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#008 夜明けを覆う黒い影

「ん……」

 瞼をこじ開けると、見慣れない自室の天井が目に映った。昨日は、本当に色々なことがあった。初めての東京観光、食べたことのない高級料理、屈辱的だった着せ替え人形の時間……そして、生まれて初めての、本物の『戦闘』。

 僕は、電車の中で暴走した男と戦った。

 やったことといえば、杏那さんの指示でナイフを投げただけ。大した活躍はしていない。それでも、あの鎌から放たれた黒い衝撃波が掠めた時の、肌が粟立つような感覚はまだ生々しく残っている。まともに喰らえば、死んでいたかもしれない。

 ……なのに。

 命のやり取りをしたという実感が、まだどこか他人事のように感じられた。幸い、死者は一人も出なかったと聞いたからだろうか。死がすぐ隣にあったという現実を、僕の心が理解することを拒んでいるようだった。

 機術学園。ここにいれば、これからも戦うことになるだろう。僕たちが持つこの力を、喉から手が出るほど欲しがる悪意と。そうなれば、今日以上の危険が待っている。

 昨日は、ただ杏那さんの言うがままだった。でも、いつまでもそれではいけない。戦う力を手にするということは、戦えない多くの人々を守るため、自らの意志で脅威の前に立つ責任を負うということだ。

 ……僕に、できるだろうか。

 いや、やらなければならない。それが、本来なら得られなかったこの力を与えられた者の、果たすべき責務だ。

 思い出せ。あの時、僕は杏那さんを守ろうとして、咄嗟に体が動いた。あの感覚を、忘れるな——。

 そこまで考えて、ふと気づく。いつもなら、もう僕の部屋に押しかけてきているはずの杏那さんがいない。時間を見ると、まだ朝の五時前だった。

 ……このままスマホを弄っていたら、きっと無駄に時間を過ごしてしまう。今のうちに、ゴミ出しでもしておくか。

 引っ越しで出たゴミをまとめ、まだ薄暗い寮の外へ出る。東の空が、ようやく白み始めていた。ひんやりとした早朝の空気が心地いい。

 ゴミ捨て場のネットを開け、袋を投げ入れる。さて、戻るか、と振り返った、その時。

「おはようございます」

「うわあああっ!?」

 真後ろからかけられた声に、心臓が喉から飛び出るかと思うほど跳ね上がった。そこには、ゴミ袋を片手に、人の良さそうな笑みを浮かべた青年が立っていた。

 ……誰だ? この寮の生徒だろうか。

「え、ええと……おはよう、ございます。同級生……じゃない、ですよね?」

「やだなぁ、そんなわけないじゃないですか。俺は——」

 彼はにこりと笑みを深めると、持っていたゴミ袋の中から、見覚えのある黒いローブを取り出した。

「——こういう者ですよ」

 血の気が引くのがわかった。

「……黒いローブ……! お前、まさか……!」

「ご明察。昨日、あんたたち可愛い新入りに邪魔された、可哀想な組織の下っ端ですよぉ」

 な、なんでこんな場所に……! 咄嗟に、左腕のブレスレットに意識を集中させる。

「——メイド・アップ!」

 眩い光と共にメイド服を纏い、腰のダガーに手をかける。だが、男は慌てる素振りも見せず、むしろ楽しそうに目を細めた。

「おっと、早まらないでいただきたい。俺に手を出すようなら……そこの寮に、こいつを撃ち込んじゃいますよ?」

 男はローブの中から、物々しいデザインの大型拳銃を取り出した。銃口は、僕たちの眠る寮に向けられている。

「こいつの弾丸は、着弾と同時に大爆発を起こす特別製でしてね。あれに一発撃ち込めば、まだすやすや寝ているあんたの可愛いお友達も、みーんな永遠の眠りにつくことになる」

「……何が望みだ」

「昨日の失敗の埋め合わせです。あんたに、うちの組織に来てもらう。あんたはリストにない、全くの新人。なのに、入学前からあれだけの高性能デバイスを使いこなしている。その秘密……喉から手が出るほど欲しいんですよ」

「くっ……!」

「さぁ、武装を解除して、大人しくこちらへ。大丈夫、すぐに向こうで新しい『お友達』ができますから」

 こいつらと行けば、何をさせられるか分からない。犯罪、あるいは、殺し……。そんなのは、僕が望んだ『特別な自分』じゃない!

