使が近づいて左手を上げて何か声を掛けると、補助員はドサリと地面に崩れ落ちた。眠り薬を吹き掛けられたのだろう。ふたりの監督使は補助員には目もくれず、まだ揺れが続いている大吊り橋に走り込んだ。ギギルとシンは大吊り橋の中央で床板に必死でしがみついていて、ふたりの監督使には気付いていない。

 恐怖で固まった顔で呆然と立ちすくんでいるテルミの腕を、サルサが掴んで左右に揺さぶった。

「ねえテルミ、このままじゃイオリちゃんが殺されちゃうよ。何とかしてあたしたちが助けなきゃ」

 振り向いたテルミの目には怯えの色が浮かんでいた。カチカチと歯が鳴っているのは恐怖のためだ。

「サ、サ、サルサ・・・そうは言っても相手は監督使だよ・・・やつらはヒト殺しが商売だよ・・・私は怖くて足が動かないよ。え? 動いている?・・・ナハハ、これは貧乏ゆすりで止まらないの」

 サルサはテルミを睨みつけた。

「ねえテルミ、あんたイオリちゃんを守るのが使命だって、この前言ったじゃない。あれは嘘なの」

 サルサは掴んでいるテルミの腕を強くグイと引いた。サルサの真っ直ぐな眼差しを受けて、テルミは弱々しく目を伏せた。まだ、踏ん切りがつかないのだろう。

「嘘じゃない、嘘じゃないよ・・・ただ、目の前に監督使がいると思うと身体が動かなくなって・・え? 動いている?・・・ナハハ、だからこれは貧乏ゆすりなの」

「ふざけてないで、とっとと行きな!」

 サルサに尻を蹴飛ばされたテルミは、転がるようにして大吊り橋に向かった。


 揺れが少し収まってきたとはいえ、ギギルとシンのいる大吊り橋の中央付近は遊動円木のように大きく左右に揺れていて、ギギルとシンは立つこともできず、相変わらず床板にしがみついていた。

「ギギル、目が回るよ、それに腕が痺れてきた」

「もうしばらくの辛抱だ、シン。だいぶん揺れが収まってきたじゃないか、しっかり掴まっていろよ」

 シンの背中で、イオリは遊動円木のような揺れを楽しんでいるのだろう、翡翠色の大きな瞳を輝かせて、キャッキャと笑っている。テルミとサルサに仕込まれた曲芸のお蔭かも知れない。イオリは首をもたげてキョロキョロ辺りを見回した。

「ねえ、シン、ギギル。後ろから誰かくるよ。黒い服を着たヒトがふたりも・・・。あれ? 前からテルミが走ってくる! ウキャキャ凄い凄い! こんなに揺れてるのに、橋の上を凄い勢いで走ってるよ、ねえ見てよシン・・・ねえギギルも、ほら」

「イオリ、動かないで静かにしてなさいってば。ほら、そんなに動いたら危ないじゃないか」

 必死に床板にしがみついているシンには、イオリの声が耳に入らないのだ。

「・・・黒い服だと!」

 ギギルがイオリの声に驚き、顔を上げて後方を見た。ギギルたちに向かってふたりの監督使がゆっくりと近づいていた。ふたりの監督使の両足はアオカエルの足の吸盤が付いているかのように、揺れる大吊り橋の床板にぴったりと吸い付き、大吊り橋の揺れに身体を合わせて一歩一歩着実に足を進めている。

「シン、監督使だ。後ろから監督使がくる。俺がここで何とか食い止めるから、シンは逃げろ」

「ギギル、こんなに揺れてちゃ、床板から手を放した途端に振り落とされちゃうよ」

「シン、とにかく少しずつでも移動しろ」

 ギギルにそう言われても、シンは床板から手を放すことができない。イオリがシンの背中で無邪気な声を上げた。

「ねえ、ギギル、カントクシってなあに?」

「イオリ、この際質問は後回しだ」

「ええ? 後回しってなあに?」

「後回しってのは・・・いやいや、説明している場合じゃない。シン動けるか」

「何とか・・・」

「ねえ、ギギル、シン。黒いカントクシがすぐそこにきたよ。ウキャキャ真っ黒だ」

 ふたりの監督使はギギルとシンが床板にしがみついている場所まで残り七メルの距離まで近づいた。先頭の監督使がゆっくりとした動作で半月刀を鞘から引き抜くと、反りの深い半月刀が外光を受けて鈍く銀色に光った。監督使の顔は目深に被った頭巾に隠れて見えない。

