静かな気づき
夜は、静かだった。
アルデハイト邸の廊下は、
灯りが控えめで、足音も響かない。
ミレイユは、自室の前で立ち止まったまま、
しばらく動けずにいた。
今日一日を、
何度も思い返してしまう。
王城での話。
養子の話。
「選んでもいい」と言われたこと。
そして――
帰りの馬車で、
リアナが当たり前のように隣にいたこと。
怖くなかった。
不安は、あった。
でも。
リアナが隣にいると、
「どうなっても大丈夫かもしれない」と思えてしまう。
それが、
少し、怖かった。
⸻
部屋に入り、
椅子に腰掛ける。
机の上には、
昼間に焼いたお菓子が、少しだけ残っていた。
誰かに渡す予定はない。
ただ、作りたかっただけ。
でも。
あのとき、
リアナが一口食べて、
「……美味しい」
と、ぽつりと言った。
その声が、
やけに胸に残っている。
――あ。
ミレイユは、
そこで初めて、はっきりと思った。
私は、リアナ様が好きだ。
恋とか、憧れとか、
そういう言葉では足りない。
守ってくれた人。
怒らなかった人。
決めてくれた人。
それだけじゃない。
「そばにいていい」と、
何度も、態度で示してくれた人。
⸻
胸の奥が、
じん、と温かくなる。
でも、それは
甘いだけの気持ちじゃなかった。
リアナは、
いつも忙しそうだ。
書類を読み、
人と話し、
判断をしている。
無理をしているわけではない。
でも――
背負っている。
「……私……」
声に出してみる。
言葉が、
ゆっくり形になる。
「……リアナ様のために……
何か、したい……」
それは、
初めて浮かんだ感情だった。
守ってもらう側でいるだけじゃ、
足りない、という気持ち。
⸻
そこで、
気づく。
いま、この気持ちは、
特別な人に向いているけれど――
向かう先は、
それだけじゃない。
誰かが疲れているとき。
誰かが、少しだけ元気を失っているとき。
「楽になるといいな」と思う。
その感覚は、
ずっと前から、
自分の中にあった。
ただ、
表に出る場所がなかっただけ。
「……私…多分、人のために……
なにか、したかったんだ……」
役に立たなければ、
存在してはいけない。
――そう思い込んでいた。
でも、違う。
役に立たなければ、という思いに隠れて見えなかった、役に立ちたい、と自然に思う気持ち。
それが、
自分の本心だった。
⸻
その瞬間、
胸の奥が、静かに広がる。
焦げるような熱はない。
眩しい光も、ない。
でも、確かに。
空気が、やわらいだ。
部屋の片隅の鉢植えが、
ほんの少し、葉を揺らす。
ミレイユは、
それを見て、少しだけ笑った。
「……うん」
誰に聞かせるでもなく、
頷く。
使命でも、
義務でもない。
ただ。
好きな人のために、
人の役に立ちたい。
それだけで、
十分だった。




