カギ爪のギギル
その大陸は直径二十バール・外周六十バールの巨大な円柱形をしており、濃密な液化瓦斯の海に聳え立っていた。はるか雲の上まで続く大陸の頂上は見えない。(一バールは約百五十キロメートル)
その大陸には卵から生まれるヒト族が住んでいた。
ヒト族は大陸の内部を侵食して造った街の中に集団で暮らしていた。街と街とは回廊で繋がれていた。回廊は大陸の外周の硬い壁を削って造られた細い道で、造られてからどれくらいのトキが過ぎているのかは誰も知らない。その回廊は大陸の外周をグルグルと回りながら、下層帯から中層帯を経て上層帯に向かって延びていた。
そしてヒトたちは信じていた。大陸の最上部にはヒト族を統べる女王の城があるという伝説を。
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ギギルの意識は濃密な霧の中をさまよっていた。目に映るもの耳に聞こえるものが何を意味するのか、ギギルには理解できなかった。
「ギギル! ああ、ギギル! 私たちの卵が・・・どうして・・・ギギル」
妻のリリカの叫び声がギギルの脳髄に稲妻のような衝撃を与えた。
・・・リリカ、どこにいる!・・・私たちの卵?・・・リリカ、リリカ!・・・
ギギルの意識が霧の中を抜けだした。しかし、目に映るものが理解できない。目の前で剣が光り、ギギルは左手首にヒヤリとした感覚を覚えた。痛みはない。
突然、ギギルは目の前の状況を理解した。
妻のリリカが胸から血を流して床に倒れていた。リリカの腕にはキヌグモの糸を編んで作られた保育器がしっかりと抱かれていて、保育器の中には無残に割られた卵がドロリとした血の海に沈んでいた。
「リリカ、リリカ、どうした!誰にやられた!」
ギギルはリリカに駆け寄り抱きかかえようとしたが、左手が思うように動かない。ギギルが左手を見ると、左手首から先がなく、切り口から血が噴き出していた。切り落とされた左手首はギギルの足元に落ちていた。左手首の近くで何かが鈍く光ったが、それが何なのかギギルには理解できない。
リリカが呻いた。
「黒衣の・・・ああギギル・・・黒衣の・・・な・・・ぜ・・・」
「黒衣の・・・オトコにやられたのか。リリカ、しっかりしろ、リリカ」
リリカは血にまみれた指でギギルの頬を優しく撫でると、コクリと頷き動かなくなった。
「黒衣のオトコ・・・監督使か。監督使がリリカと俺たちの卵を殺した。そして俺の・・・俺の左手首を切り放った・・・仇は必ず討つ。必ず・・・」
ギギルの意識は暗闇の中に落ちて行った。
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十トング(トングは年に相当)後
大陸の中層帯でも三本の指に入る大きな街であるトリムカンドまで残り一バールの距離にある回廊の脇の水場で、ギギルは大きな岩に背中を預けた体勢で地面に腰を下ろしていた。
ギギルはヒト族の中の『戦闘種』に属している。肌の色は茶褐色で筋肉質の頑丈な体型をしていて、身長は一と四分一メル(約百九十センチ:1メルは約一・五メートル)ある。ギギルは栗色の髪をしていて、彫が深く高い鼻とガッシリした顎をもち、顔の下半分は刈り込まれた栗色の髭で覆われている。左手には、肘から先を覆うようにチウシの革で作られた分厚く大きな手袋を着けている。年齢は、体形変化期から数えて二十トング(約四十四歳相当)である。
二カイン(カインは日に相当:一カイン=一日は約三十時間)前から、ギギルは高熱を発して動けなくなった。天空から冷たい水の降る中を無理して歩き続けたことが原因だろう。ギギルは食事をすることもできずに、この場所で熱が下がるのをひたすら待っていた。しかし、身体を焦がすような高熱は一向に下がる気配はなく、ギギルは朦朧とした意識の中で、間欠的に襲ってくる痙攣のような震えにひたすら耐えていた。
「もし、そこのあなた、どうしました?」
