残してしまったもの
夜会の翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
理由ははっきりしている。
ミレイユ・ハルディンの、あの冷たい手の感触だ。
私はカーテンを少しだけ開け、朝の光を確かめる。
頭は冴えていた。
感情ではなく、経験が警鐘を鳴らしている。
――放っておくと、あの子はメンタルをやられてしまう。
前世で、何度も見てきた。
声を上げない人間ほど、限界が来た時に一気に崩れる。
そして同時に、もう一つの癖が顔を出す。
「記録は?」
「きちんと証拠は残っていますか?」
「データを残しましょう」
……そうだ。
ちゃんと残さねば。
⸻
アルデハイト侯爵邸は広い。
それだけに、防犯の維持は常に課題になる。
私は数日前から、結界補助用の魔導結晶を改良していた。
侵入検知に加え、周囲の状況を“保持”できるかどうか――
あくまで、防犯の観点での試験だ。あくまで。
音と映像を、短時間保存するだけ。
常時監視ではない。
異常があった時に、状況を確認できる程度。
「……理論上は、問題ないはずだけど」
机の上で、結晶が淡く光る。
保存魔法と感知魔法を組み合わせ、
魔力が一定以上揺れた場合のみ起動する設計。
――カチリ。
結晶は静かに定着した。
「……あら」
拍子抜けするほど、すんなりだ。
私は少しだけ首を傾げる。
どうして、今まで誰も思いつかなかったのだろう。
いや――思いついても、必要がなかったのだ。
この世界では、
言葉は立場で決まり、
事実は力で塗り替えられる。
だから、“残す”という発想自体が育たなかった。
「……まあ、防犯用だもの」
私は結晶を小箱に収めた。
使わないに越したことはない。
けれど、あって困るものでもない。
⸻
数日後。
侯爵邸の庭園で、レオネルとミレイユのお茶会が開かれることになった。
形式ばったものではない。
婚約者同士の、軽い歓談。
私は事前に、庭の東屋に例の結晶を設置しておいた。
見た目は、結界補助用の装飾結晶と変わらない。
防犯試験。
それ以上でも、それ以下でもない。
私は同席しないことにした。
「急ぎの用件が入ったの。失礼するわね」
そう告げると、レオネルは少しだけ不満そうに眉を寄せたが、
すぐにいつもの笑顔に戻った。
「承知しました、姉上」
ミレイユは、ほっとしたような、
それでいて不安そうな表情を浮かべていた。
私は何も言わず、その場を離れる。
……同席しない方がいい。
この手のことは、見られていない時に本性が出る。
⸻
その夜。
私は自室で、結晶の記録を確認していた。
防犯試験の結果確認――という名目で。
映像は鮮明だった。
音も、問題なく拾っている。
紅茶の音。
椅子を引く音。
そして、レオネルの声。
『最近、刺繍の出来が遅いそうだね』
穏やかな声。
責める調子ではない。
『申し訳ありません……』
『謝る必要はない。ただ――努力は結果に出るものだ』
ミレイユの指先が、わずかに強張って見えた。
『同年代の令嬢は、皆きちんとこなしている。
特別なことを求めているわけじゃないはずなんだけどね』
沈黙。
『時間が足りないのなら、工夫をすればいい。
誰にでも同じ時間は与えられているのだから』
ミレイユは、小さく頷いた。
『そんなに辛そうにする話じゃないだろう?
君は、少し考えすぎるところがある』
『……はい』
その声は、ほとんど音にならなかった。
……典型的だ。
責めていないようで、
逃げ道を塞ぐ言い方。
ミレイユの声は、ほとんど聞き取れない。
『……はい』
それだけ。
映像の中で、彼女の背中が少しずつ丸くなっていく。
私は、結晶を止めた。
「……なるほど」
怒りは湧かなかった。
驚きもない。
ただ、想像以上だった。
これは叱る段階ではない。
話し合う段階でもない。
だが確実に環境を変えるべきだ。
私は結晶を箱に戻し、鍵をかける。
防犯試験の成果としては、十分すぎる。
そして同時に、
――これは、いつか必要になる。
今日ではない。
今ではない。
けれど、その時が来たら、これがある。
私は静かに息を吐いた。
次にやるべきことは、もう決まっている。
まずは、食事。
次に、睡眠。
それから――安心。
それらをいかに自然にミレイユに与えられるか。
「……大丈夫よ、ミレイユ」
小さく呟いて、灯りを落とした。