 ギギルは右手を床板から外すとシンの右腕を掴み、思いきり自分の方へ引き寄せた。シンはギギルの上に倒れ込むようにして重なると、両腕でギギルの腰にしがみついた。

 遊動円木のように弧を描く大吊り橋の揺れが最高点に到達すると、ギギルとシンの身体は放り投げられたようにフワリと床板から浮き上がった。

「くそっ、落ちる!」

 叫びながら振り回したギギルの右腕が、吊り橋の床板を支えている一本の縄に絡まった。

「縄を掴んだ。よし、シン、手を離すなよ」

 遊動円木のように弧を描く揺れが最高点に到達し、そこから最下点に向かって動き始めると、今度は遠心力によって身体が床板に押し付けられて自由が利かなくなる。ギギルは縄を掴んだまま床板に片膝をついて応戦態勢を取ろうとしたが、シンが腰にしがみついているためうまく動くことができない。

 ギギルまで三メルの距離に近づいた監督使が、半月刀を頭上に振り上げた。

「イヤッホーイ!」

 テルミが奇声を上げながら、片膝を突いたギギルの横を走り抜けた。テルミの手には長いオニシダの棒が握られていた。テルミは走りながらオニシダの棒を槍のように構えると、半月刀を振り上げている監督使の胸目掛けて突き出した。監督使は身体を捻りながらオニシダの棒を避けると、半月刀をオニシダの棒に振り下ろした。テルミの突き出したオニシダの棒は真中付近でスパリと切り落とされた。

「ありゃりゃ、こりゃまずい。え? 危ない?・・・ナハハ、分かってますよ」

 テルミは手の中に残ったオニシダの棒を監督使に投げつけると、くるりと後を向いて逃げ出した。ギギルがテルミに向かって怒鳴った。

「テルミ、イオリを頼む! 俺たちはいいから、イオリを安全な場所に連れて行ってくれ」

 ギギルはそう言いながらシンの背中の背負子紐を解いた。

「分かりました、任せてください。え? 大丈夫かって?・・・ナハハ、心配だ、いや、心配ご無用・・・イオリちゃん、さあ行くよ」

 テルミはイオリを素早く背負うと、ギギルに向かって頷いた。イオリはテルミの首に両手を回してしっかり掴まると、テルミの耳元で囁いた。

「ねえテルミ、後ろに黒いヒトが立ってるよ」

「え? イオリちゃん・・・」

 イオリの声でテルミが振り向くと、真後ろに迫っていた監督使が、半月刀をテルミの腹目掛けて突き出した。

「テルミ!」ギギルの叫び声が上がる。

 テルミは空中にふわりと飛び上がると、鮮やかな宙返りをして監督使の攻撃を躱した。床板に着地したテルミの頭上に、監督使の半月刀が振り下ろされる。ガキッと音がして火花が散った。監督使の半月刀をギギルの振り上げたカギ爪が払い退けた。

「ひゃああ・・・助かりましたギギルさん」

「俺もちっとはいいとこ見せないとな・・・おっとと・・クソっ揺れる」

 テルミを庇って立ち上がろうとしたギギルは、大吊り橋の揺れで身体がふらついて思わず片膝を突いた。揺れのために体勢が定まらないギギルの姿を見て、監督使は黒い頭巾の下でニヤリと笑い、再び半月刀を振り上げた。

 ギギルは片膝を突きカギ爪を身体の正面に構えた姿勢で、監督使をすくい上げるように睨みつけたまま、テルミに向かって怒鳴った。

「テルミ、見ている場合じゃない、走れ!」 

「ギギルさん、分かりました」

 駆け出そうとしたテルミの背中でイオリが言った。

「ねえギギル、その黒いヒト危ないよ。落っこちちゃうって教えてあげて」

「イオリ、何を・・・」

 ギギルは口を開きかけて固まった。イオリの言った意味が咄嗟に理解できなかったのだ。イオリは小さな右手をスッと上げて監督使を指差すと「ほらね」と言った。

 イオリが指差した途端、半月刀を振り上げた監督使の足元の床板が割れた。監督使は声も上げずに漆黒の深淵に落ちた。

 単なる偶然なのか、それともイオリの女王の力の発露なのかは分からない。ギギルは呆然とした表情で、目の前に開いた床板の穴を見つめた。そしてゆっくりと視線を上げた。床板の穴の向こうに、もうひとりの監督使が静かに立っていた。その監督使は両手をダラリと下ろしたままで、半月刀の柄に手を掛けていない。この状況を前にして、途方に暮れているようだ。しかし、このままでは終わるまい。ギギルは目の前に立っている監督使からの攻撃に備えようと身構えた。

