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弟の婚約者がどうみてもドアマットヒロインなので愛でることにしました。  作者: ちょこだいふく


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通い始め



 その朝、私は王都の空を見上げていた。


 雲は薄く、光は柔らかい。

 馬車の到着時刻を告げる鐘の音が、遠くで響く。


「そろそろね」


 アルデハイト侯爵邸の正門前。

 迎えの馬車はすでに出してある。


 ハルディン伯爵家のある領地都市までは、片道およそ一刻半。

 日帰りは可能だが、決して近い距離ではない。


 ――だからこそ、意味がある。


 やがて、御者が合図を送ってきた。


「到着いたします」


 私は一度、深く息を吐き、表情を整える。


 初日だ。

 こちらが構えすぎても、彼女は萎縮する。


 門が開き、馬車がゆっくりと中へ入ってくる。


 扉が開き、最初に見えたのは、淡い色の外套だった。


 次に、慎重な足取り。


 ――ミレイユ・ハルディン。


 彼女は地面に降り立つと、ほんの一瞬だけ背後を振り返った。

 伯爵家の紋章が刻まれた馬車を、見るともなく見る。


 それ以上は、視線を向けなかった。


 私は、その様子を黙って見てから、一歩前に出た。


「おはよう、ミレイユ。

 来てくれてありがとう」


 彼女は一瞬、言葉を探し、すぐに頭を下げた。


「……おはようございます。

 本日は、よろしくお願いいたします」


 声は小さいが、逃げてはいない。


「今日は“教育”はしないわ」


 歩き出しながら言うと、彼女が驚いたようにこちらを見る。


「まずは、ここでどう過ごすのかを知ってちょうだい」


 廊下を進みながら、必要なことだけを伝える。


「日中は、私の管理下。

 夕刻には必ず馬車で送り届けるわ」


「……はい」


「体調が悪ければ、理由は聞かない。

 言ってくれれば、それでいいから」


 ミレイユの歩調が、わずかに乱れた。


「……理由は、要らないのですか」


「ええ」


 立ち止まらずに答える。


「体調不良に、説明は必要ないわ」


 それ以上、彼女は何も言わなかった。



 最初に案内したのは、書庫だった。


 装飾は控えめで、窓が大きく、光が入る。

 静かで、落ち着いた部屋だ。


「ここは、自由に使っていいわ」


「……触っても、よろしいのですか」


「ええ」


 即答すると、彼女は一瞬戸惑い、そっと本棚に指を伸ばした。


「……昔、本を読むのが好きでした」


「“でした”なのね」


 私がそう言うと、彼女は小さく頷いた。


「…今は…時間が、なくて」


「今も好き?」


「……分かりません」


「なら、分からないままでいいわ」


 答えを出す必要はない。



 昼食は、二人で取った。


 量は十分、品数は控えめ。

 誰かの顔色をうかがう必要はない。


 ミレイユは、最初、フォークを手に取るまでに少し時間がかかった。


「……もう、いただいても……?」


「ええ。

 冷める前に食べましょう」


 食べ始めてしばらくすると、動きが変わる。


 急がない。

 周囲を見回さない。


 それでも、途中で手が止まった。


「……全部、食べてしまっても……」


「もちろんよ。足りなければ、足すわ」


「……良いの…ですか」


 私は、そこで初めて彼女の方を見た。


「ここでは、

 食べることは“悪いこと”じゃない」


 彼女は、しばらくフォークを見つめ、

 それから、もう一口、口に運んだ。



 午後は、自由時間にした。


「……何をすれば、よろしいでしょうか」


「何もしなくていい」


「……本当に?」


「ええ」


 私は書類から目を離さずに答える。


「“何もしない”を、していい時間よ」


 ミレイユはしばらく立ち尽くしていたが、

 やがて窓際の椅子に腰掛けた。


 外を眺めるでもなく、

 眠るでもなく、

 ただ、そこに座っている。


 数分。

 さらに数分。


 肩から、少しずつ力が抜けていく。


 ――これでいい。



 夕刻、帰りの馬車を用意させた。


「今日は、ここまで」


 ミレイユは、名残惜しそうに書庫の方を一度だけ見た。


「……あの」


「なに?」


「……明日も、来ても……」


「ええ」


 即答する。


「同じ時間に。

 馬車が迎えに行く」


 彼女は、ゆっくりと頷いた。


「……ありがとうございます」


 馬車が門を出ていくのを見送ってから、

 私は一度だけ深く息を吐いた。


 初日は、問題なく終わった。


 何も教えていない。

 何も変えていない。


 それでも――

 確かに、違いは伝わったはずだ。


 私は、明日の予定を頭の中で組み直す。


 次からは、

 「休んでも、何も起きない」という事実を、

 もう少しだけ、積み重ねよう。


—————



———帰宅後ミレイユ視点


屋敷に戻ったのは、すっかり日が落ちてからだった。


 馬車を降り、玄関をくぐると、昼とは違う冷えた空気がまとわりつく。


「……ただいま、戻りました」


 返事は、やはりない。


 外套を脱ぎ、部屋へ向かおうとした、その時。


「ミレイユ」


 背後から、鋭い声が飛んできた。


 継母だった。


 私は、反射的に足を止め、振り返る。


「あんた、日中いなかったでしょう」


「……はい。アルデハイト侯爵家に――」


「それよ」


 ぴしゃりと遮られる。


「あんたがいないせいで、

 掃除が全然片付いてないわ」


 言葉が、すぐに理解できなかった。


「……え?」


「“え?”じゃないわよ」


 継母は腕を組み、眉をひそめる。


「普段あんたがやっている場所が、

 今日は全部そのままじゃない」


 私は、口を開きかけて、閉じた。


 代わりの人手があるはずだ。

 使用人はいる。


 でも――

 それを言ってはいけないことは、

 身体が覚えている。


「今からでも、片付けなさい」


 淡々とした声。

 命令に、感情はない。


「まだ時間はあるでしょう」


「……はい」


 私は、そう答えるしかなかった。


 部屋に戻り、外套を置き、

 すぐに雑巾を手に取る。


 疲れているかどうかは、関係ない。

 日中どこにいたかも、関係ない。


 私がいないことで困ったなら、

 それは私の責任になる。


 ――そういう決まりだ。


 床を拭きながら、

 昼間のことを思い出してしまう。


 「今日は、何もしなくていい」

 そう言われた時間。


 ただ、座っていた午後。


 胸の奥が、きゅっと縮む。


 あれは、

 ここには、持ち帰れない。


 ……でも。


 雑巾を絞る手を、少しだけ止める。


 明日も、馬車が来る。

 私は、また王都へ行く。


 それだけが、

 今の私を支えていた。


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― 新着の感想 ―
泊まりじゃないのか
あけましておめでとうございます。 丁寧な詰将棋的救済、なかなか好感触です。 ------------------------------------------------ 弟の、無自覚モラハラに加…
最近こういうポエム流行ってるの?読んでられない。「ポエム詩人になろう」じゃなくて「小説家になろう」なんだから小説を投稿してほしい
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