継ぎ当てだらけのボロボロのチウシの革の外套を着た若いオトコが、ギギルの顔を覗き込んでいる。ギギルは緩慢な仕草で右手を上げて大丈夫だと答えた。
「水を・・・すまないが、水を一杯飲ませてくれないか」
ギギルは掠れた声でそう言うと意識を失った。
ギギルはふと目を開けた。焼けた石の上で炙られるようだった高熱はすっかり下がり、頭の中にかかっていた霧がスッキリと晴れている。上半身を起こそうと身体を捩ると、途端にめまいがして吐き気がこみ上げてきた。
「ああ、気が付きましたか、良かった。まだしばらくは横になっていた方がいいですよ、なにせ酷い熱でしたから。とにかく、これを一口飲んでください」
若いオトコは液体の入った椀をギギルの口に当てた。喉が渇いていたギギルは貪るように飲んでから顔をしかめた。
「グフッ、苦い、何だこりゃ・・・それに酷い臭いだ、鼻の奥が痺れる」
若いオトコはギギルの反応を見てニッと笑った。穏やかで人が好さそうな笑顔だ。
「これはクロドクダミという薬草を煎じた薬湯ですよ。気付けと解毒、解熱、止血に素晴らしい効果がある万能薬なんです。キノウのヨルも飲ませたけど覚えていない?」
「そう言えば飲んだような・・・朦朧としていてよく覚えていない。熱が下がったのはこれのおかげか。とにかく助かった、礼を言うよ。俺はギギル、お前さんは?」
「私はシンといいます。よろしく。今チャルを淹れます。お腹に何か入れた方がいいでしょう。ククも一緒に食べて下さい」
シンはヒト族の中の『労働種』に属している。肌の色は薄黄色で痩せて華奢な身体をしている。髪の毛は黒く、のっぺりとした顔立ちに細い目が優しく光っている。身長は一メル、年齢は体形変化期から数えて十二トング(約三十三歳相当)である。
シンは炉の火に掛けた鍋にチウシの乳と水、乾燥させたバーチャの葉を入れた。バーチャの葉が水分を吸って広がり、鍋の中の液体が少し赤みを帯びるとチャルの完成となる。チャルを口に含むと、軽い渋みのあとにスウッと爽快な香りが鼻に抜け、口の中がサッパリとする。軽い興奮作用があるので、眠気が取れて頭がすっきりすると共に軽い頭痛や吐き気にも効果がある。ヒト族の間では食事や休憩の際に好んで飲まれていた。
ギギルは身体を起こすと炉の前に胡坐をかいて座った。少し頭がフラつくようだが、吐き気は治まっていた。炉の上の鍋からチャルの爽やかな香りが漂ってきた。日の出時を少し過ぎた頃だろう、柔らかな外光が周囲を明るく照らしている。
シンの差し出した椀とオトナの掌ほどの大きさに平たく延ばしたククを受け取ったギギルは、シンの左手に気が付いた。シンの左手の薬指は第一関節から先がなかった。
「シン、その指・・・お前さん巡礼者かい」
シンは自分の左手にチラリと目をやった。
「ええ、巡礼を始めてもう八トングになります。私は下層帯のアジステアという街の生まれなんですが、体形変化期を終えてから三トング目に巡礼の精霊に取り憑かれたんです。『上へ向かえ、上へ向かえ』って言う声が、頭の中に鳴り響くんですよ」
ギギルはホウという顔をした。これまで巡礼者の姿を見たことはあるが、親しく口をきいたことがなかったのだ。
「巡礼者はこれまでも見かけたが・・・いったいどこに向かっているんだ?」
「自分でも分からないんです、上へ上へとしか声は聞こえない。だから、どんな使命を与えられているのかも分からないんです。実は、私の父親も巡礼者なんです。私が体形変化期を迎える前に巡礼の旅に出たきり、帰ってきませんでした」
シンはそう言いながら火に掛けたあった鍋を取り上げて、ギギルが持つ椀の中にチャルを注いだ。
