知らなかった
違和感は、確かにあった。
だが、形にはならなかった。
屋敷であった際の、ミレイユの返事が少し遅くなったこと。
表情が、以前より読みづらくなったこと。
そして必要以上に私の顔色を窺わなくなったこと。
どれも、取るに足らない変化だ。
――そう思っていた。
「姉上」
呼び止めたとき、リアナは足を止めた。
「何かしら」
「最近、ミレイユが……
少し、変わったように感じます」
自分でも曖昧な言い方だと思った。
だが、違和感を口にするには、それで十分だと思っていた。
リアナは、すぐには答えなかった。
代わりに、私を一度だけ、じっと見る。
評価する目。
叱る目ではない。
「……そう」
それだけだった。
「それで?」
続けるよう促され、私は言葉を選ぶ。
「以前は、もっと……
分かりやすかったと言いますか……」
「従順だった、と言いたい?」
即座に指摘され、言葉に詰まる。
「……そういうつもりでは」
「でしょうね」
リアナは、私の否定を否定しなかった。
「あなたは、
彼女が“理解できていた”と思っている」
胸の奥が、ざわつく。
「違うのですか?」
「ええ」
断言だった。
「彼女は、
わかりやすいのではなく、
全てを諦めていただけ」
思わず、眉をひそめる。
「それは……
姉上の主観では?」
「そうね」
リアナは、あっさり認めた。
「だから、
主観じゃないものを見せるわ」
そう言って、彼女は小さな魔導具を机に置いた。
「聞きなさい」
拒否する理由はなかった。
私は、何が再生されるのかも知らず、頷いた。
次の瞬間。
空気が、震えた。
「分不相応なものを身につけて!」
「お前ごときが侯爵令嬢の真似事をするな!」
(打撃音)
「口答えするんじゃない」
……何だ、これは。
頭が、理解を拒んだ。
「姉上、これは――」
「昨日の夜」
淡々とした声。
「場所はハルディン伯爵邸。
記録魔法によるものよ」
言葉が、続かなかった。
—— 多少の叱責は、ある話だ。
その際、厳しい言葉もあり得る話ではある。
…だが。
これは。
「…暴力…ですか?」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
「そう」
リアナは、否定しない。
「あなたが知らなかっただけで、おそらくミレイユはずっと、このような扱いだったのでしょうね。」
胸の奥が、冷たくなる。
「しかし……
家庭内のことに、
姉上がここまで介入するのは……」
反射的に、言い訳が口をついた。
リアナは、私を遮らない。
最後まで、言わせた。
それから、静かに言う。
「あなたは、
“家庭内”という言葉で、
何を守ろうとしているの?」
言葉が、喉に詰まった。
「…私は…」
「秩序?」
「……しつけ?」
「それとも」
一拍。
「自分が正しいと思っていた前提?」
何も言えなかった。
記録が、
まだ机の上にある。
感情ではない。
編集もされていない。
ただの事実。
「あなたは、
彼女は従順で御しやすいと思っていたでしょうね。」
リアナは、視線を逸らさず続ける。
「でも、本当は意見を言うことが許されない環境にいたというだけ。」
「…彼女は、
自分の価値を否定され続けていた…。」
頭の中で、何かが音を立てて崩れた。
自分なりに彼女を守っていたつもりだった。
出来の悪い彼女を正しい方向へ導いていたつもりだった。
だが。
「……私は…」
言葉が出ない。
リアナは、そこで初めて、語調を落とした。
「レオネル」
「あなたが今、
混乱しているのは、正常よ」
断罪しない。
だが、逃がさない。
「問題は、
ここからどうするか」
私は、ゆっくりと拳を握った。
知らなかった。
――それが、
免罪符にはならないことを、
はっきりと理解していた。
——
部屋に戻ってから、何も手につかなかった。
机に向かっても、
本を開いても、
さきほどの音が、頭から離れない。
「分不相応なものを身につけて!」
あの声。
あの、衝撃音。
――事実。
姉上は、そう言った。
感情でも、解釈でもない。
事実。
私は、椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
……思い返してみる。
ミレイユと初めて顔を合わせた日。
彼女は、必要以上に緊張していた。
言葉を選び、
視線を下げ、
私の返事を待つ癖。
そのとき、私はこう思った。
素直で、手のかからない女性だ。
違う。
*“手のかからない”*ではなく、
*“声を上げられない”*だけだった。
胸の奥が、じくりと痛む。
⸻
夜会の席。
彼女が言葉に詰まったとき、
私は、軽く笑ってこう言った。
「もっとはっきり話してくれ。
分からないままだと困る」
善意だった。
正しいことを言っているつもりだった。
だが、あれは――
逃げ道を塞ぐ言い方ではなかったか。
彼女は、
「申し訳ありません」と言った。
その言葉に、
違和感を覚えなかった自分が、
今になって、重い。
⸻
別の日。
食事の席で、彼女が手を止めたとき。
「残すのか?」
そう尋ねた。
彼女は、首を振り、
慌てて口に運んだ。
私は、それを
「きちんとしている」と評価した。
――評価?
いつから、
食べ方を“評価する側”に
立っていたのだろう。
⸻
思い出は、
どれも些細だ。
声を荒げたことはない。
殴ったこともない。
だが。
だからこそ、
逃げ場がなかったのではないか。
正論。
期待。
善意。
それらは、
否定しづらい。
否定できない言葉ほど、
人を縛る。
私は、
その鎖を、
握っていた側だった。
⸻
机の上に、
姉上が置いていった記録媒体がある。
再生しなくても、
内容は分かっている。
私は、それを手に取り、
しばらく見つめた。
……知らなかった。
だが、
知らなかった、では済まない。
知らないままでいられる位置に、
自分がいた。
それが、
一番の問題だ。
⸻
私は、静かに決めた。
まずは――
“正しい言葉”を使うのを、やめよう。
相手のため、
という顔をした命令を。
期待という名の圧を。
それが、
償いになるとは思わない。
だが、
これ以上、
壊す側には立たない。
……少なくとも。
今の私は、
そう思っている。




