わがままになってきている気がする
—— ミレイユ視点
夜の廊下は、昼よりも長く感じた。
雑巾を手に、床を拭く。
同じ動作を、何度も繰り返す。
前なら、これくらい平気だった。
そう思った瞬間、手が止まった。
――前なら。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
昨日も、今日も、
やっていることは変わらない。
床を拭いて、片付けて、言われたことをこなす。
それなのに。
「……つらい」
小さく漏れた声に、自分で驚いた。
つらい、なんて。
そんな言葉を使う資格が、私にあるのだろうか。
前は言わなかった。
前は思わなかった。
出来ていたことが、
出来なくなっている気がする。
それは、悪いことだ。
そう教えられてきた。
私は、雑巾を強く絞った。
昼間のことが、頭に浮かぶ。
静かな部屋。
急かされない時間。
「何もしなくていい」と言われた午後。
胸の奥が、ひどくざわつく。
あれは、楽だった。
――楽だと、思ってしまった。
その事実が、怖い。
もし、あれが普通になってしまったら。
もし、今までの生活が耐えられなくなったら。
私は、どうなるのだろう。
「……私、わがままになってきてる?」
誰もいない廊下で、そう呟く。
答えは、返ってこない。
前は、何も感じなかった。
感じないようにしていただけかもしれないけれど、
今は、感じてしまう。
不快だ。
疲れる。
嫌だと思ってしまう。
それは――
私が弱くなったから?
リアナ様のところに通い始めたせい?
優しくされると、
人は、だめになるのだろうか。
雑巾を持つ手が、震える。
戻ればいい。
前みたいに、何も考えなければいい。
でも。
胸の奥が、拒む。
前に戻ることを、
身体が嫌がっている。
それが、いちばん怖かった。
⸻
部屋に戻り、布団に潜り込む。
天井を見つめながら、
同じ考えが何度も巡る。
私は、変わってしまった。
きっと、悪い方向に。
だって――
我慢が、つらい。
前は、つらいとすら思わなかったのに。
目を閉じる。
それでも、
明日の迎えの馬車を想像してしまう。
王都へ行く道。
静かな時間。
そのことを思うと、
胸の奥が、少しだけ楽になる。
……だめだ。
こんなふうに思うなんて。
私は、ぎゅっと目を閉じた。
分からない。
何が正しくて、何が間違っているのか。
ただ一つだけ、分かることがある。
私は今、
前よりも「嫌だ」と思っている。
それが、
罪のように感じられてならなかった。
⸻
—— リアナ視点
ミレイユは、椅子に座ったまま、いつもより黙っていた。
視線は落ち着かず、
指先が、何度も組まれてはほどかれる。
――変化が出始めている。
私は、そう判断した。
悪い兆候ではない。
ただの“移行期”だ。
「今日は、少し顔色が違うわね」
試すような言い方はしない。
評価もしない。
事実だけを淡々と。
「……そう、でしょうか」
「ええ」
それ以上は、言わない。
しばらくして、ミレイユがぽつりと口を開いた。
「……あの」
「なに?」
「……最近……」
言葉が、途中で止まる。
私は、待つ。
「……前は、平気だったことが……
少し、つらく感じるようになって……」
声が、かすれる。
「……私
…わがままに、なってきているんでしょうか」
私は、即答しなかった。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、確認する。
「“前は平気だった”って言ったけれど
それ、本当に平気だった?」
ミレイユが、目を見開く。
「……分かりません」
「でしょうね」
私は頷いた。
「平気かどうかを、
確かめる余裕がなかっただけじゃないの?」
ミレイユの肩が、わずかに揺れる。
「それは悪いことではないわ」
淡々と言う。
「やっと“不快に気づけるようになった”だけ」
彼女は、何も言えなくなった。
「慣れていない快適さは、
最初、不安や罪悪感を連れてくるものよ」
私は、机に視線を落とす。
「我慢し続けていた人ほど、
差に、敏感になる」
少し間を置く。
「……それを、
“わがまま”と呼ぶ人もいるでしょうね」
ミレイユの指が、ぎゅっと握られる。
「でも、私はそうは思わない」
ここで、初めて立場を示す。
「変化よ。
ただの」
矯正しない。
導かない。
「良いか悪いかは、
まだ決めなくていい」
そう言って、書類に視線を戻す。
「今日は、少し早めに切り上げましょう」
「……え?」
「疲れた顔をしているもの」
理由は、それだけだ。
ミレイユは、しばらく何も言えなかった。
やがて、小さく頷く。
「……はい」
私は、それ以上、何も付け足さなかった。
問題にしない。
治そうとしない。
この変化は異常ではない。
――冷たく感じるだろうか…けれどおそらく、それが今いちばん必要な対応だ。




