削られない時間
朝、目を覚ましたとき、ミレイユは一瞬だけ混乱した。
――ここは、どこだろう。
天井を見つめ、次に自分の息遣いに気づく。
いつもより、浅くない。
胸の奥が、ひどく痛くもない。
すぐに思い出す。
昨夜は遅くまで掃除をしていた。
床を拭き、階段を磨き、使用人が残したままの道具を片付けて。
疲れているはずなのに、
目覚めは、思ったより悪くなかった。
それが、少し不安だった。
――油断してはいけない。
身支度を整え、簡単な朝食を済ませる。
量は少ない。
いつも通りだ。
屋敷の門前には、すでに馬車が来ていた。
今日も、迎えが来ている。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
嬉しい、とは言えない。
その感情の正体が、まだよく分からなかった。
⸻
アルデハイト侯爵邸に着くと、
昨日と同じ侍女が出迎えた。
「おはようございます、ミレイユ様」
“様”。
呼び方に、まだ慣れない。
「……おはようございます」
声が、昨日より少しだけ出た気がした。
リアナ様は、すでに執務机に向かっていた。
「おはよう。
体調はどう?」
それは、確認であって、試験ではない。
「……問題、ありません」
言いながら、胸の奥を探る。
本当に?
眠い。
少し、身体は重い。
でも、“動けない”ほどではない。
「そう」
リアナ様はそれ以上、追及しなかった。
「今日は、昨日と同じでいいわ」
同じ。
それは、
また何もしなくていい、という意味だ。
少しだけ、肩の力が抜ける。
⸻
午前中、ミレイユは書庫で過ごした。
本を読むでもなく、
ただ、棚の前に立ち、背表紙を眺める。
触れてもいい。
戻さなくても、怒られない。
それだけで、時間がゆっくり進む。
昼食は、昨日と同じ場所で取った。
温かい。
急かされない。
食べる速度が、昨日よりも遅くなっていることに、
本人だけが気づいていない。
「……あの」
食後、ミレイユは小さく声を出した。
「なに?」
「……午後も、本当に……自由、ですか」
「ええ」
即答だった。
「眠くなったら、横になってもいいのよ」
ミレイユは、言葉を失った。
眠る、という選択肢が、
昼に存在するとは思っていなかったからだ。
「……叱られませんか」
「叱る理由がないわ」
それだけだった。
⸻
午後、ミレイユは窓際の椅子に座った。
光が、柔らかい。
目を閉じても、
何かを失う気がしない。
気づけば、意識が浅く沈んでいた。
――夢は、見なかった。
目を開けると、
どれほど時間が経ったのか分からない。
でも、頭が重くない。
それが、怖かった。
“楽”なのに、
“慣れてはいけない”気がする。
⸻
夕刻、帰りの馬車が用意された。
「今日は、ここまで」
リアナ様は、昨日と同じ言葉を使う。
変わらない。
だからこそ、安心する。
馬車に乗り込むとき、
ミレイユは小さく頭を下げた。
「……ありがとうございました」
「また明日」
その一言で、
胸の奥に、小さな灯がともる。
⸻
夜。
屋敷に戻ると、待っていたように仕事を言いつけられた。
掃除。
片付け。
手伝い。
身体は、正直だった。
昨日より、少しだけ、つらい。
昼に休んだ分、
夜の疲労が、はっきり分かる。
それは、初めての感覚だった。
――今までは、
疲れていることすら、分からなかった。
布団に入る頃、
ミレイユは天井を見つめた。
明日も、迎えが来る。
そう思うと、
胸の奥が、静かに緩む。
現状はまだ救われてはいない。
何も、変化してないし解決もしていない。
それでも――
削られない時間が、
確かに、ここにある。
それだけで、
人は、少しずつ変わるのだと。
ミレイユは、まだ知らない。