 ブツリと鈍い音がした。

 足元の床板が捻じれるように心許なく揺れ始めた。橋桁が発するギシギシという悲鳴のような音と共に、床板を支えている縄の切れるブツリブツリという音が続いた。監督使が落ちる瞬間に無意識に振り回した半月刀が、大吊り橋の支えとして渡されている一本の太い綱を切断していた。その結果、大吊り橋に張り巡らされている綱や縄の力の均衡が崩れ、大吊り橋はねじれるように波打ち、所々で床板を支えている縄が切れ始めたのだ。

「いかん、大吊り橋が落ちる! シン、立て、みんな走るんだ。テルミ、とにかくイオリを連れて先に行け。俺とシンに構うな」

 テルミはコクリと頷くとクルリと背中を向けた。テルミはイオリを背負ったまま、波打つ床板の上を、疾風を受けて走る帆船のように軽やかに駆け出した。曲芸で培った驚異的な平衡感覚と身体能力である。

「ギギル、揺れる・・・」

 シンが泣きそうな声を上げた。ギギルはシンの腕を掴むと引っ張り上げるようにして立たせた。

「シン、すぐにこの大吊り橋は落ちるぞ、揺れなんか気にしている場合じゃない。イチかバチかだ、走るぞ」

 ギギルとシンは波打つ床板の上を、酒を飲みすぎて目を回した酔っ払いのように身体を左右に揺らしながらフラフラと駆け出した。

 ギギルとシンの後を追って、ひとり残った監督使もユラユラと駆け出した。

 大吊り橋はブルブルと身じろぎをするように左右に細かく揺れ始め、橋桁を支えている縄が至る所でブツリブツリと切れ始めた。支えを失った橋桁はだらしなく撓み、緩んだ床板がボロボロと櫛の歯が抜けるように深淵の底に落ちている。

 ギギルとシンは大吊り橋を渡り切るまであと十五メルの位置にいた。

「ギギル、ダメだ、床板が酷く撓んじゃって、立って歩けない」

「シン、大吊り橋が真ん中で切れるぞ。手近な縄を身体に巻き付けて床板につかまれ!」

 イオリを背負ったテルミが風のように大吊り橋を駆け抜けるや否や、大吊り橋の中央部分がブッツリと切れた。ふたつに切れた大吊り橋の残骸は、ゆっくりと左右に分かれ、やがて谷の壁面にぶつかって止まると、谷の両端に立つ支柱にぶら下がるぼろきれのようにだらりと垂れ下がった。


 大吊り橋の中央部分が切れると、ギギルとシンは身体が一瞬ふわりと浮き上がったような錯覚に陥り、次に恐ろしい勢いで落下した。その落下は途中から大吊り橋の支柱を中心とした振り子運動に変わり、最後に橋の残骸と一緒に谷の壁面に激突した。

 壁面に激突する直前に、深淵から吹き上がってきた一陣の風によって、激突の衝撃が和らいだことがギギルとシンの命を救った。

「あああ・・・ギギルさん! シンさん!」

 テルミは思わず声を上げて大吊り橋の支柱に駆け寄ると、支柱に手を掛けて身体を乗り出すようにして崖下を見た。テルミの足元から大吊り橋の橋桁の残骸が深淵に向かって垂直に垂れていて、二本の縄に挟まれた床板が規則正しく並んでいる姿は深淵に向かって延びる軌道だった。その橋桁の残骸に必死でしがみついているギギルとシンの姿がテルミの目に飛び込んできた。