ヒト族の中には巡礼の精霊に取り憑かれる者がいる。それは何の前触れもなく突然訪れる。巡礼の精霊に取り憑かれた『巡礼者』は、心の声に従って回廊をひたすら上っていく。巡礼者の使命が何なのか、巡礼者が最後にどこにたどり着くのかは誰も知らない。帰ってきた巡礼者がいないのだ。ヒト族では巡礼の旅に出る者の左手の薬指の第一関節から先を切り取り、巡礼者の証としていた。この証があればどの街に行っても検問所で門前払いされることなく、最低限の食料と宿を無償で提供して貰えた。切り取った指先は、出発したアマテス暦換算のトシ・出発した街の名前・巡礼者の名前を書いた街長の証明書とともにチウシの革の袋に入れ、紐で首から下げていた。
ギギルはククを口の中に押し込んでチャルを啜った。
ククはチウシの乳を加工した固形食品でヒト族の主食である。口に入れると、もっちりとした歯触りの後、舌の上でゆっくりと融けていく。滋養に富んでいて、甘みと酸味が合わさった濃厚な乳の味の後から、微かな塩気が感じられる。そこにチャルを飲むと、舌の上に残るネットリとしたククの甘みを、チャルの渋みがサラリと洗い流してくれる。
ギギルの顔に精気が戻った。腹の底が温まり、その温もりが身体中に広がっていく。
「フウ、何とか人心地がついたよ。シン、お前さんこれから中層帯を抜けて上層帯に向かうんだろう。俺も上層帯に足を伸ばそうと思っていたんだ。これも何かの縁だ、どうだい、一緒に行こうや」
シンは口元に持っていこうとした椀を下ろすと、不思議そうな顔をしてギギルを見た。巡礼者はどこの街に行っても、ただ飯食いの厄介者としか扱われないのだ。
「巡礼者と一緒だと変な目で見られますよ」
ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。思わず引き込まれそうな笑顔だ。
「構わないさ。よし、決まりだ。シン、よろしくな」
「ギギル、こちらこそよろしく」
ギギルとシンはがっちりと握手をした。
ギギルとシンが水場で出会ってから四カインが過ぎた。
ギギルとシンはトリムカンドの街に向かう緩い上り勾配の回廊をゆっくり歩いていた。日の出時から歩き始めて五カクン(カクンは時間に相当:一カクンは約九十分)が経過して、昼食時を迎えていた。
回廊の幅は五メルほどで、左側は大陸の壁面が垂直にそそり立っていて、右側ははるか下の液化瓦斯の海まで続く深淵である。足元はゴツゴツしたむき出しの岩肌で、その上に黄色い砂礫が気まぐれにばら撒かれたようにあちこちに積もっていた。回廊は大陸の壁面のうねりに沿って右に左に曲がっていて、容易に回廊の先は見通せない。
ふたりとも、回廊に降り注ぐ強い外光から眼を保護するために、紫水晶を薄く削って作った水晶板を嵌め込んだ遮光眼鏡を掛けている。そして、ワタスゲを紡いだ糸で編んだ大きな襟巻で鼻と口を覆っていた。外気は乾燥して埃や砂塵が常に舞っているため、そのままでは直ぐに肺をやられてしまうのだ。更に、暑さ寒さから身を守るために、チウシの革で作った丈夫な風防頭巾付きの外套を着て、チウシの革の頑丈な編上げ長靴を履いている。背中には肌着や食料や生活雑貨や紐などを入れた大きな背嚢を背負っている。ギギルは四分の三メルもある長剣を肩から下げていた。
チウシは大陸のほとんどの地域で家畜として飼われている動物で、甲虫の幼虫のような形態をして短い八本の脚をもっている。体長は二メルほどで性格はおとなしく、苔を食べて脚の根元にある乳腺から白い乳を出した。肉は食用となり、乳は飲み物となるほか、乳からヒト族の主食である『クク』が作られる。また、厚い皮はなめしてから加工されて、上着や外套や長靴などさまざまな用途に利用された。
大陸の壁面に回り込むように大きく左に曲がった回廊を進むと、ギギルたちの視界が急に開けて、まるで手品のように、視界の先にトリムカンドの街が突然現れた。
