選ぶのは自分自身
——ミレイユ視点
屋敷に戻ったとき、空はすでに夕暮れ色に染まっていた。
門をくぐると、胸の奥がひやりと冷える。
慣れた感覚だ。
この家に帰るたび、いつもそうなる。
「……ただいま、戻りました」
声は、廊下に吸い込まれて消えた。
返事はない。
使用人の足音が遠くで聞こえる。
誰も、私を見ない。
それでいい。見られなければ、何も言われない。
そう思いながら歩いていると、鋭い声が背後から落ちてきた。
「ミレイユ」
身体が、びくりと跳ねる。
振り返ると、継母が立っていた。
腕を組み、眉をひそめている。
「随分と遅かったわね」
「……申し訳ありません。アルデハイト侯爵家にお招きいただいていて」
「それは聞いているわ」
ぴしゃり、と言葉を切られる。
「だからこそ言っているの。
婚約者の家に行って、余計なことはしていないでしょうね?」
喉が、詰まる。
余計なこと、とは何だろう。
失礼な態度?
言われていないことを口にしたこと?
頭の中で思考がぐるぐると回るが、答えは出ない。
「……何も、しておりません」
そう言うしかなかった。
継母は、鼻で小さく笑う。
「あなたは、そういうところが本当に鈍いのよ」
その言葉は、慣れているはずなのに、胸に刺さる。
「出来が悪いのだから、自覚しなさい。
侯爵家に迷惑をかけるような真似だけは、しないで」
「……はい」
反射的に、そう答えていた。
「分かっているならいいわ。
今日はもう下がりなさい」
それは許しではない。
ただ、興味を失われただけだ。
私は深く頭を下げ、その場を離れた。
⸻
部屋に戻り、扉を閉めた瞬間、足から力が抜けた。
椅子に腰掛け、しばらく動けない。
指先が、冷たい。
……やっぱり。
この家では、私はずっとこうだ。
何をしても足りなくて、
黙っていても責められて、
頑張っても評価されない。
胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。
けれど、その沈みきらない何かが、
リアナ様の言葉を思い出させた。
――あなたは、怠けていない。
――休むことを、教わっていないだけ。
継母の声と、重なる。
出来が悪い娘。
手がかかる。
どちらが、本当なのだろう。
私は、膝の上で拳を握った。
怖い。
この家の外に出るのが。
変わってしまうのが。
それでも――
あの部屋の静けさを、思い出してしまった。
答えを急かされなかったこと。
沈黙を、待ってもらえたこと。
あれが、特別だったのだと、
ここに戻ってきて、はっきり分かった。
私は、小さく息を吸う。
逃げたい、のではない。
……選びたい。
それが許されるのなら、
一度だけでいいから。
⸻
――返事
机の上に便箋を広げたまま、私はしばらく動けずにいた。
ペンを持つ手が、震えている。
返事を書けば、何かが変わる。
書かなければ、何も変わらない。
その違いが、怖かった。
頭の中に、継母の声がよみがえる。
あなたは出来が悪い。
余計なことをするな。
それに重なる、別の声。
今日は決めなくていい。
考えて。あなたがどうしたいか。
……どうしたいか。
その問いは、まだはっきりとは形にならない。
けれど、分かることが一つだけあった。
あの場所に、もう一度行ってみたい。
理由は分からない。
将来がどうなるかも分からない。
それでも。
私は、ペンを握り直した。
綺麗な文章じゃなくていい。
立派な理由も、いらない。
ただ、嘘は書かない。
ゆっくりと、文字を綴る。
リアナ様
先日は、お時間をいただき、ありがとうございました。
突然のお話で、まだ気持ちの整理がついているとは言えません。
それでも、考えました。
私は……
リアナ様のお話を、お受けしたいと思います。
もし可能であれば、
ご指導をお願いできましたら幸いです。
ご迷惑でしたら、どうか遠慮なくお知らせください。
ミレイユ・ハルディン
最後の一行を書き終えたとき、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
大きな決意ではない。
勇気と呼べるほどのものでもない。
それでも――
これは、私が選んだ言葉だ。
便箋を折り、封をする。
明日、これを届けてもらおう。
震えは、まだ止まらない。
でも、もう戻らない。
⸻
——リアナ視点
その手紙は、朝のうちに届いた。
差出人を確認するまでもない。
私は静かに封を切り、目を通した。
整った文字。
慎重な言葉選び。
そして、行間に残る迷い。
それでも、逃げていない。
私は便箋を机に置き、短く息を吐いた。
「……十分ね」
即座に、次の段取りを組み立てる。
⸻
午後、父の執務室を訪ねると、
アルデハイト侯爵は書類から顔を上げた。
「例の件か」
「ええ」
私は椅子に腰掛け、要点だけを伝える。
「ミレイユ・ハルディン伯爵令嬢から、返事がありました。
私の提案を受けるとのことです」
「本人の意思か」
「はい。迷いはありますが、強制ではありません」
父は、しばらく黙って考えていた。
「……では、こちらの準備も必要だな」
「すでに整えています」
私は淡々と続ける。
「名目は、婚約者教育と適性確認。
期間は暫定。
日中のみ、私の管理下で過ごしてもらいます」
「ハルディン家には?」
「正式な文書を出します。
婚約の円滑化を理由に」
父は、小さく頷いた。
「レオネルは?」
「姉として見ると伝えています。
異論はありませんでした」
短い沈黙。
「……お前が責任を持つ、ということだな」
「ええ」
視線を逸らさず、答える。
「何かが壊れるのがわかっていて放置するのは好きではありません。ですので、壊れないように整えたいのです」
父は、しばらく私を見つめてから、
静かに頷いた。
「分かった。
アルデハイトとして動こう」
それで十分だった。
⸻
執務室を出て、廊下を歩く。
感情は、静かだった。
衝動でも、同情でもない。
必要な判断を、必要な手順で通しただけ。
それでも、確かに世界は動き始めている。
私は、次に用意すべき部屋のことを考えながら、
歩を進めた。
まずは――
安心して、座れる場所から。