「ギギルさん! シンさん! 無事で良かった・・・え? まだ無事じゃない?・・・ナハハ、そりゃそうだ。早く上がってきてください」

 ギギルとシンは大吊り橋の橋桁の残骸にしがみついたまま、テルミの声のする方向を見上げた。テルミのいる壁面の縁まで十五メル登らなければならない。

「シン、俺に構わず先に登れ。この残骸もいつ崩れるか分からん。とにかく早く壁面の縁に上がるんだ」

「ギギルは、右腕だけじゃ自分の身体を上まで持ち上げられないだろ。私がギギルの下に入るから、肩に乗ってよ。私の肩を踏み台にすれば何とかなるでしょ」

 ギギルを見上げるシンの目は真剣だ。ギギルは頷いた。

「シン・・・すまんな」

「いつも助けてもらってばっかりだから、たまにはいいとこ見せなきゃ。それにさっきククのクロサトウ焼きとリマ肉の串焼きを奢ってもらったしね。今度は私の奢りだよ」

 ギギルを見上げるシンがニッと笑って片目をつぶった。それを見たギギルが髭面を歪めてニヤリと笑い返した。

「そうか・・・ケチケチしないでよかったぜ」

 シンはギギルの足元に身体を移動させると、ギギルの両足を肩の上に乗せた。

「ギギル、行くよ。ゆっくり、ゆっくり・・・」

 ギギルとシンはゆっくりと大吊り橋の橋桁の残骸を登り始めた。バラバラと抜け落ちた底板が、壁面にぶつかってカラカラと音を立てながら深淵の底に落ちて行く音が、ふたりの耳に届いている。手を掛けている床板が今にも抜け落ちるのではないかという焦燥感で頭の中がチリチリと焼けるようだ。とにかく急がなければならない。

 一枚また一枚と這うように床板を登るギギルの目に、やっと支柱が立つ壁面の縁が見えてきた。テルミとサルサが心配そうな顔をして崖下を覗き込んでいる。サルサに抱かれて崖下を覗き込んでいるイオリは、何が可笑しいのかキャッキャと笑っている。

 ギギルの右手が一番上の床板に掛った。その右手をテルミがしっかりと両手で握り、一気にギギルを崖の上に引き上げると、そのままギギルを崖の縁から三メルほど引き離した。ギギルはその場で胡坐をかくと、首を振りながら大きく息を吐いた。

「テルミ、助かったぜ」

「アハハ、ギギルさんが釣れました・・・こりゃ大物だ。え? 釣りじゃない?・・・ナハハ、そりゃそうだ。おっと、シンさんを忘れるところだった」

 テルミは支柱に駆け寄ると崖下を覗き込み、ギギルと同じようにしてシンを崖の上に引っ張り上げた。ギギルの横に並んで座ったシンは、精も根も尽き果てたようにぐったりとして肩で息をしている。

「アハハ、釣り上げた二匹目は生きが悪いや。それに痩せているし。え? 釣りじゃない?・・・ナハハ、分かってますよ」

 テルミは笑いながら支柱に近づき、何気なく崖下を覗いた。テルミがサッと顔色を変えた。

「ギギルさん、早くここにきて・・・監督使が・・・監督使が・・・」

「テルミ、どうした?」

 テルミは顔を引きつらせながら震える指で崖下を指差している。ギギルが崖下を覗き込むと、橋桁の残骸の一番上の床板に手を掛けた監督使の姿があった。

「そうか、もうひとりの監督使はここまで登ってきたって訳か」

 ギギルはそう言うと左手の手袋を外し、カギ爪をゆっくりと持ち上げた。そしてギギルは監督使の顔を覗き込んだ。

 一番上の床板に両手でしがみ付いている監督使がゆっくりと顔を上げると、頭を覆っていた黒い頭巾がパサリと後ろに倒れた。黒い頭巾の下から現れた顔は、体形変化期から数えて五トングほどしか過ぎていない若いオトコで、見事な銀髪に貴族種特有の青白い肌をしていた。黒い遮光眼鏡を掛けた目は見えないが、スッキリと高い鼻梁と花弁に似た薄い唇を持ち、神像のように整った顔立ちをしていた。

 監督使は顔を上げてギギルと目を合わせると、薄い唇を歪めてニヤリと笑った。そして、監督使としての自分の運命を悟ったのだろう、床板を掴んでいた両手をゆっくりと放した。監督使は両手を広げると頭を後に反らせてゆっくりと身体を後に倒した。床板の隙間に置いた爪先を中心にして身体がゆっくりと傾いていく。その姿は自らの身体を深淵の祭壇に捧げる殉教者のようだった。監督使は目を閉じた。

