感情の臨界点
その日は、夜が長かった。
掃除は、終わっていなかった。
終わらせる気も、もうなかった。
「まだなの?」
継母の声が、廊下の奥から落ちてくる。
「昼間、随分と良いご身分だったんでしょう?
その分、ちゃんと働いてもらわないと」
ミレイユは、返事をしなかった。
声を出すと、
何かが決定的に壊れてしまいそうだったからだ。
床に置いた雑巾が、手から滑り落ちる。
拾おうとして、
膝が、がくりと折れた。
――あ、もうだめだ。
そう思った瞬間、
胸の奥から、感情が溢れてきた。
前は、こんなことはなかった。
どれだけ言われても、
どれだけ働かされても。
でも今は。
昼の静けさを、
今まで知らなかった穏やかな時間を、
…知ってしまった。
「休んでも、何も起きない」時間を、
身体が覚えてしまった。
「……つらい」
声にならない声が、喉で震える。
「……もう……」
言葉にならなかった。
その夜、ミレイユは、
ほとんど眠れなかった。
⸻
翌朝。
馬車に乗り込むとき、
足取りが、明らかに重かった。
王都へ向かう道すがら、
何度も、指を組んではほどく。
――言っていいのだろうか。
昨日のこと。
耐えられなかったこと。
リアナ様はいつも受け止めてくださる。
とは言え流石にわがままだと思われないだろうか。
…それでも。
アルデハイト侯爵邸の門をくぐった瞬間、
胸の奥が、少しだけ緩んだ。
それがもう、答えだった。
⸻
「……今日は、少し様子が違うわね」
応接室で、リアナが言った。
声は、いつもと同じ。
静かで、余計な感情がない。
それが、逆に堪えた。
ミレイユは、何かを言おうとして、
口を開き――閉じた。
肩が、小さく震える。
「……あの……」
「無理に話さなくてもいいわ」
リアナは、書類から目を上げなかった。
「落ち着くまでただ、座っていなさい」
その言葉で、
張り詰めていた何かが、切れた。
「…ごめんなさい…」
声が、震える。
「……私
…昨日…」
言葉が、途中で崩れた。
涙が、落ちる。
止めようとしても、止まらない。
「…もう…耐えられなくて…」
泣くつもりは、なかった。
迷惑をかけるつもりも。
でも、身体が先に決めてしまった。
リアナは、すぐには動かなかった。
慰めない。
抱きしめない。
今はまだそのタイミングではない。
代わりに、椅子を引き、
ミレイユの正面に座る。
「話せるところまででいいわ」
それだけ言う。
ミレイユは、嗚咽を噛み殺しながら、
昨夜のことを、途切れ途切れに話した。
日中いないせいで責められたこと。
いつも通り掃除を命じられたこと。
いつもと変わらないのにいつものようにできなかったこと。
「つらい」と思ってしまったこと。
ただやればいい、わかっているのに身体が言うことを聞かなかったこと。
言葉にするたび、
胸の奥が、少しずつ軽くなる。
話し終えたあと、
長い沈黙が落ちた。
⸻
「……ミレイユ」
リアナが、静かに口を開く。
「あなたは、今まで
“起きていること”を、自分に結びつけすぎていたのではない?もちろんそうならざるを得ない環境だからしょうがないわね。
…けれど、すべてを自分の感情の問題として処理しすぎていたのかもしれないと思うわ」
責める声ではない。
「…だから、あなたはこう思ってしまう」
淡々と続ける。
「つらいのは私が弱いから。
嫌だと感じたのは私がわがままだから。」
ミレイユの指が、強く握られる。
「それ、もう、やめましょう」
きっぱりとした声だった。
「感情は、証拠にならない」
ミレイユが、顔を上げる。
「……え?
しょう…こ?」
「あなたが感じたことが間違いだとは言わない」
リアナは、机に置いていたペンを手に取った。
「でもね。
“起きた事実”と“感情”は、分けていいの」
紙の上に、さらりと線を引く。
「昨日、あなたが掃除を命じられた。
それは事実」
「“日中いなかったせい”となじられた。
それも事実」
「そう言われたことと、そうであることは一緒じゃないし、あなたがどうであるかも関係がないわ。」
「役立たずと言われたら、役立たずなの?
醜いと言われたら醜いの?違うでしょ?
あなたの価値は、あなたが決めるの。決めて良いのよ。」
ミレイユの呼吸が、少しずつ整っていく。
「……でも……」
「証拠がないから、不安になる」
リアナは、そこで一度言葉を切った。
そして、少しだけ考える。
「……魔法がある世界なのにね」
小さく、独り言のように呟く。
「“記録”が、
こんなに曖昧なのは、不便ね」
その瞬間、
ミレイユは、涙越しにリアナを見た。
「……記録……?」
リアナの目が、静かに細められる。
思考が、回り始めた目だ。
「音。
言葉。
命令の内容。
時間」
一つずつ、指を折る。
「全部、魔力で留められるはず」
机の上に、簡単な魔法陣を描き始める。
「……こんな使い方、
今まで聞いたことがないけれど」
リアナは、迷わなかった。
「防犯用なら、言い訳も立つ」
ペンを置く。
「…試作してみましょう」
それは、
誰かを断罪するための魔法ではなかった。
逃げるためでも、
復讐のためでもない。
ただ――
現実を、歪めないための道具。
「ミレイユ」
リアナは、初めて、はっきりと目を合わせた。
「あなたの
“事実”を残しましょう」
ミレイユは、言葉を失った。
泣き腫らした目のまま、
ただ、頷く。
その瞬間、
部屋の空気が、静かに変わった。
これは、
救いではない。
――防御だ。
生物にとって、自己防衛は大切なことだ。自分の尊厳を守るためにも。自分で、自分のことを守るために。