トリムカンドの街は回廊が大きく湾曲して大陸の内側に深く切り込んでいる場所に設けられていて、大陸内部に掘られた巨大な三つの人工洞窟、アルフ、ベクタ、ガンムの三つの街区で構成されていた。アルフには役所と居住区街、ベクタには商店や市場や飲食街、ガンムにはコハク鉱石採掘場と管理役場がある。それぞれの街区は大陸の壁面の中に網の目のように広がっている。トリムカンドの三つの街区の入口にはそれぞれ大門があり、日の出時から日の入り時までのヒルの間は大門が開いたままで、日の入り時から次の日の出時までのヨルの間は大門が閉ざされた。回廊を行き来するヒトは、日の入り時までに大門を潜らなければならないのである。(注:日の出時から次の日の出時までの一カインは二十カクン。日の出時から日の入り時までのヒルは十カクン、日の入り時から日の出時までのヨルは十カクン)
飲食街のあるベクタ・トリムカンドの入口の大門は横幅三十メル、高さ十メルの半円形をしていて、オニシダの巨大な幹と分厚い板を組んで造られていた。大門は外側に開かれていて、大門の前の回廊は行き交うヒトや荷車でごった返していた。
オニシダは大陸の中層帯から上層帯に広く分布している植物で、幹の直径は一メルから二メル、高さは十五メルから二十五メルにもなる。オニシダの幹は褐色で滑々していて、幹の表面は剣が跳ね返されるほど硬い。このオニシダの幹や枝は、そのまま使用したり、板や角材などに製材・加工して、家の柱や梁、門や橋の建材などに広く使用されている。
「凄いヒトの数だね、ギギル。噂に聞いたトリムカンドだけのことはあるよ」
ベクタ・トリムカンドの大門を前にして、シンは感心したような声で傍らのギギルに話し掛けた。シンの肩越しに大門に目をやったギギルはウムと答えた。回廊を行き交うヒトや荷車の発する、ザワザワという喧騒が低い地鳴りのようにふたりを取り巻いている。外光は強く、白くくすんだような回廊からユラユラと陽炎が立ち昇っている。
「シンは初めてだから驚くだろうな。下層帯から中層帯の中でも、これほど大きな街は少ないからな。俺が知っているのは、この上のトキオンとガンデラぐらいだ」
ギギルの声は低くて張りがある。喧騒の中でもよく響く声だ。
「目の前にあるのは、ベクタ・トリムカンドの街の大門だ。大陸の壁面の内部に造られた人工洞窟のトリムカンドの街自体は、アルフ、ベクタ、ガンムの三つの街区に分かれていて、とてつもなく大きい。シンが見たら腰を抜かすぜ。さて、もう昼食時を過ぎたな。ここで何か腹に入れようや」
そう言ったギギルの横を、二頭の動物に引かれた荷車がガラガラと大きな音を立てて通り過ぎた。白い砂埃が舞い上がり、獣の臭いが鼻についた。
荷車を引いているのは長く丈夫な四本脚と長い首をもつ褐色の肌をした動物で、体長は三メルちょっとあり、背中までの高さはシンの肩ほどもあった。背中には大きなこぶが三つ並んでいる。
「ギギル、荷車を引いているあれはいったい・・・」
「ああ、ありゃリマだ。このあたりから大陸の上層帯にかけて飼われている。下層帯じゃ見かけないだろう。おとなしいし力も強いんで荷車を引かせたり、人が乗ったりするのさ。肉も結構いけるぜ」
リマを物珍しそうに見ていたシンは、回廊を走ってきた荷車に跳ね飛ばされそうになり、慌てて脇に飛び退いた。二頭のリマに引かれた荷車は砂埃を撒き上げながらつむじ風のようにシンの横を走り抜けた。
「道の真ん中でボンヤリしてるんじゃねぇ!」
尻もちをついたシンは、荷車の上から罵声を浴びせられて目を白黒させている。
「このトリムカンドからトキオンを抜けてガンデラまでの回廊は、傾斜もゆるく道幅も広くてよく整備されているから、リマに引かせた荷車がよく走っているんだ。リマの首に鈴玉が付いているから接近すれば音で分かる、ボヤッと歩いていると跳ね飛ばされるから注意するんだな」
ギギルはシンを立たせて尻の土埃をパタパタとはらってやると、シンの手を引くようにしてベクタ・トリムカンドの大門を潜った。