「ギギル!」イオリの叫び声が響いた。

 イオリの声に打たれたギギルの身体が咄嗟に動いた。落ちようとしている監督使の左手首を、ギギルの右手がしっかりと掴んだ。

 ギギルは崖に腹ばいになって身を乗り出し、右手一本で監督使を支えていた。

 左手首を掴まれて宙ぶらりんの状態のまま、監督使は顔を上げると不思議そうな表情でギギルを見つめた。ギギルは恐ろしい形相で監督使を睨んでいたが、スウッと大きく息を腹に溜めると、オリャッという気合を発して右手一本で監督使を一気に崖の上に引っ張り上げた。

 崖の上に引き上げられた監督使は、片膝を突いて地面にうずくまり、しばらく下を向いて目を瞑っていたが、やがてゆっくりと青白い顔を上げた。

「なぜ私を助けた?」

「質問の前に、まず、助けてもらった礼をイオリに言いな。それが礼儀ってもんだ」

 ギギルは相変わらず恐ろしい形相で監督使を睨んでいる。お前を助けたのは俺の本意ではないと言いたいのだ。監督使は素直に頷いた。

「助けて頂いて感謝します・・・イオリ?」

「そうだ、あのときイオリが俺の名前を呼ばなきゃ、お前さん、今頃はまだ崖の下で深淵の底の液化瓦斯の海に向かって落ちている最中だろうよ」

「イオリとは?」

「あたしだよ、あたしがイオリ」

 イオリはニコニコ笑いながら監督使の前にトコトコと歩み出ると、ヒョコッと屈んで顔を覗き込んだ。遮光眼鏡の中でイオリの翡翠色の大きな瞳がキラキラと光っている。無防備に監督使に近づくイオリを見て、ギギルは思わずハッと身構えた。ギギルの心配をよそに、イオリは無邪気な笑顔を監督使に向けている。

「お兄さんの名前はなあに?」

 監督使は不思議そうな顔をしてイオリを見た。その表情からはイオリに対する害意は感じられない。

「私は・・・私の名前はステア・ズ・キンガム。上層帯の街ナナハン生まれの貴族種、キンガム家の三男、女王親衛隊の一員、そして・・・女王の僕、監督使」

「フーン、ステア・ズ・キンガガ? 長いからステアでいいよね」

 イオリがステアの名前を呼ぶと、ステアの左手首に嵌められている金色の腕輪が、突然ピリピリと痺れるような振動を始めた。ステアは左手の袖をまくり、細かく振動している金色の腕輪を見つめた。こんなことは初めてなのだ。

「どうしたことだ・・・」

「それなあに?」

 イオリの小さな手がスッと伸びて金色の腕輪に触れた。腕輪はビリリと大きく震えると、パカリとふたつに割れて地面に落ちた。ふたつに割れた腕輪は金色の光を失い、黒く煤けた色に変わった。

 ステアは割れて外れた腕輪を信じられないという顔で見つめた。

「監督使の腕輪が割れて外れてしまった・・・そんなバカな・・・」

 ステアは震える声で小さく呟くと、割れた腕輪をゆっくりと拾い上げて目の前にかざした。監督使の腕輪は女王の力が宿っているとされていて、監督使の任を解かれるまで決して外れることがない、いや、外すことができないはずなのだ。ステアは混乱した頭の中で、このことが何を意味するのか必死に考えていた。

 ギギルは腰の後ろに差した短剣をいつでも抜けるように身構えながら、ステアの動きをじっと見ていた。シンは割れた腕輪を見て、ウカカ族が開いてくれた別れの宴の際に、イオリが触れた戦士の仮面が割れたことを思い出していた。ウカカ族のズズ族長は、イオリが女王の力を示したと言ったのだ。ステアの腕輪が割れたのも、イオリの女王の力によるものだろうとシンは思った。

「イオリ、こっちにきなさい」

 ギギルはイオリを抱え上げると、後ろに立っているシンにイオリを預けた。

 ステアは呆然とイオリを見つめていたが、割れた腕輪を上着の内側の小物入れに仕舞うと、視線をゆっくりとギギルに移した。ギギルを見るステアの目に力が戻った。

「それで、なぜ私を助けたのです」

「なぜ助けた? それは俺にも分からん。ただ、イオリが助けろと叫んだように聞こえたんだ。イオリの声に俺の身体が反応したのさ。だからイオリに感謝しろと言ったんだ。お前さんが殺そうとしていたイオリにな」

