安全なんだ…
アルデハイト侯爵邸の私的応接室は、外界から切り離されたように静かだった。
重いカーテンは閉じられ、窓の外の音は届かない。
ここは、来客用ではない。
家の内側――判断を下すための部屋だ。
記録魔法を最初に確認した時、
その場には、リアナとミレイユ、そして侍従のみだったが、その誰もがすぐには動かなかった。
リアナは席を立たず、
ミレイユもまた、手元から視線を上げられずにいる。
空気の中に残っているのは、
つい先ほど再生していた――事実の記録だけだった。
叱責の声。
奪おうと伸びた手。
そして、数回の衝撃音。
どれも編集されていない。
感情を足されても、引かれてもいない。
ただ、起きたこと。
⸻
リアナが、最初に口を開いた。
「……今日は」
その声は、いつも通り落ち着いていた。
「自宅へは戻せない」
ミレイユは、反射的に顔を上げた。
「……え…?」
問い返した声が、かすれる。
リアナは、淡々と理由を述べた。
「記録が残っている以上、
“安全が確保されている”とは判断できないわ」
難しい言葉だった。
けれど、次の一言だけは、はっきりと理解できた。
「今日は、
ここに泊まりなさい」
頭の中で、
言葉が何度か転がる。
――泊まる。
――帰らない。
胸の奥で、
何かが、ゆっくりとほどけた。
息が、勝手に落ちる。
「……よろしい、のですか」
声が、震えた。
リアナは即座に頷く。
「ええ」
それから、付け加えた。
「これは、
あなたの希望を聞いた結果じゃない」
一拍置いて、
「客観的な、判断よ」
と言った。
その違いが、
どうしようもなくありがたかった。
自分が望んだからではない。
弱音を吐いたからでもない。
誰かが、
“そうすべきだ”と決めた。
だから、
ミレイユは責任を負わなくていい。
⸻
用意された部屋は、
美しいが簡素で、静かだった。
余計な装飾はなく、
必要なものだけが揃っている。
「今日は、何も考えずに休みなさい」
リアナはそれだけ言って、
部屋を出た。
慰めも、
叱責も、なかった。
扉が閉まり、
一人になる。
ミレイユは、
しばらくその場に立ち尽くしていた。
――本当に、
ここにいていいのだろうか。
そう思ってから、
小さく首を振る。
考えなくていい。
今日は、
判断された日だ。
⸻
ベッドに腰掛けると、
身体が急に重くなった。
疲れていたのだと、
ようやく気づく。
胸元のペンダントに触れる。
まだ、そこにある。
記録は、
誰かに見られた。
それなのに、
私は責められていない。
怒られてもいない。
ただ、
「帰らなくていい」と言われた。
それだけで、
涙が落ちた。
理由は分からない。
悲しいわけでも、
嬉しいわけでもない。
ただ――
今日が、終わった。
それだけだった。
—————
目を覚ましたとき、
すぐには、どこにいるのか分からなかった。
天井が、違う。
薄い色で、ひびも染みもない。
――ああ。
思い出す。
昨夜は、
アルデハイト侯爵邸に泊まったのだった。
布団の中で、
しばらく動かずにいる。
怒鳴り声が、聞こえない。
足音も、ない。
朝なのに、
身体が、強張っていない。
それが、
いちばんの違和感だった。
恐る恐る、息を吸う。
苦しくない。
胸の奥が、
静かだ。
「……朝、だ」
声に出してみて、
自分でも驚くほど、普通の声だった。
⸻
身支度を整え、
案内された食堂に入る。
用意されていた朝食は、
シンプルだが、温かい。
「……いただきます」
誰に許可を取るでもなく、
そう言って、フォークを手に取る。
一口、口に運ぶ。
――食べられる。
急がなくていい。
残しても、責められない。
喉を通る感覚が、
はっきり分かる。
それだけで、
胸の奥が、少し緩んだ。
今まで、
朝は「始まり」ではなかった。
ただの、
続きだった。
でも今日は。
今日は、
何も起きていない朝だ。
それが、
こんなにも、落ち着かないなんて。
⸻
食後、
ミレイユは窓際に立った。
王都の朝は、
静かで、整っている。
今日、
自分はどうなるのだろう。
実家に戻るのか。
戻らないのか。
何かを決めなければならないのか。
不安はある。
けれど――
昨夜より、
呼吸は楽だった。
それだけで、
十分だと思えた。