ベクタ・トリムカンドの大門を抜けると、人工洞窟の大きさは奥に向かって少しずつ広がり、二十メルほど進むと突然巨大な空間が現れた。横幅は二ギール(一ギールは約一・五キロメートル)、高さは二十メルから三十メルもあり人工洞窟の奥は霞んで見えない。掘削時に天井を支えるために残された二抱えほどもある岩の柱が規則正しく並んでいた。その岩柱に沿って通路が縦横に走っていて、その通路の周りにはオニシダの枝で組んだ骨組みにチウシのなめした革を貼り、その上にドロウルシと土を混ぜた漆喰を塗り固めて壁にした建物が折り重なるように軒を連ねていた。岩の柱や建物の軒先にはヒカリゴケを丸めた雪洞が吊り下げられていて、街全体が薄緑色のボンヤリとした光で満たされている。
ギギルとシンは遮光眼鏡を外すと、辺りを見回した。街の中央を走る大通りにはヒトが溢れていた。ギギルのような戦闘種やシンのような労働種のほか、大陸の下層帯ではほとんど見かけない青白い肌をした貴族種や、労働種と戦闘種の混血と思われる褐色の肌をしたヒトもいた。
チウシの外套を着て大きな荷物を背負った、外光で焼けた黒い顔をした労働種のオトコ。キヌグモの糸で織った光る布で作られた白い肩掛けを羽織った貴族種のオンナ。チウシの革をなめして硬くした防具を胸に当て、腰に長い剣を佩いた戦闘種のオトコ四人組。ワタスゲの毛で紡いだ糸で編んだゴワゴワした茶色い上着を着た甘水売りのオトコ。赤や青の鮮やかな帯を巻いて、頭の上に大きな籠を乗せて歩く卵を抱いたオンナ。道端で机の上にククを山盛りにして、行き交うヒトに声を掛けている小太りのオンナ。串に刺して焼いたリマの肉を声高に売りつける上半身裸の皺だらけのオトコ・・・・。中央大通りは、人いきれと食べ物の匂いの混じった甘く饐えた空気の塊の中に埋もれて、ワーンという耳鳴りにも似た喧騒が渦巻いていた。
ギギルとシンはヒトの波をかき分けるようにして進み、中央大通りから細い横道に入ると、少し傾いた店に入った。扉の代わりに入口に吊り下げられているワタスゲの布をめくると、酒と焼けた肉の匂いのするムッとするような空気が流れ出てきて、大声で怒鳴りあうヒトのざわめきがシンとギギルを包んだ。店には四人掛けの机席が六つと、細長い帳場の前に椅子が五脚並んでいて、まだ昼食時を過ぎたばかりだというのに、十人ほどが酒を飲んで声高に話をしていた。
肥って頭の禿げた赤ら顔の労働種の店主が、ギギルに続いて店に入ってきたシンの左手の薬指に気付くと、帳場の中からギロリとシンを睨んだ。
「おい、そこの若いの。施しを受ける巡礼者は裏口へ回りな。金もないのにノコノコ店に入ってくるんじゃねえ、この疫病神が」
八トングも巡礼の旅を続けているシンは、巡礼者に対する扱いにも慣れていた。怒鳴られるなど日常茶飯事なのだ。店の前に立っていただけで、いきなり殴られそうになったこともあった。シンは無言で左手を上げると店の外に出ようとした。シンの肩をギギルが叩いた。
「おやじ、こいつは俺の連れだ。金は俺が払う、いいだろ」
店主はギギルの顔を見ると、驚いたような声を出した。
「あんた・・・ギギルさんかい、久しぶりだね。フーン、あんたの連れねぇ・・・ようござんす。金さえ貰えればお客さんだ」
ギギルはシンに向かって頷くと、空いている机席に陣取った。
「おやじ、まずはヴォールを大きい酒椀で二杯。それとリマ肉の煮込みと焼いたククをふたり分だ」
「あいよ。そこの兄さんも早く座りな。そこに立っていられちゃあ邪魔だ」
シンはギギルの前にオズオズと座った。ギギルは背負っていた背嚢と長剣を椅子の脇に置いた。そして右手でゴシゴシと髭面を擦ると「さて」と言った。
「まずは腹ごしらえだ。その後でコハク鉱石採掘場に行って、そこでトキオンの街に向かうコハク鉱石輸送隊の護衛の口を探すんだ。うまくいけばトキオンまでの二バール(一バールは約百五十キロメートル)は荷車に乗って行けるから、歩かなくて済むぜ」
「そんなにうまく護衛の口はあるのかい」
「ああ、俺は何回もそこで雇われている。ここのコハク鉱石は良質でね、トキオンの街の鉱石市場では高値で売れるんだ。三カインに一度の割で荷車が出発するから、いつも護衛は足りないんだ」