 ギギルが突き放すように言うと、ステアが訝しげな表情を浮かべた。

「私が殺そうとしていた? 私は監督使の任務は今回が初めてで、女王の僕としての責務を果たすのだと言われたが、何をするのかは聞かされていない。今回の任務の班長だった監督使のキルトは、何も言わないうちに大吊り橋の上から落ちてしまった。私はキルトに指示されて、彼の後ろを付いて行っただけだ」

 ギギルはフンと鼻で笑うと、覗き込むようにしてステアの目を見た。そして噛んで含めるように言った。

「そうかい、それじゃ俺が監督使の任務を教えてやろう。お前さんの任務は次期女王候補者であるイオリを抹殺することさ。お前さんは自分が抹殺しようとしていたイオリに助けられたって訳さ、分かったかい」

 ステアはむきになってギギルに言い返した。

「そんなバカな、監督使は女王の密使であり、女王のために極秘に働く真の僕だ。なぜ次期女王候補者を抹殺しなければならないんだ」

 ギギルは薄ら笑いを浮かべると、吐き捨てるように言った。

「それはお前さんを派遣した監督使の親玉に訊くんだな。丁寧に教えてくれるだろうよ」

 ステアはイヤイヤをするように首を横に振ると、腹の底から絞り出すような声を出した。

「そんな・・・それに、監督使の腕輪が外れた今では、私はもう監督使ではない」

 ステアは呻き声を上げて黙り込むと下を向いてしまった。何かを必死で考えている。ステアの脳裏には、班長のキルトが大吊り橋の上でギギルたちに向かって半月刀を振り上げた姿が浮かんでいた。あれはイオリに向けられていたのか。

「ステア! 何をしている。そのコドモを殺せ!」

 ギギルたちがハッと顔を上げると、ひとりの監督使が荷馬車の幌の上に立ち、半月刀を振り上げていた。ステアに気を取られていて、背後が全く無防備だった。飛翔機に乗っていた残りのふたりの監督使は、大吊り橋のこちら側に着陸していたのだ。

 幌の上の監督使は、イオリを抱いたシン目掛けて大きく跳躍した。シンの頭上に半月刀が振り下ろされた。

「シン、逃げろ!」

 ギギルは身体を翻してシンの元に駆け寄ろうとしたが、とても間に合わない。シンはイオリを胸の前に抱いて、背中を丸めて地面にうずくまった。テルミとサルサは荷車の横に立っているが、咄嗟のことで身体が固まって動かない。辛うじてサルサが小さな悲鳴を上げた。

 ゴウッという風の音と一瞬生臭い獣の臭いが漂った。

 ギギルたちの真上に大きな影が飛来すると、頭上を掠めるようにしてあっという間に飛び去った。はるか上空から音も立てずに滑空してきた一羽のザドラが、ギギルたちの頭上すれすれを通過したのだ。ザドラの太い両脚の爪が、黒い服を着た監督使の身体に食い込んでいる。シンに向かって跳躍した監督使は空中でザドラに捕獲されたのだった。

「何てこったい・・・ザドラだ。全く気付かなかった。あの監督使がいなけりゃ、俺たちの誰かがやられていた」

 ギギルは我を忘れたように、監督使を掴んだまま空中をゆっくりと旋回するザドラを見ていた。地面にうずくまったままで、シンは顔を上げることもできない。シンの腕に抱かれたイオリはザドラを見てウキャキャと笑っている。テルミはサルサの肩を抱きながら空中を見上げてブツブツと何かを呟いている。

 ギギルたちの視線がザドラに向けられているその隙を突いて、荷馬車の陰から黒い影がシンに向かって飛び出した。飛翔機に乗っていた最後の監督使だ。右手に半月刀を持ち、足音を忍ばせて走り寄る監督使に誰も気付かない。監督使は無言で半月刀をシンの背中に振り下ろした。

 監督使の振り下ろした半月刀は、下段からすくい上げるように伸びてきた銀色の光に弾かれ、キンという乾いた音と共に小さな火花を散らせて跳ね上げられた。

「おのれ、ステア! 何をする」

 罵声を上げる監督使の横を、半月刀を上段に振り上げたままステアが無言で駆け抜けた。

 一瞬ステアに目を奪われた監督使がシンの方に視線を戻すと、眼の前でギギルのカギ爪がギラリと光った。監督使の頸根から噴水のように血が吹き上がった。監督使はその場でクルリと一回転するとドサリと地面に倒れた。流れ出たおびただしい血が監督使の身体の下に血溜まりを作り、それが見る見るうちに乾いた地面に吸い込まれた。