 ……だが、逆らえば、杏那さんたちが……!

「しかし、こんな服が戦闘服とはねぇ……。俺を『冥土』に送ってくれるってわけですか? ははは……ぐあっ!?」

 突然、男が短い悲鳴を上げて地面に叩きつけられた。その足元には、ありえないほど濃い影のようなものがまとわりつき、彼の動きを完全に封じている。

「それは、わたくしの『おもちゃ』ですわ。乱暴に扱わないでくださる?」

 振り向くと、そこにはゴシックドレス姿の杏那さんが、氷のように冷たい瞳で男を見下ろしていた。

「杏那さん! 起きてたのか!」

「目が覚めて部屋へ伺えば、晴人さんがいらっしゃらないもので。……まさか、こんなことになっていたとは」

「これで、形勢逆転だな!」

「……それは、どうかな?」

「え……?」

 男の不気味な声と、杏那さんの悲鳴が響いたのは、ほぼ同時だった。

「きゃあっ!?」

「杏那さん!?」

 杏那さんの拘束が解けたと判断し、僕は男にナイフを突きつける。

「大丈夫か!?」

「えぇ……! ですが、一体どこから……!」

「うわっ!?」

 僕も、背後から首筋に走る鋭い衝撃に体勢を崩してしまう。その一瞬の隙に、立ち上がった男が僕の頭に銃口を突きつけた。

「晴人さ……はっ!?」

 見れば、杏那さんもいつの間にか現れた別の男に羽交い締めにされ、喉元にナイフを当てられている。いつの間に二人目が……!?

「いやぁ、助かりますよ、ジップ・ジェイさん。あなたに応援を頼んでおいて、本当に良かった」

「こんな小娘ども相手に、俺を呼び出すとはな。少々臆病になりすぎなんじゃないか?プラグ・ルーザ」

 後から現れた男は、プロの傭兵のような冷徹な空気をまとっている。

「まぁまぁ。……さて、これで今度こそ勝負あり、ですね。死にたくなければ、お友達共々、俺たちについてきてもらいましょうか」

 杏那さんまで捕まってしまった。もう、打つ手がない。

 ここまで、なのか……!

 ——その、絶望が空気を支配した、瞬間。

 凛とした、第三者の声が、夜明け前の静寂を切り裂いた。

「——一気」

「ん? なんだ……」

「——呵成!」

「む、いかん……!」

「はっ……くっ!」

「えっ……うわぁっ!?」

「あ?……ぎゃああああああああっ!?」

 次の瞬間、空気が爆ぜるような凄まじい衝撃波が起こった。

「な、なんだ……今のは……」

「晴人さん、大丈夫ですの!?」

「あ、杏那さん……? 敵に捕まってたんじゃ……」

「あの衝撃をいち早く察知したようで、敵の方が先に離脱しましたの。その隙に私も、重力操作で加速して晴人さんごとここまで」

「そうか、ありがとう。……それにしても、一体……」

 僕たちがいた場所は、凄まじい土煙に包まれていた。やてそれが晴れると、中から一人の人影が現れる。

 陽光を反射するしなやかな金髪をポニーテールに結い、その身の丈ほどもある大剣を肩に担いだ、凛々しい女子生徒だった。

「だ、誰だ……いきなり……」

 壁際でうずくまっていた銃の男が、呻くように問う。

「あら? この機術学園の敷地で喧嘩を売っておきながら、この私のことをご存じないのかしら。何も知らないのねぇ、あんたたち。知識も……そして、身の程も」

「なんだとぉ……!」

「あ、貴方は……!」

 隣で、杏那さんが驚きに目を見開いている。

「知ってるの?」

「えぇ。我が機術学園生徒会が誇る、一年生にして副会長の座に就いた実力者……肆谷龍弥(よつや たつみ)副会長ですわ!」

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