「護衛が必要なほど物騒なのかい」
「タチの悪いゴロツキが、往きは鉱石、帰りは金を狙って徒党を組んで襲ってくることがある。たまに軍人崩れの戦闘種も混じっていて、やられることもあるがな。まあ、俺に任せておけ」
ギギルは自信ありげに髭面を歪めてニヤリと笑った。
「あいよ、おまちどうさん」
店主が水晶をくり抜いた大きな酒椀になみなみと入ったヴォールと、大きな皿に盛ったリマ肉の煮込みと焼いたククを持ってきた。
ヴォールはアマヨモギの煮汁を発酵させて造る薄緑色の発泡酒で、サッパリとした苦みとほのかな甘酸っぱさが喉に残るのが特徴だ。一口飲むと鼻の奥にすっとした冷ややかな香りが抜ける。リマの肉は拳ほどの塊でチウシの乳で煮込んである。指で突くとホロホロと身がほぐれ、口に入れるとスッと蕩けて、最後に肉の繊維の感触が舌の上に残る。煮汁と絡めて食べると、甘い脂と乳を煮込んだ少しとろみのある塩辛い味が口いっぱいに広がり癖になる。それに焼いたククを浸して食べるとククの濃厚なうまみが溶け出し、ヴォールが止まらない。
「どうだ、美味いだろう。リマ肉の煮込みはこの店の名物でね、ほかの店じゃこの味は真似できない。あのおやじ、あんな顔をして料理の腕は確かなんだ」
「このヴォールは初めて飲んだよ。さっぱりして美味しいね」
「アマヨモギもこの中層帯より上でないと育たないからな。ヴォールをトロリとするまで煮詰めたヴォルト(火酒)にシリカバチの蜜を加えて飲むと美味いぞ。小さな杯一杯でぶっ倒れるけどな」
シンはヴォールを二杯、ギギルはヴォールを三杯飲み、ククをお代わりした。
店の外にある共同便所で用を足したシンが店の中に戻ってきた。ギギルのいる机席に向かって歩いているシンの足元に、隣の机席に座っている三人組の戦闘種のオトコのひとりが足を投げ出した。いきなり投げ出された足につまずいて、シンがドサリと床に倒れると、途端に笑い声がドッと上がった。足を投げ出したオトコがわざとらしい悲鳴を上げた。
「痛てえ!何しやがる。よくも俺様の足を踏みやがったな」
シンは床から身体を起こすと、オトコに向かってペコリと頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
巡礼者のシンにとって、この程度のことは日常茶飯事で、とにかく謝ることが身に沁みついているのだ。オトコはいかにも今気が付いたかのように、仰々しい素振りでシンの左手を見た。
「おや、お前、巡礼者じゃねえか。どうもさっきから変な臭いがすると思ったら、お前か!巡礼者のくせに店に入って飲み食いするなんざ、身の程知らずもいいところだ。イテテテ、お前に踏まれた足が動かねえ、どうしてくれる」
「いや、あの・・・そう言われても・・・」
下を向いて消え入るような声を出したシンに向かって、オトコが嵩にかかったように声を張り上げた。同じ机席のふたりのオトコはゲラゲラと腹を抱えて笑っている。
「コノヤロウ、ふざけやがって。ちと痛い目に遭わせてやるか」
オトコはニヤニヤと笑いながらノソリと立ち上がると、右の拳を振り上げた。
シンに向かって拳を振り上げたオトコは、いきなり右手首を掴まれたかと思うと、そのまま肘を決められ、足払いを掛けられて仰向けに引き倒された。床に背中を強かに打ち付けたオトコがグエッと声を上げた。
床に仰向けに倒れて呻いているオトコを見下ろすようにして、ギギルが立っていた。腹を抱えて笑っていたふたりのオトコが弾かれたように立ち上がった。ギギルはふたりのオトコをジロリと睨んだ。
「お前さんたちがからかっている巡礼者は俺の連れでね。しかも俺の命の恩人だ。黙って見ている訳にはいかないんだ。俺が相手になるぜ、かかってきな・・・と言っても、ここじゃあ店に迷惑だな。よし、表へ出ろ。シン、荷物を頼むぜ」