 倒れた監督使の先に、半月刀を右手に持ったステアが立っていた。

「ステア、お前さん・・・監督使の仲間を裏切ってシンとイオリを助けてくれたのか」

 まだ腑に落ちない表情のギギルに対して、ステアは吹っ切れたようなすっきりとした表情をしている。ステアは静かに言った。

「私はイオリに命を助けられた。その借りを返したまでだ。飛翔機に乗ってきた監督使は私だけになってしまった・・・いや、私はもう監督使ではないのだ。帰って、監督使は全員やられたと報告するよ。凄腕のオトコがいたとね」

 ステアはギギルのカギ爪にチラリと目をやった。ギギルのカギ爪から、ポタリポタリと血が滴り落ちている。ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。

「見たところ、お前さんもかなりの使い手だな・・・。俺はギギル。カギ爪のギギルと呼ばれている。俺にやられたと言えば納得するさ。こいつはシン、イオリの養父で俺たちは一緒に旅をしている。荷車の横にいるのがテルミとサルサ、旅芸人の夫婦だ。イオリを殺そうとするやつは、カギ爪のギギルがいつでも相手になると監督使の親玉に伝えな」

 ステアはギギルに向かってニヤリと笑い返してから、誰にともなくペコリとひとつ頭を下げた。ステアは地面に横たわっている監督使の死体を背中に担ぎ上げると、ギギルたちに背を向けて歩き出した。

 回廊の先に道幅が少し広くなっている場所があり、そこに蜻蛉の形をした飛翔機が着陸していた。ステアは飛翔機の乗員室に死体を置くと操縦席に座り、踏板を漕ぎ始めた。飛翔機の翅は細かな振動を始め、暫くすると前後にブルブルと大きく振動した。ステアを乗せた飛翔機はゆっくりと地面から浮き上がると徐々に速度を上げ、大陸の壁面に沿って垂直に上空へと昇って行った。

 ギギルとシンは肩を並べて飛翔機の行方を見上げていた。イオリは飛翔機を指さしてスゴイスゴイと言いながらギギルとシンの周りをグルグルと回っている。テルミとサルサは夫婦そろって口をあんぐりと開けたまま固まっていた。

「凄いねギギル、ヒトが空を飛ぶなんて」

「監督使が神出鬼没な訳だ。ああやって回廊を通らずに街から街へ移動していたんだ。シン、これじゃいつどこで監督使に出くわすか分からんな」

「ギギルはさっき、いつでも相手になるって言ったじゃない」

「そんなこと言わなきゃよかったぜ・・・」

 ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑い、シンの肩をポンと叩くと、それじゃ行くかと言った。ギギルの顔には、回廊の難所のひとつである風の大吊り橋を無事に越えた安堵の色が浮かんでいた。


 ギギルたち一行は、大吊り橋のガンデラ側に設けられた『上の関所』で、大吊り橋が落ちたときの状況を根掘り葉掘り聞かれた。大吊り橋のたもとには上下の各関所から補助員が派遣されていたが、不思議なことにふたりの補助員はいずれも正体不明の状態で倒れていて、気が付いた後も大吊り橋が落ちた前後の記憶がなかった。

 結局、大吊り橋は老朽化と谷を渡った突風により落ちたもので、幸いなことにこの事故による犠牲者はなかったと結論付けられた。監督使と飛翔機の姿を見た者は誰ひとりいなかった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ステアの操縦する飛翔機が、上層帯にある軍事都市コルトバンの街のはずれにある、警備隊長ロドンの私邸の中庭に設けられた発着場に着いた。

 発着場は直径二十メルほどの円形をした平地で、着陸の衝撃を和らげるためにコケシバが一面に植えられていた。発着場は高さが五メルもあるシダレバラの垣根でグルリと囲まれていて、周囲から発着場の様子を窺うことはできない。発着場に付随する格納庫は、直方体状に切り出された黒砂岩をコの字型に積み上げた外壁に、オニシダの板で屋根を葺いた構造で、中には駐機台が三台設けられていた。格納庫の中には既に二機の飛翔機が駐機していた。

 飛翔機が着陸すると、飛翔機の左右についた六枚の翅の振動が止まる前に、発着場の脇から四人の整備員が飛び出してきた。整備員は飛翔機を抱え上げると格納庫の中に運び込み、中央にある駐機台に乗せた。ステアは片手を上げて整備員に合図をすると、飛翔機の乗員室から飛び降り、邸内にいるロドンの元に向かった。