ギギルは上着の小物入れから十シリカ玉を掴み出して、帳場の中でさも迷惑だと言わんばかりの顔をしている店主にポイッと投げてから、ゆっくりと店の外に出た。ギギルを追ってふたりのオトコが店を飛び出した。床に倒れていたオトコは腰を擦りながらヨロヨロとふたりの後に続いた。
シンが荷物を抱えて店の外に出ると、店の前の通路には既に黒山のヒトだかりができていた。どこからか「喧嘩だ」と叫ぶ声が聞こえてきた。その声にはどこか嬉しそうな響きがあった。ギギルと三人の戦闘種のオトコを取り囲むようにして、何重ものヒトの輪ができていた。しかも、そこここで、どちらが勝つか賭けまで始まっていた。
三人のオトコを前にして平然と立っているギギルが、髭面を歪めて諭すように言った。
「ひとつ言っておくが、腰の剣は抜かない方がお前さんたちの身のためだぜ。殴り合いなら死ぬことはないが、剣を抜けば死ぬことになる。分かったな」
ギギルの言葉を聞いて、店の中でギギルに床に倒されたオトコが顔色を変えた。頭に血が上っているのだろう、こめかみに血管が浮いている。
「ヤロウ、なめた口利きやがって。叩きのめしてやる!」
三人のオトコは一斉にギギルに殴りかかった。
正面から殴りかかってきたオトコの拳を、首を傾けただけで避けたギギルは、そのオトコの腹に強烈な前蹴りを食らわせた。左から殴りかかってきたオトコの腕を、振り上げた左手で払いのけると、ギギルはそのオトコの顎に右拳を叩き込む。瞬時に膝を折って体勢を低くしたギギルの頭上を、右から殴りかかってきたオトコの拳が掠めた。ギギルはその場で舞うようにして身体を捻ると、右のオトコの伸びきった腹に右拳を叩き込んだ。
瞬きする間に三人のオトコは地面に倒れて呻いていた。ギギルは息も乱さずにノソリと立ったまま、三人のオトコを見ていた。ギギルたちを取り巻く周囲の観客が、ギギルの早業を見て声を失っている。暫くすると、地鳴りのようにオオオという歓声が沸き起こった。
「まあ、こんなもんだ。お前さんたち、これからは、巡礼者だからって無体にからかったりしないこったな」
ギギルはそう言うと、地面に転がっている三人組に背中を向けた。右のオトコが、殴られた腹を抑えながらヨロヨロと立ち上がると、腰の剣を抜いた。オトコの剣を見た周囲の観客がオウッと息を呑んで、とばっちりを避けようと、ギギルたちを取り巻くヒトの輪がサッと広がった。そうは言っても、これから始まる乱闘を期待しているのだろう、観客たちの顔は楽しそうに輝いている。
ギギルはゆっくりと振り返ると、両手をだらりと下げたまま、目の前で剣を構えているオトコを見た。ギギルは静かに言った。
「剣を抜けば死ぬことになると言ったはずだが、聞こえなかったのか?」
「うるせえ!死ぬのはてめえだ!」
オトコは目を血走らせて、ハアハアと喘ぎながら剣を上げた。切っ先がブルブルと震えている。ギギルは既にオトコの剣の技量を見切っていた。こんなに震えていては、まともに剣を振ることなどできないのだ。いつの間にか、オトコの背後に、地面に倒れていた残りのふたりのオトコが立っていた。ふたりのオトコも腰の剣に手を当てて、いまにも抜こうと身構えている。腰の定まっていないふたりの構えを見て、ギギルは止めておけという風に首を振った。
ギギルはゆっくりとした動作で左手の手袋を外すと、ズボンの腰紐に手袋を挟んだ。ギギルの左手の先にはクロムで作られた銀色に光る二股の大きな鋭いカギ爪が付いていた。
ギギルの目の前に立っているオトコは、ギギルのカギ爪を見て怖気づいたような顔をすると、助けを求めるかのように、チラリと後ろのふたりに目をやった。どうしようか迷っているのだ。カギ爪を見た三人のオトコはすっかり腰が引けてしまっている。
ギギルが三人のオトコに向かって一歩踏み出そうとすると、周囲の群衆の輪が崩れて、チウシの革の黒い胸当てを着けた十人ほどのトリムカンド警備隊が雪崩れ込んできた。
警備隊の先頭に立っている班長が叫んだ。
「トリムカンド警備隊だ!どちらも動くな!こんな街中で騒動を起こすんじゃない」
「俺は好きで騒動を起こしてる訳じゃないぜ。この三人組が酒場で絡んできたから、相手をしてやったまでだ。嘘だと思うなら、この店の店主に訊いてみな」
ギギルは両肩をすくめると、背後の店を指差した。店の入口に吊り下げられているワタスゲの布の横から顔を覗かせて、騒動の様子を見ていた赤ら顔の店主がそうだと頷いた。相変わらず、さも迷惑だと言わんばかりの顔をしている。
「いずれにしても、喧嘩はこれで終わりだ。どちらも手を引け・・・うん?そのカギ爪・・・あんたはカギ爪のギギルか」
警備隊の班長はホウという顔をしてギギルを見た。そして、ギギルと向かい合うようにして立っている三人組に言った。
「お前たちが相手をしているこのオトコは、カギ爪のギギルと呼ばれている凄腕だ。お前たちじゃあ、三人で掛かっても歯が立たないだろう。お前たち、命拾いしたな」
三人組はヘナヘナと地面に座り込んだ。
「剣を抜けば死ぬと言ったが、キョウはこれで勘弁してやる。これから野暮用があるんでな。それじゃあ失礼するぜ」
ギギルは警備隊の班長に右手を上げて挨拶すると、三人組に背を向け、左手のカギ爪にチウシの革の手袋を嵌めた。ギギルの元に荷物を抱えたシンが走り寄った。シンの顔は興奮で真っ赤に染まっている。
「凄いねギギル、三人をあっという間に伸しちまった」
ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。
「まあな」
「カギ爪のギギルっていうのは?」
「ああ、このカギ爪のおかげでそう呼ばれている。護衛仲間じゃあ、そこそこ有名なんだぜ」
ギギルはシンに示すかのように、左手の手袋をちょっと持ち上げた。
「さてと、シン。腹ごなしも済んだことだし、コハク鉱石採掘場に向かうとするか」
ギギルとシンが近づくと、周囲のヒトの輪がサッと割れた。賭けに勝ったオトコが嬉しそうにギギルに声を掛けると、ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑い返した。
ギギルとシンはヒトの輪から離れると、大通りを直進してから突き当りを右に折れた。半ギールほど歩くと街の中心部を抜け、建物も疎らになって周囲は閑散としてきた。道は徐々に上りになり、ぽっかりとした小さな広場に出るとそこで行き止まりになっていた。広場は腰の高さほどの柵で囲まれていて、その中に三十頭ほどのチウシが放牧されていた。チウシたちはヌーヌーという鳴き声を上げながら、のんびりと苔を食べている。その広場の右手に壁に沿うようにして上に向かう階段が掘られていて、十メルほど上にヒトが立って進めるほどの穴がポッカリと空いていた。
「ここはコハク鉱石採掘場の裏口というか、コハク鉱石採掘場から飲食街に抜ける近道でね、飯時や休憩時間にはよくヒトが通るんだ。ガンム・トリムカンドの大門は、ベクタ・トリムカンドの大門から更に回廊を二ギール進んだ所にあるから、そっちを回るよりも、こっちの方が近くて便利なんだ」
ギギルは階段を上りながらシンに説明した。
「シン、ヒカリ玉を用意しろ、中は暗いぞ」
ギギルとシンはいつも首から下げているヒカリ玉を上着の胸元から引っぱり出すと、胸の前に垂らした。ヒカリ玉はヒトの拳ほどの大きさの透明な水晶をくり抜いた穴にヒカリゴケを詰め込んだもので、紐で首からぶら下げて使用する。暗闇の中で薄緑色の光を発する携帯用雪洞である。十カイン毎に水晶に空けた穴から水を垂らしてやれば光が持続するので、手間もかからないのだ。
ギギルが先に立ち、シンがギギルの上着の裾を掴んで後ろをついていく。穴の中にも岩を削って造られた急な階段があり、途中に設けられた踊り場で何度か方向を変えながら階段は上に続いていた。そして少し広い踊り場に着いたギギルとシンは、目の前にあるオニシダの分厚い板で作られた扉を開け、コハク鉱石採掘場に入った。