 コルトバンの街の警備隊長であるロドン・ズ・メルカは貴族種であり、ステアの実家であるキンガム家とメルカ家は姻戚関係で結ばれていた。そしてロドンは全ての監督使を統べる総長である。ステアが監督使の契約を結んだのも、ロドンから言葉巧みに誘われたからである。

 ステアはロドン邸の玄関から真っ直ぐに延びる鏡のように磨かれた長い廊下を足早に進み、突き当りにある大きな扉をコツコツと叩いた。オニシダの大きな一枚板で作られた扉には、メルカ家の紋章である双頭のザドラが彫り込まれている。

 部屋の中から「入れ」という声がした。部屋の中央に白光石の大きな会議机が置かれていて、その向こうに黒い頭巾付きの上着を羽織ったロドンが座っていた。ロドンの横の椅子にはガンデラ軍の軍服を着た戦闘種の軍人が座っていた。ふたりの前には水晶をくり抜いた椀が置かれていて、椀の中のチャルが湯気を立てている。

「ステア、帰ったか。ごくろう、ここに掛けろ」

 ロドンは軍人の向かい側の席を指差した。ステアは椅子に腰掛けると背筋を伸ばした。ロドンはステアをギロリと見ると、しゃがれたキイキイ声で尋ねた。

「お前ひとりなのか?他の監督使はどうした」

 ステアはロドンに顔を向けると、事務的に答えた。

「派遣された監督使は、私を除いて全て死亡しました」

 全て死亡したと聞いても、ロドンは顔色ひとつ変えなかった。任務を遂行する上で監督使が死ぬことは、ロドンにとって当たり前のことなのだ。

「それで首尾はどうだ」

「首尾とは?」

 ステアは何を言っているのか分からないという風に小首を傾げた。ロドンが会議机をドンと叩いた。ロドンのこめかみに血管が浮き上がっている。

「ふざけるな! 女王候補者が見つかったのだ、その息の根を止めることが監督使の使命なのだ。班長のキルトに聞かなかったのか」

 ステアはロドンの怒りを気にするそぶりも見せず、淡々とした口調で答えた。しかし、顔には出さないものの、ステアは心の中で落胆していた。風の大吊り橋でギギルが口にしたことは本当だったのだ。

「私は班長のキルトに付いてこいと言われただけで、キルトから任務の内容は何も聞いていません。キルトは私に指示する前に、崩落する吊り橋から落ちてしまったのです。私もキルトと共に吊り橋の崩落に巻き込まれたのですが、何とか助かりました。私が吊り橋から逃れたトキには、全てが終わっていたのです」

「残りの監督使は、なぜ死んだんだ」

 ロドンの声は怒りを押し殺したように低い。ステアは平然と答えた。

「ひとりはザドラに襲われました。最後のひとりですが・・・凄腕のオトコがいましてね、そいつにやられました。何しろあっという間でした。あのオトコ、自分のことを『カギ爪のギギル』と言っていましたが」

 ステアがギギルの名前を口にした途端、それまで退屈そうに窓の外を眺めていた軍人がステアに顔を向けた。彫りの深い顔に驚いたような表情が浮かんでいる。

「ギギルだと? オイ、本当にギギルと言ったのか」

 ステアはムッとした顔で軍人を見返した。

「失礼だが、あなたは?」

「このオトコはガンデラ軍の憲兵隊長のソトルじゃ。ソトルも監督使で、儂の補佐役を務めている。儂に何かあれば、次の監督使の総長はこのソトルが務めることになっている」

 ロドンから紹介されたソトルは、それが挨拶だと言わんばかりに、ステアに向かって小さく顔を歪めた。吊り上がった両目と薄い唇が酷薄な性格を表しているようだ。

「ギギルとは昔からの腐れ縁でね、あいつの腕前はよく知っている。風の大吊り橋を越えたのなら、すぐにガンデラの街に入るだろう。よし、ガンデラで待ち受けて、私が女王候補者もギギルも一緒に片を付けてやる」

 ソトルはそう言うと立ち上がった。ソトルの腰の刀の鍔がガチャリと鳴った。部屋を出ていくソトルの無駄のない動きと、腰の据わった足運びを見て、ステアは心の中で舌を巻いた。ソトルはギギルに勝るとも劣らない剣の使い手のようだ。

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